「興奮・涙・栄光」

及川 信

ヨハネによる福音書 11章33節〜44節

 

イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

現場の情景


 前回は、「心に憤りを覚え」「どこに葬ったのか」「御覧ください」(「見る」こと)という言葉に注目しました。今日は、「興奮する」「涙を流す」、そして四〇節の「もし、信じるなら、神の栄光を見られると、言っておいたではないか」という言葉が何を語っているのかを見、また耳を傾けていきたいと思います。
 最初に情景を思い浮かべておかねばなりません。ラザロという人が身体的には死に至る病にかかって、イエス様が来る前に死んでしまったのです。その現実をどう見るかで、マルタ・マリア姉妹とイエス様、また彼女らを慰めるために来ていた人々とイエス様との間では大きな、いや、決定的な違いがあります。埋めようのない溝があると思うのです。その違い、溝は何なのか?そのことも考えていかねばなりませんが、とにかく、ここでマリアは泣いています。また、周囲の人々も泣いている。「泣く」と訳されたクラノウという言葉は「叫ぶ」とも訳される言葉です。彼女は泣き叫んでいるのだと思います。よくテレビや映画でも見ますように、中東の人たちは、私たち日本人とは違って、両手を広げて天に向かって泣き叫びます。この場面も、そういう嘆き悲しみの声が満ち溢れているのでしょう。

三層の出来事

 何の根拠もありませんが、ラザロはまだ若い人だったように思います。マルタやマリアもまだ結婚しておらず、親がいたかどうか分かりませんが、一二章の食事の場面を見ても三人で共に暮らしていたような感じがします。そういう若者が、ある日、突然病に掛かり、皆の必死の看病や祈りも空しく死んでしまう。そういう現実が今も昔もあります。そして、これまでも何度も言って来ましたように、そういう肉体的な病と死の現実にかぶさるようにして、実は、罪という病に支配されて死んでしまう人間の姿が、ここで描かれているのだと思います。そして、その人間の生と死、あるいは死からの復活にかぶさるようにして、イエス様の十字架の死と復活の出来事が描かれている。
 このラザロの復活に関する説教を始めたのは一月四日ですから、もう二ヶ月も前のことです。その時に引用した『罪と罰』という小説の主人公ラスコーリニコフは、罪に支配され、老婆とその妹を殺すことを通して、実は自分自身を殺してしまい、自分が死んだ人間であることに、ソーニャという女性の愛を通して、いや彼女が読み聞かせたラザロの復活の記事を通してゆっくりと気付いていくのです。その小説の中で、主人公は泣きません。死んだ人間は泣かないものです。でも、彼を愛するソーニャや彼の母親や妹は泣きます。彼は次第に泣くことが出来るような人間になることが暗示されているようにも思います。

