「死んでいた人と死ぬ人」
こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。 罪からの解放としての復活 先週の水曜日から主イエス・キリストの十字架への道行きを覚える受難節が始まりました。今日の箇所は、その受難節第一主日に相応しい御言だと思います。何故なら、今日の箇所において、イエス様の死刑がユダヤ人の最高法院において事実上決定されたからです。 私たちは、新年早々から七回に亘ってラザロの復活の記事を読み続けてきました。その七回の説教の中で繰り返し語ってきたことは、表面的にはただラザロ復活までの出来事が記されているように見えても、そこにはすべての人間の罪を取り除くために十字架に架かって死ぬイエス様の十字架への道行き、そして死からの復活への道行きが書かれているのだということです。そのことが、今日の箇所でさらに鮮明に出てくると言って良いだろうと思います。 四四節には、「ラザロ、出て来なさい」と主イエスが大声で叫ばれると、「死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出てきた。顔は覆いで包まれていた」とあります。そのような状態の人に対して、イエス様が「ほどいてやって、行かせなさい」とおっしゃるのです。敢えて「ラザロは出てきた」ではなく「死んでいた人」と三人称で書かれるところに、ことはラザロ個人にだけ関ることではなく、私たちすべての人間に関ることなのだという暗示があるように思います。そして、その「死んでいた人」の全身に巻かれている布のことを、アウグスティヌスは人間に絡みつく罪の象徴のように語っていましたが、それは含蓄のある解釈だと思います。「ほどく」と訳された言葉は「破壊する」とも訳される言葉ですから。つまり、死人の復活とは罪の支配からの解放を意味するのです。イエス様が、罪の支配を破壊してくださり、その束縛から解き放ってくださるのです。ここで起こっていることは、単に肉体の蘇生ではありません。そういうことを踏まえておかないと、この話は単なる奇跡物語となってしまって、イエス様が「主」「神の子」「メシア」であることを示す「しるし」の出来事とはならないのです。 「見る」ことと「信じる」こと 四五節には、死んでいた人が墓の中から出てきた姿を目撃したユダヤ人の多くが、「イエスを信じた」。しかし、中には、イエス様に敵対するファリサイ派の人々のもとへ行き、「イエスのなさったことを告げる者もいた」とあります。同じ出来事を目撃し、同じ言葉を聴いても、人の反応はいつだって一つではありません。聖書を読む、説教を聴くことにおいて同じでも、人はそれぞれの感想を持つものだし、反応も様々です。それは毎週の礼拝においても起こっていることです。 ここでしかし、一つ本筋ではないかもしれないのですが、一言触れておかねばならないのは、「見る」ことと「信じる」ことです。ここでは信じた人と信じなかった人が分かれたという感じになっています。しかし、見て信じた人々は、以後、ずっと信じていたのか、さらに言うと、信じてイエス様に従ったのかと言えば、そういう形跡は見えません。そして、この福音書の一つの結末である二〇章の最後に記されているイエス様の言葉は、弟子のトマスに対する言葉です。彼は、イエス様が復活されたという言葉を信じず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡にいれてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったのです。しかし、その彼にもイエス様は現れてくださいました。彼は自分の不信仰を悔い改め、イエス様に向かって「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白しました。その彼に向かってイエス様は、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」とおっしゃったのでした。 今度はイエス様の活動の初期に戻りますが、イエス様がエルサレムで様々なしるしを行われた後、多くの人々が、その「しるしを見て、イエスの名を信じた」とあります。けれども、イエス様は「彼らを信用されなかった。何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」と続くのです。