「わたしがしたことが分かるか」

及川 信

ヨハネによる福音書 13章 1節〜20節

 

 分かる⇔分からない

 主イエスの業、主イエスの言葉、それが実に不思議な業であり言葉であることは、皆さんも同意してくださると思います。よく分かるようで分からない。分からないけれど、何か得体の知れない深みがあって、その深みに誘い込まれていく。しかし、穴の奥に行けば行くほど暗くなり、自分が何処にいるのかも分からなくなる。でも、きっとそのもっと奥に光が輝いているのだろうと思って、どんどん深みに嵌る。ヨハネ福音書に記されている主イエスの業や言葉は、特にそういうものです。実に神秘的なのです。
 主イエスご自身が、今日の箇所でも「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われる。しかし、その直後には「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」とおっしゃるのです。「後で分かるようになる」とおっしゃった直後に、「分かるか」と言われたって困ります。そして、さらに、「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」とおっしゃる。これは、将来のこととして言われているのではなく、現在のこととして言われているのです。主イエスの言葉を聴き、その業を見たその時現在のことです。「後で分かった時」ではありません。
 こういう言葉だけを見ても、主イエスの言葉の不思議さはあります。また、足を洗うという業が「模範である」と言われる場合、主イエスの弟子たちは、これからも食事ごとにたらいに水を汲んで互いの足を洗い合うという具体的な行為が求められているのかと言えば、やはりそんなことではありません。修道院の中には、洗足木曜日に修道士が互いに足を洗うことを大切にしている所もあるようです。しかし、主イエスが具体的に足を洗うことを弟子たちに求めたのであれば、「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」なんておっしゃらないと思います。イエス様は足を洗うことにかけては名人で、指と指の間、爪の間の人の目には見えないような汚れも洗い落とすことが出来る。そこまでの匠の技を弟子たちは身につけることは出来ない・・・。そんなことをおっしゃっているわけはないと思うのです。それでは、何なのか?
 次週も同じ一三章から、聖書の言葉の実現とユダの問題を考えていきます。しかし、それもまた神秘に属することで、人間である私たち、また世の終わりの救いが実現する以前に生きている者たちには、分かりようがない事でもあります。そういう事なんだと、よく踏まえた上で、しかし、今に生きる私たちにも示されていること、分からなければならないことがあることも事実だと思いますので、今日もご一緒に読んでまいりたいと思います。

 ヨハネ福音書の書き方

 今日は、主イエスが足を洗うことが模範として示されたことはどういう意味なのか、そして、一七節や二〇節に出て来る「遣わす」とか「遣わされる」とは何であり、「受け入れる」とはどういうことなのかに限定して御言に聞いていきたいと思います。
 主イエスが弟子たちの足を洗うとは、主イエスが人々の罪の贖いのために犠牲の小羊として十字架上で血を流して死ぬこと、さらに三日後に復活して、弟子たちに聖霊を与えることまでが含まった救いの御業の象徴であると、先週語りました。そうであるから、この時点での弟子たちには何のことか分からないのは当然のことなのです。事の真相は、十字架・復活・聖霊付与を通して明らかになるのですから。
 しかし、ヨハネ福音書はそういう時系列の出来事に重ねるようにして、この福音書が読まれるその時の現在のことを書いているのだと思います。つまり、霊において今も生きているイエス・キリストを書き、さらに、そのイエス・キリストの言葉を聴き、その御業を見ることが出来る弟子たちの姿を書いている。それはつまりこの福音書の最初の読者である教会の信者の姿だし、現在の信者である私たちの姿です。それは、聖霊を与えられることを通して、イエス様が「わたしはある」というお方、神から遣わされた独り子なる神であることを信じている、あるいは信じているはずの者たちのことです。そう理解しないと、この箇所の意味はいつまで経っても分からないと思います。

