「死と復活を共にする食卓」

及川 信

ヨハネによる福音書 12章 1節〜11節

 

過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

場面は過越祭の直前


今週と来週の二回に亘って、一一章五五節から一二章一一節の御言を読んで行きたいと思っていますけれど、その段落の場面設定は言うまでもなく「過越祭」です。ヨハネ福音書ではこの祭りは三度出てきますが、その最後です。いよいよイエス様がこの祭りが祝われるエルサレムに上ってきて、そこで十字架に磔にされる。その時が近づいているのです。その直前の状況が描かれているのはこの場面です。
その祭りを神殿の境内で祝うためには、清めの儀式に与る必要がありました。身内の誰かが死んで、葬りのためにその死体に触れた場合、死は穢れですから、必ず清めの水を用いて、然るべき方法で清められなければ神殿に入ることは出来なかったのです。またユダヤ人以外の異邦人も汚れた存在ですから、そういう人たちと接触した人も清められなければなりません。日本でも葬式が終わって棺桶を土葬するなり、火葬の後に埋骨して、再び家に入る時は、清めの塩を振ってもらわなければ入れなかったのではないでしょうか。私の前任地の松本では、しばしばそういう光景を目にしました。
とにかく、この祭りの時は、通常のエルサレムの人口の十倍に膨れ上がったというのです。そういう一大イヴェントの最中、人々は、今や超有名人であり指名手配中のイエスという男が祭りに上ってくるのかどうかに非常な関心を持っていました。そして、いよいよ祭りが六日後に始まるという時、「イエスはベタニアに行かれた」とあります。ベタニアは、エルサレムのすぐ近くなのですから、これはもう死にに行くのと同じ意味です。

どこの家(教会)でも起こること

これから始まる出来事に関しては、他の福音書にも似た話が出ていて、私を含めた恐らく多くの方がその部分部分をおぼろげに覚えていて、それがごちゃ混ぜになっていると思います。それらの比較をしてヨハネ福音書の特色を語ることを、今日はしません。ヨハネ福音書の文脈の中で、この出来事が何を意味するのかに集中して行きたいと思います。
この食事がもたれた家がどこなのか、全く分かりません。しかし、こういう不特定の書き方をすることで、実は、どこの家でもあることなのだと暗示している可能性も高いと思います。ラザロという名前そのものが「神から助けられた者」という意味で、ある意味でキリスト者を代表しており、さらに、ここには「イエスが死者の中から甦らせたラザロ」という言葉があります。これまで何回も言って来ました様に、私たちキリスト者とは、罪の支配の中に置かれた既に死んだ者であったのに、イエス・キリストの十字架の死による贖いと復活を信じる信仰を通して死から復活させられ、最早死ぬことのない永遠の命を与えられた者たちです。そういう意味で、皆が、ラザロなのです。そして、この「死者の中から甦らせた」という言葉は、新約聖書の中で、「神が死者の中から甦らせたイエス」という形で何度も出てくる言葉なのです。
つまり、この食卓には、神が死者の中から復活させられたイエス・キリストがおられる。その復活のしるしとしてイエス様によって死者から復活させられたラザロがいる。そして、マルタがいる。彼女は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。(あなたは)このことを信じるか」と言われたイエス様に対して、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と信仰告白した女です。彼女がイエス様の給仕をしているのです。そして、イエス様の弟子たちがおり、そこにラザロの死を前にして泣き続けていたマリアが登場する。そういう舞台設定だと思います。
最初に表面的な情景を見ておきたいと思います。当時の食事は床に布を引いて、パンやおかずが乗った皿を並べ、それを囲むようにして寝そべって食べたようです。左肘で体を支えて食べたのです。だから、イエス様の足は投げ出されているのです。もちろん、家に入り食事をする時には足を洗うわけです。そういう食事を男たちがしている時、マリアが突然、「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐう」という驚くべきことをし、それを見た弟子のユダが、何と勿体ないことをするのだ、貧しい人に施せばよかったのにと、マリアを責める。しかし、イエス様は、マリアは自分の葬りの日のために、この油を取っておいたのだから、するままにさせておけ、とユダを嗜める。それが表面的な成り行きです。その後、大勢の群衆がイエスとラザロを見にやってきた。そして、祭司長たちはラザロをも殺そうと謀り始めたということが続きます。ユダや、祭司長たち、またイエス様やラザロを見に来た人々に関しては、次週、ご一緒に読んでいきたいと思います。

