「裁きと栄光」

及川 信

ヨハネによる福音書 12章20節〜36節前半

 

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
(一二章二七節〜三六節前半)

 私たちの人生、私たちの世界、それは実に不思議なものだと思います。現に見ているものが実は虚構に過ぎず、今正しいと思っていることが実は間違っている。勝っていると思っている者が実は負けている。そういうことに満ち満ちています。ヨハネ福音書を読んでいると、そういうことがよく分かります。そして、この福音書そのものが実に不思議なというか、奥深い書物であり、言葉の表面的な意味の奥に、あるいはそこに記されている表面的な事柄の奥に、全く別の、あるいはまるで正反対のことが起こっているのです。そのことを理解するためには、やはり聖霊の導きを祈りつつ丹念に読み、細心の注意を払って目を凝らし、耳を澄ませていくしかありません。今日もまた、ご一緒にこの福音書の広大にして奥深い世界に入っていきたいと思います。

「時が来た」

 ユダヤ人にとって最大の祭りである過越の祭りが近づいたある日、イエス様の許にギリシア人が会いに来ました。それは、イエス様の到来が、単に神の民イスラエルの末裔であるユダヤ人のために限られたことではなく、この世のすべての民のためであることを告げるしるしでした。だから、イエス様はギリシア人が来たことを弟子たちによって知らされると、即座に「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われ、その後に、この世における自分の命を憎み、イエス様に仕え、従うことが、永遠の命に至ることであり、この世における自分の命を愛する者は、その命を失うと言われたのです。ここにもある種の逆転、逆説があると思います。二〇節以降は、この言葉が何を意味するかを明らかにしている箇所だと思います。  一二章に入ってから何度も出てくる言葉は「祭りの六日前」とか「その翌日」とか日付を表す言葉です。一つの問題は「時」なのです。だから「今」という言葉も出てきます。そして、「栄光」。これらの言葉が「光のあるうちに、光を信じなさい」という結論に向かっているのだと思います。
イエス・キリストの受難と復活を記念する今日と来週の二回の礼拝において、この箇所の御言をご一緒に聞いて行きたいと思います。

  心騒ぐ

主イエスは言われます。

「今、わたしは心騒ぐ。」

 主イエスが、心を騒がせる。一般に、聖人とか言われる人は、何が起こっても怒りもせず悲しみもしない平常心を保つ人であるかのように言われますけれど、聖書を読んでいると、イエス様というお方は、そういう意味での聖人とはほど遠いお方です。怒りもすれば、悲しんで涙を流すこともある。皮肉も言えば、人を非難する言葉だっておっしゃいます。イエス様が「笑った」という言葉があるわけではありませんが、笑みを浮かべておられるだろうと想像できる場面はいくつもあります。
 そのイエス様が「心を騒がせる」という言葉は、他に二箇所出てきます。一つは、一一章ですが、そこには死んで墓に葬られているラザロという人をイエス様が復活させるという出来事が記されていました。その時、イエス様は悲しみに打ちひしがれて泣き続ける人々の中にあって、心を騒がせられた(興奮した。原語はタラッソウ)とあります。そして、その死の現実を撃ち破るべく、ラザロの墓に向かい、彼を墓から呼び出されるのです。それは、イエス様自身がこの後、十字架上で磔にされる死に向かい、墓に葬られ、そして甦ることと密接に重なる出来事でした。だからこそ、その時も主イエスは「もし信じるなら、神の栄光を見られると、言っておいたではないか」とおっしゃったのです。すべては信じることに掛かっているからです。
 もう一箇所は、この先の一三章です。イエス様が弟子たちと最後になる夕食を食べている時に、イスカリオテのユダの裏切りを告げる場面です。ユダは、その時既に、悪魔によってイエス様を裏切る思いを持たされていました。そういう悪魔の現実、あるいは悪魔に支配されてしまった人間の深い罪の闇を前にして、しかし、その闇の中に命の光を灯すために前進される時、主イエスは心を騒がせます。
 今日の場面でも、その二つの場面と直面している現実は同じだと思います。イエス様は、こう言われます。

