「この上なく愛するイエス」

及川 信

ヨハネによる福音書 13章 1節〜20節

 

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」(一節〜一〇節)

一三章に入ります。今日から読み始めます一三章以下が福音書の後半ですけれど、そこにはそれまで七回しか出て来なかった「愛する」という言葉が実に三十回も出てきます。それは何よりもイエス様の行為であり、そしてそのイエス様の行為を受けての人間の応答としての愛です。そういう意味で、ヨハネ福音書はしばしば「愛の福音書」と言われます。

 過越祭

 「さて、過越祭の前のことである。」
 ヨハネ福音書では「過越祭」はこれで三度目であり、最後のものとなります。この祭りは、神の民イスラエルが誕生した出来事を記念する祭りです。私たちキリスト者は、イースター、復活祭として年に一回新しい神の民、キリスト教会が誕生したことを祝っているのです。
 一二章の最初には「過越祭の六日前に」とあり、復活させられたラザロがおり、マルタが給仕をし、マリアがナルドの香油を捧げたあの夕食の場面が描かれていました。この夕食は、まさに終末の食卓、イエス様をメシア、救い主として崇め、仕え、そしてイエス様と食事を共にする食卓の象徴であると思います。私がここで「食卓」と言う場合、それは礼拝のことでもあるのです。私たちは先週、聖餐に与る礼拝を捧げましたけれど、そうでない場合も、聖餐卓はいつもこの説教壇の前に、礼拝堂の中心に置かれています。それもまた、礼拝は主イエスと共なる食事の時であることを目に見える形で表していることなのです。
 今日の箇所で「過越祭の前のこと」とあり、次に期日を示す言葉が出てくるのは、ずっと先のことで一八章の二八節です。そこは、イエス様がローマの総督ピラトの許に連れて行かれる場面です。

人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。

 つまり、一三章から一八章という長さをかけて、夕食から次の日の明け方(ユダヤ人にとっては夕方から一日が始まるのですが)までの十時間程度のことが書かれているということになります。そして、この日の昼に神殿で屠った羊を夜食べるのが過越の食事です。それは聖なる食事ですから、汚れた者は食べることが出来ません。ユダヤ人にとって異邦人は汚れた者で、その汚れた者に触れること、極端に言うと、異邦人が歩いた跡を踏むことも汚れることなのです。だから、ユダヤ人はピラトの官邸には入りませんでした。
その先の一九章一三節以下に、ピラトがイエス様に十字架刑を言い渡す時刻は、「過越祭の準備の日の、正午ごろであった」とあります。つまり、ヨハネ福音書では、イエス様は過越の食事で食べられる小羊が神殿で屠られる時刻に十字架に磔にされたことになっているのです。

 神の小羊

 一章には、イエス様の先駆者である洗礼者ヨハネがイエス様を見た時の証言があります。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

 言うまでもなく、過越の食事が背景にある言葉です。紀元前一三〇〇年頃、エジプトの奴隷であったイスラエルを神様はモーセを指導者として立てて脱出させ、シナイ山で契約を結んで神の民として誕生させました。その脱出前夜に、一頭の小羊を屠らせ、その血を家の鴨居に塗ること、そして、小羊を種入れぬパンや苦菜と共に食べることをイスラエルの民に命じられました。この小羊の血によってイスラエルの家の前を神が遣わした死の使いが通り過ぎ、神に逆らうエジプト人の家の初子が死ぬ。そういう生と死を分ける裁きが起こりました。その裁きを通して、イスラエルはエジプトの奴隷状態から解放され、さらに十の掟(十戒)を内容とする契約を結ぶことによって神の民として誕生したのでした。
 洗礼者ヨハネは、主イエスを見た時に、イスラエルの罪の贖いのために血を流して殺された小羊の姿を見たのです。しかし、この小羊は、単に民族としてのイスラエルのみならず、世に生きるすべての人間を、一国の奴隷状態から解放するためではなく、罪の奴隷状態から救い出すために世に来られた方なのだ。洗礼者ヨハネは、そう証言した。あるいは、そういう信仰告白をしたのです。この証言がヨハネ福音書を貫いていると言っても間違いありません。