つまり、しるしを見て信じる信仰に対しては、イエス様は否定的なのです。 そういう意味で、ラザロの復活の記事のちょうど真ん中にあるマルタの告白が、ある意味では、イエス様が信用される信仰の雛形なのだと思います。彼女は、まだラザロが復活させられる前に、そのしるしを見る前に、イエス様の「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」という問いに対して、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えました。 この一一章はヨハネ福音書の真ん中に位置し、頂点だと言ってよいと思います。その頂点である一一章の真ん中で見ないで信じる信仰が、イエス様の言葉を通してマルタに与えられているのです。女性に与えられているということもまた、当時として、実に大きな意味があったと思います。 しかし、その上で、これまで何度も言ってきたように、「見る」ことは大事だし、トマスが求めたように、「触れる」ことも大事なのです。先日、まさに受難節が始まる灰の水曜日とよばれる日にヨハネの手紙Tの聖研祈会がありました。その手紙の書き出しは、こういうものです。 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」 この「命の言」とはイエス・キリストのことです。しかし、そのキリストは、この手紙を書いた人にとっては、最早肉体をもって生きている方ではありません。肉眼の目で見たり、手で触ったり出来るお方ではないのです。霊において生きているお方、教会の頭として教会をご自身のからだとして生きておられるお方なのです。命の言、神の言そのものとして生きているイエス・キリストの言葉を聞く、そしてそのお姿を見る、お体に触れる、そういう体の感覚を含めた形でイエス・キリストとの交わりを持つ。それが信仰の生活、あるいは信仰の世界なのです。説教というものも、印刷された聖書の言葉の中に、キリストの姿が見えたり、その声が聞こえたり、その衣の裾に触れたりする感覚を持つところにまで至らないと語ることは出来ないし、聴くということも、同じことなのではないかと思います。そういう意味で、ヨハネ福音書はしばしば「見る」という言葉を使っていると、私は思います。ですから、「見る」ことと「信じる」こともまた例によって表面的な意味だけで理解してはならないことです。 とにかく、今日の箇所に登場する多くのユダヤ人は、イエス様からは信用されることのない「見て信じる信仰」を持ったということだと思います。 皮肉な預言 1 そして、ユダヤ教の権力者たちも、全く表面的な意味で人々の現象を見、イエス様を見ています。彼らは、民衆がイエスこそ来るべきメシアだと信じて、彼のもとに結集したら一体どうなるかを心配しているのです。この場合のメシアとは、政治的民族的解放者というような意味です。当時のユダヤ人は、ローマ帝国の中である程度の自治を認められた属国の中を生きていました。ローマから重税を課されており、ローマ皇帝を意味するカイサリアという町には総督ピラトが率いる駐留軍がいて、目を光らせている。そういう状況下で、ユダヤの民衆の中には絶えず反ローマ意識があり、これまでにも何度か、ローマの支配に抵抗する反乱が起きており、その主導者が神に遣わされたメシアと呼ばれたりもするのです。イエス様が、五千人の人々にパンを分け与えるという奇跡をなさった時も、人々は熱狂してイエス様を王(メシア)として担ぎ上げようとしたのです。そういう民衆がメシアを前面に立てて反乱を起こせば、ローマが圧倒的な軍事力をもって叩き潰しに来ることは火を見るよりも明らかです。下手をすれば、自治そのものさえも覆されて、ローマの直轄領にされてしまうかもしれない。神殿も破壊されかねない。ユダヤ人の宗教的権威者たち(それはそのまま政治的な権力者です)が、恐れているのはそのことです。 彼らが問題にしているのは、自分たちが国民を支配するための必須の場所である神殿です。その神殿が滅ぼされてしまえば、自分たちの存在価値も全くなくなってしまうのです。だから、国民のことを心配しているような口ぶりなのですけれど、結局は自分たちのことを心配しているのです。それは、現在の多くの政治家がいつも「国家、国民のため」と口にするのと同じことです。 