「一粒の麦は・・」
その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。 「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(以下、省略) 「絶えずずれる神と人」 先週は十二節から一九節までを「絶えずずれる神と人」と題して語りました。自分として、たしかに必要な説明はしたが、説教をしたのか、と何となく納得がいかない感じも残りました。するとある方が礼拝後に、「ヨハネはやはりなんか難しいですな」とおっしゃった上で、「今日の説教題を見て思ったんだけれど、『絶えずずれる牧師と信徒』というのもありますな」とおっしゃるので、「たしかに・・」とお答えすると、「『絶えずずれる夫と妻』というのもありますな」とおっしゃり、それも「たしかに・・・、深い・・」と思いました。私たちは、絶えずある種のずれの中を生きています。牧師と信徒は立場が違いますから、ある意味ではずれているのは当然のことであり、そうでなければ困るということがあります。牧師が信徒と同じでは困るし、信徒が全員牧師と同じでも困ります。牧師なんて教会にひとりいれば十分です。また、信徒も皆一致しているわけではなく、教会には絶えず多様な意見が混在していることも、当然のことです。イエス様は罪の贖い主としてキリストであるとか、洗礼を受けた者が聖餐に与るとか、そういうことにずれがあってよい訳ではありませんけれど、その他の事柄については、何もかも一致していないほうがよいにきまっています。そして、先週語ったことは、神様はイエス様のことを誤解している人間の愚かさや罪深さをも用いつつご自身の救いのご計画を進展させていかれる方なのだということでもあります。ずれている人間の思いを越えて御心を成し遂げていかれる。それが神様なのです。ずれている人間の思いを越えて御心を成し遂げていかれる、それが神様なのです。 終末の情景 先週の説教で、納得が出来なかったもう一つの理由は、時間の関係で語りきれないことがあったことです。そこで先週の週報では、今日は二〇節以下に入ると予告しておきましたけれど、もう一度、十二節から読み、納得した上で続きに入って行きたいと思います。 先週、私は主イエスのエルサレム入城の場面の旧約聖書の背景を語りました。ろばの子に乗る平和の王の到来を預言したゼカリア書やゼファニア書が背景にあること、さらに旧約聖書の続編にある「マカバイ記」を引用し、そこに登場するユダヤ人の英雄ユダ・マカバイオスが、なつめやしの枝を持って主イエスを迎える群衆の心の中にあることなどを説明しました。 しかし、イエス様のエルサレム入城と人々の歓呼の叫び、讃美は、過去の預言の実現とかマカバイオスのエルサレム入城と比べることが出来るとしても質を異にするものであるだけでなく、終末に実現することの暗示(予型)という面があるのです。この福音書と同じ「ヨハネ」という名前がつけられた文書が新約聖書の中にはいくつかあることはご承知のことと思います。三つの手紙と「ヨハネの黙示録」です。書いた人も書かれた時代もそれぞれ異なりますけれど、ある種の共通項があることは事実です。そのヨハネの黙示録七章九節以下にこういう言葉があります。それは、十四万四千人の人々が神の僕たちとして救いの刻印を押されたという叙述に続く場面です。 この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。 「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」 また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。 「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」 ここには国民、人種、民族、言語の違いを超えた数え切れない民が、手になつめやしの枝をもって玉座に座っている神と小羊に向かって、救いをもたらしてくださったことを讃美している様が描かれています。主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城される、それは十字架の死を経て復活し、さらに昇天して天の玉座に座ることに至る一連の御業の最初の業なのです。その最初と最後に、なつめやしの枝をもった群衆の歓呼の叫び、讃美がある。しかし、その讃美の対象が、最初に登場する人々と最後に登場する人々では、同じようで全く違うのです。エルサレム入城の主イエスを称えているユダヤ人たちは、主イエスがユダ・マカバイオスのように、ユダヤ人のための国家を作ってくれる王だと勝手に思い込み、また期待して讃美をしています。しかし、天上の玉座についている小羊を称えている人は、神の僕として刻印されたあらゆる国民、人種、民族、言語の違う民から集まった人々であり、小羊が犠牲の血を流して下さったこと、つまり、十字架の死を通して人間の罪を贖い、救ってくださったことを感謝し、讃美しているのです。