「心に憤りを覚える主イエス」

及川 信

ヨハネによる福音書 11章28節〜44節

 

イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。(抜粋)

本当の言

 一月の終わりの金曜日と土曜日に、私は青山学院女子短期大学の宗教活動センターが主催する「冬の集い」の講師として天城山荘に行って来ました。今年の主題は、「友となること、友であること」で、主題聖句はヨハネ福音書十五章の「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」でした。今年は「皆で聖書を読む」ことが主眼だと言われていたので、十四名の学生さんたちとヨハネによる福音書四章のサマリアの女と一一章のラザロの復活について、ゼミ形式で少し丁寧に読んできました。私は、二回のゼミの根底に「本当の言」というテーマを置きました。日本語では、言語の「言」に「葉っぱ」という字をつけて「言葉」と読むことが多いのですが、たとえばヨハネ福音書の冒頭に出てくる「初めに言があった」というような場合、「葉っぱ」という字はつけません。ただ「言」とだけ書きます。高校生の頃から、人間の言葉に対する疑いというか、頼りなさを感じ始め、大学に入った頃は、人間の語る言葉に対してはすっかり絶望して、人と会うことすら避けるようになってしまった私にとって、「本当の言」というものがあるのかないのか、あるとすればそれは誰が語る言であり、その言とはどういうものなのかは、大袈裟でも何でもなく、「生きていくことが出来るか出来ないか」という問題でした。
 その頃から「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という書き出しのヨハネ福音書は、私にとって実に気になる書物であり、私が生きていこうと思えたのは、大学一年生の時にこの福音書の一〇章に記されている主イエスの言葉に出会ったからです。それは、「わたしはよい羊飼い。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」という言葉です。この言葉、そしてこの言葉を語った人と出会う、その経験を通して、私はキリスト者にされていきましたし、今も迷える羊として崖から落ちたり、藪の中で身動きが取れなくなったりしながらも、私を愛し続け、探し続け、見つけ出し、赦し、手を差し伸べてくださるキリストのお陰で、キリスト者として生きることが許されています。これは疑いようのない事実です。
 この事実を引き起こす「言」というもの、「死んでいた者が新たに生きる者とされる言、そういう言があるのだということ」、ただそれだけを私はその冬の集いで語ってきました。その集いに自主的に来ている学生さんたちは、何かを求めて来ている人たちですから、実に真剣に耳を傾け、そして聖書を読み、講演後のグループディスカッションで深い議論をしてくれました。一つのグループの話し合いに途中から参加した時、そのグループでは、「友となる、友である」ということの「なる」と「ある」の違いは何であるのか、また「友」とは何であるのかを話し合っていました。そして一人の学生が、私にというより、他の参加者に向かって、心の最も深い部分の思いを話す時は、どうしても関西弁が出てきてしまうと言いながら、こんなことを言いました。

「ここに来るまで、『本当の言』なんて考えたこともなかった。そんな言があるなんて、知らんかった。なんか上手く言えへんけど、そんな言があるんやな、と思ったら、なんか胸が詰ってしまって・・・、御免、うまく言われへん・・」

 心の内に湧き起こる興奮を抑えきれず、溢れてくる涙を必死にこらえながら、なんとかして、聖書に記されている言に触れた感動を伝えようとしているのです。その場にいる学生も必死になって彼女の言葉に耳を傾け、「うん、うん」と言いながら、しばらく考え込んでいました。
 私は、聖書を読み、そして語ることが仕事というか、生活の一部となっているのですが、聖書のある箇所を集中して読んでいき、その内部に入っていくと、最初に読んだ時よりも明らかに分かってきます。理解が深まります。しかし、それと同時に、全く異質な言葉に触れているのだという感覚を持ちます。全く異質な言、私などが分かるはずもない言がここにある。私などが分かるはずのない人がここにいる。いや、神の言がここにあり、その言そのものであるイエス様がここにいる。そう感じることがあります。そして、そう感じることがなければ、語る言葉など何もないのだと思います。理解が深まることによって、実は分からないのだと分かる。だから、分かるはずもないことを語るという矛盾と分裂がそこにはあります。まさに「胸が詰ってしまって、上手く言えん」言が、聖書にはある。いや、聖書とはそういうものなのだと思います。そして、説教とは、その聖書を語ることなのですから、知的に難しいとかなんとかいう次元の問題ではありません。毎回、「御免、上手く言われへん」と言っているようなものです。そして、説教を聴くという経験も、実は分からない言に触れるということなのだと思います。

