「人間というもの・神というもの」

及川 信

ヨハネによる福音書 12章 1節〜11節

 

過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

過越祭


先週に引き続いて一一章の五五節から一二章一一節までの御言に聴いていきたいと思います。先週は、マリアがナルドの香油をイエス様の足に塗ったことに注目しました。今週は、過越祭に集まってきたユダヤ人、イスカリオテのユダ、イエス様やラザロを見て信じるユダヤ人と、イエス様やラザロを殺そうとする祭司長たちに注目していきたいと思っています。
 一一章五五節以下には、過越の祭りが近づき、多くのユダヤ人が身を清めるためにエルサレムに上ってきたこと。そして、神殿の境内で、今や公けに指名手配されているイエス様がエルサレムに来るかどうか噂をしながら、捜していることが記されています。
 過越祭とは、もう何度も言ってきたようにイスラエルに対する最大の救済である出エジプトを記念する祭りであり、その救済のために小羊の血が流されたことを覚えて、毎年、小羊を屠って家族で食べるのです。この祭りを祝うことが、安息日を守ることと共に神の民イスラエルの生命線なのです。私たちがイースター礼拝と主日礼拝を何よりも大切にすることの背景に、過越の祭りと安息日があることは確かなことです。その「過越祭が近づいた。」それは、「世の罪を取り除く神の小羊」と言われる主イエスの死の時が近づいた、ということを意味します。そして一二章の一節には「過越祭の六日前に」と書かれていて、刻一刻とその時が近づいている様が描かれているのです。
 一一章五五節以下に「身を清めるため」「イエスを捜す」という言葉が出てきます。身を清めるためには、水が使われます。この言葉を読むと思い起こすのが二章と七章です。

身を清める

 二章はイエス様の最初のしるしが書かれている所ですけれど、カナという町の結婚祝いの席で、ぶどう酒が足りなくなったのです。その時、イエス様は大きな水がめに入っている清めのための水をぶどう酒に変えるという奇跡を起こされました。その前後の文章も実に深い含蓄があるのですけれど、すべて省略して言うと、「清めの水」とは、汚れを表面的なよごれと同一視しがちな当時のユダヤ教を暗示しているでしょう。それに対して、「ぶどう酒」は罪を贖うために流される犠牲の小羊の血を暗示しているのです。つまり、ユダヤ教に代わってキリスト教が到来した。イエス・キリストの十字架の福音が今こそ到来した。それこそ結婚の祝いに相応しいということです。このしるしのことを、福音書記者のヨハネは「栄光」と呼んでいます。ヨハネ福音書における「栄光」とは、イエス様の十字架の死と復活に密接な関係をもった言葉です。しかし、その時、婚礼を仕切っていた世話役は、このぶどう酒が「どこから来たのか知らなかった」と出てきます。この言葉は、頭の中に残しておいて頂きたいと思います。後で重要なものとなります。とにかく、イエス様が何をしておられるかを知る人はいつも非常に少ないのです。そして、それはイエス様が誰であるかを知る人が少ないということであり、イエス様の言動に「栄光」を見ることが出来る人が少ないということでもあります。
 この最初のしるしの後、「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上っていかれた」と続きます。イエスが「多くの人」に代わっただけで、一一章五五節と全く同じ言葉です。そこには、イエス様の「宮潔め」と言われる業が記されています。神殿を清めるのです。具体的には、祭司長たちから正式な許可を貰い、場所代を納めて商売をしている人々を、イエス様は鞭をもって神殿の境内から追い出したのです。それは、ユダヤ教の最高の権威者がやっていることを真っ向から否定したということです。その上で「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とおっしゃったのでした。これも本当に激烈な言葉ですが、この言葉の意味を理解した人は、この時誰もいませんでした。弟子たちも、イエス様が十字架に架かって死に三日目に甦られた後に、初めてイエス様の復活の体こそが神殿であることを知ったのです。
 こういう出来事を見ると、イエス様はその最初からユダヤ人が考える罪の清めという儀式に対して、またすべての儀式の中心である神殿に対して戦いを挑んでいる、あるいは真っ向から否定しているということが分かります。主イエスにとって、罪とは、体の表面を儀礼的な作法に基づいて水で洗うことによって清められるようなものではありません。罪は、人間の内部奥深くに巣食っているものであり、人間と神様との関係を破壊し、結果、人間の心身に死をもたらすものです。その罪を取り除くためには、小羊の犠牲の血が必要です。それも動物ではなく人間としての小羊、しかし、罪のない小羊でなければ、真の犠牲にはなり得ません。そこで神様ご自身が、罪なき神の御独り子を「世の罪を取り除く神の小羊」として世に送ってくださった。遣わされた。ヨハネ福音書が語っていることは、そういうことです。しかし、その様に神様に遣わされたイエス様が誰であるかを、本当の意味で知る人は多くない、いやごく僅かである。そのこともまたヨハネ福音書が語っていることです。

