「イエスを信じるとは」

及川 信

ヨハネによる福音書 12章 44節〜50節

 

イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

 公生涯の総括

 いよいよ一二章の終わりまでやってきました。一三章からは一六章までは、ひたすらイエス様と十二弟子との問答であり、一七章はその全体がイエス様の祈りです。そして一八章以降はイエス様が逮捕され十字架に磔にされ、復活される出来事が記されていくことになります。
 これまでも何回か言って来ました様に、今日の箇所は、イエス様の公生涯の締め括りの箇所です。公に活動される最後の場面です。しかし、三六節で既に、イエス様は群衆の前から立ち去って、「身を隠された」 とありました。三七節以下は、福音書記者ヨハネによる総括です。そして、その総括は、人々は「イエスを信じなかった」 というものです。ですから、直接群集に向けて語られたイエス様の最後の説教は、「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」 という言葉でした。その言葉を受けて、ヨハネは、「彼らはイエスを信じなかった」 と記し、旧約聖書のイザヤの預言を引用したのでした。イザヤが神の言を語れば語るほど、人々は不信仰に陥り、裁きを招くことになる。しかし、その徹底的な裁きの果てに、切り株から新しい若枝が出るように新しい命が誕生する。イザヤの預言はそういうものでした。そして、その切り株から出てくる若枝は、罪人の罪を人知れずその身に負って、神に裁かれ、その裁きを通して赦しをもたらす神の僕、苦難の僕としてのメシアです。しかし、そのメシアを「一体誰が信じ得ようか」とイザヤは語りました。そして、ヨハネは、イエス様を信じることも、人間的な力によっては不可能であることを示すために、このイザヤの預言を引用しているのだと、私は思います。
 そのことを受ける形で、今日の箇所があります。その書き出しはこういうものです。

 イエスの叫び

「イエスは叫んで、こう言われた。」

 近代の学者は、叫んで語りかけるような群衆はここにはいないし、ここで語られていることは基本的にすべてこれまで語られてきたことだから、この箇所は、元来、他の箇所の続きにあったはずだと言って、順序を入れ替えたりする人もいます。しかし、私はそんなことを考える必要はないと思います。ヨハネ福音書の面白さ、深さが、こういう所にあるのだと思うからです。
 ヨハネ福音書は、いつも過去にイスラエルの地で生きておられた人間イエスを語りつつ、絶えず今も生きておられるイエス・キリストを語っているのです。つまり、この福音書を読む最初の読者に対して、また、今この福音書を読んでいる私たちに対してイエス様が叫んでいる。そのことを明らかにするために、群衆も誰もいないという設定の中で、イエス様の叫びが出てくる。そして、その叫びは、これまで為さってきたこと、語ってきたことが何であるかを明らかにするためのものなのです。そういうものとして、私たちはこの叫びを聴くのです。そして、その叫びを聴いて、その上でどうするかで、聴く者たちの間が分かれていく。そういう裁きの言葉が、ここにはあります。
 叫ぶ、ということは誰にだってしょっちゅうあるわけではありません。しょっちゅう喚いている人はいても、叫んでいる人はいません。イエス様が叫ぶ。それはどういう時なのか?まず、そのことをきちんと見ておく必要があると思います。これまでに二回、イエス様は叫んでおられます。
一回目は七章二八節です。そこはイエス様の出自が問題となっている所です。出自、どこの出の者か?それは、その人が誰であるかを表すことです。仮庵の祭りにエルサレム神殿に集まった人々は、イエス様の出身地がナザレであることを知っている。しかし、メシアというのは、出身がどこかが分かるような方ではなく、もっと秘密めいた方なのではないかと議論していました。その時、神殿の境内でイエス様が「大声で言われた」(叫んだ)とあります。