憤りを覚える

 私たちは、年が明けてからラザロの復活の記事を読み続けています。ここに出てくる「死」という言葉、「生きる」という言葉、これを論理的に説明することはある意味では出来ると思います。しかし、その「死」とか「生きる」という経験を論理的に説明することは無意味だと思います。これは私たち一人一人が経験するかしないかが問題なのであって、人の説明を聞いて納得することは全く意味がないことです。私たち一人一人が、聖書を読み、その語りかけを聞き、そこにおられるイエス様を見ることが出来るか、死んでいる自分、あるいは新たに生かされている自分を発見できるか否か、そのことにすべてが掛かっているのだと思います。

 今日は三三節からの御言を見ていきます。

イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 ヨハネ福音書には完全数である七つの奇跡(しるし)が記されており、その七つ目、つまりクライマックスがこのラザロの復活であることは既に言って来たことです。しかし、これまでの六つのしるしにおいてイエス様の心の有り様が記されていることはありませんでした。憐れに思ったとか、同情したとか、そういうことは病人や障害者の癒しの奇跡においてもなかったことです。しかし、この一一章には、「心に憤りを覚え」とか「興奮して」、さらに「涙を流された」という激しい言葉が出てきますし、これ以後も何度かイエス様の心(原語では、いくつか異なる言葉が使われているのですけれど)の有り様が記されていくことになります。
三三節と三八節に出てくる「憤りを覚える」という言葉は言うまでもなく激しい言葉です。他の福音書では人を「厳しく咎める」という形で使われる言葉ですが、ここではイエス様の心の中、あるいは心に向けての怒りの感情ですから、他の箇所とは意味が違うと思います。イエス様が何に対して憤りを覚えているのか、これは長く議論され続けていて、未だに結論は出ていないと思いますし、出るはずもないことでしょう。これこそ分からないことなのです。しかし、分からないけれど、分かろうとしなければいけないことです。
 具体的状況は、イエス様が「マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見た」ということです。「見る」という言葉の重要性は前回も触れました。前回は、最初にイエス様がラザロ(原文では敢えて「彼を」と書いてありますけれど)を「見た」ことについて、そして後半で、マルタやマリアがイエス様を「見る」ことに関して語りました。ここでも、「見る」という動作の主語がイエス様であったり、人々であったりするわけですが、重要です。とにかく、イエス様はラザロが死んで四日も経っているにも拘らず、まだ泣き続けているマリアと彼女を慰めるために来た人々が泣いている姿を見た。もちろん、マリアと他の人々では立場が違いますし、イエス様との関係性も全く違います。しかし、彼らは、死の現実を前にして泣き続けているのです。その姿をイエス様は見て「心に憤りを覚えた」のです。その理由を皆さんは、どうお考えになるでしょうか。

何に憤ったのか

 古来、大きく分けると二つの立場があるようです。一つは、復活であり命である、イエス様がここに来ているのにまったく信じることなく、死に呑み込まれて嘆き悲しんでいるだけの人間の不信仰に対する憤りと解釈する立場です。たしかに、そういう面があると思います。もう一つは、人間をかくまで悲しみに叩き落す死の現実そのものに対する憤りであると解釈する立場です。それもたしかに、そういう面があるように思います。
 でも、この福音書においては、死という現実にしろ、生という現実にしろ、それは単なる肉体の生死の意味に留まらないことは明らかなことです。イエス様を信じないという不信仰は即、死のことでもあるわけですから、ことはそう単純なことではないと思うのです。いたずらに複雑に考えることは避けるべきですが、表面的な次元でだけ考えて安易な結論を出すことも避けるべきだと思います。

