「誰が信じるというのか」
イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。 「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。 神と人 信仰による繋がり ここ数回の説教の中で語ってきたことの一つは、私たち人間が見ている現実は、いつも部分的限定的であり、そして一時的なものに過ぎないということです。そういう意味で、神と人は絶えずずれていますし、人と人もいつもどこかでずれているものです。そして、見ている現実には必ず裏あるいは奥があり、さらに逆転もある。今信じていると思っている人が実は奥底では信じていなかったり、将来全く信仰を捨てるという場合もあります。逆に、今信じていない人もまた心の奥底では信仰を求めており、将来信じるようになるかもしれない。そういう不確定性というものが、私たちの人生あるいは世界にはあります。そして、そういう人の世に、旧約聖書において預言されていた主イエスが、預言の実現として来られたということ、また世の終わりに再び到来すると預言されて天に上げられたこと、そして「天地は滅びる。しかし、私の言葉は一点一画すたれることはない」と宣言されたこと、その主イエスの言葉を二千年を経た今、現代に生きる私たちが聞いているということ、それは不確定性の中に揺るぐことなく確定した言葉、存在があることの証拠なのだと思います。そして、信仰とは、その確定した存在、しかし、それは死んで固まってしまった事実としてではなく、死を越えて生き、働いておられる存在と結びつくということだと思います。 その信仰を与えられることと、信仰を生きるとはどういうことなのか、それが今日の箇所の問題なのだと思います。 それでも語る 「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。」 これ以後四三節までは、この福音書を書いたヨハネによるイエス様の公生涯の総括と言って良いと思います。そして、四四節以降は、表面的な文脈で言えば、大声で叫んで語りかけるべき群衆は目の前にいないはずなのに、「イエスは叫んで言われた」とあります。そこには、イエス様自身の言葉による総括が記されていると思います。そして、一三章以後、イエス様はもっぱら弟子たちにだけ語りかけるのです。最早、公に多くの人に語ることをしない。その意味は先週語りました。そして、また弟子たちに語ると言っても、イエス様自身が、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」とおっしゃっています。つまり、聖霊が与えられるまでは、理解できない。信じることが出来ない。そういう言葉を、それでも語る。受け入れられない言葉、拒絶される言葉を、それでも語る。そういうイエス様の姿が、そこにはあります。しかし、それはそこにだけあるのではなく、実はこれまでのすべてがそうなのだ、とヨハネは語っているのだと思います。 身を隠すイエス イエス様が人々の前を立ち去って「身を隠す」ということは、これまでもありました。「わたしはある」と言って、ご自身が神であることを宣言するイエス様に石を投げようとする人々の目の前から立ち去って身を隠した、と八章の終わりにあります。そして、これまでも何回か、人々はイエス様を捕えようとしましたが、その時は、「イエスの時はまだ来ていなかったから」という但し書きがついていました。しかし、今回は、まさにその時が来たからこそ、身を隠されるのです。「人の子が栄光を受ける時」、「人の子が上げられる時」が来たのです。つまり、ユダヤ人に逮捕され、ローマ人に十字架刑を言い渡され、すべての人によって十字架に上げられ、処刑される時が来たのです。その前に、弟子たちに語りかける、その言葉と業をもって語りかける、そしてイエス様が誰であるかを彼らに示す、分からないだろうけれど、示しておく。そういうことをなさる。それが一三章以降に記されていることです。 彼らは信じなかった このイエス様の公生涯の総括において記されることは、「彼らはイエスを信じなかった」ということです。「彼らはイエスを信じなかった。」 しかし、一一章のラザロの復活の後、「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」とあり、エルサレム入城の時は大群衆が歓呼しつつイエス様を迎え、その様を見たファリサイ派の人々が、「見よ、なにをしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」と語り合ったとあります。それだけ見れば、多くの人々がイエス様を信じたかのようなのです。たしかに、自分の思いとしては信じたのでしょう。しかし、人間の思いなど、まことにあやふやなものです。どうにでもなります。イエス様は、最初から、「しるしを見て信じる人間の信仰を信じなかった」とありました。今日の結論部分で、ユダヤ人社会の支配者層である議員たちの中にも、イエス様を信じる者はそれなりにいたとあります。しかし、彼らの信仰は、この世における自分の誉れ、名誉を失ってまで主イエスに対する信仰に生きるというものではありませんでした。彼らの信仰とは、心の中での淡い憧れのようなものですから、この世における地位や名誉をかなぐり捨てるようなものではないのです。つまり、彼らは実は信じてはいない。