この世の現実 この世の裁き

 突然、妙な話を始めると思われるかもしれませんが、先日、江東区のマンションで姉と暮らしていた若い女性が、同じ階に住む男に殺され、死体はバラバラにされ、トイレで流されてしまったという身の毛もよだつ事件の判決が出ました。もうじき始まる裁判員制度に合わせて、犯行の様子がモニター画面上でイラスト付きで明らかにされたり、無残な写真が映されたりして、法廷に来ていた遺族が苦しみに堪えかねて泣きながら退廷したとか、法廷は傍聴者のすすり泣きの声で満ちていたとか、様々な報道がなされていました。そして、異例のスピード審理の結果、判決は死刑ではなく無期懲役というものでした。今後、どうなるのか分かりませんが、とにかく今の段階ではそういうことになっています。犯行の動機は、その女性を「性の奴隷にしようとしたけれど抵抗されたので殺してしまった」ということのようです。そういう何とも言えない理不尽な現実が、この世にはあります。罪に支配されてしまった人間は、人を支配しようとし、結局は殺し、自分を殺します。罪とはそういう恐るべきものなのです。罪を人格化してサタンとか悪魔とか悪霊とか、様々な表現で表すことがありますが、そういうものの力に支配され、飲み込まれてしまう人間の悲惨というものがたしかに存在します。それは他人事ではありません。
 その悲惨な人間が、泣き叫ぶ声を生み出していくのです。殺された女性のご家族は、当然のことながら死刑を望むでしょう。私たちの多くもそうだろうと思います。しかし、テレビのこちら側で見て思うことと、実際に裁判員になり法廷で被告人を見て、被害者の家族を見て、様々な証拠を見て、証言を聞いて、そして自分の判断が被告人の生死を実際に決めるのだという立場で思うことは、やはり違うだろうと思います。
 その判決が出る前のあるニュースでは、オウム真理教による無差別殺人事件の被害者の父親が、裁判が始まった当初は、当然のことながら加害者たちの死刑を望んでいたけれども、拘置所にいる加害者たちとの面会を継続する中で、「今は死刑を望まなくなった。生きて、今尚信者である人々、また新たに信者になる人々の目を覚まさせるために何かをして欲しいと願うようになった」と、目から涙を流しながら訴えていました。「被害者の家族」と言ってもいろいろなのです。松本サリン事件で妻を亡くした方は、その後、加害者の一人との交流を深めています。人の思いは時間の経過の中で変わることがあるし、その時間をどのように生きるかで異なります。思いが少しも変わらない場合もあれば、変わっていく場合もあります。
 女性殺害の事件であれ、オウム真理教の事件であれ、滅多に報道はされないし、報道されるべきであるとも思いませんが、私は加害者の親たちもまた、どれ程の涙を流しているかと思います。親というものがすべて子を愛しているものだという前提が崩壊していることは分かります。そして親に愛されなかった子が心に傷を負い、それが犯罪を引き起こすということもあります。しかし、親に愛されて育った子供だって、何かの拍子に大きく人格が崩壊していくこともよくあることです。自分の息子が、欲望の虜になり、全く理不尽な仕方で女性を殺し、バラバラにして捨てた。あるいは怪しげな教祖に洗脳され、殺すことがその人の救いのためになるなどと思いこんで、毒ガスを撒き散らしてしまった。自分の乳房を口に含んでいたあの赤ん坊が、笑いながらキャッチボールをしたあの息子が、何故、こんなことをしてしまったのか・・・絶望的な悲しみと苦しみの中にいる親たちもまた、どれほどの悲しみの涙を流しているだろうかと思います。世の大半の人が、自分たちの息子の死刑を望んでいる。それは当然のことだと分かる。息子であるからこそ、「死んでお詫びをしろ」と叫びたい。でも、何故、こんなことになったのか、こんなことをしてしまったのか、息子が本当に分かるまで、殺さないで欲しいとも思う。そういうこともあるかもしれない、と私は思います。実際、何をしたのかを本当の意味で知らない人間を死刑という形で殺すことに何の意味があるのか分かりません。そうすることで被害者の気持ちは本当に晴れるのでしょうか。しばしば、「あの人が死刑になるのは当然だ。しかし、あの人が死んでも、殺された私の娘は生き返りはしないのです」と呻く被害者の声も聞きます。そして、死刑に犯罪抑止力があるとも思えません。最近の犯罪は、自ら死刑になりたくて犯される場合もよくあるからです。そうである場合、犯罪を誘発していることにもなります。

イエス様の裁きは?

 私は、テレビや新聞でそういう悲惨なニュースを見つつ、女性殺害事件の裁判の場に、あるいはオウム真理教事件の裁判の場に、イエス様がいたら、イエス様はそこで何をし、何をお語りになるのだろうか、と思います。姦通の女を連れて来て、律法に照らせば石打ちによって死刑にしなければならないと訴える人々に、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とおっしゃり、その後は黙ってうずくまり地面に指で何かを書き続け、最後に「わたしもあなたを罪に定めない」とおっしゃったイエス様は、その裁判の席で何をなさり、何をお語りになるのだろうか。二千年前に肉体をもって生きておられたイエス様はたしかにその場にはおられなくても、聖霊において生きてい給うイエス様は、その場にいらっしゃるのだと思いますし、そして、今、この礼拝堂の中にもいらっしゃる。そして、私たちキリスト者とは、自分の思い、感情がどうであれ、イエス様の思いや行動こそ神の御心であると信じ、その御心に従おうとする者たちなのではないでしょうか。もし、そうではないのならば、私たちの信仰など全く空しい独りよがりなものだと思います。今も生きてい給うイエス様は、その裁判の席で、そして、この礼拝の中で、私たち人間に何をお語りになるのか。罪に支配されてしまって人を殺した人間に、人を殺した人間は死刑にされるべきだと即座に望む私たちに、何を語りかけてこられるのだろうか。