つまり、罪と死に対して勝利した王を称えているのです。その続きに、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と言われています。つまり、彼らは迫害の中を主イエスに仕え、従うという信仰の道を貫いてきた人々であり、殉教者たちなのです。ユダヤ人の迫害、ローマ帝国からの迫害に耐えつつ、また世の誘惑にも打ち勝って、神の僕として主イエスに仕え、従ってきた者たちです。今日の箇所の言葉で言えば、「この世で自分の命を憎み」、主イエスに仕え、従ったが故にその罪を赦されて「永遠の命に至った」人々、天上で父なる神様に大切にしていただいている人々なのです。苦難を通しての勝利、悲嘆を超えた讃美にまで至った人々、それがここで小羊の血で洗われた白い衣を着た人々です。 私たちが、その人々の一人として、先日歌った讃美歌百三十番、「よろこべや たたえよや」を天国でも歌うことが出来るか出来ないか。それが私たちにとっての最終的な問題です。歌うためには、やはりイエス様とずれていては駄目なのであり、イエス様に仕え、従い、イエス様と共に生きることが是非とも必要になります。そのためにも、日曜毎の礼拝は私たちキリスト者にとって必須のものなのです。 先週語りたかったことは、このことですが、これから二〇節以下に入ります。 ギリシア人・弟子 「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。」 これはイエス様に敵対し、何とかして殺そうと思っているファリサイ派の人々の言葉を受けてのものです。彼らは些か自虐的に「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」と言いました。その時、彼らが言っている「世」は、ユダヤ人社会のことであり、そこに生きる人々のことです。しかし、ギリシア人とは、この場合、「外国人」(異邦人)の総称です。だから、ユダヤ人のみならず外国人までイエス様に会いたがるという現実は、ファリサイ派の人々が言っていることをさらに越えて、神様の救いのご計画が進展していることを表しています。 (ここに出てくるギリシア人たちは祭りに来たのですから、ひょっとしたら割礼を受けて改宗した人かもしれないし、割礼までは受けていないけれど、ユダヤ教に共感を示している外国人、使徒言行録に出てくるエチオピア人の宦官のような人かもしれません。その彼らが、礼拝するためにエルサレムに来たのに、神殿ではなくイエス様に会いに来る。そこに既に新しい世が始まりつつあることが暗示されていると思います。) ここで一つ注意しておきたいのは、イエス様に会いたいと願うギリシア人が、弟子のフィリポの許に来たということです。彼について細かく話すことは今日は控えますけれど、フィリポは主イエスから直接弟子に召された直後に、ナタナエルに「来て、見なさい」と言ってイエス様に引き合わせる役回りをしています。最初に弟子になった一人であるアンデレも、イエス様に会った翌日には、彼の兄弟であるシモン(ペトロ)に「わたしたちはメシアに出会った」と言って、シモンを主イエスのところに連れて行くのです。 つまり、主イエスの弟子とは、人をイエス様に紹介する人々でもあるのです。私たちも、誰か彼かから紹介されて教会の礼拝に出席するようになったのだし、誰かの執り成しや導きを通してイエス様に出会うことが出来たのではないでしょうか。そういう人々はこの時の弟子の働きをしているのだし、今、主イエスと出会い、信じている私たちがその弟子としての働きをしているのだし、その働きを期待されているのです。イエス様を人々に紹介する。それが伝道というものです。「礼拝に来てみなさい。来続けていれば、きっと分かる。」私たちは、何らかの意味で救いを求めている人に、こう言って伝道していますし、これからも伝道し続けていくのです。 イエス様の「答え」 イエス様は、弟子たちからギリシア人が来たことを知らされた時に、いきなり「人の子が栄光を受ける時が来た」とお答えになりました。はっきりと「お答えになった」とあります。でも、その後、イエス様とギリシア人が会ったとか、ギリシア人がイエス様に従うようになったという記述は一切ありません。この福音書にたまに起こることですが、話のきっかけになった登場人物が突然消えてしまい、誰に言っているのかよく分からないイエス様の言葉が出てくる場合があります。それは多分、この場面の登場人物にだけ聞かせたい言葉ではなく、この福音書の読者全てに聞かせたい言葉であることを強調しているのだろうと思います。 通常であれば、「そのギリシア人を連れてきなさい。私は会おう」とか「今は会わない」とかが「答え」のはずですけれど、イエス様はいきなり、「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃいました。