「わたしは復活であり、命である」

及川 信

ヨハネによる福音書 11章17節〜44節

 

さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
(以下省略)

 一ヶ月かかって漸く一七節以下に入ります。十二月末に発行された「会報」の一月礼拝案内では、一月で一一章は終わり、今日から一二章に入るような予告を出していたのですがとんでもないことでした。牧師の現役中に、ヨハネ福音書の連続講解説教をすることはもう二度とないでしょうから、読み飛ばしたり、読み過ごしたりすることがないように、今後も出来るだけ丹念に読み進めていきたいと思っています。そこで先週発行された「会報」の二月の礼拝予告には毎週一一章全体を掲げておきました。それなら間違いはないと思います。
ヨハネ福音書は段落ごとに区切って読める福音書ではないのです。時間経過によって物語が進展していくだけでなく、その経過の中に二重三重の意味が込められていますから、薄皮をはぐようにして内部を見ていくことを繰り返さないと前に進めません。

  死体を見た?

「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」


 死後四日もたっている。最近は、人が死んでも冷凍保存だとか出来ますし、ドライアイスなどもあって、ご遺体がすぐに臭うなどということはありません。私の記憶にある最初の葬儀は、私がまだ小学校の低学年だった頃、私の母教会の創立者の牧師さんのものです。一九六〇年代前半のことです。ご自宅にいくと、その部屋の中には、それまで嗅いだことがない臭いがたちこめていました。そして、鼻の穴や口の中に脱脂綿が詰められているご遺体を見た時に、私は生まれて初めて人の遺体を見たということと、その臭いを嗅いだことで、何か深い所で「死」を実感したことを覚えています。その時は、死後四日も経っていたわけではないと思います。夜でしたから前夜式のはずで、その前日に召されたのだと思います。それでも臭いはしました。ラザロは、もう死後四日も経っている。当然、マルタが言う様に、墓の中には死臭が漂っており、その臭いは人々の死への恐怖や嫌悪を呼び起こすものであったに違いありません。
 しかし、ここでちょっと不思議だなと思うのは、この後で、イエス様は、マリアの後についてきた人々に向かって、ラザロのことを「どこに葬ったのか」とお尋ねになり、そしてその上で「墓に来られた」と書かれています。ですから、一七節の段階では、まだ墓の場所がどこかはご存知ないということになります。でも、「イエスが行って御覧になった」と書かれていて、その見た対象は原文では「彼」という言葉なのです。直訳すると、「イエスは来て、見た、彼を」となります。そしてその後に、「既に四日も墓の中に葬られていること」という文章が続きます。ですから、私が見る限りの様々な翻訳は皆、基本的に新共同訳聖書と同じ趣旨で訳しています。そうなりますと、「ご覧になる」つまり「見る」という言葉は、人々からの情報で、ラザロが墓に葬られて既に四日経っていることを「知った」という意味になります。原文ではユーリスコウという言葉が使われていて、それは「見出す」とか「発見する」という意味ですから、その様に受け取ってもよいかと思います。
 でも、私はその奥に他の意味を見ることも許されるというか、見ておくべきではないかと思うのです。原文では、「ラザロ」とは書かれていません。文脈上はラザロであることは間違いありませんが、私は敢えて書いていないと思うのです。この一一章の書き出しは「ある病人がいた」です。「昔々ある所に、おじいさんとおばあさんがいました」と話し始めると、それは無限に可能性が広がるのです。固有名詞が最初に出てきたり、地域が最初に出てきたり、時代が出てきたりすると、その人物が特定されてしまって、話を聴く人にとって遠い過去の存在になる場合がありますが、「ある病人」とか「あるおじいさん」とかいう感じで出てくると、どこにでもいる人間となります。そして、ここに出てくる病とか死というものが、いわゆる肉体的な病や死であると同時に霊的な病や死であるとすると、この「イエスが見た彼」というのも、どこにでもいる人間ということになります。
私が何故、そういうことを言うかと言うと、イエス様が墓の中に横たわっているラザロに向かって、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた時、「ラザロが出てきた」ではなく、「死んでいた人が、出てきた」と書かれているのです。ここでも敢えて、不特定多数の中の一人という形でラザロが描かれているのです。そして、ラザロという名前は「神に助けられた者」という意味であることは既に言いました。その時の説教でも言いましたように、ラザロは歴史の中に生きた一人の個人であると同時に、私たちのことなのです。そのことを表現しようとして、この福音書は時折「ある病人」「彼」「死んでいた人」という三人称を使っているのだと思います。
 だから、一七節の「御覧になった」は、ラザロが葬られて四日も経っていることをイエス様が知ったという意味のように見えますが、私は違うと思うのです。私は、イエス様はそのことを最初からご存知だったと思います。イエス様がおられた所とベタニアは歩いて一日の行程だと言われています。ラザロが危篤になったのでマルタとマリアが使いを遣わして、その使いは一日かけてイエス様の所につきました。でも、イエス様はそれでも二日間動くことがなく、そして最初は「ラザロが眠っている」と言いましたが、弟子が理解しないことを知ると、はっきりと「ラザロは死んだのだ」明言し、その上でベタニアに向かわれたのです。そして、一日かけてベタニアに着いたときは、死後四日経っていたとしても少しもおかしくありません。使いを出した直後にラザロは死んだのでしょう。そして、当時の社会においては、三日経っても息を吹き返さなければ死が確定するということになってもいたようですが、ラザロの死臭が漂う時まで、主イエスは敢えてお待ちになったのです。一五節の「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところに行こう」とは、そういう意味でしょう。だから、私は一七節の言葉は、ラザロが墓に葬られて既に四日経っているとイエス様がその時初めて「知った」という意味ではないと思います。