その時、大祭司カイアファがこう言いました。 「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたにとって好都合だと考えないのか。」 つまり、イエスを殺してしまうことで、民の期待や幻想を打ち砕けば、今の盛り上がりなど一瞬にして消え去ってしまう。そうすれば、ローマが攻めて来る危険性もなくなり、自分たちの地位は安泰だということです。いかにも政治家が考えそうなことです。しかし、そういう発想を、神の民であるべきユダヤ人のトップがするという所に、実は、彼らの滅亡の種が隠れているのですけれど、そんなことは当人たちは分かりません。それは、私たちにとっても他人事ではありません。自分としては上手いこと考えたと思っていることが、実は墓穴を掘っているということはいくらでもあります。 とにかく、「この日から、彼らはイエスを殺そうと企み」始めました。すべての動きをご存知のイエス様は、「もはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方」で弟子たちと滞在されました。それは、死を避けてのことではありません。「この時」を避けてのことです。イエス様は過越の祭りの季節をお待ちになります。何故なら、その祭りの中でこそ、イエス様が栄光を現すことになっているからです。その点は次回に致します。 今日は五一節五二節に注目したいと思います。そこには、こうあります。 「これはカイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」 これは実に不思議な言葉です。先程、人間が見ていることが本当に見ていることではない、人間が信じていることが本当に信じていることではない、という話をしましたが、ここでは逆の意味で同じことが起こっているのです。 カイアファが見ている現実は表面的なことです。極めて人間的な見方で現実を見ており、そこから出てくる狡猾な判断を下している。しかし、それが実は、彼の意図、あるいは自覚とは裏腹に、神の計画を預言することになっている。そういうことが、ここで起こっている。極めて不信仰な言葉が、信仰によらなければ言い様がない言葉に、結果としてなっているのです。 大祭司とは、祭儀を司るだけでなく、神の言を民に告げる役割をも果たすべき人物です。ですから、ここには痛烈なアイロニーがあるのです。神様のご計画を告げるべき大祭司が、意図せずして、また全く逆の意味でイエス様がこれから歩むべき道を告げてしまっているのです。つまり、イエス様はこれからまさに民の代わりに死ぬのです。死ぬ人、死ぬべき人になるということです。 カイアファは、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と言いました。「民」と「国民」は違う言葉です。「民」はこの場合、神に選ばれたユダヤ人全体を指すだろうと思います。「国民」は、そのユダヤ人が辛うじて自治を保っているユダヤ人の国(ヘロデ大王の死後はその三人の息子が分割統治をしていたのでユダヤ王国とは言えないだろうと思います)の民のことです。「民」が宗教的民族的な意味合いが強いとすれば、「国民」は政治的経済的な意味合いが強い言葉だと思います。 いずれにしろ、この言葉は、ユダヤの民が神の民として信仰に生きるために、また政治的にも経済的にも安定した生活を生きるために配慮した言葉ではなく、ただただ支配階級である彼らの地位保全、安寧のために好都合なことは何かという発想から出た言葉であることは間違いありません。 皮肉な預言2 しかし、その言葉が実は預言だった、とヨハネ福音書の記者(一応、ヨハネとしておきますが)は言うのです。でも、そこには意味の逆転があり、さらに拡大があります。 ちょっと翻訳上の問題というか、日本語の意味について注釈をつけておきますが、私たちが礼拝で用いている『新共同訳聖書』では五〇節で、「一人の人間が民の代わりに死に」とあり、五一節では、「イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである」とあります。「代わりに」も「ために」も原文ではいずれもヒュペルという言葉で同じ言葉です。「代わりに」と言うと、「犠牲となって」というニュアンスが出ると思いますし、「ために」と言えば、犠牲となって死ぬことによって罪からの贖いという救いを与えるというニュアンスが出るだろうと思います。