「死と栄光」

及川 信

ヨハネによる福音書 12章20節〜36節前半

 

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(二七節から)

イースターと教会

 今日は主イエスの復活を感謝し祝うイースター礼拝です。しかし、それは他人事のように主イエスの復活を祝うことであるはずもありません。主イエスの復活は、私たちのための復活ですから、主イエスの復活を祝い、記念するとは、即、私たちに新しい命が与えられたことを記念し、感謝することでもあります。そして、復活という限り、その前に死があるということ、そのことも忘れてはならないことです。
キリスト教会とは、この主イエスの復活を通してこの世に誕生し、二千年間生き続けてきており、世の終わりまで伝道の使命を果たしていくのです。ヨハネ福音書においては、特にその消息が明らかになっています。この福音書は不思議な書物で、二〇章で一旦終わりますが、二一章に復活の主イエスと弟子たちのその後の物語が追加されています。二〇章では、復活した主イエスが恐れに満たされて部屋に閉篭もっている弟子たちに現れた時、「平和があるように」と語りかけ、そして命の息としての聖霊を吹きかけられました。その上で、彼らを罪の赦しの福音宣教のために派遣されたのです。その一週間後の日曜日、疑う弟子のトマスの前に主イエスは現れ、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけられ、トマスは、主イエスの招きに応えて「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白しました。つまり、イエス様を「わたしの主」「わたしの神」として礼拝を捧げたのです。この二回の日曜日で起こったことが、私たちの礼拝の基礎になっていることは言うまでもありません。
主イエスはトマスに向かって、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃいました。これがこの福音書本文におけるイエス様の最後の言葉です。それは、肉眼では主イエスを見ることがない私たちに対する主イエスの招きの言葉でもあります。私たちは、毎週の礼拝において、この主イエスの招きに応えることを通して信仰を新たにされているのです。
付録の二一章に関しては後で触れますが、トマスに対する「信じる者になりなさい」という言葉が、ペトロに対する「わたしを愛しているか」となり、「わたしに従いなさい」という言葉になっています。内容は基本的に同じことです。信仰も愛も、結果として主イエスに従って歩むことに結実すべきことだからです。
今日の箇所の結論部分もまた、「信じなさい」です。今日の箇所は、イエス様の公生涯の結末です。この福音書は、結末にはいつも信じることが問題になっているのです。これ以後、イエス様は人々の前から身を隠して、もっぱら弟子たちにだけお語りになります。聖霊が与えられるまで分かりようがない言葉を、それでも弟子たちには封印するように語るのです。親は子どもに対して、大人になるまで分かりようがないことを、それでも子を愛するが故に「とにかく聞いておきなさい」と語り聞かせるものだと思いますが、主イエスも、そういうことをなさるのです。

「時」の中を「生きる」

今日は、前回触れながらも語り残したことに加えて、「どのような死を遂げるか」とか「光の内に歩きなさい」「光を信じなさい」という御言を聴いていきたいと思います。
主イエスは、ギリシア人が会いに来たことを知らされたその時に、「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃり、その締め括りに「光の子となるために、光あるうちに、光を信じなさい」とおっしゃいました。一つの問題は明らかに「時」です。主イエスは、いつまでも地上に肉体をもって生きているわけではありません。十字架に磔にされて死んでしまうのです。そのことを深く覚えることが求められているのです。しかし、同時に、私たちもまたいつまでも地上に肉体をもって生きているわけでもありません。そのことも深く覚える必要があります。
私の高校生時代に黒澤明監督の『生きる』という映画の上映がありました。その時既に何度目かのリヴァイヴァル上映でしたけれど、私は数日置きに四回も観ました。それは、いきなり胃癌の末期であることを知らされた市役所の市民課長のその後の生き様を描く物語でした。その映画のクライマックスは、それまでは無気力にただハンコを押すだけだった彼が、貧しい市民の陳情を受けて精魂傾けて作った小さな公園のブランコに乗りながら、実に嬉しそうに、ゴンドラの歌を歌う場面です。雪が舞い落ちる中、彼は「いのち短し 恋せよおとめ 朱き唇 褪せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを」と歌うのです。当時は十分に若く健康に恵まれていた私ですけれど、なんだか身に迫る思いでその場面を見続けました。そして、「このまま死ぬわけにはいかない。」強くそう思いました。当時の私は、生きている実感を持てぬ苦しみというか、そこはかとない空しさがあって、「このまま何もなく大学に行って、サラリーマンになって、老人になって死ぬなんて事だけは嫌だ。之に出会ったのだからもう死んでもよい。そういう何かに出会う前に死ぬのだけは御免だ。いつ死ぬかは分からないのだから、このままでは駄目だ。」普段からそう思っていたので、この映画の台詞を全部覚えてしまうほどに繰り返し観たのだと思います。
そういう私にとっては、幼い頃から聞いていた主イエスの様々な言葉は心惹かれる言葉であると同時に、「こんなものを信じてしまったら大変なことになる。自分のやりたいことなど何も出来なくなる」という恐怖を呼び起こすものでもあり、なんとも厄介なものでした。
しかし、それはとにかくとして、主イエスはここに至って、もう言葉や業を行うことは止めるのです。「これ以上何を語っても、何をしても、あなたがたが信じる気がないのであれば何の意味もない。」そう断言しておられるのだと思います。「信じないなら信じないでもよい。しかし、それは暗闇の中をどこに行くのかも分からずに歩き回り、そして、結局、完全な死の闇の中に落ちるだけのことになってしまうのだ。それでもよいのか?!よいわけがないだろう!信じなさい。」そうお語りになっている。聖書を読むということは、やはり恐ろしいことです。