何を見たのか?

それでは、「御覧になった」つまり「見た」とは何を見たのか。やはり、それは「彼を」見たのです。しかし、それはイエス様の肉眼でラザロの遺体を見たということではありません。もっと象徴的、あるいは霊的な話だと思います。ここで「墓に葬られて」とありますが、「葬られて」と訳されたエコウという言葉は、「所有する」という意味が基本です。ただ墓の中に死体が置かれているという意味ではなく、墓に所有されている、死の支配の中に完全に捕えられているということを表しているのです。イエス様は、そういう現実を見た。あるいは、そういう現実の中にいる彼を見た。そういうことだと思います。すべては、そこから始まるのです。この目に見える状況説明のような言葉の中に、実は人間の死の深層と、その深層を見つめ、その死の中に分け入って行こうとされる主イエスの姿が描かれていると、私は思います。
それは、この一見すると状況説明のように見える一七節の後に、ベタニアとエルサレムがすぐ近くであることを告げる文章が出てくることからも明らかだと思います。一七節に対応するのが一節ですけれど、その一節の直後にも、マリアが主に香油を塗り、髪の毛で主の足を拭ったという、この段階ではまだ出てこない話が敢えて記されています。「エルサレム」「油注ぎ」も、主イエスがこれから味わう十字架の受難を暗示する言葉です。エルサレムが近い。それは受難の時が近いということでしょう。そして、その事実を信仰の目で見つめているマリアという人間がいる。そのことを語っていると思います。

イエスが来た、ユダヤ人が来た

先週は、イエス様が「来る」とか「行く」とかいう言葉を巡って御言の語りかけを聴きました。ラザロのところに行く、墓に来るなどなどの言葉です。今日は、「ユダヤ人」やマルタとマリアの行動を最初に見ておきたいと思います。

「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行った。」

ユダヤ人がマルタやマリアを慰めるために「来ていた」とあり、その後で「イエスが来た」とあります。ユダヤ人は来て、家の中で悲しみに沈むマルタとマリアを慰めていたのです。しかし、三〇節にありますように、イエス様は「まだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた」とあります。墓は村の外にありますから、それは墓の近くにおられたということかもしれません。そして三一節にも「家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たち」と出てきます。だから、この場面の構造は明らかだと思います。イエス様は村の外まで来た。そして、そこでラザロを見た。彼が墓に支配されているその現実、その姿を見た。そして、村の中のマルタやマリアの家の中には、彼女らを慰めに来た大勢の人たちがいるのです。村あるいは家の中にいる人間と、それらの外にいるイエス様。そういう対比があります。そして、人々は愛する兄弟を失った姉妹を慰めようとしている。この場合の慰めは、人間の親切心、同情心から来るものです。