「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」

この言葉が、今日の箇所とピッタリ重なることは一目瞭然です。イエス様は、神様に遣わされてきた方なのです。本当の出身地は、地上のどこかではなく、天なのです。そのことを知る。それが、イエス様が誰であるかを知ることです。そして、イエス様が天から派遣された方、神から派遣され、神の命じるままに語り、御業をなしておられることを知る、信じる所にこそ、私たちの救いがあるのです。その救いを与えるために、イエス様はご自分が誰であるかを叫ぶのです。救助を求めて「助けてくれー」と叫ぶのではなく、自覚として救いを求めていなくても、救いを必要としている人々を救うために叫ぶのです。
もう一箇所も七章ですが、三七節です。水と光の祭典と呼ばれる仮庵の祭りが最高潮に達した「終わりの日」 に、イエス様は立ち上がってこう叫ばれました。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 この場合も、イエス様は渇きに苦しんでいる人を救うために叫んでおられます。人は水がなければ生きてはいけません。イエス様も、十字架上で「わたしは渇く」 とおっしゃって、息を引き取られました。そして、この水とは、聖霊のことであると、ヨハネは注釈をつけています。十字架に磔にされたイエス様のわき腹を兵士が槍で刺した時、血と水が流れ出たとありますけれど、その水も、聖霊のことだと私は思います。永遠の命を与える聖霊です。様々な意味で「終わりの日」 に与えられる命の水としての霊。それは信じる者に与えられ、信じる者を通して流れ出るのです。
 この二箇所に共通している問題は、イエス様は誰であるかということと、イエス様を信じるとはどういうことかです。今日の箇所で、そのことがこれ以上ない形で出てきます。

 宗教と科学

「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。」

 つまり、イエス様を信じるとは神様を信じることなのです。また神様を信じるとはイエス様を信じることでもあります。イエス様を通して神様はご自身を啓示されたからです。
私たちキリスト者は天体や、大いなる自然を見て、そこに神の御手の働きを見ることはあっても、そこに神ご自身を見るわけではありません。お天道様、お日様、お月様は、私たちキリスト者にとっては神ではなく、神の被造物だし、ご神木と呼ばれるような木はありません。私たちに神様を知らせてくださったのは、真に人であり真の神であるイエス様だけです。この方だけが神を見、そして神の声を聞き、その声に従って生き、死に、甦り、今も生きて下さっている独り子なる神です。この方を知る、つまり信じる、愛する、交わりを持つ、ただそこに私たちの命、永遠の命があるのです。 私が言っていることは、あまりに抽象的、概念的、あるいは空想的でしょうか?
 四月から青山学院女子短期大学の講義が始まり、次第に創世記一章の話に入り始めています。そこで科学と宗教の違いを話すことは避けて通れません。私なりに一生懸命に話します。私は科学と宗教そのものが対立するとは思いません。少なくとも、聖書の天地創造物語が、私たちが考える意味での七日間で万物が神の命令で出来上がったと語っているとは考えない私にとっては、宇宙は何十億年もかかって現在の形になっていると仮説を立てる科学は、面白く興味深いものです。人間の先祖が猿だったと言われても、そのことと聖書の人類創造が矛盾するとは少しも思いません。聖書は聖書として語り掛けたいことがあるのです。しかし、天地創造にしろ人類誕生にしろ、私たちが見ることが出来るものではありません。誰も天地創造を目撃した人はいないし、人類誕生の場面を見たことがある人間などいるはずがないのです。それは科学者においても同じことです。誰も見たことはないのです。しかし、最近は進化論が提出された当時よりも飛躍的に天体の誕生や、生命の誕生また種の起源について分かってきました。しかし、それは電子顕微鏡とか高性能な望遠鏡とか様々な精密機器によって見えるようになったことで、一般に生きている私たちの大半はそんなものは見たことがない。でも、私たちは科学者が言うことを信じている。少なくとも宗教家が言うことよりも確かなこととして信じているのです。学生たちの感想文を読んでいると、つくづくそう思います。彼女たちは、高校の教科書に僅かに書いてあるひとつの学説、仮説を信じており、そのことの故に、私が私なりに懇切に聖書と自然科学の次元の違いを語っても、それを同列に並べて「世界が七日で出来たなんて信じられない。私は科学が言っていることを信じる」というような感想を書く学生が何人かいます。つまり、それは科学を信じているということなのでしょう。科学を信じるとはまさに矛盾だと思いますけれど、そういうものが浸透していることがよく分かるのです。

