「聖書の言葉は実現しなければならない」

及川 信

ヨハネによる福音書 13章 12節〜30節

 

さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。 イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。

 神秘に属すること


 13章に入って3回目になります。13章はその最初から、ユダについての言葉が何度も出てきます。ユダに関しては12章の夕食の場面で既に1回語っていますけれど、彼に関する問題こそ、「わたしのしていることは、今あなたがたに分かるまいが、後で、分かるようになる」という問題だと思います。そしてその場合の「後で」とは、これまで言ってきたような、「聖霊を受けた後」というレベルの後ではなく、世の終わりの時、御国が完成した時のことであり、その時に初めて分かることなのだと思います。主イエスは何故ユダを選び、ユダの足を洗い、ユダの裏切りを告げ、ユダに「しようとしていることを、今すぐしなさい」と言われたのか?そして、マタイによる福音書によれば、ユダはその後、自殺したと言われていますが、彼は救われることはないのか、永遠の滅びの中に落とされたのか?こういった問題を、私たちは地上に生きている間にすべて分かるということはないでしょう。しかし、生きている間、今言った問いを避けては通れない。それも事実です。ですから、今日もこの問題に取り組んでいきますけれど、その際に見落としてならないことは、ユダの行為もまた、聖書の言葉が実現するための一つであるということです。少なくとも、主イエスはそう捉えておられるのです。聖書の言葉とは神の御心ということです。その御心の一つにユダの裏切りもあり、ユダとイエス様の関わりも入っている。これこそ神秘、神の秘密に属することです。

 地上の教会の現実

 イエス様が弟子たちの足を洗う過越祭直前の夕食の時、「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」とあります。悪魔がユダに裏切りの思いを抱かせた、まさにその時に、イエス様は「父がすべてをご自分にゆだねられた」ことを知ったのです。この「すべて」が何を表すかがよく分かりません。ある人は、「すべての人」と解釈します。そうなりますと、ユダを含めたすべての人が主イエスの手に委ねられた、直訳すれば「与えられた」ということになる。しかし、この「すべて」は、すべての権限が委ねられたと解釈される場合もあります。つまり、裁きに関して、一切は主イエスに任された。ヨハネ福音書5章27節で、「(父は)裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである」と、主イエスはおっしゃっています。  しかし、「すべて」の意味を二者択一的に捉える必要もありませんから、神がイエス様にすべての人に対する裁きの全権を与えられたことを言っていると受け止めておきたいと思います。そして、そのすべての人の代表として、主イエスの目の前には弟子たちがおり、そこに悪魔によってイエスを裏切る考えを抱かせられたユダがおり、何も分かっていないペトロがいる。そして、イエス様は、ユダが悪魔に裏切りの考えを抱かせられていることを知っていました。主イエスが、かなり前からそのことに気付いておられたことは、既に6章の終わりの段階で「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」とおっしゃっていることからも分かります。
 そういう人を、しかし、主イエスはずっと弟子の一人として抱え持っていたのです。そして、ユダはこの福音書に2回だけ出てくる夕食、教会の礼拝をイメージさせる12章と13章の夕食の席におり、いずれも重要な役回りを与えられています。そして、私はこれまで何度も、ヨハネ福音書に出てくる主イエスと弟子たちが共にいる場面は教会の姿を表し、また特に食事の場面は礼拝の情景を表しているのだと言ってきました。ペトロにしろ、ユダにしろ、いわゆる12弟子に数えられてはいませんが、12章の夕食の場面にいたラザロやマルタ、マリアの姉妹たち、彼らは皆、主イエスの十字架の死と復活、そして聖霊付与の後に誕生したキリスト教会のメンバーの姿でもあるのです。そういうメンバーの中に、いつもユダがいる。そのことを私たちは覚えておかねばなりません。教会は、今もそういう現実、汚点、不完全、罪をその内に抱え持ちつつ歩んでいる。しかし、その教会を主イエスは愛し、それもこの上なく愛し抜いていて下さっているのです。エフェソの信徒への手紙の言葉を使えば、キリストがそのように教会を愛するのは、「言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるため」です。そのキリストの愛の御業は、今も続いている。それもまた、聖書の言葉が必ず実現することの具体的な現実なのです。ユダのことも、そういう大きな流れというか、御心の中で考えていかないと、つまらない疑念と詮索の域を出ないのではないかと思います。

 ユダだけの問題なのか?

