「イエスが来られる」

及川 信

ヨハネによる福音書 11章 1節〜27節

 

ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。・・ 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」・・・こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。・・ マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

  ヨハネ福音書が実に暗示めいた福音書であるということは、これまでも何度か言ってきたことです。一つの言葉の中にいくつもの意味が込められていたり、歴史の中に肉体をもって生きていた時のイエス様の言葉であるようで、実は聖霊において教会に生き給うイエス様の言葉であったりします。そして、同じことを違う言葉で言う場合もあれば、意識的に微妙な違いを言葉の違いで表わしている場合もある。そういう一つ一つのことに拘って見ていくと、ある面では読めば読むほど混乱するのですが、他面、実にすっきりと分かったと思える時もあります。今日は、「来る」とか「行く」という言葉を巡って、イエス様の御業が何を表し、今日も礼拝に招かれている私たちに対して何を語りかけてくるのかを聞き取っていきたいと願っています。

  行く 来る

  イエス様は、愛するラザロが病気であることを知らされても、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」とおっしゃって、なお二日、その場所を動かれませんでした。しかし、二日後に突然、弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう」とおっしゃった。ここに出てくる「行く」はギリシア語ではアゴウという言葉で、一五節の「さあ、彼のところに行こう」やその言葉を受けたトマスの「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」の「行く」も同じ言葉です。ここでは単純に、ユダヤとかラザロがいる場所に行く、という意味として理解しておこうと思います。
 一一章には、実は他にも三つの言葉で「いく」とか「来る」という言葉が出てきます。その代表的なものに、エルコマイという言葉があります。この言葉が何度も出てきます。そして、一一節に「わたしは彼を起こしに行く」とあり、それはポレウオマイという言葉です。そして、二八節を見ると、マルタがマリアに向かって「先生がいらして、あなたをお呼びです」とあります。この「いらして」は、パレイミという言葉です。これらの言葉と、ラザロの「眠り」とか「死」の現実は深く関わると思いますし、それはこれまで三度も語ってきて明らかなように、私たちの罪の赦しと死からの復活とも深く関わるということでもあります。

  エルコマイ

最初にエルコマイという言葉から入ります。この言葉は、ごく普通に「行く」とか、「来る」という意味で頻繁に使われる言葉です。ですから、あまり深読みをすると牽強付会になってしまう場合もあるので気をつけなければなりませんが、イエス様が主語というか動作の主体である場合は注意を払うべきだと思います。一一章では、一七節、二〇節、二七節、三四節、三八節に出てきます。「さて、イエスが行ってご覧になると・・」(一七節)「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行った。」(二〇節)「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(二七節)「主よ、来て、ご覧ください。」(三四節)「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。」(三八節)
 大きく分けると、ラザロの墓に「行く」、あるいは「来た」という箇所が四回と、「世に来られるはずの神の子、メシア」という箇所が一回です。私は、世に来られるはずの神の子、メシアであるイエス様がラザロが死の眠りについている墓に来られるということが決定的に重要なことだと思います。
 このエルコマイは、一章七節以下に洗礼者ヨハネが、光について証しするために神から遣わされて「来た」という形で最初に出て来るのですが、そのヨハネが、こう言うのです。

「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」

 また、その翌日のことが一章二九節以下に書かれています。

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

 「イエスが来られる」「わたしの後から一人の人が来られる」
と、二度、エルコマイが出てきます。それは「世の罪を取り除く神の小羊」としてのメシアが今こそ現れたことを告げる言葉です。この地上に神の独り子が来て下った。それは、罪人の罪を取り除き、救ってくださるためだ。今こそ救いの時が到来した。そういうことを、この「来る」という言葉は表しているのです。そのことをちゃんと覚えた上で、イエス様がラザロの墓に行く、墓に来ると一一章で何度も繰り返されていることを考え合わせると、ここに「見よ、世の罪を取り除く神の小羊が、命の光なる主が、ラザロの死体が横たわっているこの墓に、蓋を開ければ死臭が漂っているこの真っ暗な墓に、今こそ来て下さったのだ」という暗示、或いはメッセージが込められていると考えるべきなのではないでしょうか。

ポレウオマイ

 このイエス様の行動を表す言葉としてのエルコマイに対して、一一節では、イエス様ご自身の意思の言葉として「行く」という言葉が出てきます。これがポレウオマイという言葉です。