 「見る」こと

 私が何故、こんなことを言うのかと言いますと、今日の箇所には「見る」という言葉が出てくるからです。今日の箇所に出てくるだけではありません。実は直前の箇所に出てくるのです。

「神は彼らの目を見えなくし、
その心をかたくなにされた。
こうして、彼らは目で見ることなく、
心で悟らず、立ち返らない。
わたしは彼らを癒さない。」
イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。
 
 そして、今日の箇所でイエス様はこうおっしゃっている。

「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」

 「わたしを信じる者」「わたしを見る者」 は明らかに並行関係にあり、同じ意味です。ここに出てくる「見る」 が、いわゆる肉眼で見えるものを見るという意味ではないことは明らかです。神様がイスラエルの人々の目を見えなくした、というのは肉眼を見えなくさせることではなく、心を頑なにするということです。そして、イエス様が地上に誕生するずっと前の預言者イザヤがイエスの栄光を見たとは、単に予見するという意味でもなく、むしろ惨めに死んだ人間の中に神に遣わされたメシアの栄光を見るということを表しているのではないでしょうか。
 また現在の私たちがイエス様を見ることは、肉眼という意味ではあり得ないことです。それは叫びを聴くということに関しても同じです。誰も、視力や聴力をもってイエス様の姿を見たり、その叫びを聴いたりするわけではありません。イエス様が肉体をもって生きていた当時の人々だけが、イエス様を見たりその言葉を聴いたりしたのです。しかし、その「彼らは信じなかった」 のです。そして、ヨハネ福音書に出てくるイエス様は、特にこの箇所で叫んでおられるイエス様は、特定の人々に向かって、「わたしを見る者は」 と言っておられるわけではありません。イエス様の肉体を肉眼で見ることなど最初から不可能な人々に向かって、「わたしを見る者は」 とおっしゃっているのです。それは一体どういうことなのか?ここで「見る」とは自然科学的な意味での見ることとは根本的に異なることです。

 説教において起こること

 私は説教の最初の方でしばしば「今日も御言に目を凝らし、耳を澄ませていきたい」と言います。皆さんは、その言葉をどうお聞きになっているか分からないのですけれど、御言に目を凝らすとか耳を澄ませると言っても、具体的にやっていることは、私が持っている聖書という書物に印刷されている文字を一生懸命に読むということです。辞典や参考書や他の牧師の説教などを読んだりもしますが、そういうことをすれば自動的に語るべきことが見えてくるわけでも聞こえて来るわけでもありません。
 印刷された文字を読むことを通して、最終的には、イエス様が、私自身に語りかけて下さっている、そして私を通して明日の礼拝で皆さんに語りかけようとしているもの、与えようとしているものはこれなのだ、とリアルに迫ってくるものがないと、説教は出来ません。そのリアルに迫ってくる感じ、ここにイエス様がいてくださって、わたしの目を開き、わたしの耳を開き、そして心を開いて、その言葉を悟らせてくださる。そういう瞬間がないと説教が出来ない。説教は説教にならないのです。そして、私という人間が語る説教を聴く皆さんもまた、やはり文字になっている聖書が人間を通して語られる時に、イエス様自身がこの時この場で自分に罪の赦しを、愛を、信仰を、希望を、新しい命を与えてくださっていることをリアルに感じる時に、説教は説教になるのです。そのことがなければ、説教はお話、講演、講義に過ぎません。日曜日の礼拝でなくとも、聞けることなのではないでしょうか。しかし、私たちは今礼拝しているのです。今この場に生きておられるイエス・キリストの言葉を聴き、その御姿を見て礼拝し、そのことを通して神を崇め、賛美しているのです。それは、ただ聖霊の導きの中で信じる者において可能なことなのであって、そうでない者にとっては、一つの宗教儀式、延々と繰り返されてきた伝統的な厳かな行事ということなのではないでしょうか。
 たしかに、イエス・キリストはキリスト教という宗教、またその宗教儀式があろうがなかろうが、生きておられるお方です。しかし、イエス・キリストは、目に見ることが出来るキリスト教という様々な問題を抱えた宗教的形態をもって伝えられてきたお方なのです。つまり、見える形を通して伝えられてきた見えないお方なのです。その見えないお方を、見える形の中に見ることが出来るか否か、見える形を通して伝えられてきたキリストを信じることが出来るか否か、すべてはそこに掛かっているのです。そこには、しかし見えない聖霊の働きが不可欠です。