マリアの信仰告白 メシアの即位

ナルドの香油とは、北インド産の高価な香油だそうです。マリアは、その香油を一リトラ(約300グラム)持ってきて、それを主イエスの足に塗った。ここに込められた意味は深いものがあります。
最初に言っておかねばならぬことは、ここにマリアの信仰告白があるということです。先程も言いましたように、ヨハネ福音書の真ん中に位置する一一章の真ん中に頂点のように立っているのが、イエス様の復活宣言であり、マルタの信仰告白です。そして、それは言葉によってなされた宣言です。それに対して、イエス様とお会いした時に、マルタと全く同じ言葉、つまり、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という言葉でお迎えしたマリアは、その後に、マルタのような信仰告白をしていませんでした。しかし、それが今ここで、言葉によってではなく、無言の行為によってなされているのだと思います。
彼女がやった油を塗るという行為、それは大事な客人をもてなす時になすことでもあるようですし、足を洗うということも、そういうもてなしの一つであったようです。しかし、彼女のそれは、「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ」と但し書きがついているように、そういう日常性とは全くかけ離れたものです。また、女性にとって髪の毛というのは、万国共通に非常に大切なものですけれど、その髪の毛で男性の足を拭うということもまた、異常なことであることは言うまでもありません。
ヘブライ語でメシア、ギリシア語でクリストス(キリスト)は同じことですけれど、元来の意味は「油注がれた者」という意味です。大祭司、王、預言者という、神様に特別に選ばれた人間が、神様から与えられた職務に就く時に聖別のために頭から油を注がれるのです。そういう者たちをメシアというのです。そのメシアの戴冠式のイメージがここにはあると思います。つまり、マリアはマルタが、「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると信じています」と言葉で告白したことを、行為をもって告白している。そのことを通して、イエス様はメシアとして即位されているのです。しかし、そのメシアとは、旧約時代の大祭司、王、預言者という人々とはやはり異なる存在ですし、またイエス様の時代に多くの民衆が望んでいた政治的民族的な救済者としてのメシアとも根本的に異なるものです。これから次第に明らかになることですが、イエス様は、ユダヤ人だけを対象として来られたわけではありませんし、またローマ帝国による政治的抑圧からユダヤ人を解放するためにこの世に来られたのでもありません。すべての人間を支配している罪と死の束縛、神様との命の交わりを失わせる罪の束縛から私たちを解放するために世に来られた救い主なのです。

どういうメシアか

それは、この福音書の最初に出てくる洗礼者ヨハネによる信仰告白からも明らかです。彼はイエス様を見た時、こう言いました。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