 「移る」

 「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟った」とあります。それは、イエス様ご自身が神の小羊として死ぬべき時が来たことをはっきりと自覚されたということを表していると思います。生きているまま天に上がっていかれるわけではありません。その前に、十字架に上げられねばならないのです。それも愛する弟子の裏切りによって、愛するユダヤ人の殺意の中、愛する異邦人の手にかかって、主イエスは生きたまま、その手と足に太い釘を打たれて、つまり肉が裂かれ、骨が砕かれるという想像を絶する痛みに耐え、激しい渇きの中に死ななければならないのです。「父のもとへ移る」とか、「神のもとから来て、神のもとへ帰ろうとしている」というと、なんだか単なる場所の移動のような感じがしますが、その移動の中核にあることは、言語を絶する苦しみと死をもたらす十字架なのです。つまり、罪のないお方が、しかし、罪がないが故に、人間の罪に対する神様の厳正な裁きを一身に受けるというあまりに理不尽な、そして不条理な死を経て、主イエスは父のもとへ移るのだし、帰られるのです。それが、「移る」という言葉の内容です。
 しかし、何のために、イエス様は「この世から父のもとへ移る」のでしょうか。そのことを考えるためには、五章二四節の主イエスのお言葉を思い返すことがよいと思います。そこで、主イエスはこうおっしゃっていました。

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」

 イエス様の言葉を聞いて、神様を信じる者は永遠の命を得て、裁かれることなく、死から命へと移っている。完了形で書かれていますから、既に移ってしまっているのです。なぜ、そういうことが起こるのか。それは、イエス様が裁きを受けてくださっているからです。私たち罪人が受けるべき裁きを、罪なき神の独り子、神から遣わされてきたメシアが、私たちの罪を取り除くために贖いの小羊として十字架の上に磔にされてくださったからです。そして、私たちは聖霊の導きによって、そのことを告げる聖書の言葉を聞いて信じているからです。その時既に、私たちは永遠の命を与えられており、死から命へと移っているのです。そのことのために、主イエスは今、「この世から父のもとへ」移らねばならないのです。

 「世にいるご自分の者たち」

 その時に、イエス様が何をなさったのか?イエス様は、その時「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」のです。
「世にいる弟子たち」とあります。たしかに、今、主イエスの目の前にいるのは弟子たちであり、これから主イエスがなされることは、その弟子たちの足を洗うことです。しかし、ここで「弟子たち」と訳された言葉は「世にいるご自身の者たち」という言葉です。そして、その言葉は一章に出てきている重要な言葉なのです。そこでは、神と共にあり、神である言、万物を造った命の言について語られています。そして、一〇節以下にこうあります。

「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民の所へ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」

 「世にいるご自分の者たち」とは、実は命の言、イエス・キリストによって創造された者たちなのに、そのキリストを認めない、受け入れない人間のことです。主イエスの目の前にいる弟子たちだけでなく、主イエスを信じない、受け入れないすべての人間のことなのです。しかし、主イエスはその人間を、つまりご自身を認めず、受け入れない人間を愛する。それもこの上なく愛する。それが、ご自分の時が来たことを悟られた時の、主イエスのあり方なのです。それは到底、私たちの真似できることではありません。主イエスは、私たちとは違って、ご自分が受け入れられない現実、拒絶される現実に直面することによって、むしろその愛を深めていかれます。それはもちろん、主イエスの愛の深さを表すのですが、主イエスを認めず、受け入れないことが罪なのであり、その罪が人を死の闇へと追いやることになってしまうからです。その罪による滅びから私たちを救い出すためにこそ、主イエスは神の許から来て、この上なく愛しぬき、今、神の許へ帰ろうとしてくださっているからです。

 「この上なく愛す」

 主イエスは弟子たちを、そして私たちを愛してくださいます。それも「この上なく。」この言葉は、「極限まで」という意味であると同時に「終わりまで」「その目的に達するまで」という意味も持っている言葉です。つまり、主イエスと私たちの愛の関係は肉体の死で終わるわけではなく、人が主イエスを信じることを通して神を信じ、神の子としての資格を与えられるまで、永遠の命を与えられ、終わりの日に復活するまで、愛し抜いて下さる。ヨハネ福音書は、そう語っているのです。
 その愛は、どのような形を取ったのか、取っているのか?それが今日の主題です。