イエスを捜す

 二番目の問題は、そのことに関ります。過越祭に集まってきた人々は、「イエスを捜した」と記されています。この言葉は、七章にも出てきます。そこは過越祭に並ぶ大きな祭りである仮庵の祭りの場面ですが、その時イエス様は人の目には見えない形で祭りに上っていかれました。と言っても、変装したり物陰に隠れたりではなく、本質が見えないという意味だと思います。その時も既に、ユダヤ教の権威者たちは、できればイエス様を捕らえたいと願っていました。そして、「ユダヤ人たちはイエスを捜し、『あの男はどこにいるのか』と言っていた」のです。
 ここにも「どこ」という場所を表す言葉が出てきます。そして、その場所が分からないから捜すのです。このことの意味は深いと思います。表面的な意味では、ユダヤ人たちはイエス様を逮捕したいと思って捜しているのです。でも、イエス様がどこにいるか捜すということは、その内面において、本当のメシアを捜し求めているのです。自覚はしていなくても、私たちは誰もが救いを求めています。それは、罪によって神様との交わりを失い、エデンの園を追放された人間の現実なのです。これも実に皮肉な話なのですけれど、アダムとエバが禁断の木の実を食べ、神様から身を隠した時、神様から最初に言われた言葉、それは「あなたはどこにいるのか」です。罪人とは、実は神様に捜し求められる存在でもある。神との愛と信頼の交わりを捨て、失い、隠れて生きているからです。
七章でイエス様を捜しているのは、イエス様を逮捕できる立場にある人々であり、一一章の方は、民衆です。そして、その人々が、一二章九節に出てくるイエス様と同時にラザロを見に来る人々であり、また十二節以下でエルサレムに入っていかれるイエス様を熱狂的な歓呼をもって迎え入れる人々なのです。彼らはまさに、彼らが考える救いを求めているのです。そして、彼らなりにイエス様を信じている。しかし、その信仰は本物ではない。先週も語りましたように、イエス様が信用する信仰ではないのです。彼らは、程なくイエス様を「殺せ」と叫ぶでしょう。しかし、この段階では、人々が自分たちから離れ去ってイエス様を信じてしまったと思ってしまう祭司長たちは、イエス様を恐れる余り、ラザロをも殺そうと企むのです。イエス様を捜し求めつつ、イエス様を殺す。そういう矛盾を抱えた人間の現実が、「イエスを捜す」という言葉の中にはあると思います。

六日前の安息日

一二章一節に戻ります。「過越祭の六日前」とは、学者の計算で言うと安息日だそうです。ですから、その日の食卓は特別です。天地創造の最後の日、七日目の安息と祝福に満ちた日です。神がこの日を聖別されたことを覚え、神様を讃美しつつ礼拝をする日です。神様の臨在のもとで、祈りを捧げ、讃美を献げ、神様が与えてくださる食物を分かち合うのです。その食事そのものが礼拝行為なのです。だから、ユダヤ人は信仰を同じくしない異邦人とは食事をしない、出来ないのです。(私たちも、聖餐の食卓は洗礼を受けた者とでなければ一緒にすることは出来ません。)そういう食事において、イエス様に真の信仰を言い表したマルタが給仕をしているのだし、イエス様によって死者の中から甦らせたラザロがイエス様と共に食事の席についているのだし、マリアが献身の愛をもってイエス様に信仰の告白をしているのです。自分たちのために死に、復活して下さった主イエスに仕え、共に食し、自分の身を捧げる信仰告白をする。そういうキリスト者の礼拝の暗示、先取りがここにあると私は思います。