 とにかく、ユダの裏切りは、少なくとも主イエスにとっては意外なこと、全く予想もしていないことではなかった。深い悲しみの出来事ではあっても、予定が狂ってしまったとか、計画が滅茶苦茶にされたとかいうことではなかった。それは大事なことです。「裏切り者ユダ」という言い方が一人歩きすると、ユダさえ裏切らなければ、イエス様は十字架に掛かることなく神の国を打ち建てることが出来たのにという誤解が生じかねません。
 主イエスは、ユダが裏切らなくても、ユダヤ人の最高権力者たち、大祭司を頂点とする最高会議のメンバーから敵意を越えた殺意を抱かれていましたし、既に逮捕状も出ていたのです。彼らは、神の民イスラエルの代表者であり、民に神の御心を教え、民を聖なる道に歩ませる務めを担っていた人々です。本来であれば、彼らこそ、真っ先に「ホサナ」と賛美の声を上げつつ主イエスのことをエルサレムに迎えるべき人々です。しかし、その彼らが今、イエスという男を殺さなければ自分たちの地位が危ないと言って殺害の機会を狙っている。もちろん、イエス様はすべてをご存知だし、ユダもそのことを知っています。しかし、ユダは自分が居場所を教えたイエス様が、その日の夜中にユダヤ人から有罪判決が下され、夜明けにはピラトの官邸でも有罪とされ、昼には十字架に磔にされて殺されるなんてことは全く思いもよらないことでした。だからこそ、マタイによる福音書では、彼は大祭司にイエス様を裏切った代価を返しに行こうとしたのだし、それが叶わぬことを知ると、自責の念に駆られて自殺してしまうのです。神を代表しているはずの大祭司たちは、そんなことはありません。神に遣わされたお方を、神への冒涜を働いた大罪人というレッテルを貼って処刑できたことで大満足なのです。しかし、これこそ神様への大反逆、裏切りそのものなのではないでしょうか。こんな皮肉は滅多にあるものではありません。
私は、ユダを弁護しようと思ってこういうことを言っているのではありません。ただ、ユダだけがイエス様を殺したかのような誤解を避けなければならないと思うのです。

 「聖書の言葉が実現するため」とは

 そこで、「聖書の言葉が実現するため」という言葉が、ヨハネ福音書ではどのように使われているかを見ておく必要があると思います。「実現する」とは充満する、満ち溢れるという意味なのですけれど、たとえば12章37節以下にこうあります。

「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。」

 つまり、神の民ユダヤ人は神から遣わされた独り子なる神イエス様を信じなかったのです。イエス様を信じないとは、神を信じないことです。彼らの自覚は、「自分たちは唯一の神を信じている選ばれた民であり、異邦人は神に捨てられた民である」ということなのですけれど、現実には、彼らこそ信じていない。そのことが明らかになった。そして、そこに預言者イザヤの言葉、つまり聖書の言葉の実現がある。ヨハネは、そう言っているのです。なんとも皮肉な恐るべき現実です。ある人は、「教会の中にこそ最も大きな不信仰がある」と言っていますが、大祭司たちの例を見ても分かります。そういうことは、確かにあり得ることです。
 さらに15章24節以下にはこうあります。

「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。」

 そして、十字架の下でローマの兵士たちがイエス様の衣服を籤引きで取り合う場面も、「『彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた』という聖書の言葉が実現するためであった」と記されており、最後は、既に死んでいたイエス様の足の骨を折らなかったことに関して、「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった」と記されています。
 つまり、主イエスの十字架への道行き、そして死は、すべて聖書の実現、その言葉が満ち溢れるためのことなのだとヨハネ福音書は語っているのです。ユダの裏切りもまた、そういう一連の記述の中での出来事なのです。そのことをよく覚えておく必要があると思います。