「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」

 ここでイエス様は、ラザロは「眠っている」とおっしゃっています。弟子たちは、それを病気のために休んでいると思ったのです。それはある意味、当然のことです。しかし、イエス様は、ここでは「死んだ」ことを「眠っている」と表現しておられることが明らかになっていきます。そのラザロを「起こしに行く」とおっしゃる。この「行く」という言葉が、ヨハネ福音書においては特別な言葉なのです。
 この言葉が頻出するのは一四章以降です。一四章一節以下を読みます。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

 ここで主イエスは、父の家に行く、そして場所の用意が出来たら戻って来る。そして、そこに私たちキリスト者を迎えて、主イエスと共におらせてくださる、と語ってくださいます。葬儀の時などに、しばしば読む御言です。ここに出てくる「行く」が、ポレウオマイです。一三章以降は、完全に受難物語ですから、イエス様の十字架への道行きが記されているのです。イエス様の言葉のすべてが、十字架の死に向かう道に関するものだと言ってもよいでしょう。そして、それはそのまま復活への道なのであり、天に挙げられる昇天への道なのです。地上の生命から十字架の死を経て天上の生命へと移っていく。そういう旅を表す言葉です。
 つまり、イエス様は、一一章では、ラザロを起こすために墓に向かうのですが、それは即、ユダヤ人の最高法院によって死刑の判決が下され、イエス様が墓に葬られることに繋がっていることです。そして、主イエスは、既にそのことをご存知でした。だから、「もう一度、ユダヤへ行こう」という言葉は、死を覚悟した言葉、いや決断して選び取った言葉なのです。そして、その決断とは、世の罪を取り除く神の小羊として、私たち人間を覆っている罪と死の支配を撃ち破り、信じる者に永遠の命を与えるために十字架で処刑されるという決断なのです。しかし、その死は死で終わるのではなく、復活を通して父なる神の御許に行くための死であり、それはまた同時に、主の愛の中に死んだ者を父の御許で起こすための死なのです。イエス様は、そのすべてを込めて「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」とおっしゃっているのです。ついでのことながら「友」という言葉は大事です。イエス様ご自身が、後に、「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とおっしゃっているからです。イエス様にとってラザロは既に友でした。愛する友なのです。十二弟子たちにとってもそういう存在だった。その友を、起こしに行く。そのために、ご自身は死ぬ。そういうことが、ここで語られていることです。

パレイミ

 そして、最後に問題になるのは、マルタの言葉の中に出てくる「先生がいらして、あなたをお呼びです」という言葉です。英語の訳では、is here, has come, is comeという言葉が使われています。つまり、「先生がここに来た、今既にここにいる」という意味です。ギリシア語ではパレイミというのですが、「傍近く」を表すパルと「いる」こと、「存在」を表すエイミが合わさった言葉です。なぜ、この言葉が大事なのかと言うと、マルタはイエス様が来られたことを聞いた時に、すぐに迎えに行って、こう言ったからです。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

 ここに出てくる「いてくださいましたら」は、ギリシア語ではエイミという言葉が使われます。イエス様が、しばしばご自身が神であることを表現する時の「エゴ エイミ」(わたしである)のエイミです。そして、後にマリアもイエス様に対して全く同じ言葉を言うのです。ここで彼女らがイエス様に、「あなたが来てくだされば、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」とは言っていないことは大事だと思います。もし、そう言っていれば、彼女らはすぐに来なかったイエス様に不平を言ったということになります。私はこれまでずっとそう思っていましたし、そう解釈する学者たちも何人もいますけれど、ここで彼女らは「あなたがいてくださいましたら」と言っているのです。それは、「イエス様がいてくださるところに死はない、命しかない」という信頼の表明だと思いますし、その後の言葉は、イエス様が来て下さった今、何か信じ難いことが起こるかもしれないという期待の表明のように思えます。そういうイエス様への信頼と期待を、この絶望的な悲しみの時に尚強く持っているマルタだからこそ、イエス様は、この後、この福音書の頂点と言ってもよい事柄を告げることになるのでしょう。

「あなたの兄弟は復活する。」

 驚くべき言葉です。イエス様が神から遣わされた方であるとの信仰がなければ、思わず笑いがふきだしてしまうような言葉です。しかし、彼女は、その言葉を真剣に受け止めます。