イスカリオテのユダ

しかし、その中に、「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダ」がいる。彼は、マリアを責め、貧しい人への施しをすべきだと主張します。貧者への施し、それはユダヤ教においても大事なものでしたし、初代キリスト教会においても極めて大事な業でした。そして、イエス様も大事なこととしておられたようです。
先週も読みました一三章は、ヨハネ福音書における最後の晩餐です。その席で、イエス様はユダが裏切ることをかなりはっきりした形で暗示されますが、他の弟子たちは、その意味がよく分かりませんでした。そこにはこうあります。
「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、『祭りに必要な物を買いなさい』とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」
ですから、ユダとしても、この時とんでもなく的外れなことを言ったつもりはないでしょう。しかし、彼がマリアの行為を受け止めておられるイエス様を見た時、彼は非常に激しい居心地の悪さを感じた。それは間違いないと思います。それは、イエス様が誰であるかが全く分からなくなったということだし、ある言い方をすれば、イエス様がにわかに遠い場所に行ってしまった。自分には全く手の届かない場所に行ってしまったと感じたということであり、それはイエス様の弟子である自分という存在が分からなくなった、イエス様の前に自分の居場所を失ったということでもあります。
しかし、ヨハネ福音書によれば、彼がかねてから金庫番をしつつも、その中身をごまかしていたとありますから、随分前から、彼の方でイエス様に背き、その前には立てない存在になっていたということであるかもしれません。その彼が、マリアの姿、圧倒的な愛と信仰をイエス様に捧げる姿を間近に見て心底焦った、苛立った。そういうこともあるように思います。
このユダに関して、多くの方が関心を持っていると思います。それは初代教会の頃からずっと続いていることです。ユダに関しては多くの文章が残っていますし、数年前にセンセーショナルな出来事であるかのように宣伝された『ユダの福音書』というものも、初代キリスト教時代に既に書かれていました。その書物に関する研究書によると、ユダは、イエス様を肉の束縛から解き放って、本来の姿に戻すために重要な働きをした「すべての弟子を越えた存在」として登場します。彼がイエス様の願いに従って行動したからです。一時的には裏切り者のレッテルを貼られるだろうが、将来的にはユダの方が他の弟子よりも上に立っているのだ、ということのようです。この書物の背景などについて、今、語る必要はないと思いますが、ユダへの関心は古代から今に至るまでずっと存在します。
ヨハネ以外の福音書においては、ユダは裏切りの対価として祭司長たちから銀貨を受け取ったことが記されています。ヨハネ福音書には、そのことは記されていませんが、金銭に対する貪欲さは、今日の箇所から伺うことが出来ます。しかし、問題は金銭欲からだけ、ユダはイエス様を裏切ったのかということでもあります。人間とはお金には弱い、お金をもらえれば恩師だって裏切るものだ。人間とはそういうものだ。ユダはその人間の代表だ。そう見ることも出来るでしょう。そして、欲に溺れてはならない。それが聴くべきメッセージだ、ということも出来るのかもしれません。でも、そうなのだろうか。

何故、ユダ・・・

私たちが感じている根源的な問いは、何故、ユダがイエス様の弟子にいるのか?というものでしょう。それは、何故、イエス様は彼を選ばれたのかという問いでもあります。選ばれた時は、こんな人間ではなく、イエス様に従っている間に、サタンにつけ込まれてしまったのか、それとも最初から悪魔なのに、イエス様は敢えて選ばれたのか?そういう問いがあると思います。他の福音書との詳細な比較をするゆとりはありませんが、ヨハネ福音書で最初にユダが登場するのは六章です。最初は匿名で「イエスは最初から、信じない者たちが誰であるか、また、ご自分を裏切る者が誰であるかを知っておられたのである」という形で登場します。しかし、その直後に、多くの弟子たちがイエス様から離れ去るのです。その時、イエス様は、十二人の弟子たちにこう言われました。

「あなたがたも離れて行きたいか。」

   シモン・ペトロが答えます。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 イエス様はこう言われました。
「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」