 二重性

 次に考えておきたいことは、例によって二重性の問題なのですけれど、それはなかなか整理がつかない事柄です。一つは、ユダの裏切りをも用いる形で主イエスの救いの業が進展していくという事実です。ユダは、イエス様が取って渡したパンを受け取ると夜の闇の中に出て行きます。すると、イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた」とおっしゃる。ここには主イエスの弟子が、主イエスを裏切るという最悪の闇の行為に派遣されることによって、実は主イエスの栄光が表されることが描かれています。そういう二重性がある。
しかしまた、ユダの行為とサタンの行為が重なる形で描かれているという二重性もあると思います。
 その行為の二重性という問題は、神様とイエス様の関係においても言えることです。イエス様は、父から命じられたことしかしないと、しばしばおっしゃいます。しかし、その一方で、先程も引用しましたように、何事も父から子に委ねられている、だから自分が語ることや業はすべて父の語ることであり父の業であるということもおっしゃる。行為の主体が父なのか子なのかが判然としないのです。そこにこそ、父なる神と子なる神イエス様の一体性という本質があるのだろうと思います。
 しかし、それと同じ様な形で、悪魔あるいはサタン(言葉は違いますが、内容的な違いを吟味しても意味はないと思います)とユダの関係も描かれているように思います。2節では、悪魔が、ユダに「イエスを裏切る考えを抱かせていた」とあります。行為の主体は悪魔です。しかし、その考えを抱いているのは、最早、ユダでもある。そして、夕食の席で、イエス様が心を騒がせつつ「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」とおっしゃるのですが、誰であるかの名指しはしません。そして、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答え、「パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパンを受け取ると、サタンが彼の中に入った」とあります。「ユダがパンを受け取ると」と訳されていることは紛らわしいと思います。直訳は、「パンと共にサタンが彼に入った」です。つまり、ここではユダのパンを受け取るという行為よりも、パンと共にサタンが彼の中に入ったという行為の方が強調されていると思います。そして、そのサタンの行為を主イエスは見た上で「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われたのです。これはサタンに言ったとも言えるし、ユダに言ったとも言える。しかし、面白いことに、この場にいた弟子たちは、イエス様がユダに言った言葉が分からないのです。裏切り者が誰であるかを示して欲しいという流れの中での行為と言葉なのに、それがユダこそ裏切り者だとイエス様が示していることを、誰も分からない。これも不思議です。
 そして30節、ここで「パンを受け取る」という言葉が出てきます。

「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」

 これは完全にユダの行為です。ユダが受け取り、そして、ユダが出て行ったのです。最初は、ユダの中に悪魔が考えを抱かせ、そして、パンと共にサタンが入るという行為が先行しており、イエス様の「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」という言葉は、ユダに対する言葉であると同時にサタンに対する言葉でもあり、最終的にはユダの行為が出てきています。

 人間の現実

 なんだか私たちの現実とかけ離れたことに拘っているように聞こえるかもしれませんが、私はそうは思いません。ここに人間の現実が描かれていると思うからです。「魔が差す」という言葉があります。この「ま」は、悪魔の魔です。悪魔が、私たちが気付かぬうちに自分の中に入ってきて、自分でも思いがけないことをしてしまった。そういうことは、事の大小の違いはあるにしても、誰だって経験することではないかと思います。自分のことを自分は絶えず完全に把握しており、そして、コントロールできるという人はいません。自分では出来ていると思っている人は、まさに、悪魔によってそう思わされていると思った方がよいと、私は思います。
パウロがローマの信徒への手紙の中で言っているように、罪の法則に捕えられている人間は、善を行う意志を持っていたとしても、肉体は悪を為してしまう。そういう二重構造を抱え持っているのです。えてしてそのことにも気付かぬものなのですが、気付いていなくても、事実は事実です。私たちは、自分でも気付かぬうちに、悪魔の業をしていることがある。悪魔に唆され、まるでそれが美しいこと、賢いこと、正しいことかのように思って、神の愛と信頼を裏切っていることがある。それは事実です。そして、それが悪魔の仕向けた業、あの蛇がエバに禁断の木の実を食べるように唆した業であるとしても、その業を行った人間が責任を問われることに変わりはありません。勿論、蛇もまた断罪されますが、命を奪われるわけではありません。神は蛇に向かっては、こう言われたのです。