 夕食

 主イエスは夕食の時に「席から立ち上がった」とあります。過越の食事も夕食です。この言葉は、ヨハネ福音書では四回出てきますが、そこで言われている夕食は、一二章の最初に出てくるあの夕食と一三章のこの夕食です。他の福音書では、世の終わりの救いの完成を象徴する祝宴としてこの言葉は使われますし、コリントの信徒への手紙においては、主の晩餐、聖餐式の起源になったあの最後の晩餐を指す言葉としても使われています。この一三章も、ヨハネ福音書における最後の晩餐です。つまり、非常に大切な食事であり、神様を賛美し、神様との命の交わりをする礼拝としての食卓としての夕食なのです。
 しかし、主イエスによって死人の中から復活させられたラザロがそこにおり、彼の姉妹であるマルタが給仕をしている。そして、その妹であるマリアが、ナルドの香油を主イエスに捧げた、あの十二章の食卓、まさにキリスト者が捧げる礼拝としての食卓、そこにもユダがいました。今日の箇所にもいます。既に悪魔によって裏切りの思いを与えられていたユダがいる。ユダの問題は三〇節まで続くので、今日はこれ以上触れないでおきます。

 悟る

 最初に注目しておきたいことは、一節や三節で、イエス様が「悟っている」と出てくることです。これは、オイダという言葉で他の箇所では「知っている」、「分かっている」とも訳される言葉です。七節では、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまい」と出てきます。(「後で、分かるだろう」の方は、ギノースコウという別の言葉が使われていますが、ここではその意味の違いを詮索する必要はあまりないと思います。)一二節では、「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」とあり、一七節で「このことが分かり、そのとおりに実行するなら幸いである」とあります。一つ明らかなことは、イエス様はご自分がやっていることが何であるかが分かるけれど、弟子たち、イエス様が愛しておられるこの世の者たちは、イエス様がやっておられることが分からないということです。ユダもまたその一人であり、ペトロも他の弟子たちもそうなのです。しかし、そのことを承知の上で、イエス様は立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って、弟子たちの足を水で洗い始めるのです。それはどうしてか?それは、後で分かるようになるからです。しかし、その「後で」とは、時間が経てば誰でも分かるようになることを意味しません。それは、聖霊が与えられる時を意味するのです。イエス様が十字架に磔にされて死に、その三日後に復活され、聖霊を弟子たちに注ぎかける時、弟子たちがその聖霊を受け入れる時、彼らはこの時のことが分かる。それまでは、分からない。しかし、分からなくても、イエス様は愛することをお止めになりません。
 
 立ち上がり 脱ぎ とる

 イエス様は食事の途中で立ち上がります。客人が来たときに、その足を洗うのはその家の奴隷の仕事であったと言われます。しかし、すべての家に奴隷がいるわけがありませんし、仕事から帰った主人を迎える妻や子が、愛をもって足を洗ったのだとも言われます。いずれにしろ、そこには奉仕、愛による奉仕がある。しかし、主イエスの場合、その愛とは、ただ外を歩いて汚れがついた足を洗うという行為に留まるものではないと思うのです。主イエスはここで、既に食事が始まっているのに、わざわざ立ち上がったのです。恐らく家に入った時に既にイエス様も弟子たちも、その家の奴隷か、一行をもてなす家族の誰かに足を洗ってもらっていたはずです。しかし、それなのにイエス様は食事の途中で弟子たちの足を洗い始める。それは、何故なのか。
 ここで面白いなと思うことはいくつもあります。「立ち上がった」という言葉自体、イエス様が「死者の中から復活した」という時にも使われる言葉ですけれど、上着を「脱ぐ」「脱ぐ」や手ぬぐいを手に「取る」「取る」という言葉は、一〇章では、よい羊飼いが羊のために命を「捨てる」、そして、再び命を「受ける」というところで使われる言葉なのです。主イエスは、「わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」とおっしゃいます。先週の箇所に、「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている」とあり、「命令」「掟」は同じ言葉であり、ヨハネ福音書での「命令」とは「愛する」ことである、と私は言いました。それは、一〇章でも同じことです。主イエスが迷える羊である罪人のために命を捨てることは、神に命じられた究極の愛なのです。そして、その愛の故に命を捨てたことで、主イエスはその命を再び受けることが出来、そのことの故に、その究極の愛は過去のものではなく、今現在から未来に向かって私たちに対して与えられ続けるものになるのです。