「何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」

 主イエスは、罪と死の現実に直面して心騒ぐ思いの中で、ご自分が神に派遣されてこの世に来た目的を果たす決意を表明すると共に父なる神に祈られるのです。

「父よ、御名の栄光を現してください。」

これは、主の祈りの冒頭の祈り「御名を崇めさせたまえ」と同じことです。主イエスの贖いによって、主イエスと共に神を「父よ」と呼ぶことが出来る私たちの使命もまた、神の名の栄光が称えられるように祈りつつ伝道の使命に生きることなのです。そして、それは自分自身を神に献げる、献身することに他なりません。その献身を最初に、そして完全な形で成し遂げられたのは神の独り子である主イエス・キリストです。
主イエスが、この祈りを捧げると即座に、その場にいた誰にも分からない形で、天から声がありました。

「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

 ここで「栄光」という言葉について振り返っておく必要があると思います。この福音書で最初に「栄光」が出てくるのは一章です。一章は、イエス・キリストは天地創造の前から既に神と共におられた言としての神であり、人の命の光である。しかし、その方が神の独り子として肉体をもってこの世に来られた、人となったということを告げている章です。その一章の一四節以下に、私たちはその父の独り子としての栄光を見た。そして、この方から恵みの上に恵みを受けたのだ。神を見た者は一人もいない。しかし、この方こそが神を私たち人間に示してくださった方なのだ、という言葉があります。
 二章から、イエス様の公の活動が始まります。最初になさったことは、カナという町の結婚の祝いで、清めの水をぶどう酒に変えるということです。それは、罪の汚れから人を清めるためにイエス様が十字架の上で血を流されるということを示す「栄光」のしるしでした。以後、ラザロの復活まで「七つのしるし」を行ってこられました。そのすべてを通して、イエス様はご自身の死と復活によって罪の赦しと新しい命を与えるという神の栄光を現して来られたのです。しかし、それは先程のイエス様の言葉にもありますように、信じる者が見ることが出来るものであって、そうでない者には、ただ驚くべき奇跡に過ぎません。過越の祭りに向けてエルサレムに入城されるイエス様を歓呼の声で迎えた群衆もまた、そういう誤解をしていた人々です。ラザロとかマルタ、マリアの姉妹以外は、主イエスが罪を取り除く神の小羊として十字架の上で血を流すためにエルサレムに入っていかれることを知りませんでした。イエス様を信じた者しか、それは知り得ないことだからです。  しかし、時は来たのです。最終的に神の栄光を現す時が。これまでの「七つのしるし」が何を示しているかを現す時がです。そのことを、イエス様はこの時の「わたしは栄光を現した。再び栄光を現そう」という神の声で再確認されたのだと思います。しかし、これまで絶えずそうであったように、この声を聞いても、ある人は「雷が鳴った」と言い、他の人は「天使がこの人に話しかけたのだ」と言い、見方は分かれます。
 主イエスは言われます。

「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。」

 イエス様が神様と直接的に繋がっているお方であることを僅かでも分からせるために、雷のような音が人々にも聞こえたということだと思います。私たちは、突然の雷とか、陽射しとかに天からの声、メッセージを聞くことがあります。神が怒っているんだとか、祝福してくれているんだ。そういうメッセージだと受け止めることがあります。しかし、それが本当にそうなのかどうかは誰も分かりません。イエス様は、そのメッセージの内容について、こうおっしゃいます。

「今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

 栄光が現される時、それはこの世が裁かれる時、またこの世の支配者が追放される時であり、その一方で、それは、すべての人がイエス様のもとへ引き寄せられる時でもある。それは一体どういうことなのでしょうか?