裁かれ、追放されるのは誰か?

「今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

 「今」
とは、字義通りには、二千年前のこの季節のことです。主イエスは二千年前の春の祭り、過越の祭りの季節に十字架に上げられ、そしてさらに死人の中から上げられ、天に上げられて行かれたのですから。その時、世界の歴史は決定的に転換したのです。その時に、主イエスこそが神の独り子であることが明らかにされたのです。その時に、主イエスこそがこの世界の真の王であることが、神様によって明らかにされたのです。しかし、それは信じる者にとっては明らかなことであり、そうでない者にとっては、一人の犯罪者が無残に処刑された、あるいは一人のヒューマニストが、あるいは一人の革命家が権力者に殺されたということに過ぎません。しかし、そんなことは歴史上無数にあることです。数限りない犯罪者あるいは善良な人間、あるいは革命家が歴史の中で処刑されてきました。しかし、イエス・キリストだけが今も記念されているのだし、単に記念されるに留まらず、復活して今も生きておられる「主」「神」として礼拝されているのです。それもまた歴史的事実です。その事実は、私たち信じる者たちが延々と歴史の中で継続してきた事実であり、個人的には死の時まで継続し、教会としては世の終わりまで継続していく事実です。そして、私たちは天上においてこそ、真実に主の勝利をほめたたえることになります。信じる私たちにとって、十字架に上げられたイエスという人物は、永遠に世界を支配する、いや天地を支配するキリスト、メシア、王であり、私たちはこの方を賛美しつつ従っていく僕なのです。
 しかし、当時も今も「世」はイエス・キリストを裁き、追放しようとします。無用なもの、有害なものとして捨て去ろうとするのです。だから、裁き、追放する。そうすることが出来ると思っている。しかし、現実に起こっていることは、神様がイエス・キリストを通して世を裁かれたのです。そして、同時に世の支配者を追放されたのです。しかし、その後に、「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」という言葉が出てきます。裁かれ、追放される人々と引き寄せられる「すべての人」というのは、どういうことなのか。矛盾するではないか、と思います。字義に拘っていちいち「これは矛盾する」「これは矛盾しない」と言って評価するのもどうかと思いますけれど、ヨハネ福音書における「世」という言葉を少し考えておくことは必要なことだと思います。

ヨハネ福音書における「世」とは?