「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」

 ユダヤ教の信仰においても、ファリサイ派は終わりの日の復活を信じていました。そして、初代キリスト教会の信仰も終わりの日の復活を内容としています。キリスト教信仰の場合は、その「終わりの日」が、主イエス・キリストが再臨する日なのです。それを「主の日」とも言いますが、その日、キリストに結ばれた者たちは復活する。私たちキリスト者はその日を待ち望んでいる者たちなのです。古代教会では「主よ、来たりませ」、マラナタという言葉を、ハレルヤやアーメンと同じく大事な言葉として礼拝の中で使っていたと思うのですが、現在の私たちキリスト者が、その終末信仰が希薄であることは、やはり問題だと思います。

終わりの日

パウロは、その終末信仰をテサロニケの信徒への手紙において、「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」と言った上で、主が再び到来する終わりの日に、主を信じて眠っていた人々が復活すると語っています。
 マルタは、この時、この信仰を告白しているのです。しかし、ヨハネ福音書のイエス様は、その「『終わりの日』は、今この時なのだ」と言っているのです。それが、「先生がいらした」というマルタの言葉と深い関係があるのですけれど、そのことを理解するために、イエス様の次の言葉を読まねばなりません。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 「エゴ エイミ その復活、そして命」とおっしゃっている。そして、信じるとは、一五章のぶどうの木の譬話にあるように、私たちが、命の木であるイエス様に枝として繋がることです。枝は木に繋がって初めて命を得るのです。その復活の命、つまり死を超えた永遠の命そのものであるイエス・キリストが今ここに来ている。そのことを信じるのか。信じるならば、その人は既に今、永遠の命を生き始めることが出来るのだ。主イエスは、そうおっしゃっているのです。もちろん、その人間、主イエスを信じる信仰者もまた肉体は必ず死にます。しかし、それは永遠に死ぬことではなく、死の眠りにつくことであり、主イエスの迎えによって起こされ、父の住いに移されることなのです。そういう決して死ぬことがない命を、イエス様を信じることによって与えられる。つまり、ヨハネ福音書においては、今ここに来て下さった主イエスを信じる人にとって、信じている今が「終わりの日」なのです。

  信仰告白と証し(伝道)

マルタは、信じました。
「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
 この信仰を告白したマルタだからこそ、言える言葉があるのです。まだ家の中で悲しみに沈みこんでいるマリアに対する言葉、「先生がいらして、あなたをお呼びです」が、それです。
 この「いらして」が「既にここに来ている」「傍らにいる」という意味であることは先程言ったとおりです。そして、この場合の「先生」とは一三章では「主」と並んで出てくる言葉ですけれども、今日の問題は、「いらして」の意味です。
 そのことを考える上で読まねばならぬ言葉は、五章二八節です。そこでイエス様は、こうおっしゃっています。

「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」

 この時の「来る」はエルコマイで、まだ時が来ていないということです。その時が来れば、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために墓から出てくる。悪を行った者は、裁かれるために出てくる。これは終わりの日の審判を語る言葉です。その日が、今はまだ来ていないが、いつか来る。そうおっしゃっています。
 そして、七章六節になりますと、主イエスはイエス様を信じていない兄弟たちにこうおっしゃっているのです。

「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。」

 この「来ていない」が、パレイミです。まだここにはない。そういう意味でしょう。しかし、今、自分の目の前に来て下さって「わたしは復活であり、命である。あなたは信じるか」と問われるイエス様に対して、「信じます」と応えたマルタは、マリアに向かって「今、復活であり命であられる主が来ておられる。信じる者に永遠の命を与えるお方が、墓の中にいる者を呼び出すことが出来るお方が、今ここに来ておられる。今が、終わりの日なのです。その方が、あなたを呼んでいる。ラザロが死んで四日経っても家の中に引きこもり嘆き悲しんでいるあなたを呼んでおられる。さあ、家から出て、あの方にお会いしなさい。そして、信じなさい」と語りかけているのだと思います。これは、イエス様を自分の所に来て下さったイエス様を、神の子、メシアと信じた彼女だけが語ることが出来る言葉です。そして、この時の彼女は、それまでの彼女とは違います。最早、死の闇の中に支配されてはいないのです。マルタは、「復活であり、命である」主イエスを信じる信仰において、新しい命を与えられ、罪の赦しと永遠の命の福音を伝道する使命に生きるキリスト者にされているからです。