生と死の二重性

 先日、説教者のためのセミナーに出席しました。「聖書における想像力を説教に活かす」というのが演題でしたが、かねてから尊敬している旧約聖書の専門家の話で、私にとっては実に面白いものでした。その講演の中の一つの話題に、神様から「この木の実だけは食べてはならない、食べると必ず死ぬ」と言われていた禁断の木の実を食べてしまったアダムとエバが、現実には死ななかったという事実をどう解釈するかという問題がありました。これは私たちの想像力を大いに刺激する問題です。ある人たちは、そこに神様の憐れみがあると考えます。しかし、その解釈だと、神様はハッタリのような脅しをかける存在だということにもなりかねないし、もっと言えば、嘘つきだということにもなってしまう。その学者は、アダムとエバは確かに神様がおっしゃったとおり死んだのだと言います。その場合の「死」、それは肉体の死ではなく、関係性の死です。たとえば、愛し合っていた夫婦関係がどちらかの裏切りによって破綻するということがあります。その時、その関係性は死にます。最早、愛し合うなかで生きるということはなくなるのです。相手はもう死んだも同然なのです。その死とは罪による死です。人は、神のようになろうとして、実は死ぬ。神に造られ、その交わりの中に生きる人としては死ぬ。
パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです」と言います。この場合の「死」も肉体の死の意味だけではないし、「永遠の命」も肉体の死後に与えられる命だけの意味ではないでしょう。罪=死なのです。罪の中にいるならば、生きていても死なのです。そして、罪とは神様との関係の破綻、破壊、喪失のことです。自らが神のようになろうとする、神の領域を侵犯した結果、人は神の栄光の似姿を失い、塵から出て塵に帰るだけの肉になってしまった。そういうことが、そこで語られていることだと思います。
そういうことを覚えた上で、今日の箇所を見るとき、人間には全くどうすることも出来ない厳然たる肉体の死という事実に対して、主イエスが憤っているというのも分かりますが、その死をもたらす罪に対して、また罪の中に留まっている私たちに対して主イエスが憤っているということでもあると思います。そして、その罪は肉体的にはまだ生きている者を既に死で覆ってしまっているものなのです。そして、罪人とは、その厳然たる事実を知らない存在なのです。だから厄介なのです。
アウグスティヌスという人は、「どの人も肉の死を恐れるが、魂の死を恐れる人はいない。死ぬべき人間が死なないようにと労苦するのに、永遠に生きるべき人間が、罪を犯さないようにと心砕くことはしない」と説教の中で語っていますが、まさにそうだと思います。問題は、死とは何であり、生きるとは何であるかです。

誰の復活なのか、そして復活とは?

しかし、ラザロの復活を見る時に注意しなければならないことは、ここでは人間一般の死と生が問題になっているのではない、ということです。あるいは、イエス様は誰であっても復活させることができる、そういう全能の力を持っているんだ。だからメシアなんだ、と言おうとしているわけではない、ということです。
私は、ラザロの復活を語る説教の最初の題を「愛と死」として、その題で三回語りました。この場合の「愛」とは、言うまでもなくイエス・キリストの愛です。何よりも、ラザロ、そしてマルタとマリアに対する愛であり、またここに登場するユダヤ人に対する愛です。そして、「死」とは、ラザロの死であると同時に、イエス・キリストの死のことです。
イエス様がラザロを、またその姉妹たちを愛していることは、「主よ、あなたの愛している者が病気なのです」とか「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」という言葉から明らかだし、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」という言葉も、そのことを鮮明に言い表しています。そして、それはまた彼らが既にイエス様とは旧知の仲であり、彼らもイエス様やその弟子たちを愛していたということを前提としています。だから、イエス様は、弟子たちをも含める形で「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」とおっしゃったのです。ですから、この物語は、いわゆる死人の復活を語っている物語ではなく、キリストから愛され、キリストを愛しているキリスト者、私たちの現実に即してより厳密に言えば、現住陪餐会員の復活を語っている物語なのです。現住陪餐会員とは、イエス・キリストに対する信仰を告白し、洗礼を受けた者たちであり、その信仰を今も教会の交わりの中で生きている者たちのことです。主の日の礼拝を守り、聖餐の食卓を囲んでいる者たちのことです。マルタやマリアが、その典型ですが、まだ不完全な、中途半端な信仰や愛であったとしても、イエス・キリストに対する信仰と愛に生きており、この方にのみ望みを持っている者たちのことです。そういう者の復活を語っているのであって、多くの日本人が普通に考えているように、死んだ人間は皆成仏するとか極楽に行くとか、そういう一般論を語っているのではありません。
主イエスは、ラザロがまだ息がある時ではなく、死んでしまってから彼のもとに行くことを、弟子たちのために「よかった」(喜びとする)と言い、その理由を「あなたがたが信じるようになるためである」とおっしゃっています。そして、ラザロを墓から呼び出す前の祈りも、こういう言葉です。「しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」だから、問題はイエス様を信じること、イエス様に対する信仰なのです。信仰によって生きる人間を造り出す、信仰によって生きる人間を創造する。いつでも罪に支配されてしまう人間をご自身の愛の業によって復活させる。その愛の業とは、人々に信仰を与えることなのです。弟子たちに、マルタとマリアに、そしてイエス様の周りに集まってきた群衆に。イエス様が神様から遣わされた方であり、復活であり命であることを信じる信仰を与える。その信仰において、罪と死の支配から解き放たれていく。その救いをもたらすために、主イエスは、ここでラザロを復活させようとしておられるのです。
その御業をなされる前の「憤り」がここにはあります。それは、人間を死に追いやる罪に対する憤りでありつつ、主イエスが目の前に来ているのに、尚も、その主イエスを見ていない人間に対する憤りでもあると、私は思います。