私たちが最初に思い出すのは一章の言葉だと思います。そこには、真の光が世に来てすべての人を照らしたのに、世の人々はその光を受け容れなかった、ということが記されています。世は元来キリストによって造られた被造物であるのに、その世がキリストを認めない、受け容れない。そういう矛盾があるということです。それが世の闇というものです。闇は光を理解しないのです。そして、その結果、自らを死の闇の中に閉じ込めている。そこに世の内部矛盾があります。
 しかし、私たちが忘れてはならない言葉は三章に出てくる言葉です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
ここには、神は独り子を受け容れない世を愛すると書かれており、また独り子を遣わしたのは世を裁くためではなく、世が救われるためである、と書かれています。こうなると、今日の箇所と字義の上では矛盾することにもなります。
 しかし、内部で矛盾した世をそれでも愛する神様の中には、ある意味では大いなる矛盾が存在するのだと思いますし、愛というものは、そもそもそういうものなのではないかとも思います。愛するに値するから愛するということもありますが、何故あんな人を愛するのか分からないけれども愛する。赦せない人をそれでも愛する、愛してしまう。そういうこともあります。それは合理的な考えではあり得ないことですけれど、理性だけで世の光、つまり神の愛を理解できるはずもないことです。
 しかし、理性で考えるべきこともあるので、もう少し考えておきたいと思います。イエス様が「世」という場合、それはある意味では「人」のことを指していると思います。しかし、同時に、その「人」を支配しているある勢力を指しているとも言えます。しばしば出てくる「暗闇」という言葉は、そういう勢力を現しているのではないかと思います。つまり、後にユダの心の中に入ったと言われる「悪魔」とか「サタン」と呼ばれるもの。さらに「罪」と呼ばれるもの。これこそ、世に生きる人間を支配している最大の力であり、主イエスが真っ向から戦いを挑んでいる相手です。そして、暗闇の中に永遠に輝く光となるべくイエス様はこの世に来られたのだし、暗闇の力と戦っているのだし、今こそ勝利をおさめる時だとおっしゃっているのだと思います。

裁きの逆説

 ですから、この福音書を読んでいくと、表面的にはイエス様は世の支配者たちによって裁かれ、また世の人々によって「十字架にかけよ。殺せ」と罵倒されつつ十字架に磔にされてしまうのです。目に見える事実としては、イエス様は確かに人に裁かれ、追放されます。そして、そのことは決して見落としてはなりません。しかし、実は、イエス様はご自分を裁き、追放する人々のために神様によって裁かれるのです。
 八章二八節で、主イエスは「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということが分かるだろう・・わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」とおっしゃいました。「わたしはある」とは、神様がご自身を啓示される時の名前です。つまり、十字架と復活のイエス様において神様がご自身を啓示されるのです。十字架の死とは、大祭司だとかピラトだとかいうこの世の支配者に裁かれて死んでしまうということではなく、そういう人を含めてすべての人間を支配している罪と死をイエス様が裁き、その罪と死の力に対してイエス様が勝利をされたことのしるしなのです。しかし、そのしるしは信じる者にしか見ることができないものです。

皮肉な預言

 だから人々は問い返します。

「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられねばならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」

 実に面白い言葉です。彼らはイエス様のことを全く分かっていません。しかし、まさに正しいことを言っており、そして本質的な問いを発してもいるのです。かつて大祭司カイアファが、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と言ったことが、彼の意に反して預言となっているということがありました。彼は、ただ自分たち支配者の地位の安泰のために言っているだけなのです。しかし、結果として、イエス様の死の本質を言っているのです。イエス様は彼が考える次元とは全く違う次元で、まさに民の代わりに死ぬのです。
それと同じ様に、イエス様はまさに救い主メシアとして永遠に共にいて下さるお方になるべく地上から上げられるのです。しかし、それはこの時の群衆が考える人の子、つまり栄光の雲に乗って天から到来するお方ではなく、十字架に上げられるお方として、世を支配するお方なのです。主イエスは、十字架に上げられることを通して初めて復活し、天に上げられ、神の右に座り、すべての人間を支配している罪と死、悪魔やサタンと言われる勢力を撃ち破り、暗闇の中に輝き続ける命の光として輝き続けるのです。しかし、その人の子の姿は、信じる者だけが見ることが出来るものなのです。