表面と深層

 冒頭にも語りましたように、私たちが生きていて実感することの一つは、気づかない内に立場や事態が逆転しているということです。強かった者がいつのまにか弱くなっていたり、正しかったことが正しくないことになっていたりする。裁いていた者が裁かれたり、追放していた者が追放されたりする。そういうことはよくあります。「親の言うことが聞けないなら出て行け」と言っていたのに、「老いては子に従え。出て行くのはあなただ」と言われる立場になる。結婚した当時は亭主関白であったのに数年後には完全に妻の尻に敷かれている。それは、そうなっていく種を蒔いていたということです。そんな実を結ぶとは知らずに、私たちは様々な種を蒔いているものです。
聖書には、大工が無用だと思って捨てた石が実は建物の土台石になったとか、一粒の麦として死んだ種が実は後に多くの実を結ぶとか、そういうことが特に主イエスの出来事に関してしばしば書かれています。神様のご計画の実現というものは、いつも人間の予想や思いを越えたものなのです。今日の箇所も、そういうことと深い関連があります。

裁き

 「裁き」
という言葉が出てきます。この言葉を読んで思い出すのは、三章一六節以下の言葉です。それはこういう言葉です。

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」

 この「光」と「闇」に関しては、今日の箇所の最後にも出てくる言葉で、今日と来週にかけてゆっくりと考えていきたいと思います。神が独り子であるイエス様を世に遣わしたのは、世を救うためである。しかし、世に生きる人の中で、イエス様を信じる人と信じない人が分かれていく。その「分かれる」という言葉が「裁き」という言葉の元になるのですけれど、イエス様を信じないことでその人は自らに裁きを招いている。滅びをもたらしていると、聖書は語ります。そして、「信じない」とはつまり「憎む」ことなのです。
 私たちは誰だって何らかの意味で悪を行っている者たちです。後ろめたさを抱えている、あるいは叩けば埃が出る人間です。そういう私たちは、その後ろめたさや埃を意識させられることを好みません。そういうものを意識させられることが嫌なのです。聖書を読むとは、まさにそういうものを意識させられることでもあります。だから嫌だという面がある。「白日の下に曝される」という言葉があります。薄暗い中、さらに闇の中では、染みや汚れは見えませんし、埃のよごれも見えないけれど、真昼の太陽の光に曝される時、それらのものが見えてきます。見たくないものが見えてくる。だから、私たちは光を必要とし、求めつつも、恐れ、嫌います。憎むのです。そうして、自らを闇の中に置きたがる。闇の中の一種の居心地のよさに安住したがるのです。その闇の中に光が射して来ると、無意識の内に光を締め出そうとする。追放し、さらに抹殺しようとするのです。しかし、そうすることによって、実は、本来光がなければ生きていけない自分自身の命を殺してしまっている。しかし、その事実に気付かない。それが、聖書で言うところの「罪人」の現実です。そして、イエス様が「この世」とおっしゃる時、そこで語っていることは、その罪の現実なのです。光が来ることによって、罪自体が罪人である自分に裁きをもたらしてしまう。そして、その皮肉に私たちは気付かない。気付きたくないのです。

追放する

 「追放する」
という言葉があります。ここでは、主イエスがこの世の支配者を追放するという意味で出てきますが、この言葉がこれまでどういう形で使われてきたかを見ると、実に面白いことが分かります。
九章には、イエス様によって目が見えるようにされた盲人の話があります。彼は、イエス様を救い主として信じるようになりました。しかし、彼の親を初めとして当時のユダヤ人たちは、ユダヤ人社会の支配者であったファリサイ派の人々を恐れて、イエス様に対する信仰をたとえ持ったとしても告白することをしませんでした。もしそんなことをすれば、社会の中心である会堂から追放され、社会生活が出来なくなってしまうのです。しかし、癒された盲人は恐れることなく、ファリサイ派の人々の前でもイエス様は神様から遣わされてきた方であると信じるという告白をしたのです。そういう彼をファリサイ派は罪人として裁き、彼らの社会から追放し、社会的生命を抹殺しました。しかし、イエス様は、彼を見つけ出し、信仰を与えて救われるのです。
 その直後に、イエス様はファリサイ派に向かって羊と羊飼いのたとえ話をします。そこでイエス様はこうおっしゃるのです。