 そして、ヨハネが説明を加えます。
イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

 こういう厳しい対話の前に何があったかと言うと、イエス様が男だけで五千人の人々にパンを分け与えるというしるしがあるのです。そのしるしを見て、多くの人々がイエス様こそ、来るべきメシア、王だと信じ、そのようなものに祭り上げ様とした。その人々と弟子たちに向かって、イエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」とおっしゃったのです。すると、群衆はもちろん弟子たちの多くは「なんてひどい話だ。こんな話は聞いていられない」と言って立ち去って行ったのです。つまり、この十二弟子との対話は、私たちが年に十五回大切に守り、祝っている聖餐の食卓に関するイエス様の決定的な言葉が語られた直後の対話なのです。イエス様の肉であるパンと血であるぶどう酒を信仰をもって頂く、罪の赦しと新しい命、復活に至る命の糧として頂く者を「終わりの日に復活させる」と、イエス様は宣言されました。その時に、弟子たちの多くはイエス様を離れて行ったのだし、残った十二人の中のユダは裏切ろうとしていた。そして、そのことをイエス様は既にご存知だった。そういうことが分かります。
 今日の箇所も、食事の場面であり、それは同時にイエス様によって復活させられたラザロとの食事であり、本物の信仰において既に永遠の命を生かされているマルタやマリアと共なる食事という意味で、パンの奇跡から聖餐の食卓に至る六章とは密接な関係があり、その場面にユダが出てくることは、一三章の最後の晩餐の時にユダの裏切りが確定することと合わせて意味があることだと思います。食事(聖餐)、弟子、ユダ、裏切り、離反が密接不可分な関係の中にあるのです。
 イエス様の決定的御業が現れる時、イエス様が誰であるかがイエス様の言葉によって、あるいはマリアの行為によって明らかにされる時、人はイエス様に躓き、離れ、裏切っていくのです。
 しかし、その裏切り者ユダは悪魔であり、またサタンが入ったとも言われる。そのユダを選んだのはイエス様であり、イエス様はユダが裏切ることも、いつ裏切るかもすべてご存知の上で、金庫番を任せ、またずっと共におられた。それはどういうことか?裏切りは良くないことだから止めろと言ったわけでもない、彼を予め遠ざけたわけでもない。むしろ、最後には「しようとしていることを、今すぐしなさい」とまでおっしゃる。だとするなら、ユダ福音書ではないけれども、イエス様はむしろユダの裏切りを待っていた、あるいは利用しようとしたのではないか。もし、そうであれば、ユダは悪魔ではないし、サタンが入ったわけでもない。神様がユダにそのような役回りを与えたのではないか。ユダは被害者であって、悪いのは神様だ。そういう議論もまた、当然起こるわけです。
 この問は深くて、突き詰めていくと、底が見えない暗い闇の中に落ちていくことになります。私などが解答を言えるはずもないし、解答などというものがあるのかも疑問です。ユダを裏切り者、悪者、自殺して当然、永遠の滅びに堕ちたと言って済ませてしまいたいという思いが一方にあり、他方では、ユダは気の毒だ、神に選ばれて、とんでもない役回りを演じさせられてしまった。被害者はユダの方だと、免罪したいという思いが一方にある。ユダに関する古今東西の色々な文書を読み、また聖書を読むと、人は色々なことを考えていることが分かりますし、私も考えます。でも、結論なんてないのです。