どこに葬ったのか、いるのか

そして、ここには「興奮して」とありますが、この言葉については、時間の関係で、次回の課題とせざるを得ません。今日は、「どこに葬ったのか」「主よ、来て、御覧ください」「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたか」という言葉に注目していきたいと思います。

アウグスティヌスの説教を読んでいて、いかにもアウグスティヌスらしい飛躍と洞察だと思ったことがあります。彼は、この「どこに葬ったのか」という言葉を、あの禁断の木の実を食べた後、葉っぱの陰に隠れているアダムとエバに対する神様からの呼びかけの言葉と関係付けているのです。
「あなたはどこにいるのか。」
私は青学の講義でも、毎年必ずこの問いかけの言葉を取り上げます。
「あなたはどこにいるのか。」
これは、今、あなたは誰なのか?という問いなのです。葉っぱの陰にいるのか、穴の中に隠れているのか、と具体的な場所を尋ねているのではありません。
たとえば、親と決めた門限を娘が無断で破ったとします。十時が門限なのに、十一時になっても帰ってこない。今は誰もが携帯電話を持っていますから、親は電話をするでしょう。その時、「今、あなたはどこにいるの?」と尋ねます。それは、具体的な居場所を聞いているだけではありません。私と約束したあなたは、私との信頼関係を大切にしてくれていたあなたは、今、どこにいるの?今、あなたは誰なの?私の娘なの?私を親として愛してくれる娘なの?それとも、もう別人になってしまったの?そういうことを尋ねているのです。「あなたは、どこにいるのか。」
 それは、本来の場所へと呼び返す招きでもあります。本来の場所、つまり親との愛と信頼の交わりです。神様は、禁断の木の実を食べたアダムとエバに向かって、こういう問いかけ、そして招きをしている。
 主イエスが、ラザロに関して「どこに葬ったのか」と尋ねたこととこの神の問いは、たしかに深い所で関係があると、私も思います。
 しかし、表面的な意味だけで考えると、この問いはある面、愚問です。墓に葬ったに違いないからです。墓がどこにあるか、という問いかもしれませんが、でも、そういう愚問とも思える問いかけと、その問いに対する応答の中に、深い真理が隠されていることは事実でしょう。
 マルタとマリアを慰めに来ていたユダヤ人たちは、主イエスの問いに対して、「主よ、来て、御覧ください」と応えます。「来て、見なさい」と言ったのです。「見る」という言葉に込められた含蓄はいつも深いのですが、ここでも「来れば分かる」という意味が込められていると思います。墓の場所は勿論のこと、彼が死んで四日もたっており、もう腐敗が始まっていること、死がどうすることも出来ない現実であること、そのことは来れば分かる。今更、あなたが来ても、どうにもならないのだ。「どんなにラザロを愛しておられたか」と、主イエスの涙を見て感動している人々は、しかし、その愛の限界を感じているのだし、この愛は過去のものになってしまったと嘆いてもいるのです。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」とは、生きている時に来てくれさえすれば、死なないようにすることが出来ただろうにということであって、死の現実を前にすれば、この人もどうすることも出来ないということでもあります。そのことが、来れば分かる。そういうことを、彼らは言っているのだろうと思います。そして、それは私たちの心の中の思い、そのものだと思います。

葬る 捨てる

 しかし、この「葬った」と訳された言葉を調べてみて、私は驚きました。この言葉は、ティセーミという言葉なのですけれど、それは一〇章に何度も出てきています。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

 この「命を捨てる」の「捨てる」が「葬られる」と同じ言葉です。そして、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」の「捨てる」も同じ言葉です。そして、この言葉は、後にはイエス様が墓に葬られる、遺体が置かれるという意味で何度も出てきます。

これまでも何回か、ラザロの死と復活は、実はイエス・キリストの死と復活と重なる出来事であると語ってきました。つまり、イエス様がラザロを復活させたということを語りつつ、その実、イエス様は「復活であり、命である」ことを語っている。そして、そのことを信じる者が、その復活、命を生きるようになる。その例としてマルタやマリアがいるのです。彼女らこそ、ある意味で、絶望という死の中から復活させられた者たちである。そして、その復活の命は肉体の死をもってしても滅ぼされるものではなく、終わりの日に体を伴う復活に至るのである。そういう救いの事実を語る物語として、このラザロの復活物語はあるのだと思います。
 イエス様は、ラザロが葬られた場所に向かいます。そして、それは愛する友のために、イエス様がご自身の命を捨てて、その体が横たえられる場所なのです。そして、その場所こそ、イエス様が復活される場所なのです。イエス様が罪と死の支配を打ち破る栄光をお示しになる場所なのです。