イエス様から見れば、またこの福音書を書いたヨハネから見れば、彼らもまた「信じなかった」のです。 人間の不信仰に直面する。それが、イエス様の公生涯の結末です。その現実の中でのイエス様の叫び、それが、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである」というものです。イエス様を信じるとは神を信じることであり、それはまたイエス様が神と一体の交わりを生きる神であることを信じることなのです。しかし、その信仰は、まさに人間業ではありません。人間が持とうと思って持てるものではない。そういう意志の問題ではない。それでは、何なのか? 究め尽くせないもの ヨハネ福音書は、いつもそうだと言えばそうなのですが、今日の箇所は特に、少なくとも私にとっては様々な意味で実に難解です。その難解さの一つは、イエス様自身が行われた多くのしるしを見ても、人々が信じないという現実をどう理解したら良いのか?というものです。そしてそれは、イエス様がなさった多くのしるしを見た人も信じないとすれば、そのしるしを言葉によって書いたり、語ったりして伝わるはずもないではないかという思いにも繋がります。さらに、それは伝道することは意味があるのかということにもなる。しかし、そうは言っても、何故か信じる人々もおり、それを伝える人もいる。信じる人と信じない人、どうしてそういう違いが出るのか?その違いを生み出すものは何なのか?そういう問題にもなっていきます。この問題を突き詰めていくと、どうしても神の選びの問題になりますし、神の歴史支配の問題にもなります。つまり、人間業ではなく神業の神秘の業に行き着かざるを得ないのです。しかし、それは私たちが考えて分かるようなものではないことも事実でしょう。 アウグスティヌスという人は、この箇所の説教において、究めつくせないものを究めることを私に求めないようにと聴衆に向かって語りつつ、こう言っています。 「わたしは自分の小さな物差しを知っており、またわたしはあなたがたの小さい物差しを察しているように思う。この事柄は、私の背丈よりももっと高く、わたしの力よりももっと強い。あなたがたについてもそうだと思う。それゆえわたしたちは共に聖書が諭していることに耳を傾けよう。」 と言って、旧約聖書続編にある「シラの書」の言葉を引用します。 「力に余ることを追い求めるな。また手に負えないことを探求しようとするな。」シラの書3:21 しかし、それでも「隠されているもので露わにならないものはない」と、主イエスはおっしゃっているのだから、私たちもそれぞれ達し得たところに従って前進するしかないし、神様が何らかの仕方で現してくださるだろうと期待する言葉を述べています。私も同じ心境です。とにかく、祈りつつ御言を読んで、語るしかありません。 苦難の僕の歌 ヨハネは、イエス様の多くのしるしを見ても人々が信じなかったことに、預言者イザヤの言葉の実現を見ています。この預言の、特に四〇節以下に引用された言葉は、マタイ福音書やマルコ福音書においては、イエス様自身の言葉の中に引用されている言葉ですし、困難な伝道をしている初代教会においても極めて重要な言葉だったのだと思います。 最初に出てくる言葉は、「苦難の僕の詩」として有名なイザヤ書五三章の書き出しの言葉です。このイザヤ書五三章を、ある人は「旧約聖書の最高峰の言葉」と言いますが、この言葉を初代教会はイエス様の受難を預言するものとして受け止めており、極めて大切な言葉であることは、間違いありません。 少し抜粋しながらお読みします。 「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。 主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。 ・・・ 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。 ・・・・ わたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。 ・・・・ 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。 ・・・・ 主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。 ・・・・ 多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」 この僕が、自分たちの罪を背負い、自分たちの身代わりに神の裁きを受け、罪人のための執り成しをしてくださったことを、いったい同時代の誰が信じたというのか。そして、いつの時代でも、この僕のことを知らせる言葉をいったい誰が信じるというのか?そういうことを歌っている詩が、この詩です。 この苦難の僕と同じ様に、イエス様の真の姿、その御業の真相は、誰が信じ得ようかと言うべきものであって、ほとんど人間には不可能なことなのだ。ヨハネはイザヤの預言を引用することを通して、そう言いたいのだと思います。 これまでも何度も語ってきましたように、イエス様がエルサレムに入ってこられる姿を見て、「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」と歓呼する群衆の心の中にある王、メシア、救い主とは、圧倒的な力をもって外国の勢力を追い払い、民族国家を樹立し、経済を繁栄させてくれる王のことです。