しかし、いずれも同じ言葉であり、「犠牲による救いをもたらすための死」を表現しているのです。しかし、その犠牲とか救いという意味が、カイアファが考えていることとヨハネが考えていることで、全く違うのです。 また、もう一つ、これは日本語の問題ですが、五二節に「散らされている神の子たちを一つにするためにも死ぬ」とあります。ここにも「ために」が出てきますが、ギリシア語ではヒナと言って、目的を表します。イエス様が、死ぬ目的です。イエス様の死後何が起こるのか。そのことを五二節は表現しているのだと思います。 ヨハネは、カイアファの言葉を「預言」と呼んでいます。もちろん、そこに一種の皮肉を込めているのだと思いますけれど、こういうことは実は時に起こることです。ヨハネは、たしかにイエス様はカイアファが言った様に「国民のために死ぬ」と言うのです。ローマ総督ピラトによって「ユダヤ人の王」という罪状書きを十字架の上に掲げられて死ぬのですから、イエス様はたしかにユダヤ人、狭義の意味でこの時のユダヤ人国家の王として死ぬのです。ここにもピラトのユダヤ人に対する嘲りや侮辱が預言になっているという皮肉があります。 神の選びの民ユダヤ人とは、アブラハムへの祝福を見ても分かりますように、実は全世界に祝福をもたらすために選ばれた民なのです。「祝福」とは罪に対する「呪い」と反対の現実です。罪に対する呪いは死をもたらします。カインがアベルを殺したような殺人というものをもたらすし、何よりも神様との関係性が死ぬのです。神様の目の前には立てず、まして「父よ」と呼びかけることなど出来ない。裸でその腕に抱っこされるなんてことも出来ない。罪の支配の中を生きる人間は、肉体の命を自分の力で養うために孤独に戦うだけです。自然と戦い、人と戦い、様々なものを奪い合いながら生きていく。そして、結局、最後は肉体も死んで終わり。神様と無関係に生きる、愛とは無縁に生きる、そういう殺伐とした人生が続き、そして死ぬ。それが「呪い」の中の人生なのです。創世記一章から一一章には、祝福と命から始まった人間と世界が罪と呪いに覆われていく歴史が記されているのです。 そういう惨めな罪人を、祝福の内に新たに生かすために、神様はアブラハムをお選びになりました。彼の子孫が神の民イスラエル十二部族になり、その末が、主イエスの時代のユダヤ人です。しかし、そのアブラハムの子孫、神の民イスラエルは、今や一方では律法主義に陥り、他方では権力志向で凝り固まり、真実に神の御心に従い生きることを通して祝福され、世界に祝福をもたらすなんてこととはほど遠いというか、全く逆の道を歩んでいる。そういうユダヤの国民のためにイエス様は死ぬ。ヨハネは、そう言います。しかし、それはローマ軍が攻めてこないという意味で国民のために死ぬのではありません。罪に支配されているのに、その事実すら分からない罪人となっているユダヤ人の罪の贖いのためにご自身を犠牲の小羊として捧げてくださるということなのです。全く意味が違うのです。主イエスは、カイアファのためにも死ぬのです。彼は、そのことが全く分かっていない。何も分かっていないのは、彼なのです。彼は、分かっているつもりで分かっていないことの故に、結局、自らに不都合なこと、自らの滅びを招いていってしまうのです。 散らされている神の子たち ヨハネは、さらにこう言います。 「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」 もちろん、カイアファ自身はそんことを言っているわけではないし、そんなつもりもありません。でも、「ユダヤ人の王」は、ひいては世界の王なのです。アブラハムの子孫から王が出ると神様は預言されました。全世界に祝福をもたらす王です。その王は、しかし、十字架につけられた王なのです。目に見える形ではユダヤ人とローマ人、つまり全世界の民を代表する人々によって犯罪者として殺された王なのです。その王こそが、しかし、全世界に祝福を、罪の赦しによる新しい命を与えてくださる王なのです。自分を殺す人のために死ぬ王なのです。 「散らされている神の子」とあります。面白い言葉です。全世界に散らばっていったユダヤ人のことをディアスポラ(離散の民)と言います。「散らされている」とは、そのことを表しているのです。その離散の民が、第二次世界大戦後にエルサレムに結集してきてイスラエル共和国を建国したのです。