  死と復活 墓地と教会

英語でセメタリーは教会の共同墓地のことを表します。その語源は、ギリシア語の「眠り」コイメーシスにあります。「ラザロが眠っている」と言われた、あの言葉です。そして、古代ローマ帝国におけるキリスト教会は、迫害の故に地下に礼拝堂(カタコンベ)があり、それはそのまま信仰者たちの墓地でした。自分たちの友の骸骨が棚一面に並んでいるその墓の中で、復活を信じて礼拝をしていたのです。ヨーロッパの多くの教会の地下は、そのまま墓であることが多いのではないでしょうか。エルサレムには聖墳墓教会というものがあります。その名の通り、イエス様が葬られたとされる岩穴の上に建てられた教会です。そこに今は、いくつもの教派の礼拝堂が入っています。
 教会とは、礼拝をする場所です。勿論、厳密に言えば、建物などなくても主を礼拝する人々がいれば、そこに教会が存在するわけですが、通常は、礼拝所のことを教会と呼びます。その教会と墓は、出発の時から、切っても切れない関係にあるのです。何故なら、墓は、イエス様が十字架の死を通して来られた場所だからです。そして、復活された場所だからです。死を撃ち破り、闇の中に命の光が灯された場所だからです。
以前、NHKの番組で、一人のレポーターが聖墳墓教会の取材に行き、その教会で仕えている日本人のカトリックの司祭に色々説明を聞く場面を見ました。その時、司祭が、「ここはお墓だけれどもイエス様が復活なさった所なのです。だから、ここは聖墳墓教会だけれど、同時にキリストの復活教会なのです」と言った時、レポーターは、「えっ、復活ですか」と素っ頓狂な声を上げて、その後、絶句してしまったのですが、まさにそれが教会です。イエス様は復活であり、命なのです。そのイエス様が教会に来て下さる。そして、私たちを呼んで下さっている。先週も語りましたように、それが礼拝を礼拝として成り立たせている根拠なのです。
 私たちは既に死んでしまった過去の偉大な人物を記念し、その人が残した教えを学ぶためにここに集まっているのではありません。私たちは、聖霊において今も生き給う復活であり、命である方、今ここに生きておられるイエス・キリストと命の交わりをするために、ここに集められているのです。私たちは、この礼拝において、二千年前に語られ、今も語られている、栄光の主イエス・キリストの言葉を聴き、信仰の告白を新たに捧げ、讃美と祈りを献げ、自分自身を主イエスに献げるために、集められているのです。その信仰と讃美を捧げることが出来る時、私たちは、今、死んでも生きる命を与えられている、つまり、肉体の死を越えて生きる命、決して死ぬことがない命を与えられているのです。そして、この命は信仰の証しにおいて生きる命です。福音の伝道においてこそ生きる命なのです。私たちが今捧げているこの礼拝はまさに証であり伝道そのもだし、祝福を受けて派遣される一週間の歩みもまた証であり伝道の生活なのです。主イエスは、世の闇の中で、罪の病に罹り、死んでさえいた私たちの所に天の神の御許から来て下さいました。そして、「ラザロ、出て来なさい」と呼びかけてくださったように、私たちを死から命へと呼び出して下さったのです。あるいは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。(あなたは)このことを信じるか」と呼びかけてくださったのです。それは、「信じなさい。そして、新しく生きなさい」という呼びかけです。私たちは、恵みによって、その呼びかけを聞くことが出来、そして「信じます」と応えることが出来たキリスト者です。その呼びかけと応答は、生涯続くのです。そこに愛があるからです。主イエスの私たちへの愛、私たちの主イエスへの愛。その愛があるから、私たちはいつも新たに呼びかけられ、そして応答することが出来る。その時が、いつも終わりの日、救いの日なのです。