死別と慰め

先日の新聞で、愛する家族が死んでしまった時に、遺族はどうやって立ち直ることが出来たかというアンケート調査結果が出ていました。男女共にトップなのが「家族や友人などの支え」ということでした。その支えの中に「慰めの言葉」もあると思います。そして、そういう支えがない、あるいはあったとしても感じることが出来ず、死別から一年半後に孤独感が高まった人は、孤独感が低くなった人に比べて十六年後の病気や死亡のリスクが約十三倍だったという調査結果もあるようです。人間にとって、慰めがいかに大事かということを示していると思います。人間には一緒に悲しみ、生きてくれる存在が必要なのです。しかし、さらに必要な存在があると思います。
前任地の松本では、教会員の葬儀の後は必ず「精進落し」とか、「なおらい」と呼ばれる酒席がありました。前夜式の後は親族だけですが、葬儀の後は参列者のほぼ全員が残って食べたり飲んだりするのです。教会員の家族、親族、また葬儀を基本的に取り仕切る町内会の方々は、ほぼ全員、仏教とか神道の信者というか、葬祭は先祖代々の寺か神社でやるものと思っている方たちです。しかし、その精進落しの席で、少し赤ら顔になった方が私のところに来て、「おら、キリストさんの葬儀なんて初めてだども、なかなかいいもんだね。歌なんか歌っちゃって。仏(教)は寂しくていけね。キリストさんだと、復活するとか言って、なんか華やいでいるもんナ。牧師さんの話も分かるしよ」とか言われることがあります。
それは本質を突いている言葉だと思います。その人にしてみれば、キリスト教会なんてものは、この地域にあっては全くのよそ者であり、クリスチャンなんて、気が知れない存在なのです。村の外、家の外にある存在、無関係なのです。しかし、葬儀を通して、その外にあったもの、無関係なものが近づいて来て、それまで全く知らなかった世界が到来していることを知らされる。そのことの驚きがその言葉の中にあると思います。
仏教の極楽浄土とは何なのかとか、私は全く知りませんし、神道における救いとは何なのかも知りません。多分、日本人の多くも知らないと思います。一般の方は、仏教だか神道だか分からないけれども極楽とか天国とかを想定して、死んだら誰でもそこに行くんだと思って慰めを得ているということなのではないでしょうか。誰も裁きのこと、地獄のことなど語りません。葬儀の後でも遺族に対して「この度はご愁傷様です」とか「突然のご不幸を、お悔やみいたします」とか「何と言ってお慰めしたらよいか言葉が見つかりません」とか言うしかないのです。そして、直接、死の問題には触れないまま、食べたり飲んだりすることが常のことです。私も、ひとりの人間としては、愛する家族と死別された直後の方には何と言ってお慰めしたらよいか分かりません。言葉が出てこないのです。だから、なんとなく気詰まりな思いを持ちながら、ご遺族が思い出などを話し始めてくだされば、それを一生懸命に聞くという以外のことは、なかなか出来ません。私たち人間の言葉は、死に対しては無力であり、何を言ったところで、所詮、責任をもって言えることなど何もないのです。

イエスを出迎える

  主イエスは、そういう人々が集まっている村の外、マルタやマリアの家の外におられます。そして、イエスが来られたことを聞いたマルタはすぐに迎えに行ったのです。それは、人々の慰めの中にいたマルタが、決然とその場を去ったことを意味します。イエス様を「迎えに行った」のです。原文では「直面して会う」という感じの言葉だと思いますが、他の箇所では敵対的に直面する、闘うために前に出てくるというような意味もあります。ある意味、マルタは死の問題に関してイエス様に挑戦するような、そういう命がけの思いで家の外に出たということかもしれません。それから、イエス様とマルタとの間に、先週語ったような息詰まる対話がなされます。
そのことを今日は、敢えて繰り返しません。先週来られなかった方は、是非、説教原稿をお読みいただきたいと思います。マルタは、イエス様との問答を通して、今この時、イエス様が復活として、命としてここにおられることを信じる信仰を与えられました。その彼女が、家に帰り、まだ家の中にいるマリアを呼ぶのです。人々に慰められながらも悲しみの中にいるマリア、突然立ち上がって家を出る時も、人々は「墓に泣きに行くのだろう」と思うほどに深い嘆きの中に沈んでいるマリアを呼ぶのです。そして、「『先生がいらして、あなたをお呼びです』と耳打ちした」とあります。誰にも聞こえないように、密かに告げたのです。イエス様からの愛を信じている彼女らの間にだけ通じる世界があるからでしょう。