もちろん、神の民イスラエルですから、その王は神の御心に従って、その支配を確立する王でなければならないと考えてはいる。しかし、その神の御心が、実は、人々の罪をすべて一人の人間に負わせて裁き、そのことを通して人々の罪を赦すことにあるなどとは考えようもないことなのです。それは、イザヤの時代もイエス様の時代も同様です。そしてそれは現代でも変わることはありません。その現実、変わることのない現実をヨハネは指摘します。人は誰も、自分が罪人だとは思わず、思わないから罪の赦しを自覚的には必要とせず、必要としないから期待はずれのメシア、王は追放し、抹殺する。その事実はいつの時代も変わらない。 しかし、自覚として必要としていなくても、必要であることはいくらでもあります。自覚としては食欲がなくても体は栄養を欲している。自覚症状としてはどこも悪くないけれど、体の中には癌細胞が増大している。そういうことは誰にでもあることです。自覚と現実はしばしば異なるものです。 神が見えなくする? ヨハネは、さらにもう一つのイザヤの言葉を少し自由な形で引用します。 「彼らが信じることが出来なかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。 『神は彼らの目を見えなくし、 その心をかたくなにされた。 こうして、彼らは目で見ることなく、 心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。」 端的に言えば、神様が人々を信じなくさせて、その故に、彼らを癒さない、つまり裁く、ということなのではないでしょうか?不信仰の原因を神様が造り、その不信仰の結果である裁きを神様が与える。だとすると、人間はどうしたらよいのか?神様の矛盾、あるいは悪意としか言い様がないではないか?そう思います。しかし、そうなのでしょうか? この言葉は、イザヤが預言者として立てられた時に神様から言われた言葉の自由な引用です。イザヤ書の六章にあります。その時、イザヤは神殿で主の栄光を見て、裁かれることを恐れるのです。罪人は主を見ることは出来ないからです。しかし、主によって炭火が唇につけられる。当然、その部分は火傷をしたでしょう。主は、そのことを通して彼の唇を清め、彼の罪を赦し、主の言葉を宣べ伝える預言者としてお立てになりました。しかし、それは彼の言葉を通して民が罪を悔い改めるためではなく、むしろ「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないため」だ、と主は言われる。普通、預言者とは、民を悔い改めさせ、神によって癒されるために遣わされるのに、イザヤはむしろ逆の目的で、遣わされる。しかし、彼は民を間違った方向に導くような言葉を語るのではなく、神の言葉を語るのです。神の言葉を語ることで耳を鈍く、目を暗くさせ、その心を頑なにさせていくというのです。そんなことなら、いっそ預言者など遣わさなければよいのに、しかし、神様はそのことのためにイザヤを遣わします。 彼が「いつまでそんなことが続くのか」と問うと、神は「大地が荒廃して崩れ去るまでだ」とお答えになり、さらに(新共同訳では括弧が外されていますけれど)、「切り株(だけ)が残る」、「その切り株とは聖なる種子である」とおっしゃる。つまり、主の言葉自身が徹底した裁きをもたらし、その裁きの果てに、新しい命を与える。切り倒された大木の株から、一本の若芽が出るように、死の中に小さな一つの命を宿らせる。そういう徹底的な審判と新生をもたらす言葉を、主はイザヤという預言者を通してお語りになるのです。 イエスの栄光を見た イザヤは紀元前八世紀の預言者です。そのイザヤが、「イエスの栄光を見た」と、ヨハネは言います。何故、紀元前、つまり、イエス様がこの世に誕生する前の人間がイエス様の栄光を見ることが出来るのか?通常の感覚で考えればあり得ないことです。この点については、ヨハネ福音書の冒頭の言葉、つまり、「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という言葉から、創造以前に既に神と共におられた神、キリストの栄光、神学的には「先在のキリストの栄光」と言いますけれど、その栄光をイザヤは見たのだという解釈があります。そういう所にヨハネの信仰の特質があるのだ、と。「それもそうかな」と思います。でも、私はなんか違うという感じもします。少なくともそれだけではないと思います。 私は、イザヤ書五三章との関連で考えるべきだと思います。つまり、誰も信じることが出来ない苦難のキリスト(メシア)を通して、実は神の栄光が現れ、メシアの栄光が現れているということです。現代の学者は、苦難の僕が描かれているイザヤ書四〇章から五五章までを、イザヤとは違う時代の無名の預言者の言葉が集められている「第二イザヤ」と名付けていますし、私もそのことは賛成します。しかし、ヨハネはそんなことは考えておらず、同一人物だと考えているはずです。そのヨハネが、イザヤの二つの預言を引用し、イザヤは「イエスの栄光を見た」と言う時、それは苦難の僕の中に実は神の御心の実現、一人の人の死を通してすべての罪人の罪を赦し、新しい命を与える救いを成し遂げるという御心の実現を見たということだと思います。そして、紀元前八世紀にも、ヨハネの時代にもほとんど誰も分からなかったことです。しかし、ヨハネにとって、イエス様はまさにイザヤが預言した苦難の僕なのです。