 ここに出てくる「小羊」。これは過越の祭りで屠られる小羊であることは明らかです。紀元前十三世紀頃のことと言われますが、エジプトに四百年寄留し、その大半をエジプトの王ファラオの奴隷として苦役に従事していたイスラエルの民を、神様はモーセという指導者を通して脱出させ、シナイ山で十戒を与えて、神の民として誕生させ、さらにアブラハムに対する「約束の地」カナンに導き返してくださいました。この救済の出来事こそが、旧約聖書の基礎と言ってもよいものですけれど、その脱出の前夜、神様はイスラエルの民に、「小羊を屠って、その血を家の鴨居に塗り、室内では種入れぬパンを苦菜と共に食べること」を命じました。その屠られた小羊の血がしるしとなって、死の使いはその家の前を過ぎ越す、通り過ぎる。しかし、血が塗られていないエジプト人の家には死の使いが入り込み、その家の初子が神に裁かれて死んだのです。もちろん、これは民族的な区別ではなく、神に従うか否かの区別が根底にあることですが、そういう生と死を分かつのが小羊の血なのです。
そして、死は罪によってもたらされるものです。その罪を取り除く。一回限りの十字架の死によってイスラエルの民、ユダヤ人だけでなく、世の罪、生きている全ての人間の罪を取り除き、神の子として新しく生かすために死ぬ小羊としてイエスは来られた。洗礼者ヨハネは、イエス様を見た時に、そう叫んだのです。この方こそ、来るべきメシア、世の罪を取り除くメシアなのだ、と。
 マリアが香油を塗るとは、そういうメシアに対する信仰告白なのです。その告白をするために、彼女は多分自分の全財産を捧げました。この油の量は売れば三百デナリになると言われています。それは、平均的な労働者の一年分の収入の額だそうです。そういう金額のものを、彼女はこの時に、イエス様に捧げてしまう。それは彼女の献身の愛を意味すると言って良いでしょう。
 彼女は、その場にいるユダはもちろん弟子たちの誰も、またイエス様やラザロを見に来る群衆の誰も分かっていない事実を知っていました。それは、イエス様が過越の祭りの中で、あの小羊として死ぬということです。権力に反抗した謀反人として殺されるのではなく、権力者も民衆も、ローマ人もギリシア人もユダヤ人も、日本人も、何人であれ、すべての人間が支配されている罪を取り除くために死ぬ小羊として死ぬ。マリアだけが、そのことを知っているのです。

即位=死と葬り

 だから、イエス様は、「この人のするままにさせておきなさい」とおっしゃったのだと思います。ここでも、「この人」という三人称単数が使われています。「マリア」ではなく「彼女」と言われています。これは、マリアだけの行為ではなく、イエス様を本当の意味でメシアと信じる者すべての行為だからだと思います。
 彼女の行為、それは主イエスによれば「葬りの日」に行う行為です。当時、人が死ぬと、すぐに腐らないように、また死臭を押さえるために香油を塗って、布で全身を巻いた上で墓に葬ることになっていました。イエス様は、マリアの行為は、まさに死体に対して敬弔の誠を込めてする行為であると受け止めてくださったのです。
 しかし、このページの最後には、多くのユダヤ人がイエス様のことを信じるようになったことが記され、ページをめくれば、「その翌日」のこととして、大群衆がイエス様を「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」と歓呼してイエス様をエルサレムに迎える場面が続くのです。「ホサナ」とは、「救いたまえ」という意味です。まさにイエス様の人気が絶頂を迎えるのです。彼らは、イエス様こそ、自分たちユダヤ人をローマの抑圧から救い出してくださるお方だと信じていた。
 しかし、実は、主イエスはこの世的な意味で絶頂に登りつめるためにエルサレムに入って行くことなのではなく、世の罪を取り除くために、最低最悪の死としての十字架に向かってエルサレムに入っていかれるのです。十字架こそが、世の罪を取り除く王、メシアの王座なのです。殺されて、葬られることを通して、イエス様はメシアに即位するのです。弟子も群衆も祭司長たちも、全く分かっていませんが、マリアただ一人、ここで自分のすべてを捧げてイエス様に対して、「あなたこそ、神の子、メシア。私たちの罪を取り除くために死んでくださるお方です・・」と信仰を告白しているのです。そして、そのことを、ただイエス様だけが分かっている。

足に注ぐとは

 マリアは、イエス様の足に香油を注ぎました。マタイやマルコ福音書では女性が、イエス様の頭に油を注ぎます。メシアの戴冠式とすれば、頭に注ぐことが相応しいとも言えます。この件についても、様々な解釈があるのですけれど、私はヨハネ福音書の文脈の中で足に注ぐことの意味はあると思うのです。
一三章にまでいくと、本格的な受難物語が始まり、ヨハネ福音書における弟子たちとの最後の晩餐の記事が記されています。その食事の席で、イエス様が弟子たちの足を洗うのです。食事の時に、その家の僕が、あるいは目下なものが客人の足を洗うということがもてなしの一つだったようなのですけれど、イエス様がそういうことを弟子たちにする。
ヨハネ福音書は、その場面をこういう書き出しで始めています。