イエスに呼ばれる

ここに二度出てくる「呼ぶ」という言葉は、一二章一七節では、「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中から甦らせた」という形で出てきます。つまり、イエス様がラザロを呼ぶことが、ラザロを復活させたわけです。天地創造の最初に神が「光あれ」と言われれば、そこに光があったように、イエス様はその呼び声によって無から有を、死から命を呼び出すことが出来る。そういうことです。
そして、マルタに呼ばれ、イエス様が呼んでいると知らされた時、マリアは「すぐに立ち上がった」とあります。この「立ち上がる」と訳されたエゲイロウという言葉は、以後、イエス様がラザロを「死者の中から甦らせた」という形で何度も出てくる言葉ですし、ヨハネ福音書の最後に「イエスが死者の中から復活した」という形で使われる言葉なのです。
つまり、ラザロの復活は、確かにラザロの復活という歴史的な出来事でありつつ、マルタとマリアの復活でもあるのです。信仰による新たな命の誕生の物語でもあるのです。
三章に出てくることですが、そこでイエス様はニコデモというユダヤ人の議員に向かって「はっきり言っておく、人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われ、さらに、「はっきり言っておく。誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」とおっしゃっています。マルタやマリアに起こったことです。水と霊は、明らかに洗礼を暗示していると思います。主イエスに対する信仰を告白して、水の洗礼を受ける。それはすべて聖霊を受け入れた結果です。聖霊の導きの結果なのです。

呼ばれ、立ち上がったマリア

ヨハネ福音書におけるイエス様、それは何度も言って来ましたように、二千年前に肉体をもって生き、語り、御業をなさったイエス様の姿であると同時に、一人の病人、一人の死人として生きている私たちに聖書の言葉と聖霊において語りかけてくる肉眼には見えない主イエス・キリストなのです。その主イエス・キリストの呼びかけに応えて立ち上がり、嘆きと悲しみ、人間の限界に満ちた慰めだけがある葬儀の席から外に出て、マルタがイエスと出会った場所にマリアが出て行く時、何が起こるのか。

「マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足元にひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見た。」

彼女はイエス様を見たのです。そして、イエス様も彼女を見たのです。泣いている彼女を見た。一七節同様、明らかにマリアのことですが、敢えて「彼女を見た」と書いてあるのかもしれません。愛する家族を失って嘆き悲しむ女性すべてが、そこにいます。その主イエスの眼差しの前で、彼女は「ひれ伏した」のです。これは礼拝の姿勢です。そして、マルタ同様に、イエス様がいるところには死はないという信仰の告白をしたのだと思います。イエス様が神に遣わされた方、独り子なる神としておられるところには死はない、そういう信仰告白がこの言葉だと思います。もちろん、その背後に、イエス様がいなかったからラザロは死んだという思いがあるわけだし、イエス様がおられない所は死に支配されているのだという現実を語っているわけです。その言葉を聞いて以後のイエス様の心の動きと行動については、次週の課題としたいと思います。