切り株から出てくる芽、いや人々の罪の故に切り倒されるという裁きを自ら受けたが故に、その株から新しい若芽として復活し、切り倒されてお終いとなるべき罪人たちに新しい命を与えるメシアとなる。そういうお方なのです。しかし、そのお方の到来を告げても告げても、その言葉は無視され、誤解され、拒絶されるだけです。ただ、ごく僅かな人々、聖なる種子として選び立てられたごく僅かな人々にだけ、封印されるようにして、その言葉は受け入れられ、受け継がれていく。だから、やはり主の言葉を語らなければならない。そのために派遣されなければならないのです。 賜物としての信仰 主イエスご自身が既にそうなのです。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と一章には記されています。しかし、その民のところ、ご自身が創造し、生かしておられる民の所に行くことが言として生きるキリストの使命なのです。拒絶される言、拒絶される光、拒絶される永遠の命として、主イエスは肉をとらねばならない。人間となって人間に語りかけ、人間となって人間の罪の贖いとして、人間に殺されなければならない。しかし、実はそのようにして神に裁かれ、その実、人間の罪に対する神の裁きを貫徹しなければならない。そのようにして神を現す、神の愛、神の栄光を現さねばならないのです。しかし、その愛、その栄光を見ることが出来る者はごく限られた者なのです。 イエス様自身が、こうおっしゃっています。 「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」 「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることは出来ない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」 「わたしのもとに来る」とは、イエス様を信じて、従うということです。しかし、その信仰は、神様が人に与えてくださるものなのです。苦難の僕こそが救いをもたらすメシアであること、十字架に上げられた方こそが実は救い主であることを信じ、その主に従うという信仰は、神様の賜物なのであって、私たちが自分の力で獲得するものではありません。だから私たちが今、こうして主イエスを礼拝できるということは、まさに神様の恵みとして与えられていることで、ただただ感謝と讃美を捧げる以外にはないことなのです。「誰が信じえようか」と言うべき知らせを、私たちは聖霊を与えられることを通して信じることが出来るようになり、そして、この信仰の道の中に永遠の命があることを、まさに体で感じ取ることが出来ます。これは、やはり奇跡と言うべきことです。 そして、その奇跡が、先週語りましたように弟子のペトロに起き、他の弟子たちにも起き、またパウロにも起きていくことを通して、神の言としてのキリストは、その人々の命の代償として宣べ伝えられ続けたのです。彼らは、それぞれキリストに帯を締められ、自分では行きたくない所に行かされ、語っても語っても拒絶される言葉を語り続け、そして、殉教することを通して神の栄光を現していきました。そのようにして語られてきた言葉が書かれていき、聖書となり、今もキリストを語り続けているのです。 裁き・招きの言葉 そして、聖書の言葉は、まさに裁きの言葉です。救いと滅びを分ける言葉なのです。この先の四七節でイエス様がこうおっしゃっています。 「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」 主イエスご自身が神であり、その言葉は神の言だからです。その言こそ命であり、光だからです。その命の光を受け入れなければ、自ら死の裁きを下すことになってしまう。そういう言として、キリストは今もこの世に来ておられ、闇の中の光として輝いておられるのです。そうして、今、この礼拝堂にいるすべての方が、その光の前に立っているのです。神様に招かれているからです。そして、三六節にありますように「光のあるうちに、光を信じなさい」と言われている。世の誉れではなく、神からの誉れを求め、世における自分の命を憎み、主を愛し従う道を選びなさい、と言われている。そこにこそ、永遠の命があるのだ、と。 私が語れること、語らなければならないことは、このことだけだと思います。あとは、ただ神様に祈る以外にはありません。私たちすべてが信じることが出来るように聖霊をお与えください、と。世の終わりの日まで、一人でも多くの人々が、この永久に変わることのない主の言葉を信じることが出来ますように、と。 ルカ福音書の言葉ですけれど、主イエスはこうおっしゃっています。 「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」 また、ヨハネ福音書でもイエス様は、「父が、わたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とおっしゃっています。だから、私たちは絶えず新たに主の言葉を聞き続け、聖霊を求める以外にありません。そして、主イエスの言葉は、すべて必ず実現し、世の終わりの日には、その確かなことが明らかにされます。その確かさに支えられ、導かれながら、不確かな私たちは、今日からも不確定な世の中で、確固たる救い主、イエス・キリストを証しして歩めますように祈ります。 |