 光と暗闇

 イエス様は続けてこうおっしゃいます。

「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として来た。」

 この光と暗闇は、群衆に語りかけた最後の説教の主題です。この言葉もまた深い象徴性があります。暗闇とは見えないものです。見えないから闇なのです。だから暗闇の中にいる者は、「自分がどこへ行くのか分からない」 とイエス様は言われます。しかし、光もまたある意味で見えないのです。光だけの世界は現実にはありませんから、私たちは経験していないのですが、私たちは光があるから見えるものを見ているわけで、光そのものを見ているわけではないと思います。私たちがお互いに顔を見ることが出来るのは、光があるからです。でも、光を見ているわけではありません。そして、一章の冒頭で、世が造られる前からあった言は神であり、言の内には命があり、命は人間を照らす光であったとあります。そして、光は暗闇の中で輝いている。けれど、暗闇は光を理解しなかった、とあります。「理解する」 とは直訳すれば「捉える」 ということです。手中に収めることです。命とか光は、私たちが捉えることが出来るものではありません。命を科学は説明できません。心臓を取り出して、これが命だというわけにはいかないのです。心臓は臓器の一つに過ぎません。光を手にとることも出来ない。命も光も、私たち人間が作った訳ではないし、操作も出来ません。肉体的生命や天体としての太陽ですらそうです。まして、霊的命、霊の光はなおさらです。それは、私たちの所有物ではないし、私たちの肉体的感覚を越えています。そういうもので捉えることが出来るものではありません。ただ信仰によってのみ捉えることが出来る。いや信じる者が霊的命、光に捉えられて生きることが出来るのです。

 とどまる

 イエス様は、「信じる者が暗闇の中にとどまることがないように、光として来た」 とおっしゃいました。皆さんも実感されたことがあると思いますが、洗礼を受けてクリスチャンとして歩み始めた時、はっきりと分かることは、それまで自分が生きていた世界は暗闇であったということです。暗闇から出た時、出された時、初めてそのことが分かる。そういうものです。そこにはネオンの輝きはあった。この世の名誉もあった。それらのものを追い求めていた。でも、そこには永遠の命などどこにもなかった。命を照らす光などこの世にはない。命を捨てて愛し、復活して永遠に共に生きてくださる方の愛を信じ、その方を愛して生きることが出来る喜びなんて、そこにはなかった。そのことを、私たちは洗礼を通してはっきりと知らされるのではないでしょうか。洗礼を受けるとは、そういうことであるはずだし、そういうことであらねばならない、と私は思います。
 もちろん、私たちはその信仰と愛を自ら裏切り、忘れ、イエス様を悲しませること度々だし、自分でも悔いること度々です。でも、こうやって日曜日ごとに主イエスに招かれ、足の汚れを洗い清めて頂き、命の言葉と命のパンとぶどう酒を与えていただく恵みに与かることが出来る。本当に尽きることのない主イエスの愛に包まれる。その時、私たちは最早「闇の中にとどまる」 ことはありません。迷いこむことはあります。でも、留まり続けることはない。私たちは光あるうちに光を信じて光の子として歩むために信仰を与えられ、今もその信仰を養われているのですから。すべては、主の恵みの故ですから、主に感謝し賛美しましょう。