来て、見なさい

 ユダヤ人たちは、全く逆の意味で、「来て、見なさい」と言いました。死がすべての終わりであることが分かる、という意味で言ったのです。でも、実は、「来て、見なければならない」のは、彼ら、つまり、私たちなのです。
 この「来て、見なさい」という言葉は、実は、イエス様と弟子たちが最初に出会う場面で使われている言葉です。それまで洗礼者ヨハネの弟子であった二人が、ヨハネの「見よ、神の小羊だ」という証言を聞いて、イエス様の後に従い始めました。その時、イエス様は彼らに、こう問いかけました。
「何を求めているのか。」
 彼らは問いをもって応えました。
「ラビ、どこに泊まっておられるのですか。」
 詳しい説明をする時間はありませんが、これは、あのアダムに対する神の問いかけと同じ意味を持っています。
「あなたは誰なのですか?本当に世の罪を取り除くために自分の命を捨てる神の小羊なのですか?あなたは、誰なのですか?」そういう問いかけなのです。
 イエス様は、こう応えます。
「来なさい。そうすれば分かる。」
 これは、「来て、見なさい」という言葉です。「分かる」と訳された言葉は「見る」と同じです。彼らは、この言葉に従ってイエス様についていき、そしてイエス様と一緒に泊まったのです。これはイエス様に繋がったという意味であり、イエス様を「神の小羊」として信じたことを暗示しています。その彼らの一人が、その翌日に自分の兄弟に言った言葉は、こういうものです。
「わたしたちはメシアに出会った。」
 彼らは、このメシア、イエス・キリストを人に伝える者、伝道者、証人になったのです。もちろん、このことは最初の出会いの時に起こったことであると同時に、主イエスが十字架の死を経て復活されて、裏切った弟子たちに聖霊を注ぎかけられた時に起こったことです。つまり、彼らが罪が赦されて新しい命を聖霊によって吹き入れられた時の現実です。ヨハネ福音書は、そういう書き方をするのです。

本当の言

 その時、彼らがユダヤ人を恐れて部屋の鍵を閉めて閉篭もっていた部屋、それはまさに墓地の中です。彼らは生きながらにして死んでいた、葬られていた罪人です。自分では最早どうすることも出来ない罪人なのです。「あなたのためなら命を捨てます」というペトロの言葉は、まさに葉っぱの如く風と共にどこかに飛んで行ってしまったのです。しかし、「羊のために命を捨てる」とおっしゃったイエス様の言葉は「本当の言」でした。そして、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることも出来る。これは、わたしが父から受けた掟である」とおっしゃったイエス様の言葉は「本当の言」でした。「復活であり、命である」イエス様は、墓に葬られているラザロ、捨てられているラザロに向かって、「出て来なさい」とおっしゃったように、真っ暗な部屋の中に入ってきて、生ける屍となっている弟子たちに向かって「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と語りかけて下さったのです。これは、私たち人間には全く想像すらできない愛と赦しだと思います。しかし、この愛と赦しのリアリティに触れることによって、弟子たちは死者からの復活を与えられたのです。 主に愛された者には、罪の赦しと新しい命という現実が与えられ、さらにその喜ばしい知らせ、福音を宣べ伝える使命が与えられます。ラザロがイエス様と一緒に食卓を囲む姿を通して、イエス・キリストの生き証人となったように、弟子たちもまた、これからイエス様が用意された食卓に与りつつ、殉教の死が約束されているような伝道の旅に出て行くことになるのです。キリスト教会は、この時に誕生し、イエス・キリストを信じる者は死んでも生きるという事実によって、今も存在し続けている。私が今ここに立っていることも、皆さんが今、ここに集められていることも、その事実を証しすることです。
パウロはローマの信徒への手紙の中でこう言っています。

「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。・・・ このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。・・・自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」

 私たちは、これから献身のしるしとして献金を捧げます。そして、私たちの礼拝の終わりは、いつも決まっています。祝福と派遣です。十字架と復活を通して生き給う主イエス・キリストから罪の赦しと新しい命の祝福を豊かに受け、そしてこの世へと派遣されるのです。罪と死が支配しているこの世、しかし、その現実に気付くことなく、いや深い所でその現実に絶望しているこの世に、私たちのためにご自分の命を捨てて下さった方がいるという事実を、そして、その方が今も生きてすべての人を愛してくださっているという事実を、証しするために派遣されるのです。感謝と讃美をもって、その祝福と派遣を受け止めることが出来ますように。

 
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