 ヨハネの二重構造

 今日の箇所の文脈の流れで言うと、一一節までに洗足の行為が行われ、主イエスが足を洗うことこそが主イエスと弟子たちを繋ぐ唯一のものであることが語られています。つまり、それは主イエスの十字架の血による罪の贖いと、復活の主イエスによる絶えざる洗い清めの中に置かれて、彼らは初めて主イエスの弟子として生きることが出来るということでした。しかし、その時、ペトロを初めとする弟子たちが、そこまでのことを分かるとは、イエス様自身が思っておられない。
 しかし、一二節以降、イエス様の洗足の行為が終わり、イエス様が改めて食事の席について以後のことが書かれ始めています。この時のイエス様と弟子の関係とは、福音宣教のために遣わした者と遣わされた者の関係が色濃く、弟子たちはイエス様が神から遣わされた者であることを知っている。そういうことなのではないか、と思うのです。つまり、そこにいる弟子たちは、主イエスの復活後に聖霊を与えられ、信仰を持って生きている弟子たち、私たちのことでもある。イエス様の洗足行為が、私たちの罪の赦しのためであることを知っている、イエス様を唯一無二の「先生」(師)、「主」と呼んでいる者たちです。表面的には同じ食卓の出来事なのですけれど、現実的には、聖霊によって誕生した教会の礼拝に集っている者たちがここにいることが前提されていると思います。
だから、主イエスは「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」とおっしゃるのです。この言葉は、この先の一三章三四節の「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と文章の構造が全く同じですし、内容的にも同じです。「足を洗い合う」とは「愛し合う」ことに他なりません。それもイエス様が愛したように愛し合うのです。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と主イエスはおっしゃっていますから、この愛は、一般に言われている親子の愛とか夫婦の愛のことではありません。主イエスからの愛を受けて主イエスを愛し、そこから生まれる弟子同士の愛であることは明白です。それはしばしば言われるように、謙遜になって人に仕える愛のことではないと、私は思います。主イエスは、ここで単に謙遜の模範を示されたのではありません。

 模範?

 主イエスは過越祭の直前に、「ご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たち(ご自分の者たち)を愛して、この上なく愛し抜かれた」のです。その愛は、世にいるご自分の者たちのために過越の小羊として死ぬということです。そういう愛がここで言われている。
 そうなると、私は、いくらなんでも真似は出来ないと思う他ありません。このような愛は、主イエスだけが与えることが出来るものなのであって、その主イエスに「模範を示したのだ」と言われても、「はい、私もその模範に従います」と即座に応答など出来ません。しかし、主イエスは、それでも「このことが分かり、そのとおり実行するなら、幸いである」とおっしゃる。理解だけではなく、あくまでも実行することをお求めになるのです。それは一体どういうことなのか?

 遣わす者と遣わされた者

 そのことを考える上で注目しなければならない言葉は、イエス様の次の言葉です。

「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。」

 「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」が直訳です。非常に大事なことを言う時に、イエス様が使う言葉です。イエス様はここではっきりと、イエス様と私たちとの違いをおっしゃっています。私たちは誰もイエス様ではないし、イエス様と同じ業をすることなど出来ません。そのことは前提です。新興宗教の教祖たちは、しばしば「我こそ〜〜の生まれ変わりなり」と宣言したりしますけれど、私たちにおいて、そんなことはあり得ないことです。私たちは、どこまでもイエス様の弟子であり、弟子は師を越えることはありません。一般的な弟子は、師を越えることはあるでしょう。学問の世界でも芸術の世界でも職人の世界でも、そういうことはしばしばあるでしょう。しかし、主イエスと私たちの間にそのようなことはあり得ません。それははっきりしていることです。しかし、そうではあっても、いやそうであるからこそ、弟子は師に倣って師の教え通り、師がなさったように生きることが求められているのです。つまり、この上なく愛することが求められている。そして、その愛し合う姿を通して、師であり主であるイエス様を証しすることが求められているのです。

