「主よ、どこへ行かれるのですか」
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 子たちよ 今日は、先週も少し触れた三三節以下の御言に聞いていきたいと思います。 主イエスは、弟子たちに向かって「子たちよ」と呼びかけます。ヨハネ福音書で(使われているギリシア語として)は、ここにだけ出てくる言葉です。師匠が愛する弟子を呼ぶ時、それも大事な教えを伝える時に、こういう呼びかけがなされるのだと思います。その「時」とは、ユダが夜の闇の中に出て行き、イエス様がこの翌日には十字架に磔にされることが決定した時です。それはイエス様によれば、「今や、人の子が栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」時です。このことは、イエス様だけが分かっていることですけれど、その時、イエス様は弟子たちを「子たちよ」と呼び、決定的なことをお告げになりました。 新しい掟 イエス様はここで、しばらくは弟子たちと共にいるが、その後は、弟子たちもついて来られない所に行く、とおっしゃいました。それはイエス様を信じない、いや敵視するユダヤ人に対しても言ったことです。しかし、それに続けて、弟子たちにはこう言われたのです。 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」 イエス様は、目に見える存在という意味ではご自身が不在になってからの弟子たちのあるべき姿を、掟の形で教えておられるのです。ある人は、「ここに教会が成立する」と言っていますが、それは正しいと思います。教会とは、目に見える形でイエス様を見ることが出来る場ではありません。私たちの誰も、イエス様のことを見た訳ではありません。昔も今も目に見える形でイエス様がここで語っているわけではありません。しかし、イエス様は、目に見えない存在であられるからこそ、今もここに生きておられる。そして、私たちを愛してくださっている。そのことを信じている私たちは、イエス様の言葉、その掟を守って互いに愛し合うことを求められているのです。その愛の共同体こそがキリストの体なる教会、聖霊の宮なる教会であり、キリストはその教会においてご自身を現し、今も人々に働きかけ、語りかけて下さっているのです。そういう教会の現実、それはまさに奥義と言って良いことです。その奥義を、主イエスはここで弟子たちに伝えているのです。 私たちが年に十五回守る聖餐礼拝の中で、私が毎回読む言葉にこういうものがあります。 「キリストの体と血とにあずかるとき、キリストは私たちのうちに親しく臨んでおられます。また、この恵みのしるしは、私たちすべてを主において一つにします。いま、聖霊の神に支えられて、この聖餐に与り、ひたすら主に仕え、その戒めを守り、互いに愛し合いながら主の再び来たりたもう日を待ち望みたいと思います。」 初代教会では聖餐のたびに、マラナタ「主よ、来たりませ」との祈りを捧げましたし、新約聖書の巻末にあるヨハネ黙示録は「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐ来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」という言葉です。世の終わりの日、最後の審判が下される日、裁き主として主イエスが再び地上に来られる。そして、救いを完成される。その日に至るまで、私たちは主イエスを礼拝し、主イエスを伝えるために生きるのです。その礼拝と伝道に生きる私たちの姿、それが「互いに愛し合いながら主の再び来たり給う日を待ち望む」というものなのです。 主イエスの愛 ペトロの愛 一三章からヨハネ福音書の後半が始まりました。それまでに「愛する」という言葉は七回程度しか出てこなかったのに、一三章以降は三〇回近く出てきます。「愛」という名詞の形でも同じです。そもそも一三章の書き出しがこういうものでした。 「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」 主イエスが弟子たちを愛し、それもこの上なく愛し抜くというところから後半は始まるのです。しかし、この段階のペトロ、彼はこの場合も弟子たちの代表者として登場するわけですけれど、彼は主イエスが自分の足を洗ってくださる意味も、ユダが家から出て行った意味も、何も分かっていませんでした。そこに主イエスの愛があること、命を捨てる愛があることを分かってはいないのです。しかし、彼は彼として、主イエスを熱烈に愛していました。主イエスから愛されていることを、彼なりにその心に感じています。しかし、彼の愛の理解にはいつもある種の誤解が付き纏っているのです。彼は、イエス様の「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」という言葉の中に、ある種の危険を感じ取ってはいました。イエス様は、これから非常に危険な目に遭われるのではないか?!そういうただならぬ雰囲気を感じ取ってはいた。しかし、その前の「人の子は栄光を受けた」とか「神が、人の子に栄光をお与えになる。しかもすぐにお与えになる」という言葉の意味は、皆目分からなかったでしょう。そして、そのことが分からないまま、主イエスを愛するものだから、「主よ、どこへ行かれるのですか」との問いに対するイエス様の答えの意味内容が分からない。彼は、さらに問いつつ、彼の主イエスに対する愛を告白するのです。 「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」 しかし、イエス様の答えは、彼にとっては絶句するような悲劇的な答えでした。 「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 イエス様は、ここでまともには答えておられません。まともに答えようがないのです。次元が違うからです。