「お前と女、お前の子孫と女の子孫(人間)の間に
わたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き

お前は彼のかかとを砕く。」

 つまり、蛇(神様に反抗する力・悪魔・罪)との戦いは延々と続くのだ、ということです。

 戦いに勝利するのは

 数年前に公開された『パッション』という映画を御覧になった方もあるかと思います。その映画の冒頭は、私の記憶ではゲッセマネの園における主イエスの祈りの情景だったと思います。月明かりに照らされた園の中で、主イエスが「アッバ、父よ」と必死に祈っている。すると、蛇と恐ろしい顔をした人間、つまり悪魔の象徴が交互に画面に出てきます。つまり、主イエスの心に神に背く裏切りの思いを抱かせようと、必死になって囁きかけているのです。しかし、主イエスが神様に「私の願いではなく御心のままに」と祈りきった瞬間、主イエスが足元にまで来ていた蛇の頭をかかとでグシャと踏みつけて砕く。そこから、凄まじい苦しみ(パッション)の場面がずっと続く。そういう映画でした。
 そこには、主イエスの中に入り込もうとする悪魔と、主イエスが迎え入れようとする神の意志としての聖書の言葉との間に戦いがありました。そして、主イエスは神の意志を己が意志として受け取ることを通してサタンに打ち勝ち、その結果、あの凄まじい十字架の死に向かって歩んでいくことになったのです。鞭打たれ、茨の冠を被せられ、殴られ、もう既に全身血だらけになりながら、重たい十字架の横木を背負わされ、人々に罵倒される中、町の中を歩き、ゴルゴダの丘の上まで登って行き、そこで釘を体に打ちつけられて十字架に磔にされるのです。十字架刑とは、死体を晒し者にするのではなく、生きている人間を釘で打ちつけるのです。そこにある姿は、この世に生まれた人間の中で最も惨めな人間の姿です。しかし、主イエスは、ユダが夜の闇の中に出て行った時、「今や、人の子は栄光を受けた」と言われました。主イエスだけは、ユダがパンを受け取って、部屋を出た瞬間、ご自分の十字架刑が確定したことが分かったのです。そして、その十字架の死こそ、ご自身に与えられる栄光だ、とおっしゃった。もちろん、この時この場でその意味が分かった人はいません。

 罪と愛

 人間の罪が極まる時、神の愛も極まります。この世の闇が深まる時、神の光が輝きます。先ほど「球根の中には」という歌を賛美しました。そこに、「いのちの終わりは いのちの始め おそれは信仰に、死は復活に変えられる」とありました。ユダが悪魔に捕らわれる時、主イエスはご自分の時が来たことを悟られました。十字架の死を通して復活に向かう時が来たことを知り、ユダをも含む弟子たちの足を洗い始めたのです。ユダに向かって、「あなたの足を洗うつもりはない」とはおっしゃらなかった。ただ、「皆が清いわけではない」とおっしゃいました。
そして、その後、弟子たちに対して、イエス様の業をよく理解して実行するなら幸いであるとおっしゃいますけれど、「あなたがた皆について、こう言っているのではない」とおっしゃった上で、「『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない」とおっしゃいました。
「わたしのパンを食べている者」とは通常、最も近しい存在、家族にも等しい存在のことを表します。ここでもそうだと言って良いでしょう。しかし、この夕食の場面全体は、教会における礼拝の暗示でもあります。その礼拝の中で、主イエスが手渡すパンがある。そのパンを食べている者が、パンを手渡す者に逆らうのです。直訳すると、「かかとを上げる」です。つまり、かかとを上げてふんづけるということです。今主イエスに洗ってもらった足のかかとを、また蛇の頭を踏んづけなければならないかかとを、主イエスを踏んづけるために上げてしまう。そういうことが起ころうとしている。それは、彼の中にサタンが入ったからです。主イエスが渡したパンと共に入ったからです。そして、彼はそのパンを受け取って、部屋から出て行きました。夜の闇の中に。罪が深まる瞬間に愛が深まり、愛が深まった瞬間に罪がその極みの姿を現すものです。
主イエスは、公の説教の最後に「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と言われました。しかしユダは、家から闇の中に出て行きました。教会の交わり、主イエスを中心とした交わりから出て行ってしまったのです。そして、どこへ行くのかも分からずに死の闇の中に捕らわれてしまったのです。そして、そういう人は歴史上ユダだけではないことは明らかなことです。水の洗礼を受けて洗われ、主イエスが与えてくださるパンを受け取っていたのに、その家から出て行ってしまった人は数限りなくいます。そのことも、私たちは深く覚えなければなりません。私たちがそうならないように、そして、出て行った人が「あなたはどこにいるのか」という神の問いかけを受けて、本心に立ち返って、父の家に帰ってくることを祈るためにです。