裁きの分岐点

 それでは、信じる者とそうでない者とはどこで分かれていくのでしょうか。先週、この「分かれる」とか「分ける」という言葉が「裁き」という言葉と同じであることを言いましたが、端的に言って、それは罪の自覚の有無だと言って良いと思います。主イエスの御言を聞くことを通して、自分の罪を知らされ、認めるか否か、そこに分岐点があります。光にさらされた時に自分が暗闇にいることを知るかどうか?そして、その闇から連れ出されたいと願うか、それとも光を締め出し、闇の中に留まりたいと願うか?そのことが分かれ目になります。それは自分に対する完全な否定を受け容れるか否かということでもあります。完全な否定を拒む限り、イエス様の姿は見えません。何故なら、イエス様こそ完全な否定を受け容れた方だからです。心騒ぐ思いの中で、自分の願いを完全に捨て、何もかも神様の御心に適うことを成し遂げていかれたからです。その究極が「地上から上げられる」ということです。

引き寄せる主イエス

 ヨハネは、「イエスは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」と書いています。この「どのような死を遂げるか」という言葉は、この後二回出てきます。一回目は、ユダヤ人の支配者たちが、自分たちには人を死刑にする権限がないと言って、ローマの総督ピラトにイエス様を死刑にさせようとする場面です。ローマの死刑のやり方が十字架なのです。これもまた深い意味があることですけれども、今日は二度目に出てくる箇所に注目したいと思います。それは先程少し触れた二一章です。
ちょっと脇道に逸れるようですが、最初に二一章の冒頭に出てくる場面から見ておきたいと思います。そこには、弟子たちがティベリアス湖で魚を獲る漁をする場面が描かれています。最初は全く魚が獲れないのです。しかし、夜明け頃に岸辺に復活の主イエスが現れ、舟の右側に網を打つようにと彼らに命じると、網を引き上げることが出来ないほどの大漁になったのです。一一節に、「シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった」とあります。この「引き上げる」は、十字架に上げられるイエス様がすべての人を「引き寄せる」という言葉と同じ言葉なのです。この後、主イエスは弟子たちと食卓を提供されたのです。
「百五十三匹」とは何を表すのかに関しては様々な解釈がありますけれど、当時地中海世界で知られていた魚の種類なのではないかという推測があり、私はとても心惹かれています。つまり、当時の世界中の人々が十字架と復活のイエス様によって引き寄せられていく、罪と死の世界、暗闇の世界から命の光の世界に引き上げられていく。困難が伴う弟子たちの伝道も、主の命令に従うならば、必ずそういう成果が与えられる。そういうことを、この記事は示しているのだと思います。

何に従って歩くのか

そして、その後に、イエス様がペトロに向かって「ヨハネの子シモン、この人たち以上に、わたしを愛しているか」と三度も尋ねられます。彼は、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と応えます。その都度、主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」とおっしゃる。そして、三度目はこう付け加えておられます。

「はっきり言っておく。(アーメン、アーメン、あなたに言う)あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