「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」

 ここに「連れ出す」という言葉があります。これが「追放する」という言葉と同じなのです。ファリサイ派の人々は、イエス様のこの譬話を聞いても「何のことか分からなかった」とあります。そうだろうと思います。
ここでファリサイ派の人々に言われていることはこういうことです。
「あなたがたは罪人を追放したと思っているのだろうが、実は、私が連れ出したのだ。闇の世界から光の世界に。死の世界から命の世界に連れ出したのだ。私の声を聞き、理解し、信じ、ついてくる者に、わたしは永遠の命を与える。しかし、私を信じない者は、闇の中に留まる。あなたたちは、自分たちは神のことを知っている、見ていると思っているが故に闇の中に留まるしかないのだ。」

地上から上げられる

世の支配者が罪人として抹殺した人を、イエス様は神の国の中に迎え入れる。救う。そういう現実が起こる。その時が今なのです。
 何故なら、イエス様が今こそ地上から上げられようとしているからです。「地上から上げられる。」その一つの意味は、イエス様が生きたまま釘で十字架に打ちつけられて死ぬということです。考えただけ背筋が凍るほど恐ろしいことです。その十字架の高さがどれ位のものであったか、それは分かりません。しかし、それは人々が見上げるものであったことは間違いありません。地上から上げられる。それは、ただ具体的に地上よりも高いところに磔にされるということに留まるものではありません。
 先程、「神は独り子を与えるほどに世を愛された」という三章の言葉を読みました。ここに神様の究極の愛が示されているのですけれど、その直前には、主イエスのこういう言葉があるのです。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

 紀元前十三世紀頃、モーセの指導によって奴隷とされていたエジプトから脱出することができたイスラエルの民が、荒野放浪という厳しい旅路の中で神様への不信仰を露わにすることがありました。せっかく奴隷の地から連れ出されたのに、「こんなことならエジプトに帰りたい」と文句を言ったのです。その時、神に送られた炎の蛇が彼らをかみ殺すという裁きが下されました。しかし、神は同時に青銅の蛇を旗竿の先に掲げることをモーセに命ぜられたのです。炎の蛇に噛まれた罪人が、その青銅の蛇を見上げるならば、神はその罪を赦し、彼らに命を与えようとされたのです。人間の不信仰に対する神様の厳しい裁きと恵みに満ちた赦しが、そのエピソードにおいて語られています。聖書の神様は、なんとかして罪人を赦し、命を与えようとされる恵みの神様です。
その恵みを、イスラエルの民の末裔であるユダヤ人に限定せず全世界の人々に与えるために、炎の蛇と同時に青銅の蛇、裁きと赦しの両方を独り子イエス・キリストに託して世にお与えになった。それが十字架に上げられる主イエス・キリストなのです。この方を見上げる者、つまり罪を悔い改め、赦しを信じて見上げる者、つまり礼拝する者はその罪が赦されて永遠の命を与えられる。しかし、信じることもなく見上げることもない者は、つまり礼拝することがなければ、裁きを自ら招き、その罪の内に死ぬ。肉体はまだ生きていたとしても、既に、その死の闇の中を滅びに向かって生きるだけだと、聖書は語っているのです。そして、それも単なる法則として語っているのではなく、「だから信じて欲しい、光を受け入れて欲しい、そして光の中を生きて欲しい」と語りかけているのです。

  引き寄せよう

 「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」
と、主イエスはおっしゃいます。この世に生きる人間はすべて罪人です。そのすべての人間の罪を、神は、この主イエスの十字架の死を通して赦し、永遠に生かそうとして下さっている。しかし、それも法則ではありません。あくまでも招きなのです。その招きに応えるか応えないか。主イエスを信じてその心と体に受け入れるか、それとも信じないか。それが命の光の中を生き、終わりの日の復活に向かうか、死の闇の中に生き、滅びに向かうか。あなたはどうするのだ。信じなさい、そして光の子として生きなさい、と主イエスは語りかけてくださいます。私は、その語りかけを、今日も告げ、そしてここに招かれているすべての人が信じて、主イエスのもとに招き入れられることを祈るほかありません。私が告げられ、また祈られたように。