裁き

 主イエスは、この後、裁きについてお語りになります。三章で、光が来たのに人々は闇を好んで光のもとに来ない。そのことが既に裁きになっていると、記されていました。その言葉は、主イエスの言葉でありつつ、同時に当時の教会の宣教の言葉です。教会の言葉、説教と、主イエスの言葉は一体化しているのです。主イエスは救いのために来た。しかし、その主イエスを拒絶し、その言葉を受け入れないとするならば、その言は命であり光なのですから、自ら命を、その光を拒むことになり、その結果は滅びとしての死になる他ありません。拒絶した言葉によって、自ら裁きを招いてしまうのです。

 命令としての愛

 しかし、その関連で注目しなければならないのは、「終わりの日に」「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている」 という言葉です。
 ここに「命令」 とありますが、他の箇所ではしばしば「掟」 と訳されているのです。その内の一つは一三章の三四節です。それは、主イエスご自身が弟子たちの足を洗う、つまり、罪の汚れを洗い清めるという愛の模範を示された後の言葉です。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
 
 神の掟、神の命令は常に愛と結びついています。そして、気をつけていただきたいのですが、その愛の内容は、主イエスが私たちの罪の赦しのために十字架に上げられる、磔にされるということであり、さらに復活して共に生きてくださるというものです。そのこと抜きに、この世における「愛」と混同してはすべてが台無しになってしまいます。この十字架と復活を通して示された罪の赦しの愛の中にこそ、永遠の命と言うべきものがあるのであって、それ以外のことではありません。しかし、愛は一方通行では実現しません。愛には愛で応答する時、そこに愛の交わりが生じるのです。その愛の一つが、あのナルドの香油を捧げたマリアに象徴される香しい愛です。主イエスの献身の愛を受け止め、主イエスに献身することにおいて主イエスとの交わりに生きる。そこに死を越えて今生き給う主イエス・キリストとの永遠の愛の交わりがあり、神様との交わりがあるのです。そして、そこに永遠の命がある。神様の命令、掟、それは主イエス・キリストの招きに応えて、その愛の交わりの中を生きることなのです。

 終わりの日と永遠

 ヨハネ福音書は、過去現在未来が重なり合った描き方をしていることは先ほど言いました。ヨハネは、そのような方法でしか、神の子にして神、人の子にして神であるイエス・キリストを描くことが出来なかった。昔いまし、今いまし、永久にいます主を賛美することが出来なかったのです。そのヨハネにおいて、「終わりの日」 とは、確かに一方で世の終わり、歴史の果てを指します。つまり、未来を指す言葉です。しかし、同時にそれは今をも指す言葉なのです。「永遠」 という言葉も、未来の時を指しつつ、実は今をも指している言葉です。その終わりの日と永遠を生きるということが確かにキリストの現実であり、キリストを信じる私たちの現実なのです。
 今日の主イエスの言葉を正しく受け止めるためにどうしても読んでおきたい所は六章です。そこで、主イエスは繰り返し「終わりの日」「永遠」 という言葉を使って説教しておられるのですが、最後の部分だけ飛ばしつつ読みます。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。・・・わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。・・・このパンを食べる者は永遠に生きる。」