その点について今は語りませんが、ここで「散らされている」のはユダヤ人ではなく「神の子たち」なのです。これが面白いのです。しかし、深くて広くて、どこをどう整理して理解し、話すべきか迷います。 ここに出てくる「神の子」とはイエス様が「神の子」というのとは全く違う意味です。イエス様の場合、「息子」を表すフィオスという言葉が遣われていますが、こちらは複数形でテクナという言葉で一般的な意味で「子ども(たち)」を表します。そして、ヨハネ福音書ではそういう意味での「神の子」が冒頭の一章に出てきます。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 「言」は独り子なる神としてのイエス・キリストですけれど、その神は「自分の民のところへ来た」のです。これもまた二重の意味があって、「自分の民」とは、一つはアブラハムの子孫としてのユダヤ人のことです。しかし、「万物は言によって成った」つまり、創造されたわけですから、全世界の人間もまたイエス・キリストにしてみれば「自分の民」でもある。その自分の民が、あろうことか自分の命の創造者を受け入れない。反抗期の子どもが、「お前なんか親じゃない」とか「親なんていなくたって生きていけるわ!とっとと失せろ!」と喚くようなことを、私たち人間は知らない内にしているのです。カイアファは、その愚かにして惨めな人間の象徴というだけで、私たちと実は何の変わりもありません。しかし、そういう人間の中にも、イエス・キリストを受け入れる人々がいる、信じる人々が出てくるのです。アブラハムの子孫は天の星のように増えると神様が約束されたのですから。その人々のことを「神の子(たち)」とヨハネは言います。その神の子は、人間的な思いや行為によって生まれるのではなく、神によって生まれる、聖霊によって生まれる子です。聖霊によってイエス様を信じる信仰が与えられるからです。だから、イエス様は,「神の子」「メシア」「主」と信じる私たちキリスト者は神の子なのです。神の子だから、「アッバ、父よ」と神様に呼びかけることが出来るのです。そういう神の子たちが、実は世界中に散らばっている、目に見えない形で隠れている。その子たちが、集められて一つになるために、イエス様は死ぬのだ。ヨハネは、そう語るのです。 集める ここに出てくる「集める」とか、「一つ」という言葉は実に大切な言葉だと思います。ずっと礼拝に通ってきている方は、ああそう言えば、と思い出されると思うのですが、イエス様がサマリアの女と出会い、愛に渇ききったその女を命の水で潤すという記事が四章にありました。ユダヤ人のすぐ隣に住んでいるサマリア人は、ある意味、近親憎悪みたいな関係にあって、お互いに決して交わりを持ちません。お互いに、あいつらは汚れた民だ、神に見捨てられた民だと裁いている間柄なのです。しかし、イエス様はそのサマリアの村に入って行き、一人の女を愛し、赦し、神の子に造り替えるのです。そして、それまでは結婚と離婚を五回も繰り返し、今は他の男と同棲中という女を嫌悪していたであろう村人たちが、「わたしはメシアに出会った」というその女の言葉を聴き、喜びに輝くその顔を見て、イエス様に会いにやってくる場面があります。その大勢の人々がご自分のところに来る様を見つつ、イエス様は弟子たちに向かってこうおっしゃいました。 「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」 イエス様はここで伝道の喜びを語っておられるのです。伝道においては、ある人が種を蒔き、他の人が刈り入れることがたくさんあります。その大元は、イエス様ご自身が一粒の種として地に落ちて死んでくださったことにありますけれど、その命の種を蒔いた人も、その実を刈り入れる人も、共に喜ぶのです。永遠の命に至る実を集めることが出来る。それに勝る喜びはない、感謝はないからです。 つまり、イエス様はここでユダヤ人にとっては神に見捨てられた滅ぶべき人々と思われているサマリア人が、今、主イエスの伝道を通して続々と集められている。神の子となるために、永遠の命を生きるために集められている。その現実を見なさい、そして刈り入れなさい、と弟子たちに促しておられるのです。神の子たちは、罪で覆われている人間の目には見えない形で、全世界に散らされているのです。その人々を集めるために、主イエスは死ぬのです。 