 家に帰ってくる者たち 家に入ってくださるイエス様

先程も言いましたように、この時家の中にいた弟子たちは誰も、ユダに何が起こっているのかも、イエス様が何をおっしゃったのかも分かりませんでした。ただ、彼らはこの時はその家に留まり、主イエスの言葉を聴き続けました。しかし、その後、彼らが主イエスを見捨てて逃げ去ったのです。主イエスは、一人、聖書の言葉が実現するために十字架に磔にされました。しかし、その三日後、弟子たちは、再び同じ家に、つまりエルサレムにおける彼らの隠れ家に集まったのだと思います。大祭司たちにイエス様を引き渡すことはしなくても、「あの人のことは知らない」と言って、それぞれ逃げ去った弟子たちです。彼らは、肉体こそ生きてはいましたが、最早生ける屍です。しかし、その鍵が締められ、闇が覆っているその部屋に、日曜日の夕方、復活の主イエスが現れてくださったのです。そして、「平和があるように」との御言と共に聖霊を吹き入れてくださいました。命の息を吹き入れてくださった。罪の赦しと新しい命を与えてくださったのです。そして、その家から出て行くようにと命ぜられました。それは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と、ユダの中にサタンが入った時の命令とは全く逆の命令です。「聖霊があなた方の中に入った今こそ、聖霊の業をしなさい」という命令です。主イエスを通して与えられた罪の赦しと新しい命の福音を宣べ伝えるために出て行きなさい。主イエスが与えてくださった「平和」をこの世にもたらすために出て行きなさい。闇が覆っているこの世に主イエスの栄光を、その命の光を証しするために出て行きなさい。主イエスは、そうおっしゃっているのです。

 伝道する教会 パンを与えてくださる主イエス

ヨハネ福音書21章は、付録として付け加えられたものですが、そこにはティベリアス湖における漁の情景が描かれています。漁は、伝道の象徴です。ティベリアスとはローマ帝国の皇帝の名前ですから、この漁は当時の世界であるローマ帝国に遣わされた弟子たち、つまり使徒たちの伝道の業を象徴していると思います。しかし、それは全く振るいません。一晩中やっても一匹も獲れない。しかし、明け方になると主イエスが湖の畔に現れ、網を舟の右側に降ろすように命ぜられるのです。彼らが命令どおりにすると、舟が沈みそうな大漁がもたらされます。その漁を終えた時、湖の畔で、主イエスご自身が食事を用意してくださるのです。

「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じ様にされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」

 私たちは、今日は聖餐の食卓には与りません。しかし、目に見えるパンは食べなくても、主イエスご自身が与えてくださる主イエスのパン、主イエスの命を頂いているのです。礼拝とは、そういうものです。主イエスの命、主イエスの息を頂くことが礼拝なのですから。そして、その命のパンを、信仰をもって頂いた者の中には、そのパンと共に聖霊が入ります。そして、私たちは聖霊の業をするために派遣されるのです。魔が差した行動をするのではなく、聖霊の働きをするのです。
パウロも、罪の法則に支配され、死に定められた人間の惨めさを語った後に、こう言っています。
「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」
そして、続けます。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」

「アッバ、父よ。」これはゲッセマネにおける主イエスの祈りの最初の言葉です。主イエスは霊に満たされて「アッバ」と父を呼び、そして蛇の頭をそのかかとで砕いたのです。私たちもまた、主イエスに与えていただいた霊に導かれ、「アッバ、父よ」と呼びつつ、そのかかとを蛇の頭を踏み砕くために上げる者となりましょう。私たちをそのような人間に造り替える。それこそ、聖書に書かれている神の意志なのであり、その言葉は必ず実現するのです。

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