これはつまり、十字架に磔にされる時が来たということであり、さらに復活し、天に引き上げられる時が来たということです。三二節で「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」とおっしゃっているように、十字架にあげられること、死人の中から立ち上がらせられること、天上に上げられることはすべて一つのことです。その一つのことを主イエスは「栄光」という言葉でおっしゃっている。そして、その栄光の姿こそイエス様が見て欲しい姿なのです。直近のことで言えば、イエス様の十字架、あるいは「十字架に磔にされる私を見て欲しい、その十字架において私と出会って欲しい。」そういう願いが込められた応答の言葉なのだと思います。 はっきり言っておく そして、「はっきり言っておく」とおっしゃいます。原文では「アーメン、アーメン、レゴウ ヒューミーン」「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。」本当に大切なことおっしゃるとき、主イエスはしばしば「アーメン、アーメン」とおっしゃるのです。そして、こう続けられました。 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」 この言葉は今月の聖句として表の看板にも掲げていますし、聖書の言葉とも知らずに世間では引用されたりもする言葉ですけれど、厳密な意味で、イエス様の十字架の死と切り離して使ってはならない言葉だと思います。多くの成果を得るためには誰かが犠牲になる必要があるとか、そういった一般的な意味で使われてはならない言葉だと思うのです。 麦は、パンが主食のユダヤ人にとって命の糧です。しかし、その麦が麦のままであればそれだけのことです。麦は粉にされて水を混ぜ、焼かれていくことによってパンになります。そういう質的な変化があって、初めて人の肉体を生かすものになる。そういう質的な変化も大事なことの一つです。 そして、ここで言われているもう一つのことは、一粒が多くの実を結ぶという量的な変化でもあります。質と共に量が劇的に変化する。その変化の中核に何があるか、それは一粒の麦が「地に落ちて死ぬ」ということです。種が種ではなくなるということです。イエス様が十字架に磔にされて死ぬのです。肉体が死ぬのです。しかし、そのこと抜きに、イエス様の復活はなく、天上でイエス様を称えることになる数え切れないほどの神の僕たちが誕生することもありません。 人の子 イエス様はご自身のことを「人の子」とお呼びなります。一般的には「人の子」とは「人」のことです。聖書でも、そういう意味で使われる場合があります。しかし、ユダヤ人にとって「人の子」とはもう一つ別の意味があるのです。それはダニエル書に出てきます。 夜の幻をなお見ていると、 「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り 『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。 諸国、諸族、諸言語の民が皆、彼に仕え 彼の支配はとこしえに続き その統治は滅びることがない。」 この幻は、エルサレムに入城されるイエス様の場面を経て、ついにヨハネ黙示録のあの天上の場面に繋がっていくことはお分かりいただけると思います。しかし、元来は雲に乗って神様ご自身から権威、威光、王権を受け、全世界のすべての民を永遠に統治すべき「人の子」が、今、地に落ちて死のうとしておられるのです。それはダニエルにとっても思いもかけないことであり、もちろん、当時のユダヤ人にとっては尚更思いもかけないことです。しかし、主イエスがご自身を「人の子」と呼ばれる時、それは天の玉座に座る存在であると同時に、その前に苦難を受けて殺される人の子、十字架を王座とする「人の子」のことなのです。この「人の子」こそ、神様が選民イスラエル(ユダヤ人)のみならず、全世界のすべての民を支配し、統治すべき者としてお立てになった人の子なのです。主イエスは、今、その王座に就く時を前にして、「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃったのです。 愛と憎しみ この世と永遠 主イエスは、一粒の麦として地に落ちて死ぬためにこの世に来られたお方です。それは、世の罪を取り除く神の小羊としてこの世に来られたということであり、それは十字架の上で罪の贖いのための血を流すために来られたということです。この十字架の主、十字架を王座として受け入れられた王、この方こそ、私たちが見るべき方なのです。この方を通して神様の権威、威光、栄光が現れたのだし、今も、実はこの方の支配は、罪ある人間の目には隠れた形で継続し拡大しているのです。そして、私たちキリスト者とは、この方を主君とする僕以外の何ものでもないことは言うまでもありません。