イエス様の涙

ヨハネ福音書では「見る」という言葉は大事です。ここでもイエス様は、マリアが泣き、人々が泣いている姿を「見て」「心に憤りを覚え、興奮し」「涙を流された」のですから。私たちも、私たちの現実を私たちなりに見ることは大事なことです。しかし、私たちと私たちの現実を見ているイエス様を見なければならないし、イエス様から見た私たちの現実、つまり、イエス様から見ると私たちの現実はどのように見えるのかを見なければならないし、その現実の中でイエス様が見せたい「神の栄光」を見ることが出来ればと願います。
 イエス様は、罪と死が人間を支配している現実、また、その現実の中でただ絶望して泣き叫ぶことしかしない、あるいはそうすることしか出来ない人間を見て、心に憤りを覚えられました。その上で、「興奮し」「涙を流された」。この言葉は、マリアや人々が「泣く」とは違う言葉が使われている上に、「涙を流す」という動詞の形では新約聖書でこの一箇所にしか出てきません。
しかし、イエス様の「涙」という言葉は、ヘブライ人への手紙の中で、こういう形で出てきます。

「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」

 ここでもキリストの「涙」は、死と復活に密接不可分な関係にあることは明らかです。死と死からの救いとしての復活は、私たち人間にとって究極的な救いの現実です。その救いの現実に直面する時に、イエス様は涙を流されたと言って良いと思います。そして、その死と救いは、人間に与えられると同時に、主イエス・キリストご自身が神から与えられることなのです。つまり、イエス・キリストご自身が、罪の支配としての死、あるいは罪に対する裁きとしての死、死刑を経験することを通して与えられる救いなのです。その救いに向かう時、神の御心に従順に従われる時、つまり、十字架による死刑に向かわれる時、イエス様は激しい叫び声と共に涙を流されたのです。ラザロの死と復活の記事もまた、実はヘブライ人への手紙と同じ文脈をもっていると、私は思います。

興奮・心を騒がせる

 「興奮する」は、ヨハネ福音書の他の箇所では「心を騒がせる」と訳されています。水がかき回されて波立つことを意味する言葉でもあり、心が引っ掻き回されて収拾がつかない感じを現していると思います。そして、ヨハネ福音書では、イエス様に三度使われ、そしてその上で二度、「心を騒がせるな」という否定形の形で弟子たちに向けたイエス様の言葉の中に出てきます。それは意味のあることだと思います。
 最初に、イエス様が「心を騒がせる」ことに関して見ていきたいと思います。一二章の二〇節以下です。そこには、「栄光」という言葉も出てきます。詳細は一切省きますが、イエス様はこう言われました。

  「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。」

 そして、こう続きます。
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

 人の子の栄光、また神が現す栄光とは、イエス様の死のことなのです。その後に続く言葉を読めば分かりますが、その死は人々に裁きをもたらす死であり、イエス様に仕える者、つまり信じて従う者に永遠の命を与える死なのです。その死の時が来た。この時のために、イエス様は神の許から来た。その時、イエス様の心が騒いでいるのです。一一章の言葉で言えば、「興奮している」
 この後、一三章で弟子たちの足を洗った後、夕食の席でユダの裏切りを告げるときも、イエス様が「心を騒がせた」とあります。ユダが、その部屋から外に出ることで、イエス様の十字架の死は決定されていくのです。しかし、そのような状況の中で、イエス様は弟子たちに向かって愛を説きます。それは「愛とは何か」という抽象的な形ではなく、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という具体的な形です。そして、ペトロに向かっては「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることは出来ないが、後でついてくることになる。・・鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と、彼がこれからイエス様から離反し、裏切っていくことを予告されるのです。人間の愛は死と直面する時に具体的に離反と裏切りに終わるということでしょう。
 ペトロは勿論、弟子たちは皆まさに心が引っ掻き回されたに違いない、恐怖や悲しみのさざ波が収まらない思いにさせられたに違いありません。
 しかし、これからご自身を裏切っていく弟子たちに向かってイエス様は、こう語りかけて下さるのです。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたの場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

神との出会い


 いつも言いますように、これは私たちには想像を絶することであって、説明など出来ることではないのです。このように人を愛し、赦し、永遠に共に生きようとする。そういう方がおられる。そういう方の語りかけが聞こえる。また見える。そういう経験をするかしないかなのです。そういう経験をした人間はその事実によって新しく生き始めることが出来るのだし、経験をしない人間はいつするか分かりません。それは私たちには分からないのです。
ある宗教学者は、人間とは全く異質な聖なる存在との出会いについて、こういうふうに言っています。
「真に『神秘的な』対象を把握し理解し得ないのは、私の認識に限界があるからではなく、その種類も本質も私と比較にならないもの、従って、その前に私はただ驚きの余り後ずさりせざるを得ない『絶対他者』に出会うからである。」(L・オットー『聖なる者』)
 ゼカリアという預言者は、こう語りました。
「すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。
主はその聖なる住いから立ち上がられる。」
(二章一七節)
 預言者アモスはこう言います。
「獅子が吼える、誰が恐れずにいられよう。
主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか。」
(三章八節)