天と地ほどの違いがここにはある。 肉の次元 霊の次元 まず第一に、彼はイエス様のために死ねると思っているのですが、事態は全く逆なのです。イエス様が彼のために死ぬのです。そのことだけ見ても、彼がとんでもない誤解をしていることは明らかです。 ペトロは、あくまでも地上のレベル、肉的なレベル、つまり目に見えるレベルで物事を考えています。しかし、イエス様は天上のレベル、霊のレベル、目には見えないレベルのことをお語りになっているのです。イエス様がこれから行く所、去っていく所、それは「父のもと」「神のもと」です。そして、それはペトロを初めとする弟子たちのため、新たに誕生する教会のためなのです。それは、この時の弟子たちには分かりようのないことですけれど、この先の一六章で、主イエスは弟子たちに向かってこう言われます。 「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」 この弁護者について、一四章の一五節以下を読む必要があります。少し飛ばしながら読みます。 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。・・・この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」 ここには、「愛」と「掟」という大切な言葉も出てきます。主イエスは、主イエスが去った後のことをお語りになっているのです。ここで「わたしを見る」と出てくるのは、肉的な意味ではなく霊的な意味です。主イエスは弁護者、真理の霊として帰ってきて、弟子たちと共に生きてくださり、弟子たちの中に生きてくださる。それが、弟子たちが主イエスを愛するという場合の愛の根拠です。主イエスが、ペトロを初めとする弟子たちのために十字架に架かって死に、復活し、天に上げられることを通して聖霊が与えられるのです。そのすべての御業を通して、主イエスは弟子たちの罪を赦し、新しい命を与え、そして彼らを愛し続けてくださるのです。それも永遠に、です。その主イエスの永遠の命と愛の交わりの中に生かされる。それが主イエスの弟子の現実、教会の現実なのです。 その先で、主イエスは畳み掛けるようにこう言われます。 「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」 主イエスを愛する人は主イエスの掟を守るのです。主イエスを愛していると言いながら、主イエスの掟を守らないということは本来あり得ないことです。しかし、その掟は、実は聖霊が与えられないとその意味も分からないし、そもそも守ることなど出来ないのです。「主よ、どこへ行かれるのですか」と問い、「あなたのためなら命を捨てます」と断言した時のペトロ、この時はまだ誰にも聖霊が与えられてはいないので、彼の愛と信仰もまた人間的なレベル、肉の次元のものに過ぎません。そういう彼を霊的な次元に生きる者とするために、主イエスは、これから十字架の死を経て神のもとに行くのですし、聖霊を与えようとしてくださっているのです。主イエスの「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついて来ることになる」という言葉は、そのことを前提とした言葉なのです。ペトロがこれからも弟子として修業した後とか、そういうことではありません。人間的成長と救いは何の関係もありません。救いは神様の賜物として与えられるものであり、その賜物を全身全霊を傾けて受け取るか否かにすべては掛かっているのです。 ついて来る 従う ここで「ついて来る」と訳された言葉は、弟子として「従う」という意味です。ただ、ぶらぶらとついて行くことではありません。主イエスの歩んだ道を歩む、御後に従うということです。しかしそれは、人間の力では出来ないことなのです。それでもやろうとすると、鶏が鳴く前に三度「あの人のことは知らない」と言ってしまうのです。そういう挫折を味わうことになります。そして、その挫折を経験しない人はいません。 しかし、主イエスの後に従う、常に主イエスと一緒に生きるとは、どういうことなのか?「聖霊を与えられるということだ」と言ってしまえば、それで終わりです。しかし、その聖霊を受けるとは具体的にはどういうことなのか。その問題を、ヨハネ福音書の中で考えていきたいと思います。 主イエスは、主イエスに敵対するユダヤ人と弟子たちを並べて、「『わたしが行く所にあなたたちは来ることが出来ない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」とお語りになりました。 この問題を考えるに当たって、六章を振り返っておく必要があると思います。そこは、いのちのパンを巡ってイエス様とユダヤ人たちが激しく論争する箇所です。イエス様を求めている者たちが、次第に、イエス様を拒絶していく。そういうことが記されている場面です。その中で、イエス様はユダヤ人に向けてこうおっしゃっています。 「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」 「わたしのもとへ来る」とは、一三章では、「わたしの行く所に来る」ということですし、それは究極的には「神のもと」「父の住い」です。「終わりの日の復活」とは、そこで起きる現実です。その「神のもと」「父の住い」に、人間は自分の力で行けるわけがありません。修行を積んで、善行を積み重ねて、人格を完成させて到達するなどということはあり得ないことです。それは、神様が引き寄せてくださって初めて可能なことなのです。そして、それは恵みの賜物です。しかし、その恵みとは、私たちの肉が、その欲望がいつも喜ぶようなものではないことも事実です。 引き寄せる ここで「引き寄せる」という言葉が出てくるのですけれど、この言葉は、ヨハネ福音書の最後、二一章に非常に象徴的な形で出てきます。 ペトロを初めとする弟子たちが、ティベリアス湖で魚の漁に出るのです。漁は伝道の象徴です。