生と死の二重性

 先日、一階の集会室で託児をして下さっている方から、実に面白い話を聞きました。それは、何か行事がある時に来てくれる幼稚園児が、遊びながらも、スピーカーから聞こえて来る私の説教をちゃんと聴いているんだ、という話です。何故、そのことが分かったかと言うと、私が説教の中で何回か「死ぬ」という言葉を使ったようなのですが、その子が突然まじめな顔をして、「『死ぬ』なんて、そんなこと言っちゃいけないんだよ」と言ったというのです。私は、本当に感心してしまいました。全くその通りです。「死ぬ」なんて言葉を滅多に使ってはいけないのです。それは、この世の常識です。良識でもある。でも、私はやはり言わなければならないと思うのです。イエス様を信じていない時、私は死んでいたと。そして、肉体の命は必ず死ぬのだ、と。そして、その死はいつ来るのか分からないのだ、と。今日、こうして共に礼拝を捧げている私たちですが、来週、私がここに立っているという保証はないし、皆さんの中の何方かが死んでいるかもしれないのです。それは本当のことです。まだ死なないから、まだ信じなくてもいい。私たちは、誰だってそう思っている。でも、そう思っていたって、いつ死ぬか分からないという事実は変わるわけではありません。明日死ぬと思っていたって、明日死ぬかどうか分からないのと同じです。葬儀はいつ来るか分からない。それは、牧師としてもう既に優に六十人を超える方たちの葬儀をしてきた私の実感です。
 元旦には、Nさんが既に召されていたことを知らされて、ショックを受けました。十日の土曜日には、Uさんが心臓病で倒れて救急車で運ばれ、集中治療室にいるということを突然知らされて、これもまたショックを受けました。十七日にお見舞いした時は、息が出来ない苦しみの中で、Uさんは「今までの罪をお赦しくださって、どうぞ召してください」と祈られたとおっしゃっていましたが、昨日は「あんなことを祈ってしまったけれど、今はこうして生かされていることを感謝しております」とおっしゃっていました。今週の木曜日に退院が決まったそうです。
 こういうことがしばしばあるものですから、以前も言いましたように、牧師というものは、いつも心のどこかで葬儀の心配をしています。電話が掛かってくるのが怖いのです。そして、しばしばこの方が召されたらどうしよう。葬儀で何を語ることが出来るのだろうかと考えてしまうのです。もう何年も何年も礼拝にお見えにならず、まだお会いしたことがない人も何人かおられますし、きちんと信仰についてのお話を伺ったことがない方も何人もおられます。そんなこと知らなくとも、葬儀という儀式は牧師として出来るだろうと言われるかもしれませんが、結婚式にしろ、葬儀にしろ、私はよく準備をしておかないと、ちゃんとしたものは出来ないと思います。
不謹慎な言い方で申し訳ないと思うのですが、その人の信仰について、よく知られない方は、まだ死なれたら困る、心底そう思います。ちゃんと信仰的な対話をしておきたい、その信仰を確認したい、互いに励まし合いたい、祈りの時をもちたい、そう願っています。しかし、そういう願いは、教会の牧者としての私の願いであるよりも前に、大牧者であられる主イエス・キリストご自身の願いでしょう。イエス様はいつも私たちの所に来て、「あなたは信じるか。信じなさい。そして決して死ぬことはない命を生きなさい。あなたが信じるまで、わたしは心配でたまらない・・」そうおっしゃっているのじゃないでしょうか。私は、そう思います。

今こそ信じる時

 私たちは、自分がいつ死ぬか分からない人間です。しかし、より厄介なのは、自分が死んでいることも分からない人間だということです。この世の中で、人間だけを相手に生きている状態というのは、イエス様から見れば、神様から見れば、人間としては死んでいるのです。私たちが神の言と信じる聖書において、人間とは神と人との愛の交わりの中に生きる者として創造され、命の息を吹き入れられることによって生きる者だからです。神との霊的な交わりをもっていなければ、少なくとも聖書が定義する人間という意味では、死んでいるも同然なのです。でも、多くの人は、自分が死んでいるとは思っていない。たしかに目に見える形では死んでいないのだから死んではいないのです。でも、何度も言いますように、『罪と罰』の主人公ラスコリー二コフは死んでいたのです。死んでいたのに、ソーニャという女性を通して示されたキリストの愛によって新しい命に生まれ変わらされたのです。彼女が、彼にとって肉体の死が待っているだけの流刑地にまで来て愛し続けてくれたことによってです。  イエス様が、この世に来て下さったということ、それはまさに墓場にいる人間、肉体が生きているだけの生ける屍に命の息を吹き入れるために来て下さったのです。十字架の死と埋葬と復活と昇天を通して天に至る道を拓き、そして聖霊をもって新しい命を与え、天に至る道を歩ませるために、今も私たちの所に来て下さっているのです。今日もそうです。だから、今日信じることが大事なのです。明日があると思っても、それは分からないことなのですから。「あなたは信じるか。」そう問われた時、「はい、主よ。信じます」と応答できるか、できないか。それは、洗礼を受けた私たちキリスト者においても、今日の問題です。信じることが出来ますように。そして、まだ信仰を告白しておられない方が、一日も早く信仰を告白し、共に主の食卓を囲むことが出来ますように、祈ります。
 
ヨハネ説教目次へ
礼拝案内へ