しかし、残念ながら僕として生きていることがあまりに少ない。それもまた言うまでもないことでしょう。 主イエスは言われます。 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」 厳しい言葉です。私たちは決断を迫られることが苦手です。そこには選択があり、それは断念を意味するからです。マタイによる福音書の中に、イエス様のこういう言葉があります。 「だれも、二人の主人に仕えることは出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」 アーメンと言う他にない言葉です。しかし、私たちはこういう言葉は聞きたくありません。神も富も両方求めることが出来ると思いたいのです。この世の価値観に従った生活と信仰に従った生活は矛盾しないと思いたい。両方とも必要だし、両方とも好きだし、どちらかが完全になくなってしまうと、やはり困るからです。でも、そのように両方を並べて比べる秤そのものが、そもそも根本的な間違いであって、ずれまくっている証拠なのです。 「愛する」とか「憎む」と聞くと、極端な感じがして、抵抗を感じるということもあります。でも、それは私たちが愛したり憎んだりする立場に立った時の感じ方だと思います。よく加害者と被害者では、同じ出来事の受け止め方が全く違うと言われますし、それは事実だと思います。 加害とか被害とはちょっと違いますが、たとえば創世記に出てくるヤコブは初恋の女性であるラケルを愛し、無理矢理結婚させられた姉のレアのことをラケルほどには愛しませんでした。それはある意味、当然のことです。しかし、神様はレアが疎んじられているのを見て、レアにたくさんの子どもをお与えになった。「憎む」と訳される言葉は「疎んじる」とか「軽んじる」という意味でもあります。そして、レアにしてみれば、自分はヤコブから憎まれているように感じているとしても、少しもおかしくありません。一夫多妻の社会の中でちゃんと結婚生活をしていてもそうです。まして一夫一婦制が確立している現在の社会で、不倫だとか浮気といわれるようなことを夫なり妻なりがしている場合、しているほうは、伴侶も愛人も両方とも好きだ、大事にしていると言ったとしても、伴侶のほうにしてみれば、それは激しい侮辱であり、汚れであり、憎まれているとしか言い様がない仕打ちです。あれも愛しこれも愛すということは、現実にはあり得ません。 神の愛 私たちの愛 ヨハネ福音書には、「神はその独り子を与えるほどに世を愛された」という言葉があります。これは一身を捧げて愛することを意味します。そして、その独り子は、その愛を現すために一粒の麦となって死ぬのです。それが神の愛、独り子の愛、人の子の愛なのです。このように愛して下さっていることを知って、感謝し、イエス様をキリスト(メシア)として信じる者、それが私たちキリスト者です。だとするなら、私たちのイエス・キリストへの愛もまた、ただただイエス・キリストを愛し、一身を捧げてイエス・キリストに仕え、従って生きるということなのではないでしょうか。 マタイ福音書のイエス様の言葉で言えば、まず神の国と神の義を求めて生きるのです。他のものはすべて加えて与えられるのであって、第一義的に求めて生きるものではない、それなくしては生きていけないかのように求めるものではないのです。自分を生かすのはイエス・キリストを通して現された神の愛、私たちの罪を赦し、新しく神の子として生かすために死んで下さったという愛であって、富だとか地位だとか名誉などではない。そんなものを求めること自体が、神を疎んじ、軽んじ、憎むことになるのであって、それはひいては自分の命を失うことになるのだ。そういうことでしょう。 そんなことは洗礼を受けた時に重々分かっているはずのことだし、私たちは誰だってその時に、「主よ、終わりまで仕え奉らん」と誓ったはずのことです。しかし、私たちは気がつけば、この世における自分の命を愛し、この世に仕え、従い、本来慕い求めるべき永遠の命に至る道を歩いていません。この世の命とは原文では主に肉体的な命を表すプシュケーが使われており、永遠の命は霊的な命を表すゾーエーが使われています。プシュケーを本当の意味で生かすのはゾーエーなのであって、それを逆転させることが罪であり、その罪が死をもたらすのです。 仕え、従う喜び 「仕える」とか「従う」という言葉、これも自己中心に生きたい私たち、仕えるよりも仕えられる事を好む私たちが嫌う言葉だと思います。でも実は、本当は喜びと感謝に生きる道がここにあるのだと思うのです。 いきなり変なことを言うようですが、私は日曜日の夜、夕礼拝が終わって、戸締りをしてから夕食をとります。その時は、体も心もクタクタでありつつ最も高揚している時でもあるのですけれど、NHKの大河ドラマをどうしても見る気になれないのです。家族からは多少顰蹙を買っているのですが、くだらないお笑い番組を見てゲラゲラ笑っていないと、日曜日が終わった感じがしない。