   「行きたいところへ行く」
は直訳すれば「望む所に向かって歩いていた」です。「歩く」という言葉が使われているのです。一二章で「光のあるうちに歩きなさい」と主イエスはおっしゃいました。この「歩く」という言葉は、しばしば弟子が主イエスと共に歩く、つまり、主イエスに従って行くことを示す言葉として使われます。一二章では、そういう意味です。真の光である主イエスに従って歩くことを人々に命じておられるのです。ですから、その言葉は、「光のあるうちに光を信じなさい」という言葉と同じ意味です。信じる者は僕として従う者、主イエスの後について歩く者です。
 ペトロの若いときは、自分の願望に従って生きていました。世の中に生きる人間として、それは当然です。誰だって願望があり、その願望に向かって生きているのです。その願望がなくなった時、人間は生命の危機に晒されます。しかし、実は自分の願望にしたがって生きること、そのこと自体も命の危機をもたらしているのです。何故なら、それは暗闇の中を歩いていることだからです。自分がどこへ行くのか分からずに歩いた挙句、結局その行き着く先は死だからです。
 私たち人間にとっての最大の願望、普段意識していなくても、実は心の奥底に抱え持っている願望は、自分の命を守りたいというものです。私の子どもの頃、洋物であれ邦画であれ、テレビで犯罪映画を見ていると、最初は、金は命よりも大事だみたいな感じでことに臨んでいた悪党が、追い詰められると、金をすべて捨てて逃げていったり、「金はここにある、命だけは助けてくれ」と命乞いをしたり、仲間を裏切ったりする場面がありました。そういう場面を見るたびに、私は子供心に、なんだ・・この人たちにとっても結局金より命が大事なんじゃないか・・とちょっと唖然とする思いがしたことを覚えています。なんやかんや言っても、人間は自分の命が大事なのです。
 ペトロもそうでした。主イエスに従っていればなんか得しそうだという思いが彼にもあったでしょう。だから、彼は主イエスに従ってきた。しかし、いざ主イエスが犯罪者として処刑されそうになった時には、つい数時間前には「あなたとなら一緒に死にます」と言っていたのに、三度も「あの人のことは知らない」と言って彼はイエス様を拒絶したのです。「一緒に死にます」という言葉だって彼の一つの願望の現れです。そこに嘘はありません。でも、人間にはその人自身も意識していない奥底の願望があります。そして、いざとなった時には、その願望に従って生きるものです。
「あの人のことは知らない」。これはペトロ自身も知らない彼の願望、いや人間の本質を表す言葉です。そして、人間はこの本質に従って歩きます。その行き着く先、それがあの部屋です。裏切り者である弟子たちがユダヤ人を恐れて鍵を締め、窓も締め切った真っ暗な部屋です。罪と死の暗闇に覆われたあの部屋なのです。死ぬに死ねず、生きるに生きることが出来ない。そういう状態の中にうずくまるしかない。そういう人間が集まった部屋。そういうものがあります。会社だって家庭だって、そういう部屋である場合はいくらでもあるし、この世というものがそういうものだとも言えるのではないでしょうか。少なくとも、ヨハネ福音書は、この世をそういうものとして見ています。
 そういう部屋に、つまりご自分を裏切り、見捨て、逃げ去った者たちが集まっているその部屋に、生きることも死ぬことも出来ず闇の中にうずくまっている者たちが集まっている部屋に、復活の主イエスが現れ、「平和があるように」と語りかけ、命の息を吹きかけてくださった。それがイースターにおいて起こったことです。そして、その後、イエス様は弟子たちに伝道を促し、食卓をもって励まして下さいました。その上で、三度、ペトロに「わたしを愛するか」と問われたのです。そして、愛を告白するペトロに、「年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」とおっしゃった。この姿は、まさに犯罪人が腰に縄をかけられて処刑場に連れて行かれる姿です。ヨハネは、続けます。

「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに『わたしに従いなさい』と言われた。」

  どのような死を遂げるか


一二章には、こうありました。
「イエスは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」
 ここでイエス様の死とペトロの死は、重なっていくのです。彼が、復活の主イエスの招きと命令に応えて、自分の行きたい所に行く歩みを止める時、自分の願望に従って生きていたかつての自分を完全に否定して、ただただ主イエスに従って歩くことを始める時、彼の生も死も、神の栄光を現すものとなっていくのです。「あの人のことは知らない」と言っていたペトロが、「あの方こそ生ける神の子キリストです。私たちはそのことの証人です。信じる者は救われます。信じて洗礼を受けなさい」と伝道する新しい人間に生まれ変わっていく。それが復活の主イエスと人間が出会った時に起こることです。
伝説によれば、命をかけて伝道を続けた彼は、ローマで逆さ十字架にかけられて殺されたことになっています。彼は、その時、イエス様と同じ十字架なんてとんでもないと固辞し、自ら逆さ十字架の刑を望んだと伝説は伝えます。イエス・キリストに従って歩かなければ、彼は故郷のガリラヤで漁師として平和に暮らし、長生きをすることが出来たでしょう。彼も一度はそのことを願ったのです。でも、復活の主イエスを目の当たりにし、その手の釘跡を見、わき腹の槍の刺し傷を見、その平和を告げる言葉を聴き、命の霊を吹き込まれた時、そして、「あなたはわたしを愛するか」と問われ、「わたしの羊の世話をしなさい」と命ぜられた時、彼の奥底の願いが根本から変わった、変えられたのです。彼は自分の命を自分で守って生きていきたいという願望を捨て、主イエスに従っていきたい、主イエスに命を捧げたい、生きるも死ぬも主イエスが崇められるためという生き方をしたい。そう願う人間に造り替えられたのです。それが主イエスの復活、イースターで起こったことなのだし、今も起こることです。