 水で洗う

 五節以降に何度も「洗う」という言葉があり、九節には「体を洗った者」と出てきます。いずれも「水」で洗うわけです。先週も「水」について少し語りましたけれど、この福音書における水は実に含蓄が深いものです。そのすべての用法を振り返ることはしませんが、洗礼者ヨハネは、「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」と言いました。これが福音書で水が出てくる最初です。次に、二章のカナの婚礼の席で、ユダヤ人が清めのために使う水をイエス様がぶどう酒に変えるという最初のしるしがなされたとあります。ぶどう酒は、私たちが聖餐式で用いることからも分かりますように、十字架上で流されたイエス様の血潮の象徴であることは言うまでもありません。
三章に入ると、イエス様は、ユダヤ人の議員であるニコデモに、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃり、それは「新たに生まれる」ことであるとおっしゃっています。つまり、水と霊を通して、古い人間が死に新しい人間が生まれるのです。
九章では、生まれながらの盲人をイエス様が癒す出来事が記されています。そこでイエス様は、唾で土をこねた泥を盲人の目に塗った上で、「遣わされた者」を意味する「シロアムの池で洗いなさい」と命ぜられます。その命令に応えて、盲人が池に行き、その水で目を洗ったら、目が見えるようになったとあります。「遣わされた者」とはヨハネ福音書の一つのキーワードで、それはイエス様自身を指す言葉です。そして、洗って見えるようになった目とは、肉眼だけのことではありません。イエス様が神から遣わされたメシア、人の子であることが見えるようになったということです。つまり、イエス様の言葉を信じ、神様を信じ、神の子としての資格が与えられたということなのです。その時に、水による洗いがありました。
そして先週、「十字架上のイエス様の死体から血と水が流れ出たとあるが、その水とは聖霊の象徴ではないか」と私は言いました。血は言うまでもなく、罪の贖いのために流される小羊の血です。
そういう一連の記事を合わせて考えてみれば、ここで主イエスが「食事の席で立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを手に取り、水で弟子たちの足を洗う」とは、ご自身の十字架の死と復活を経た後にこの世にいるご自身の者たちに聖霊を与えることなのは明らかです。そのことを通して、弟子たちに罪の汚れの潔めを与え、新しい命を与える、死から命へと移していくのです。

主イエスとの係わり

しかし、そのことが分からないペトロが、「主であるあなたが、わたしの足を洗うなんて」と驚き、「決して洗わないで下さい」と言って拒否することは、罪の赦しと新しい命を拒否することなのであり、それは主イエスとの関りを拒否することでしかありません。
ここで言わずもがなのことを一つ言っておきますが、私たちは、聖書のことをよく知っている人のことを信仰深いと思い勝ちです。主イエスの業や言葉をたくさん知っていて、そらんじる事が出来るような人は信仰深いと思ってしまう。さらに原語を知っていたり歴史的背景を知っていたりすると、イエス様のことをよく知っていると思ってしまう。しかし、それとこれとは関係がないことです。もし、そうならいわゆる聖書学者が最も信仰深いということになりかねません。もちろん、学者の中にも信仰深い人、イエス様との関係が深い人はいます。しかし、聖書のあちこちをよく知らなくても、イエス様との関係の深い人はいくらでもいるのです。何が問題かと言うと、要するに、イエス様を罪の赦しを与えてくださる救い主として信じているかいないかなのです。私たちとイエス様との関係は、ただそこに関るのであって、それ以外のことでイエス様を幾ら知っていたとしても、それは何も知らないことと同じなのです。イエス様と三年間も寝食を共にして、そのすべての言葉と業を見てきたこの時のペトロは当時の誰よりもイエス様のことを知っていると言ってもよい人物ですけれど、でも、ここで主イエスに足を洗って頂かなければ、彼と主イエスは何の関わりもないのです。何を言った、何をしたと知っていることが、イエス様を知っていることではないし、まして信じていることではありません。そのことをよく踏まえた上で、やはり聖書をよく読むことは大事であることもまた言わずもがなのことです。