神の業、人間の業 自由意志を巡って

 しかし、この問題を考える時に、私はエデンの園の物語を思い出すのです。あそこで何故、神は禁断の木の実を園の中央に生やされたのか。本当に食べさせたくなかったら、最初から善悪の知識の木など植えなければよいではないか。あるいは木の周りに有刺鉄線を張って電流でも通しておけばよいではないか。あるいは人の言葉をしゃべる(?)蛇などをうろうろさせなければよいではないか。そう思うのです。しかし、神様はその実を取る気になればいつでも取れるところに善悪の知識の木を生やされたのだし、人間の言葉を喋る蛇も創造されたわけです。「食べたら死ぬ」と言いながら、まるで食べることを望んでおられるような仕掛けをしているのです。
 その結果、エバもアダムも食べてしまい、たしかに善悪の知識を身につけて、裸では互いの前に立てず、神の前から隠れる人間になってしまった。しかし、そうなっても己の罪を認めず、居直る人間を神様はエデンの園から追放しますが、そこで生まれたカインとアベルの兄弟に対して、神様は非常に不公平なことをするのです。弟のアベルを顧み、兄を顧みない。そんなことをすれば、兄のカインが弟を憎むであろうことは分かるはずなのに、敢えて、そういうことを神様はする。その上で、「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」とカインに語りかけるのです。しかし、その言葉を聞いても尚、カインはアベルを殺してしまうのです。神様も力づくで止めるわけでもない。
 この二つの物語において、共通して出てくる言葉は、「どこにいるのか」であり、「なんということをしたのか」です。先程も言いましたように、アダムに対して、神様は「あなたはどこにいるのか」と尋ね、エバに対して「なんということをしたのか」と言われました。そして、カインに対しては「あなたの弟はどこにいるのか」と尋ね、「あなたはなんということをしたのか」とおっしゃった。私たちも、逆に、神様に向かって「あなたはどこにいるのか」「あなたはなんとうことをなさったのか」と問いたい思いもあります。
 この点について長く語る余裕はありません。言えることは、神様はご自身に似せて造られた人間に自由意志を与えておられるということです。そして、それは選択の自由ということです。食べることも選べるし、食べないことも選べる。殺すことも出来るし、殺さないことも出来る。そういう選択権を与えた上で、選択を迫る状況を敢えてお造りになる。そして、神の御心に従うことをお求めになる。少なくとも、そういうことは言えるのではないかと思います。選択の自由を与えた上で選択を迫る状況を作った神様が悪いのか。それとも、与えられた選択の自由の中で神の御心に背いた人間が悪いのか。そういう問題が、ユダの問題にもあるように、私には思えます。

罪人に対する神の業

 しかし、問題をさらに突き詰めていくと、神に背く罪を犯した人間に対して、神様は何をなさるのかということなのではないかと思います。罪を犯した人間は、それでもう終わりで、また神様の御心も人間の罪によって台無しにされてしまうのか、という問題です。
禁断の木の実を食べたアダムとエバに対して、「食べたら、必ず死ぬ」とおっしゃっていた神様は肉体的な意味では即座の死をお与えになりませんでした。弟アベルを殺すという罪を犯したカインに対しても、神様は死刑という罰をお与えにならず、生かし続けました。しかし、カインとその子孫は、自分が犯した罪を少しも反省せず、むしろ居直って行ったのです。暴力的性格を強めていきました。その様を見届けた所で、神様はアダムとエバに、再び新しい子を授けられました。(セトという名前は「授ける」という意味です。)そして、そのセトから始まる新しい系図を人類の歴史とされたのです。
 その歴史は、救い主なる神を捜し求める歴史だとも言えますし、罪によって神から隠れている人間を神が捜し求め、まだ食べられていない永遠の命の木が生えているエデンの園、パラダイスに招き続ける歴史とも言えるかもしれません。とにかく、私たち罪人は、罪を犯すことを楽しみつつ、実は、罪の赦し、罪と死の支配からの救いを求めるという矛盾を抱えながら生きている存在だと思います。そういう私たち人間一人一人を救い出すために、神の独り子である主イエスは、父の住いから私たちの世に来て下さったのです。それは、父なる神様の側からすれば、「独り子を与えるほど、世を愛された」ということです。決して手放したくない独り子を罪の世に引き渡してしまったということです。そして、イエス様にして見ると、ご自身を過越の小羊として、罪の贖いのいけにえとして、ユダを介して人間の手に引き渡すということなのです。

引き渡す

 ここで最後の問題に入りますけれど、今私は「引き渡す」という言葉を使いました。この言葉は、物凄く深い含蓄のある言葉なのです。ギリシア語ではパラディドーミという言葉です。ユダがイエス様を「裏切る」という場合の「裏切る」もまたパラディドーミという言葉が終始一貫使われています。もう時間がありませんから一つ一つを見ることはしませんが、ユダはイエス様を祭司長たちに引き渡します。それは神の選民であるユダヤ人に引き渡し、神の名によってイエス様が処刑されることを意味します。しかし、その祭司長たちはイエス様をローマの総督ピラトに引き渡すのです。それはイエス様が異邦人の代表に引き渡され、ローマ皇帝の名によって処刑されることを意味します。神の選民も異邦人も共に、神の子、メシアを殺すのです。
しかし、ピラトはイエス様に問います。「お前はどこから来たのか。」彼も分からないのです。イエス様が誰であるかが。そして、そのイエス様に犯罪を見つけることが出来ず、死刑にしたくないのに、かつて「ホサナ、主よ、救い給え」と熱狂して主イエスを迎えたユダヤ人の群集が「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と絶叫する様を前にして、自分の地位が危うくなることを恐れて、彼はイエス様を再び祭司長たちに引き渡すのです。それから、イエス様はピラトの部下である兵隊たちによって十字架に磔にされるのです。ユダヤ人の群衆、祭司長、ローマ人の総督、兵士、結局、すべての人間に引き渡されつつ、主イエスは十字架に磔にされます。
 そして、その十字架の場面は、ヨハネ福音書ではこうなっています。