「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たち(ご自分の民)を愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食の時であった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」

 この食事の場面にもユダが出てきますけれど、それには今日は触れません。主イエスはここで、ご自分がもう後わずかで死ぬことを悟って、弟子たちを「愛し、この上なく愛し抜かれた」。その愛の行為として、足を洗われるのです。そして、それは罪の汚れを洗い清めるということなのです。ユダヤ人は、死体に触れた汚れ、異邦人に触れた汚れを水で洗い清めて初めて過越の祭りにおいて神を礼拝できる、神様に対面し、交わりを持てると考えていました。しかし、イエス様は、表面的な接触によって人が汚れるとは少しも考えておられません。人間は、その内に抱え持った罪によって汚れているのです。その汚れは、水で肌を洗っても清めることは出来ません。主イエスご自身が十字架で血を流すことを通して私たちの罪を洗い清めて下さるのです。そのしるしが、足を洗う、洗足という行為だと思います。
そして、主イエスは、その後に、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」とおっしゃり、さらにユダの裏切りを告げ、彼が去った後に「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とおっしゃったのでした。
 そういう流れを考えると、足を洗うとは、人の前で自らが低くなり、罪の汚れを自らに負うようにして洗い清めるために仕える、僕のように仕えることなのです。相手が魅力的だから愛するとか、よくしてくれたから愛するとか、そういうこととは全く別のことです。互いの罪を赦し合うことであり、そのために互いの間に主イエス・キリストを置くということです。主イエス・キリストがそこにおられないのであれば、私たちは自力で罪を赦すだとか、洗い清めるなどということは決して出来ないからです。自ら遜って、私たちの前にひざまづいて私たちの足の汚れを洗ってくださる主イエスがおられないならば、そして、その方が私たちの只中におられることを信じなければ、私たちは、愛し合い、仕え合うことは出来ません。そして、そのことを最も深く知らされるのは、この礼拝の時ではないでしょうか。

礼拝=仕えること

 礼拝とは、英語ではサーヴィスと言います。ワーシップとも言いますが、そちらは「崇拝する」という意味合いが強い言葉です。それに対して、サーヴィスとは「仕える」こと「奉仕する」ことです。神に仕える、主イエスに僕として仕えることです。しかし、何故、私たちが主イエスに仕えるのかと言うと、主イエスが仕えてくださったからなのです。主イエスのほうが、まず私たちを「愛して、この上なく愛し抜いて」下さったからなのです。宗教改革者のルターは礼拝のことを「神奉仕」と言いましたけれど、その根本的な意味は、神がイエス・キリストを通して私たちに奉仕をして下さっているという意味です。今日も、イエス・キリストは、私たちの足を、一週間の歩みの中でこびりついた罪の汚れを、洗い清めてくださっている。私たちは、その汚れを、主イエスの前には隠すことなく、おずおずとであっても、出さなければなりません。それが悔い改めるということです。主イエスは、悔い改める者を喜んで赦してくださるのです。そして、「あなたは罪の中に死んでいたのに、今、甦った」と言って下さるのです。その主イエスに感謝と喜びをもって仕え、讃美を捧げる。それが私たちの礼拝です。
 マリアは、その礼拝をこの時に捧げているのだと思います。そして、それはユダヤ人たちが清めの水で自らを清めて入る神殿の中ではなく、ごく普通の家の中、生活の只中においてです。