「見る」

今日、私が最後に問題としたいのは「見る」という言葉です。最初に出てきたのは一七節で、「イエス様が彼を見た」です。これは肉眼で死体を見たということではなく、ラザロが墓に支配されている現実を見つめたという意味だと、私は思います。そして、この言葉は決定的に大事だと思います。すべては、イエス様が死の支配の現実、そこに捕らわれてどうにもならない私たちを見てくださっている、発見してくださった、その事実に掛かっていると思います。「マリアがイエスを見るなり足元にひれ伏す」という場合のイエス様は、その死の現実の中に自ら入って行き、そしてその支配を撃ち破ってくださるイエス様なのです。そういうイエス様を見る。つまり、十字架と復活のイエス・キリストを見る。それが礼拝を引き起こすのです。
皆さんの中にも、同じ思いをお持ちになった方がおられるとか思うのですが、私はこの一ヶ月間、ラザロの復活の記事を読み続け、説教をしながら、「ああ、今日の礼拝で聖餐があったらどんなによいか」と思い続けました。こんなに聖餐の食卓が慕わしいと思ったことは、今までありませんでした。今日は、こうして水と霊とによって新たな命を与えられた皆さんと一緒に聖餐の食卓を囲み、生ける主イエス・キリストの御言だけでなく、その体に与ることが出来ることは、本当に幸いなことだと思います。私たちは、あのパンとぶどう酒そのものが、主イエスの体であり血であると信じているわけではありません。そうではなくて、御言と共に配られるパンとぶどう酒を、主イエスがこの私のために十字架に架かって死んでくださった、私はその十字架の贖いの故に罪を赦して頂いている、そう信じて頂く時に、私たちは十字架の主イエスを見ることが出来、思わずひれ伏して感謝と讃美を捧げざるを得ないのです。また、「一緒に死にます」と言いつつ逃げてしまった弟子たち、それはまさに私たちのことですが、その弟子たちの所に主イエスは来て、「平和があるように」と語りかけ、後に彼らに食卓を用意してくださいました。そこに罪の赦しによる新しい命があります。そのことを信じてパンとぶどう酒を頂く時、私たちはあのエマオの町で二人の弟子にパンを裂いてくださったイエス様や、ヨハネ福音書の二一章にありますように、ティベリアス湖の辺で弟子たちに食事を提供してくださったイエス様の姿を見ることが出来るのです。
そして、いつも言いますように、私たちはこの地上の教会の聖餐に与る度に、天上の父の住いに用意されている食卓をはるかに仰ぎ見ることが出来る。そこで食卓の主人として私たちを歓迎してくださるイエス様を見ることが出来るのです。それは、御言を通して、説教を通して繰り返し聴き続けていることですけれど、その現実を、私たちは聖餐の食卓に見ることが出来る。そして、そのことを通して信仰を新たにされ、強められ、心からの感謝と讃美を捧げることが出来るのです。また、まだ信仰を与えられていない方に伝道も出来る。招くことが出来るのです。一日でも早く水と霊とによって新たに生まれ変わり、この食卓を通して生きる命を得ることが出来ますようにと祈りつつ聖餐を祝うからです。
イエス様が、墓の中に横たわっているラザロに「出て来なさい」と呼びかけると、彼は出てきました。そして、次に彼が登場するのは、一二章です。そこには、イエス様が十字架に磔にされる過越祭の六日前のことが描かれています。その場面は、食事です。

「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」

 死から甦らされたラザロが、主イエスと共に食事をしていたと、二度も書かれています。その後、ラザロは祭司長たちに命を狙われるようになります。彼の存在、生きている姿そのものが、イエス様こそ、復活であり、命であることの生き証人となっているからです。せっかくイエス様に甦らされたのに、彼の新しい人生は、それまで感じることのなかった暗殺の恐怖にさらされる人生なのです。皮肉と言えば皮肉な話です。でも、ラザロは脅えていたのでしょうか。あるいは、こんなことなら、復活なんてさせられない方がよかったなんて思ったでしょうか?そんなことはあり得ないと思います。殉教の死であれ、病死であれ、老衰であれ、死ぬことは分かっていることです。でも、彼はもう知っています。イエス様が復活であり、命であることを。そして、イエス様と一緒に食事をする者は、その復活の命に既に与り、その命に生かされていること、もう決して死なない命、墓に所有されることのない命に生かされている。そのことを知っているのです。だから、彼は喜んで生き、そして死んだでしょう。その死は、主イエス・キリストの迎えによって、父の住いでの食卓に向かう死、復活に向かう死なのですから。
 マリアは、その命をご自身の十字架の死を通して与えてくださるイエス様に、自分が出来る最大限のものを捧げ、主イエスの葬りの備えをしたのです。この十字架の死、そして葬りを経て、主イエスは復活し、今日も私たちをそれぞれの家の中から、世の中から、外へと呼び出してくださっている。この礼拝堂、主と出会う礼拝堂へと呼び出して下さっている。それは墓の中から天国へと呼び出してくださっていることなのです。その主イエスの言葉、声を、私たちは今日も聴き、そして、その主イエスのお姿を今日も見つつ、この食卓に与かることが出来る。主を礼拝できる。何という幸い、何という喜びでしょうか。私たちは何を捧げるのでしょうか。我が身を捧げるのです。主の栄光を現す器として用いてください、と。
 
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