 このことが分かり、実行するなら

「このことが分かり、そのとおり実行するなら、幸いである」と、主イエスはおっしゃいます。この言葉の意味については、少なくとも二つの解釈があります。様々な翻訳を比較して見ると、一つは「もしこれらのことが分かり、もし行うなら、あなたがたは幸いである」というものです。分かるとすれば、そして、分かった上で行うなら、幸いである、という二つの仮定法が入っている解釈です。しかし、このように訳される場合があります。「今こそ、このことが分かったのだから、これを行うなら、あなたがたは幸いである。」
あまり違わないようにも思えますが、私は二番目の方が主イエスの意図に近いと思っています。何故なら、ここで言われていることは、弟子たちが既に主イエスに遣わされた者として行う行為だからです。主イエスに「遣わされた者」、これはアポストロスという言葉で通常は「使徒」と訳されます。「使徒言行録」の使徒です。つまり、聖霊によって信仰を与えられ、十字架につけられたイエスが甦ったこと、主であること、神の子であること、救い主であることを命をかけて宣べ伝える者のことです。訳も分からず主イエスについて歩くだけだった弟子たちが、聖霊を与えられて後、主イエスの十字架の意味、復活の意味とその力を知り、罪を赦されて、全く新しい命に生かされ、全世界の人々に主イエスを宣べ伝え始めた。そういう伝道の業をする者を使徒と言います。そして、ヨハネ福音書では、この箇所にだけ出てくる言葉です。つまり、ここで無理解な弟子たちが、同時に遣わされた者としても登場しているのです。遣わされた者、つまり使者は、遣わす者のこと、その方がおっしゃっていることを正しく理解していなければなりません。そうでなければ使者の務めを果たすことは出来ません。そして、使徒とはイエス・キリストに使わされる使者であり、全権大使なのです。だから、その使者の語ることを受け入れる者は、遣わした者を受け入れることなのです。
そういう意味で、イエス様は、またもや「はっきり言っておく」と言った上で、こうおっしゃっているのでしょう。
「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
 こうなりますと、私たちの責任は、本当に重いと言う他ありません。私たちは、「事が起こった時」、イエス様は「わたしはある」と言える唯一のお方、つまり、「わたしは神である」と言える唯一のお方であると信じた者たちだからです。そのことを信じた者たちを、主イエスはご自分を宣べ伝える使者として遣わすのです。私たちを通して人々が主イエスを受け入れ、さらに神を受け入れることが出来るように、つまり、罪の赦しを受け、永遠の命を受けることが出来るようにです。救いを得るように、ただ、そのことのために私たちは遣わされるのです。
 しかし、そんなことを言われても、私たちはただ茫然とする他にないのも事実です。特に皆さんは、私のような伝道者として立てられたわけではないのですから、そんなことを言われても、いったい何をしたらよいのかと思われるのではないでしょうか。そこで考えなければならないことは、「受け入れる」という言葉だと思います。

 受け入れる

 これはランバノウという言葉で、一三章でも様々な意味で使われていて、来週も触れるかもしれません。しかし、今日の箇所との関連において重要だと思うのは、この福音書の最初と最後に出てくる箇所です。
 最初に一章一二節を見ておきたいと思います。