  派遣されて生きるキリスト者

受難節が始まってからの十日間は様々なことがありました。受難節の初日である水曜日には、Uさんのお宅で結果として最後となってしまった訪問聖餐の時を持ちました。その週の土曜日の結婚式が始まる直前にUさんの緊急入院の知らせが入り、そのまま結婚式を挙げ、翌日は同じ礼拝堂で朝・夕の聖餐礼拝を守り,その翌日の夜にUさんのご逝去の報を聞き、それから納棺、前夜式、葬儀をこの礼拝堂で捧げ、そして今日の礼拝を迎えています。喜びや悲しみ、笑いと涙、新しい家庭の誕生と一人の人の死、そういういったことの全てを、私たちは神の家族として、いくつもの御言を読み、いくつもの讃美歌を歌いながら、共に受け止めてきました。
 Uさんの葬儀説教の中で語ったことですけれど、九十七年という長い人生を、キリスト者として、また教育者として、一途に、ひたむきに、確固とした信仰と信念をもって生きてこられたUさんを思う時に、私の心に最初に浮かんだ言葉は、毎週の礼拝の最後に牧師としての私が読む派遣の言葉です。

「平和の内にこの世へと出て行きなさい。
主なる神に仕え、隣人を愛し、
主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。」


 Uさんの日常生活、それはまさに神に仕え、隣人を愛し、神を愛し、隣人に仕えるというものでした。教会員ひとりひとり、求道者ひとりひとり、教え子、同僚のひとりひとりのことを心に留め、案じ、祈り、そして自分の出来ることをする。それは本当に徹底していました。Uさんからカード、手紙、ファックス、濃やかな配慮の言葉が添えられた贈り物を頂いた方は数知れないでしょう。
生きているということ、それも教会の中で生きるということ、世の職場で生きるということ、それは当たり前のことですが、厳しい体験です。よいことばかりがあるわけではありません。辛いこと、悲しいことはたくさんあります。具体的な困難、試練だけではなく、自分自身を含めた人間の罪深さを知らされて愕然とすることがたくさんあるのです。信仰をもって生きる、信仰を純粋に強く持って生きれば生きるほど、実は、人間の罪の闇の深さを知っていくことになるのです。信仰とは、それが本物であれば、罪を見えなくする目隠し装置なのではなく、鮮明に見える眼鏡をかけるようなものです。しかし、信仰が本物である時、その鮮明に見える人間の罪を取り除くために十字架に架かってくださった主イエスが見えるのです。そして、復活して、「あなたの罪を赦す、聖霊を受けなさい」と語りかけて下さる主イエスが見える。私たちの足を洗ってくださる主イエスが見えるのです。だから、どんなに辛いことがあっても、愕然とするようなことがあっても、何があっても、感謝し、喜ぶことが出来る。それが信仰です。しかし、その主イエスが与えてくださる新しい掟を完全には生き得ない苦しみも、信仰にはあります。
一〇分後には、結婚式に備えて讃美練習を始めるという時に、Uさんのご親戚であるU一郎さんから、Uさんが緊急入院されて、今日ではないだろうが、いつ何時亡くなってもおかしくないと医者が言っていることを、私は知らされました。その時、その結婚式で読むべき言葉として新郎新婦が選んだ言葉が私の心に浮かびました。それは、

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」

という言葉です。これはまさにUさんの生きる姿そのものでした。前夜式の時に語ったことですが、私はいわゆる勉強しつつ聖書を読む立場の人間でもありますけれど、なによりも本物の信仰を生きておられる信徒の方々の姿から聖書の言葉を教えていただいてきたし、今もそうです。その言葉には続きがあります。

「"霊"の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」

 Uさんを知る人なら誰もが、この言葉もまた、Uさんそのものであることに同意してくださると思うのです。Uさんを通して、この言葉が生きていることが分かるでしょう。
そして、自分が召された時に読んでもらいたいと願ってUさんが選んだ聖書の言葉の一つは、パウロが書いたローマの信徒への手紙の十二章ですけれど、そこにはこうあります。