主に従う諦めと喜び

 この世を上手に生きる上で、信仰は邪魔です。信仰を生きようとすれば、この世の価値観とは様々なことでぶつかります。そして、何よりも自分の願望とは絶えず衝突を繰り返します。だから、いつも自分の内で矛盾が生じ、敗北感に打ちひしがれるのです。
 また私事で申し訳ないのですけれど、二週間前の説教でNHKの大河ドラマの「本当は、こんな所に来たくはなかったんじゃ」と涙を流しながら呻く主人公の少年の話をしました。そして、私も牧師になんてなりたくはなかったんだとか、大都会の大きな教会になんて来たくはなかったんだとか、言いました。これは本当のことです。ただ、私の場合は、信仰を生きるということが、どうしてもこういう形をとる他になかったので、本当に嫌だったのですけれど、牧師になってしまった。ならされてしまったんです。まさにイエス様によって腰に縄をつけられて無理矢理神学校に入れられたというのが実感です。神学校時代は、こうなった以上は牧師になるのは仕方がないにしても、幼稚園のある教会と夕礼拝のある教会にだけは行きたくないと思っていました。でも、最初の任地は東京の住宅街にある幼稚園付きの教会でした。私は毎朝、幼稚園の送迎バスの添乗員をやることになり、当時は顎髭も口髭も生やしていたのですけれど、私の顔を見て「どっちが頭か分からない」とビックリして大泣きする園児をあやしながらバスに乗せることが仕事の一つでした。そこでもとても楽しい日々があり、深い交わりを会員の方たちと与えられてきたのですけれど、ある時突然、全く思いもよらない形で、また不本意な時期に松本の教会に行くことになりました。今度は、美しい自然と小さな教会の深い交わりの中に生かされ、伝道も進展し、ずっとここにいたいと思い始めた時に、私の不徳の致すところと、やはり神様の憐れみに満ちたご計画の故に、大都会の大教会、そして夕礼拝もちゃんとある教会で牧師の仕事をすることになってしまったのです。最初は泣きそうでしたけれど、今は慣れてきて、楽しく仕事もさせていただき、仕事の合間には都会ならではの楽しみも味わわせていただいています。しかし、妻ともよく話すのですが、「こうやって喜んでやっていると、また生木が裂かれるような思いでこの教会から引き離されて、今度は過疎の村の消滅寸前の小さな教会に行かされるに違いない」と思って、恐怖に怯えたり、なんとなく楽しくなったりするということがあります。もう、どうにでもしてくれ、私の人生は私の自由にはならないという、諦めと喜びの両方を感じます。そして、ここにいる間にも青学短大の非常勤講師だとか西南支区副支区長だとか、教会以外にも色々と責任ある仕事が否応なく入って来て、それぞれ意欲を持ってやれば意味のあることであり、楽しくもあるのですけれど、とにかくどんどん忙しくなり、「教会のことだけやっていたい」という私の願い通りには全くなりません。
 しかし、私たち信仰者というのは、そういうものです。皆さんもそれぞれにご経験があると思います。私たちは、自分の思い通りに生きることは、やはり断念せざるを得ないのです。でも、それこそが実は解放です。自分の我執から解放される。肉の欲から引き離されることです。肉の欲とは、結局、自分の安逸を求めることだし、自分の栄光を求めることでもあります。自分を愛し、自分で自分を守り、自分で自分を生かそうとする。しかし、そんな生き方の果てに何があると言うのでしょうか。つまらぬ自己満足か絶望かしかないのです。
しかし、主イエス・キリストに愛され、主イエス・キリストを愛し、主イエス・キリストに従って生きる生と死は、神の栄光を現すことが出来る生と死です。私たちはそうやって生き、死んだ数多くの信仰の先輩を知っています。そして、私たちもそれぞれ小さな器ですけれど、キリストの命の光を盛って頂いた器として、神の栄光を表す器なのです。器が輝く必要はないし、輝いてもなりません。器に盛られたキリストが輝くことだけを願って生きればよいのです。私たちはこの世に属し、従っていた自分が死ぬ時にこそ神の栄光を表すことが出来るのです。死んでこそ、新たに生かされるのです。そして、その命は永遠の命であり、終わりの日に御国において復活させられる命なのです。その命への招きを、今日も私たちは聞いています。
「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
 信じましょう。そして、従っていきましょう。

 
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