「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」

 言とはイエス・キリストのことです。イエス様を初めからおられた神、命の光として信じる。それが「受け入れる」ということです。さらに一章一六節にはこうあります。

「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」

 「恵み」とは、罪の赦しを意味します。この方から罪の赦しを受けた。溢れんばかりに受けた。そういうこの上もない愛で愛された。そう言っているのです。

 平和があるように

 そして、この福音書本文の最後二〇章にはこういう記述があります。そこは主イエスを裏切って逃げた弟子たちが、生ける屍のようになってエルサレムの一部屋に集まり、窓も戸も締め切ってうずくまっていた所に、復活の主イエスが現れた箇所です。これまでに何回引用したか分かりませんが、その時、主イエスは弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と語りかけ、その上で、十字架の傷跡が残る「手とわき腹とをお見せに」になりました。その主イエスの姿を見て、弟子たちは驚き恐れるのではなく、むしろ「喜んだ」とあります。私は若い頃から、この箇所が不思議でなりませんでした。何故、自分たちが裏切って、その結果、ひとり十字架の上で殺されてしまったイエス様が現れた時に弟子たちは喜べるのだろうか?と。後ろめたさとか復讐の恐れとかを感じなかったのだろうか?と思ったのです。しかし、ここ数年、ヨハネ福音書を読み続けてきて、何度もこの復活の場面を読んでいる内に、思いが少しずつ変わってきました。言うまでもないことですけれど、私がこの場にいたわけではないのですから、見てきたようなことを言うことは出来ませんけれど、想像することは誰だって出来ますし、聖書を読んでその場のことを色々と想像することは求められてもいると思います。
 弟子たちは後悔や自責の念に苛まれていたことは確実だし、ユダヤ人の手が自分たちに及ぶことを恐れていたことは、ちゃんと書かれていることですから、尚更確実です。後悔、自責、恐れ、不安、絶望、そういうものに押し潰されていたのです。希望の光も何も見えない中で、その部屋から一歩も外に出ることが出来ない。それがこの時の彼らです。そこに十字架の傷跡も生々しい主イエスがいきなり現れたのです。彼らは既に、主イエスの墓が空であることを知っていたし、墓場の中にまで入って行ったマグダラのマリアから、「わたしは主を見ました」と告げられてもいました。しかし、そのことで力を得ていたわけでも何でもないのです。しかし、そういう彼らの只中に主イエスが現れ、彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と主イエスは語りかけた。そして、「手とわき腹とをお見せになった。」普通だったら、その痛ましい傷跡を見て、自責の念や後悔、恐れが深まったとしてもおかしくないと思います。四谷怪談で、夫に裏切られたお岩さんが、夫に騙されて飲んだ毒薬のせいで醜くなってしまった顔で化けて出てくるのを見て、その夫が恐怖のどん底に叩き落される場面があります。それと同じ様に、弟子たちだって、ここでパニックに陥ったとしても少しもおかしくない。それなのに、「弟子たちは、主を見て喜んだ」と書かれている。その上で、主イエスは、重ねて「あなたがたに平和があるように」とおっしゃって、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃった。
 この場面は、ヨハネ福音書を読む時に、絶えず私の心に浮かんでくる場面です。そして、私はこの時の主イエスのお顔が、だんだんおぼろげながらも見えてくるような気がしてきました。まだ言葉ではっきりと言える程ではないのですけれど、以前とは違って、なんとなく見える感じがします。その顔をどう表現したらよいかは分かりません。しかし、内容としては、先ほどの一章にあった言葉そのものなのだと思うのです。
「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」
 これはこの時の弟子たちの告白が元になった言葉でしょう。主イエスのお顔、その佇まい。そこには、恵みしかなかった。些かの恨みつらみの感情も、怒りも嘆きもない。ただただ慈愛と憐れみが満ち溢れていたのだと思います。そして、イエス様自身が弟子たちと会えたことを喜んでいる。会えてうれしい!と思っておられる。そして、良かったね、と弟子たちのために喜んでおられる。そういう赦しと愛と喜びに満ち溢れたその存在感に包まれて、彼らの心に喜びが満ち溢れてきたのだと思うのです。そこにこそ、自責とか後悔とは違う、もっと本質的な意味での悔い改めがあるのだと思います。そして、真実に悔い改めることが出来るとすれば、それは喜びです。その弟子たちを、主イエスは、主イエスが父なる神から遣わされたように、この世へと遣わすとおっしゃるのです。

 何のために遣わされるのか

 何のために遣わされるのでしょうか。主イエスは、「彼らに息を吹きかけて」こう言われました。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 「息」とは聖霊のことです。最初の人類アダムを土でこねて創造された主は、鼻に命の息を吹きいれて、彼を生きたものとされました。命を創造されたのです。その息を、主イエスは生ける屍となっている弟子たちにお与えになったのです。そして、「聖霊を受けなさい」とおっしゃった。これが「受け入れる」ランバノウです。
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」
「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」