 神の臨在に触れる時、人はただもう黙して後ずさりせざるを得ない、あるいは顔を手で覆ってひれ伏すしかない。しかし、神が語られる時、預言者として立てられた者は、どんなに恐ろしくても、神から預かった言を語らなければなりません。
イエス様は、今日の箇所で、まだその頬に涙を伝わらせつつだと思いますが、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」と祈られました。
表面的な文脈では、ここでイエス様は死んだラザロを復活させようとしておられるわけで、そのための願いを捧げるのが普通だと思います。しかし、神様に遣わされ、その語ること為すこと、そのすべてが神様の御心のとおりにして来られたイエス様にとって、ここで神様の意志が実現することはもう自明のことなのです。だから、まだ復活の前なのですが「聞き入れてくださって感謝します」と、終わったかのように祈っておられるのでしょう。これもまた、私たちには想像すら出来ない聖なる神様と独り子の間の世界です。神様が意志したことは実現する。そして、その意志は言として現れるのです。神様が「光あれ」と言われれば「光があった」ように、イエス様が「ラザロ、出て来なさい」とおっしゃれば、「死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来る」のです。
そして、実はこのラザロの復活の出来事の中に、主イエスがすべての罪人の罪を背負い、取り除くために死刑の判決を受けて十字架に磔にされて死んだこと、葬られたこと、そして甦って、あの弟子たちが隠れている墓の中のような真っ暗な部屋に入り、「平和があるように」と語りかけ、彼らの罪を赦し、聖霊を通して新しく生まれ変わらせ、その部屋から外に出して下さったという御業が重なっているのです。ヨハネ福音書において「興奮(心を騒がせる)」「涙」「栄光」という言葉は、すべてその御業との関連で書かれているのですから。

罪と愛

問題は、愛なのだと思います。イエス様の愛、あるいはイエス様を通して現された神様の愛がすべてを支配しているのです。しかし、その現実は、言うまでもないことですが、信仰がない時には見えません。また、逆に、信仰がない時は、私たちは自分が罪に支配されているという現実も見えません。マタイによる福音書に記されている「殺したことがなくても、人を愚か者と言えば同じこと。姦淫したことがなくても、情欲をもって見れば同じこと」という主イエスの基準に照らして、「私には罪はない。私は罪に支配されたことはない」と胸を張って言える人はいません。しかし、この言葉をおっしゃったイエス様は、私たちの罪を指摘するだけではなく、その罪の赦しのために私の代わりに裁きを受けて下さったのだと信じることが出来る時、私たちは初めて自分の罪を見つめることが出来るのです。そして、その時初めて罪を悔い改めることができ、神の愛の支配の中で、不可能とも思える愛と赦しの道を歩みたいと願うことが出来るのではないでしょうか。
主イエスの愛、それは人間の罪をこれ以上ないほどに深く見つめた上での愛です。その人間が自分でも気付いていない罪、全く自覚できていないその罪をもはっきりと見つめた上での愛です。その愛で人を愛する時、そこにはどうしたって赦しが必要です。そして、その赦しの背後には裁きが必要なのです。裁きなき赦しは、清濁を併せ呑む甘やかしであり、罪はそのまま残り続けます。しかし、赦しなき裁きもまた、裁く者も裁かれる者も、己が罪に気付いてわななくことがありません。裁かれる者は、罰の恐怖に怯えるだけで、罪を自覚して恐れるわけではないのです。そして、罪を自覚しなければ悔い改めようもありません。新しく生きることなど決して出来ないし、復活も出来ません。主イエスは、罪に対する裁きをご自身が引き受けることを通して、罪人に悔い改めを与え、信仰を与え、新しい命、死からの復活を与えようとして下さるのです。