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 この「息を引き取られた」は、「息を引き渡した」という言葉です。ここで人間の裏切り、責任転嫁の引き渡しは、神様への引き渡しに転換されています。これまで人間がやってきたこと、真のメシア、救い主を捜し求めつつ、そのメシアを殺してしまうという矛盾した人間の罪の行いのすべてを、イエス様は全身に受け止めつつ、その罪の裁きを受け、いけにえとして、自分の息を神様に引き渡されるのです。そして、私たち罪人をご自身の血によって清めて、神様に引き渡して下さる。そこに神の栄光、神の子の栄光が現れている。見える者には見える栄光、多くの実を結ぶために一粒の種が地に落ちて死ぬという栄光が現れているのです。
 そして、三日目の日曜日に、主イエスは死者の中から復活させられました。そして、裏切り、逃亡し、生ける屍となってしまった弟子たちが集まっている墓の中のような部屋に現れてくださいました。そして、「平和があるように」と語りかけ、命の息を吹きかけてくださったのです。(この「平和」という言葉は、毎週の礼拝において、私たちが派遣の言葉の中に聴いているものです。)土から造ったアダムを生きた者にするために神が鼻から命の息を吹き入れてくださったように、罪に死んだ弟子たちに命の息、聖霊を吹きかけ、全く新しい人間に造り替えてくださったのです。そして、罪の赦しと新しい命を与えてくださる主イエス・キリストを伝道するために、派遣をしてくださったのです。そこに現在に至るキリスト教会の誕生があり、今、私たちが捧げている礼拝もまた、その日に起こった現実そのものなのです。主イエスは、今日も、私たちに命の息を吹きかけて、新たにして、派遣してくださるのです。それが安息日の礼拝で起こることなのです。

聖餐 引き渡され、引き渡す主イエス

 私たちは毎月聖餐の食卓を囲みます。その時必ず読む言葉は、コリントの信徒への手紙に書かれている使徒パウロの言葉です。その言葉を教会は二千年間、聖餐制定の言葉として受け継いで来ました。言い換えれば、代々に亘って引き渡されてきたのです。その言葉は、こういうものです。

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

 御言と共に与えられるパンとぶどう酒は、パウロ自身が主から受けたものであり、その主はユダに代表される人間全てに十字架へと引き渡された方なのです。しかし、主はご自身を神に引き渡し、その神が主イエスを死者の中から復活させ、主は今も聖霊において生き、教会を体とし、御言葉と聖餐を通して復活の命を、私たちに与えてくださっているのです。私たちは与えられたその命を隣人に、そして次の世代に引き渡していくのです。それは世の終わりまで続く主の体なる教会の業です。その伝道の御業を主と共にする。その教会に主はおられ、その主がおられるところが私たちの居場所です。主と共に生き、伝道する教会こそ天国に至る門であり、神の家なのです。神様は、その家、天国に主イエスを通して私たちを招き入れてくださいました。イエス・キリストにおいてご自身を啓示された神様は、人間の罪、悪魔の業すらも、ご自身の救いの御業に変えて、今も世にあるすべての人々を救う御業を継続しておられるのです。それが神というものです。先程、交読詩編で読みましたように「あなたは偉大な神、驚くべき御業を成し遂げられる方、ただあなたひとり、神」と讃美すべき方なのです。私たちはその神の御業に与かることが許され、また命じられている神の子なのです。ただ、感謝し、讃美しつつお仕えする以外にないのではないでしょうか。

 
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