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

  私たちのこの世における生活が礼拝なのです。この礼拝堂の礼拝において、メシア、イエス・キリストのいけにえの血によって罪を洗い清められ、復活と聖霊付与を通して新しい命を与えて頂いた私たちは、祝福をもってこの世の生活へと派遣されます。それは、自分自身をいけにえとして捧げる礼拝へと派遣されることなのです。仕えられる為ではなく仕えるために、愛されることを求める前に愛して生きるために、赦されたのだから赦すために派遣される。それは常に、主イエス・キリストに仕え、崇めつつ生きることを意味します。イエス・キリストを忘れては、私たちは仕えることも、愛することも、赦す事も出来ません。少なくとも、イエス・キリストに仕えられ、愛され、赦されたようには出来ません。

香りといけにえ

 私は、私が司式をして結婚する方たちに、これまでずっと一つの壁掛けをプレゼントしてきました。それは家庭訪問をさせていただく時に、時折、そのご家庭の食卓の壁にも飾ってあったりするものです。今回は、製造元が製造を休止していて、プレゼントが出来ず、代わりに親しい書道家の方に結婚式で読まれた聖句を書いて頂いたのですけれど、壁掛けの言葉を式次第には書いておきました。それは英語ですが、訳すとこうなります。

「キリストはこの家の頭、毎食ごとの目に見えない客、すべての会話の物言わぬ聴き手」

 今日の場面でも、最初イエス様は客人としてもてなされていますが、実は、同時に頭として生きて下さっています。マルタに給仕され、マリアに愛されていますけれど、ラザロもマルタもマリアも自分のために死んで、死者の中から甦らされたキリストを信じる信仰によって新たに生かされているキリスト者なのです。そういう者たちが、キリストと共に食事についている。そして、キリストに愛され、キリストを愛し、そしてキリストに仕えられ、キリストに仕えている。その家が、マリアが捧げた香油の香りでいっぱいになったのです。
 この点について、含蓄の深い解釈があります。ユダヤ人の中では、こういう言い伝えがあるのです。

「香料の香りが寝室から食堂にまで広がる。そのように、よき名声も地の果てから果てに広がる。」

香りは、いつのまにかその場に広がっていくものです。マリアのしたこと、つまり、イエス様こそ、神の子メシアであるという告白、世の罪を取り除く神の小羊であるキリストに自分の全てを捧げて愛し仕える、つまり、礼拝することは、地の果てにまで広がっていく。この礼拝を通してキリストの名声は地の果てまで広がっていく。「家は香油の香りでいっぱいになった」という言葉は、そのことを表しているのだという解釈です。私は、心から同感します。
「香り」という言葉は、しばしば「いけにえ」という言葉との関連で使われています。いずれもパウロの手紙の中の言葉ですけれど、二箇所だけ読みます。

「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」(エフェソの信徒への手紙五章二節)
「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。」(フィリピの信徒への手紙)

 キリストご自身が、私たちを愛するが故に、私たちのためにいけにえとなってくださった。ご自分を香りのよい供え物として十字架に捧げて下さったのです。その主イエス・キリストの献身の愛に応えて、私たちも自分をいけにえとして捧げる。そういう私たちが贈る言葉も手紙もプレゼントも、神が喜んで受けて下さる香ばしい香りなのです。Uさんから、その香ばしい香りを受け取った人は数しれません。
そして、イエス・キリストは、マリアのようにナルドの香油を捧げた無数の人々によって、地の果てから果てまで広がって今に至るのです。Uさんもまた、その一人です。そういう方はどこの教会にも何人もいます。私たちもまた、イエス様から「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから」と言われるキリスト者になりたいと切に願います。しかし、それは自分の努力によってなるものなのではなく、ただただキリストと共に食卓につきながら、足を洗っていただき、パンを分けていただき、ぶどう酒を分けていただき、命のパンとしての言葉をいただき、命の息としての聖霊を吹きかけていただく礼拝を捧げ続けることによって、そういう香りを放つものにしていただけるのです。私たちは、今日もその礼拝に招かれ、そして派遣されるのです。感謝しましょう。

 
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