体を洗う

最後に、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」という言葉は何を語っているかに耳を澄ませたいと思います。この言葉を巡っては様々な解釈がありますし、考えれば考えるほど迷路に入るような気もしますけれど、興味深いことに、「体を洗った者」「洗う」は、「足を洗う」の時に使われる言葉とは違います。そして、その「体を洗う」という言葉の用法を調べてみると、その一つは、ある人を祭司として任職する際に水で汚れを洗い清める場合に使われる言葉であることが分かりました。祭司の大事な仕事は、罪人に罪の赦しを与える犠牲を捧げる祭儀を司ることです。そういう聖なる仕事に就かせる為に聖別する。それが水で「体を洗う」ことなのです。
主イエスは、ユダを除くペトロを初めとする弟子たちに向かって「既に体を洗った者は、全身が清いのだから、足だけを洗えばよい」とお語りになりました。そこで洗い清められる汚れは、もちろん罪の汚れです。その汚れが既に清められている者。それは洗礼を受けた者を表すと私は思います。主イエスを信じる告白をして、水と霊による洗礼を受けた者は既に清められているのです。新たに生まれ、神の国に入れられているのです。そして、それは聖なる職務に就かせられることをも意味します。
毎週、罪の汚れを清められ、神様との平和を与えられた礼拝の最後にこの世へと派遣されることは、そのことを意味します。私たちは礼拝によって清められて、聖なる務めをするために派遣されるのです。

聖霊によって誕生する教会

ヨハネ福音書は過去現在未来を時系列に描かず、それらを重ねて描くことは先週も語ったことですけれど、それは主イエスにだけ当てはまることではなく、ペトロ達にも当てはまることだと思います。彼らは、この後、つまり既に全身が清いと言われ、その足も洗われた後、主イエスを捨てて逃げることになります。その足の向かった先は、主イエスの歩む方向とは全く別の方向でした。彼らは、この世の命を愛し、永遠の命を憎む道、この世の誉れを愛し、神からの誉れを捨てる道を歩んでしまう。そういう意味で、主イエスの弟子としての聖なる職務を捨ててしまうのです。そして、主イエスお一人が十字架に磔にされる。しかし、そういう裏切り者の彼ら弟子たちが集まっている真っ暗な部屋に、復活の主イエスが現れて、釘跡が残る掌や槍で刺された傷跡が残るわき腹をお見せになりながら、「どうしてくれるんだ!この裏切り者が!」ではなく、「平和があるように」と語りかけて下さったのです。「私が代わりに裁かれた。だから安心しなさい」と。その上で、「彼らに息を吹きかけて」こう言われました。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 罪を赦す権威を、主イエスは聖霊を通して弟子たちに与えるのです。罪を赦す権威は神しか持っていないものです。しかし、その権威を弟子たちに与える。主イエスを裏切り逃げた弟子たちにです。しかし、彼らが愛を裏切る罪を犯した人間であるからこそ、そしてその惨めさを嫌というほど痛感し、もはや自分の力では生きていけない廃人になっているからこそ、主イエスの十字架の死と復活を通して罪の赦しと新しい命が与えられるということが、どれ程、凄まじい恵みなのかを知ることが出来るのです。そういう者たちこそが、命の水としての聖霊によって清められ、新たな命を与えられ、そして、その清めと命を人々に分かち与えるために、この世へと派遣されるのです。しかし、その福音宣教の使命は彼ら個人に与えられるのではありません。むしろ、聖霊によって誕生した新しいイスラエル、教会に与えられるのです。
教会が教会としての姿を真実に現すのは、この礼拝の時です。聖霊の注ぎの中に、主と共に食卓を囲み、主に仕え、信仰を告白し、主に足を洗い清めていただくこの礼拝の時にこそ、教会はその姿を現すのです。そして、この礼拝において、罪人の罪を赦してくださる主イエスが現れる。そして、その主イエスと出会う人間が現れ、主イエスを信じ、全身を洗い清めてもらいたいと願う思いが与えられるのです。先週の長老会で、H・Mさんが信仰を告白し、霊と水による洗礼を受けて新しく生まれ変わりたいという願いを語り、罪の赦しの権威を委託された教会を代表する長老会が、そのことを感謝と讃美をもって承認し、聖霊降臨日の礼拝において洗礼式が執行されることになっています。
 私たちキリスト者一人一人は、主イエスの十字架の死と復活の贖いの御業を信じる信仰において既に全身を清められています。しかし、私たちはこの世を肉体をもって歩く限り、絶えず悪の誘惑にさらされ、気付きつつも負け、気付くこともなく負けていることしばしばです。しかし、そういう私たちを主イエスは、この上なく愛し、愛し続けてくださっているのです。今日もこうして礼拝を与えられていること、御言が与えられ、聖霊が与えられ、主との交わりが与えられていることがその一つの証拠です。私たちは愛されています。赦されています。そして、今日も清められています。そして、今日も聖なる職務に就くように促され、そして祝福をもって派遣されるのです。その愛に応えて歩むことが出来ますように。祈ります。
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