信仰とは

 信仰というのは、やはり理屈ではありません。信仰は理屈で説明できる部分、あるいは次元がありますけれど、やはり現実に経験するしかないのです。学校というものも、現実に学校に入ってそこで学びの生活をしなければ、いくら書物で学校について学んでも実際には分かりません。社会人というのも、実際に社会で働くことによってしか分からないし、結婚生活だって同じことです。結婚を続けなければ、心も体も捧げあって生きるとはどういうことか分からないのです。そして、信仰とは十字架の上にご自身を捧げて下さった主イエスの愛を信じ、私たちも主イエスにこの身も魂も捧げて愛するということですから、やってみなければ分からないのです。学校に入ることも、社会に出ることも、結婚することも、よく準備をして、そういう時が来たならば決断してその世界に入ることが大事ですけれど、準備をいくら長くやり、本番さながらのリハーサルをしたところで、それはあくまでも準備であって本番ではありません。本番に臨まないのならば、ただ観察をしただけ、研究しただけのことです。信仰生活もまた同じで、いくら周囲から見ていても、実際のところは分かるものではありません。
 よく理解したから信じたり愛することが出来るわけではなく、信じ愛するからこそよく理解できるようになるのです。聖書の言葉はまさにそういうものの典型です。信じて読まなければ、そこから命の糧を得ることは出来ません。いくら読んでも自分の罪を知らされず、その罪を赦してくださる神様の愛を知ることが出来ないのは、信じて読んでいないから、愛して読んでいないからです。
そして、信じるためには、なによりも神の招きが必要です。神様の愛が、先にあるのです。私たちが先に神を愛し、信じるのではありません。神様が先に私たちを愛してくださっているのです。その愛が主イエスにおいて現れているのです。聖書はただただその愛を語っている神の言葉です。恵みと真理に満ちた神の言葉です。聖霊が与えられ、その聖霊を心を開いて受け入れる時、その言葉が分かります。その言葉を愛し、信じることが出来るようになります。
私は、その言葉を信じて生きています。そして、信じるが故に、自分の罪深さがよく分かります。毎週毎週、聖書を読みつつ、白日の下に曝されて、その汚れや埃を見させられています。それは辛いことです。でも、信じる前は、汚れも埃も何も見えませんでした。それは惨めなことです。この世を生きているだけでは何も見えないのです。まさに「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない」ものです。どこから来て、どこへ行くのか分からないとは、自分が何者であるかも分からないということです。でも、今は分かります。私は神様に愛されている罪人です。そして、神様に赦されている罪人です。イエス様は、その私のために十字架に上げられてくださいました。そして、今日も、私をこの世の闇の中から連れ出し、ご自身のもとに引き寄せようとしてくださっている。そして、その栄光を称える器として用いてくださっている。そのことがよく分かります。ただそのことが感謝なのです。嬉しいのです。

肉と血、パンとぶどう酒

 主イエスは六章でこうおっしゃっています。
「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」


私たちは、これから主イエスが備えてくださった聖餐の食卓に与ります。主イエスが地上から上げられたあの十字架の上で裂かれた肉、また流された血のしるしであるパンとぶどう酒を頂くのです。このパンとぶどう酒こそ、信じる者にとっては御言と共に命の糧です。この聖餐の食卓において、私たちは主イエスの命の中に生かされ、主イエスの命が私たちの中に生きてくださるのですから。これこそまさに神秘的な世界であり、目に見える世界の中に永遠の世界があるのです。この食卓を囲みつつ、私たちの目ははるかに天上に上げられますし、同時に、この地上で神の栄光が称えられることを祈るのです。
私たちキリスト者は、主イエスの声を聞き、ついていくことを決意した羊です。世の囲いの外に連れ出され、神の国の囲いの中に入れられ、主イエスに養われる羊です。主イエスは、今日も私たちを養ってくださいます。そして、今日もこの囲いの外にいる羊にも声をかけて下さるのです。まだその声を聞いても信じておられない方が、一日でも早く、神様に引き寄せられて信じることが出来ますように祈ります。

 
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