日曜日の夜に、ドラマを見て考えたり悩んだりしたくないとか、理由はいくつもあるのですけれど、そんなことをここで言っても仕方ありません。でも、ドラマその物は見なくても、テレビをつけていれば、番組の間にドラマの宣伝を見ることにはなります。今年は上杉家に仕えた家臣の物語で、私も一月には二回ほど家族に付き合って嫌々見たことがあります。その時、子役が、「わしは、ほんとうはこんな所に来とうはなかったんじゃ」と言う場面が何回かありました。その場面を見つつ、「私も本当は牧師になんてなりたくなかったんじゃ」と言いたくなりましたし、「こんな都会の大きな教会になんて来たくなかったんじゃ」と言いたくもなったりして、自分の願った方向にいけない定めの子役の台詞をしんみりとした思いで聞きました。今はその家臣が青年になっていて、愛の精神で主君に仕えているようです。その青年家臣が、主君に向かって、実に嬉しそうな顔をして、こんな台詞を言っている場面が宣伝で流されていました。 「拙者はこう見えても景勝様の家来でございます。ご主君が行かれる所であるならば、いずこにてもついて行くのが家来の務め。ご主君がおられるところには、わたくしめもいるのでございます。」 私は納豆かなんか食べながらその宣伝を見ていたのですけれど、なんかグッと来てしまいました。これこそ僕の喜びだ、と思ったのです。本当に心から愛する主君がいる僕は幸せです。その主君がいる所にはいつもいたい。その主君のためであるならば、喜んで自分の命を捧げたい。そう思える僕は幸いです。そして、実際にそのように生きることが出来る僕はさらに幸いです。それは、「こんな所に来たくはなかった」と思っていた時の自分は死に、「今はいつでもこの方と一緒にいたい」と思う自分、新しい自分になれた者の幸いです。 私たちの主君 「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 この命令と約束は、私たちのために死んでくださる主なるイエス様の命令であり約束です。私たちの主君は、まず私たちのために死んでくださるお方なのです。そして、復活し、私たちに罪の赦しと新しい命を与えようとしてくださるお方なのです。主君のほうが、私たちと一緒にいたいと心から願ってくださるのです。そのお方に仕え、従うこと、そこにこそ、与えられたものを大切に生かしていく唯一の道があるのですから、そこにどんな苦難があったとしても、それは喜び、感謝、讃美が満ち溢れる道なのではないでしょうか。 その道を歩き続けるために、主イエスはこの後、弟子たちの足を洗ってくださいました。弟子たちに仕えてくださったのです。そして、一四章では、弟子たちにこう語りかけられます。 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」 「わたしは道であり真理であり命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。」 何と有り難いことか、と思います。でも一五章では、先週も引用しましたが、こう語られるのです。 「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」 これが現実の私たちです。まさにそうなのです。私たちは何度も何度も、この世での自分の命を愛し、主イエスを憎んでしまうのです。それが現実です。でも、現実はそれだけではありません。そういう私たちを、それでも愛し続けてくださるイエス様が生きておられる。それも現実、いやそれこそが最大の現実なのです。それは「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」とおっしゃった主イエスの今の現実です。その現実は、これからも変わることはありません。そして、世の終わりには、自分に絶望し、そうであるが故に主イエスの愛にのみ希望をもって信仰を生き続けた僕たちは、天に引き上げられて玉座に座る小羊イエスに向かって、「賛美、誉れ、栄光、そして権力が世々限りなくありますように」と言って礼拝できるのです。それこそが最終的な現実です。私たちはその現実に向かって生きるように、今日も招かれています。「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」と祈り、賛美する礼拝に招かれているのです。ユダヤ人だけでなくギリシア人も招かれているのです。今のキリスト者だけでなく、すべての人が招かれているのです。世をあげて、主イエスを賛美する時、救いの完成に向かって招かれている。だから、私たちは今日もこの礼拝を通して、「この人を見よ」と主イエスを人々に紹介するのだし、この世においても、礼拝へと人を招き、「この人を見よ」と証しの生活をするのです。そこに主イエスの命令に応え、主イエスに従う喜びと感謝があるのです。その喜びと感謝を与えるために、主イエスは一粒の麦として、地に落ちて下さったのです。 |