今日、私たちは聖餐の食卓を共にする礼拝を与えられています。今日の御言を聴くに当たって、真に喜ばしいことです。私たちの目の前にあるのはパンとぶどう酒(実際にはアルコールは入っていないぶどう液)です。私たちの目が見るのは物質としてのパンとぶどう酒です。それ以外の何ものでもありません。しかし、信仰を与えられ、その信仰を告白し、洗礼を授けられた私たちは、霊の導きの中で、このパンとぶどう酒を備えて下さった方が、今に生きるキリストであることを知っています。目に見える現実としては、牧師である私が長老たちにパンを渡し、長老たちが主イエスの弟子として皆さんにパンを配るのです。またぶどう酒も配る。しかし、私たちはその情景の中に、ティベリアス湖の辺で五千人の人々にパンを分け与えられた主イエスの恵みの御業を見ることが出来るでしょう。また主イエスと弟子たちとのエルサレムにおける最後の晩餐の情景を見ることが出来る。その時、私たちは草原に座る群衆であり、また部屋で食卓を囲む弟子たちです。
 また私たちは配られるパンに十字架で裂かれた主イエス・キリストの姿を見ることが出来、ぶどう酒に十字架で流された主イエスの血潮を見ることが出来る。神の命令に従って、私たちを愛し、極みまで愛しとおしてくださった主イエスの愛を見ることが出来るのです。さらに、主イエスの十字架の死の三日後の日曜日に、イエス様が復活した知らせを聞いても信じることなく、失意と絶望の心をもってエマオという故郷に帰ってしまう弟子たちをイエス様が追いかけ、聖書を説き明かした後に、彼らの目の前でパンを裂き、弟子たちが、これは主イエスだ!と分かった瞬間、姿が見えなくなった、あの食卓を見ることも出来る。そして、天上の神の御国で世の終わりの日に救いが完成した喜びと賛美に満ち溢れた終わりの日の祝宴の情景をはるかに望み見ることが出来るのではないでしょうか。
 どうして、そういうことが出来るのか。それは主イエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はいつも、わたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」 とおっしゃっているからです。この「いる」 という言葉は、先ほどの暗闇の中に「とどまる」 と同じ言葉です。聖餐の食卓に信仰をもって与るとは、私たちが主イエスの中に留まることであり、主イエスが私たちの中に留まってくださることなのです。既に死を撃ち破って永遠の命を生きておられる主イエス・キリストが、私たちの内に留まり生きてくださる。そこに既に永遠の命があるのです。そして、その命を信仰によって生き始めた者に終わりの日の復活が約束されているのです。そして、信仰において、その「終わりの日」 は、今まさにこの礼拝において見ることが出来る現実でもあるのです。それは罪人の罪が赦されて、人が主と共に生かされることだからです。

 永遠に生きる

 今月の二四日の午後には墓前礼拝があり、その備えを始めています。その翌週はペンテコステ礼拝で、今日、その日に洗礼を受けることを志願しておられる方の試問会があります。墓前礼拝では、旧会員の阿部睦子さんと、今年の三月に九七歳を目前にして天に召された薄井喜美子さんの埋骨をします。薄井さんは昨年の十二月の聖餐礼拝に出席されたのが最後の礼拝となりました。そして、死の一週間前のご自宅で私と二人で守った聖餐が最後です。その薄井さんとのお交わりの中で、私が絶えず感じさせられたことは、薄井さんはいつでも、今日召されてもよいと思って生きておられるということです。年齢的にそういう年齢だったとも言えるでしょう。しかし、さらに深い意味で、いつも天を見つめておられたからです。
「今日が地上の人生の終わりの日であってもよい。しかし、今日肉体が死んでも、今、私の中に生きて下さっているキリストは、私もその中に生きているキリストは、今日も明日も変わることなく、私を生かしてくださる。」
そう堅く信じておられたことは、多くの方がご存知のことだと思います。主イエスの、「このパンを食べる者は永遠に生きる」 という言葉が確かなことを信じて疑わない。幼子のように素朴に信じている。その薄井さんにとっては、一日一日が終わりの日であり、それは一日一日が永遠であり、主と共に一日を生きることが永遠の命を生きるということなのです。そして、それは今日聖餐に与る私たちにおいても同じです。
 私たちは今日もイエス様の叫びを聴きました。私たちを救わんがために必死になって叫んでくださるイエス様の叫びを聴き、その姿を見、そしてこれから、その救いのために十字架に架かってくださった主イエス、復活して下さった主イエス、天におられる主イエス、私たちのただ中におられる主イエスを、パンとぶどう酒を頂く聖餐の中に見るのです。ここに終わりの日がある。ここに永遠がある。ここに救いがあります。そして、それがイエスを信じるということなのです。信じる者となることが出来ますように。
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