 そこで使われている言葉です。すべて同じことを言っているのです。イエス・キリストを受け入れるとは、イエス・キリストを信じることであり、それはそのまま罪の赦しという恵みを受け入れ、神様の子として神様との永遠の命の交わりに入れられることです。そして、それは霊によって分からされることです。肉の知性によって理解すること、分かることではありません。与えられる聖霊を受け入れることを通して分かることです。そして、聖霊を受け入れることが、主イエスを受け入れることであり、主イエスを受け入れることは、主イエスのこの上もない愛を受け入れることであり、それが同時に、主イエスの愛をもって互いに愛し合うことに繋がり、その愛とは罪の赦しに行きつくのです。

 罪を赦す愛

 よく教会の内外で、「敬虔なクリスチャン」という言葉を聞きますし、「清く正しいクリスチャン」という言葉も聞きます。私たちも、信仰を持っていない人と自分たちを区別して、自分たちには罪がないかのように錯覚し、だから互いに愛し合えるかのように錯覚している場合もあると思います。私たちはえてしてそういう錯覚をしたいのです。しかし、錯覚は錯覚であって、現実ではありません。私たちは敬虔なクリスチャンであるかもしれません。でも、私たちはどうしようもない罪人です。それは教会生活を続けていれば分かることです。分かりたくないと目をつぶっていればいつまで経っても分かりません。でも、目を開けていれば分かる。御言によって目を開かれれば分かることです。私たちは誰もが罪人です。罪人だからこそ、主イエスによって罪を赦していただき、神の子として頂いたことを恵みとして受けることが出来るのです。信仰を与えられていない人と私たちの違いは、ただそこにあります。また、信仰を与えられていなかった当時の自分と、今の自分の違いもただそこにある。そして、恵みを恵みとして受ける道は、愛されたように愛し、赦されたように赦すということなのです。それ以外にはありません。恵みは応答することにおいて初めて実を結ぶのですから。しかし、愛し難い者を愛し、赦し難い者を赦して行くことほど人間にとって、罪人にとって困難な道はないことも事実です。でも、その道を歩くことがキリストの弟子なのであり、キリストの使者、使徒の道なのです。その道は、聖霊によって清められ、力づけられなければ、決して歩むことは出来ません。だから主イエスは「聖霊を受けよ」と言われるのです。そして、それはまた一人で歩む道なのではなく、共に歩む道なのです。主イエスは、一三章でも二〇章でも「あなた」と語りかけているわけではありません。絶えず、「あなたがた」と語りかけています。「私たち」なのです。信仰と愛に生きる道は、一人で修行を積み重ねて悟りを開く道ではないのです。罪にまみれた私たちが、互いに愛し、互いに赦し合って、十字架の主イエス、復活の主イエス、聖霊において生きて働き給う主イエスが今生きておられることを証しする道なのです。
そして、その証しの道の起点に礼拝があります。この礼拝は、今朝も私たちの真ん中に立って両手を広げて「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さる主イエスを見て喜ぶことなのです。四月から毎週礼拝の最初に聞いている「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう」という御言は、そのことを表しているのです。主が、今日も愛してくださっている。性懲りもなく罪を犯し続けてしまう私たちを、今日も、七度を七十倍する愛で愛し、赦し、命の息を吹きかけてくださっている。そのことを知って何よりも喜ぶ。そして、主イエスの私たちはその言葉と息を体一杯に受け入れて、今日からまた新たに生き始めるのです。愛と赦しに向かってです。愛せない、赦せないことは誰にだってあるでしょう。愛されない悲しみ、赦されない悲しみもある。しかし、イエス様は、ユダが悪魔によって裏切る思いを与えられたその時に、ユダをも含めた弟子たちの足を洗い始めたのです。そのイエス様の不思議な姿、恵みの上に恵みを与えるその姿を、しっかりと目に焼きつけつつ、今日も足を洗っていただき、そして清められた体で愛と赦しの歩みへと派遣されたいと願います。そのことを通して、私たちが主イエスの弟子であることが明らかにされて、さらに主イエスを受け入れ、神を受け入れる人が、一人また一人と誕生していくのですから。
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