愛と復活

この一一章に繰り返し書かれていたことは、イエス様がラザロや、その姉妹たちを愛しているということです。今日の箇所にも「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」とあります。すべては主イエスの愛から出ています。そして、死とは罪の結果なのです。「罪が死である」と言ってもよいのです。その罪に支配されている人間、その罪の中に死んでいる人間がいる。一一章の書き出しである「ある病人がいた」とは、そのことです。老婆とその妹を殺したラスコーリニコフもイエス様を裏切った弟子たちも、皆、ある病人であり、マルタもマリアも、周囲のユダヤ人も、すべて死の力の前に泣き叫ぶしかなく、イエス様が来ても、死の力に対しては何ら対抗できないと絶望しているすべての人間が、皆、その罪の病にかかっている、既に死で覆われているのです。その現実を前にして、主は憤り、興奮し、涙を流し、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」とおっしゃり、彼らに信仰が与えられるように神様に祈り、「ラザロ、出て来なさい」と叫ばれたのです。ラザロを愛し、マルタとマリアを愛し、そこに来ていたすべての人を愛し、そして、私たちを愛しておられるからです。ラザロという名前は、「神に助けられた者」という意味です。そして、それは私たちキリスト者の象徴でもあります。
私たちキリスト者は皆、かつて罪によって死んでいた者です。愛に生きようと願っても、それが歪んだものになってしまったり、失敗の繰り返しの中で絶望してしまったり、自暴自棄になり人を道連れにしてしまったり、ただ利用するだけの関係を愛だと妄信して縋りつき、かえって傷を深めたり、人を殺した者は即刻死刑にせよと叫んだり、戦争を様々な名目で美化したり正当化したりする愚かにして悲惨な存在でした。しかし、そういう私たちを主イエスは見て、憤り、心を騒がせ、涙を流しつつ十字架の死に向かってくださったのです。一粒の麦として地に落ちるために。この一粒の麦の死、そこに神の栄光が現れるのです。そして、それは具体的には私たちキリスト者の存在のことです。罪の中に死んでいた者が、神様の愛、主イエスの愛によって生き返らされ、神の愛を信じる者として新たに生きる存在とされた。そこに神様の栄光が現れるのです。その栄光が最も輝く時、讃美される時、それがこの礼拝でしょう。

礼拝に現れる神の栄光

私たちは、この礼拝堂の中で、殺人者には死を!と叫ぶわけではありません。ミサイルを撃ち込む者には報復する!と叫ぶわけではありません。何故なら、私たちの主であるイエス様が、そう叫ばれるわけではないからです。主イエスは、興奮し、涙を流しながら、「ラザロ、出て来なさい」と叫ばれるからです。「罪と死の闇の中から出て来なさい」と叫ばれるからです。

「敵意と憎しみと報復の連鎖の中から、出て来なさい。わたしはあなたの罪のために死んだんだ。あなたの罪に対する裁きはわたしが受けたのだ。あなただけではない、あなたの敵の罪のためにも死んだのだ。あなたは、そのことを信じるか。信じなさい。信じる者は、それが誰であれ、十字架に磔にされるような罪を犯した者でさえ、その罪が赦される。新しくされる。わたしの愛を信じ、受け入れる者は、新しくされる。そして、聖霊の力によって、わたしがあなたを愛したように愛することが出来るようになる。そして、わたしは、その一人一人を、父の住いへと導くのだ。そこに父が現す栄光がある。」
私は、この言葉の前に黙する他にないという思いと、語るしかないという思いを持ちます。
主イエスは今も私たちの現実の只中にいて、その現実を、そこに生きる私たち一人一人を、いや生きているつもりで実は死んでしまっている私たち一人一人を、ある者は泣き叫び、しかしある者は絶望し、声も出ないような状態になっている私たち一人一人を、涙を流しながら見つめ、その死の世界に入り込み、そこを神の栄光に輝く世界に造り直して下さっているのです。私たちが本当に見なければならない現実は、それなのです。毎日毎日、テレビ画面を通じて、新聞紙上を通じて、そして自分の内面を見つめることを通して、人間というものに絶望せざるを得ないのが現実ですけれど、でも、それでも、いやそれだからこそ、希望は主イエス・キリストにあるのです。主イエス・キリストにのみあるのです。私たちを愛し、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われ、「もう一度、ユダヤに行こう」「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言って、涙を流しながら「ラザロ、出て来なさい」とおっしゃってくださる主イエスが、今日も私たちの只中に生きておられる。私たちはその主を信じることが出来るから、絶望を超えて希望を持つことが出来るし、はるかに父の住いを目指して、道であり、命であり、真理である主イエスに従っていっぽいっぽ歩み始めることが出来るのです。今日からの一週間の歩みが、その主イエスを見つめた、御国を目指す歩みでありますように祈ります。
 
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