もう一箇所、これもまた色々な意味で象徴的な箇所を見ておきたいと思います。それは六章です。 そこは主イエスが男だけで五千人にパンを分け与えるしるしを行われた場所です。そのパンの奇跡の場面で、人々が満腹した時に、イエス様はやはり弟子たちにこうおっしゃいました。 「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい。」 そして、こう続きます。 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 ここに二度「集める」と出てきます。捨てられても仕方のないパン屑です。でも、それを大事に集めるようにイエス様は命じます。何故なら「無駄になる」とは原語では「滅びる」という言葉と同じだからです。そして、十二籠とはイスラエル十二部族の象徴なのです。 つまり、イエス様は屑として滅びに堕ちてしまいそうな一人一人を拾い集めて、永遠の命を生きる新しい神の民をお造りになろうとしている。その人々を、後に明らかになるように、ご自身の肉である命のパンによって養おうとしておられる。そういうことが、ここで語られていることです。 一つにする そして、最後に「一つにする」ですが、この「一つにする」ことこそが、主イエスが十字架に架かって死ぬ目的なのです。もう時間がありませんから二箇所だけ簡単に触れますけれど、十章でイエス様は、「わたしはよい羊飼い。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃいました。そして、その後に、こうおっしゃったのです。 「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」 さらに、十字架の死を目前にして、弟子たちのために祈る場面が一七章に出てきます。ここは「大祭司としてのイエスの祈り」とも言われる箇所ですが、イエス様は神様の栄光を現すために十字架に赴かれる決意を祈りにおいて献げられました。そして、弟子たちが一つになるようにと祈り、さらに弟子たちの言葉を聞いて信じる人々が、つまり私たちのような世界中で神の子として誕生したキリスト者が一つになるように祈ってくださるのです。 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」 なんと有り難い祈りだろうかと思います。父と独り子なる神様が互いにその内に生きるという一つの交わりをするように、私たちと父なる神様が交わり、そのことにおいて私たち同士も一つの交わりを生きることが出来るようにと、イエス様は祈ってくださったのだし、祈ってくださっただけでなく、そのために十字架の上で肉が裂かれ血を流しながら死んでくださったのです。そして、復活して下さった。聖霊を注ぎかけ、私たちに見ないで信じる信仰を与えてくださったのです。その信仰によって、私たちは今日も神様を「お父さん」と神を呼び、イエス様を「わが主」「わが神よ」と呼ぶことが出来る。そして、今日は幸いなことに聖餐の食卓を通してその主の体、主の血潮、命を捧げた主の愛を耳で聴くだけでなく、目で見、手で触り、口で味わうことが出来るのです。信仰をもってこの食卓に与るとき、私たちは主との交わりの中に入り、主にあって一つの交わりにさせられます。それもこの礼拝堂の中にいる私たちだけでなく、今、電話を通して礼拝に出席し、訪問聖餐を通して同じ食卓に与る兄弟姉妹、さらに全国、全世界の神の子たちと一つの交わりに入れられるのです。 一世紀後半に書かれたと言われる『十二使徒の遺訓』という書物があります。様々な教えが記されている書物ですが、その中に、聖餐のパンを配る時には、こう語れと記されているそうです。 「このパンが丘の上に散らされ、また集められて一つとされし如く、汝の教会も地の果てより汝の御国に集められんことを。」 私たちは、キリストに出会い、愛されるまでは、罪の中に死んでいた人です。しかし、今、私たちは、私たちのために死んでくださったキリストによって、永遠の命に生かされている神の子です。そして、いつの日か、全世界に散らされ、また罪によってまだ互いに一致できないすべてのキリストの教会が、またまだ囲いの外にいる人々も、天の御国において一つに集められる。救いが完成する。その日を目指して、私たちは生きることが出来る。ただ感謝し、讃美せざるを得ません。 |