ティベリアスとは主イエスの時代のローマ皇帝の名ですから、ティベリアス湖とはローマ帝国を暗示していると言って良いと思います。つまり、この場面は、ローマ帝国におけるペトロを初めとする弟子たちの困難を極めた伝道の姿を描いている。しかし、その日の夜は何も獲れませんでしたが、明け方、最初弟子たちにはそれが誰だか分からなかったのですけれど、イエス様が岸に立っていて、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」とおっしゃったのです。弟子たちが、言われた通りにすると「魚があまり多くて、もはや引き上げることが出来なかった」とあります。それでも、頑張って「網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった」とあります。 ここに出てくる「引き上げる」が、「父が引き寄せてくださらなければ」の「引き寄せる」と同じ言葉です。つまり、この網で引き上げられた魚とは、父が主イエスのもとに引き寄せてくださった人間、主イエスの所に来ることが出来た人間のことです。弟子たちの伝道の業によって、主が霊において生きておられる教会、主が愛し、主の愛で互いに愛し合っている教会に集められてきた人々のことです。 その出来事が記された後、主イエスはペトロに問うのです。教会の群れが非常に大きくなったその時に、主イエスはペトロに問う。 「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」 ペトロは答えます。 「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」 主イエスは言われます。 「わたしの小羊を飼いなさい。」 細かいことは省きますが、こういう問答が三度繰り返されます。三度、主イエスを否んだペトロは、三度、主イエスへの愛を告白する機会が与えられる。そして、主イエスを愛するとは、端的に言って、主イエスの小羊を飼うことなのです。命の糧である御言を与え、パンを分かち合って生かすことなのです。つまり、教会に仕えることであり、信徒を愛することです。この愛に生きること、それが主イエスが聖霊によって地上に生み出した教会の新しい掟です。主イエスが愛してくださったように互いに愛する。ペトロは、その教会の牧者として、誰よりも深く信徒を愛して生きなければならない。それが、彼にとって主イエスを愛することなのです。 そして、主イエスは最後にこう言われました。 「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 この主イエスの言葉を、ヨハネは、こう解説しています。 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。 主イエスに従う。それは、一三章の段階でペトロが出来ると思ったような次元のことではありません。またそれは、自分の欲望に基づいてやれるようなことではありません。「行きたい所へ行く」というようなことでもない。あの町で伝道したいから行くとか、あの教会で説教したいからそこの教会の牧師になるとか、そんなことでは全くない。キリストが「わたしに従いなさい」と命じられるから従うのです。その行き先が、地上のどこであれ、その最終的な目的地は父の住いです。その住いに行くためには、主イエスに従うしかないのです。しかしそれは、神様に引き寄せられて、引き上げられて初めて可能なことなのであり、それは弁護者、真理の霊としての聖霊が私たちと共に、そして私たちの内に生きてくださっている時にのみ可能なことです。 クオ・ヴァディス・ドミネ シェンキェーヴィチというポーランドの作家が「クオ・ヴァディス」という小説を書いています。私は、昔から小説の類をほとんど読まないのですが、題名だけは昔から知っていました。そして、ビデオで映画は見たことがあります。クオ・ヴァディスとはラテン語で「どこへ行くのか」という意味です。言うまでもなく、今日の箇所に出てくるペトロの問いが背景になっています。物語は、ティベリアス帝より三代後の悪名高き皇帝ネロの時代のローマ帝国に生きるキリスト者の伝道と信仰生活を描いているのですけれど、昨日、本屋で下巻だけ買ってきて、「主よ、どこへ行くのですか」という言葉が出てくる所を必死に探してみました。 そうすると、二一章のイエス様とペトロの対話も非常に重要なところで出てくることが分かりました。ネロが、ローマの大火をキリスト者のせいにして大迫害をしたことは有名な話です。その迫害の中で夥しい数のキリスト者が、人々の娯楽のために競技場で野獣にかみ殺されたり、十字架に磔にされた上に火あぶりにされたり、松明代わりに街角で燃やされたりという目にあいました。そういう厳しい迫害の中で、ごく僅かに生き残っている信徒が、とにかくペトロには死んで欲しくないので、自分たちと一緒に避難して欲しいと願う。その時、ペトロは、ティベリアス湖の畔で、主イエスに言われた言葉、「年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」が今も聞こえると答え、「わたしはわたしの羊の群れの後からついていくのがよいのです」と答えるのです。そして、こう続けます。 「わたしの苦労も終わりに近づいてきました。しかし、もてなしと休息は主の家ではじめて得られるでしょう。」 「おぼえていてください。わたしは父がその子を愛するようにみなさんを愛してきました。みなさんがこの世でなさることは、何事によらず主の栄光のためになさるようにしてください。」 この部分には、ヨハネ福音書の二一章だけでなく、一三章から一四章にかけての主イエスの大切な言葉がたくさん塗り込められていることは明らかでしょう。 しかし、ペトロはその後、人々の説得に従い、ナザリウスという人物とローマを後にするのですが、そのペトロにキリストは出会うのです。その場面は、彼にだけ見える光との出会いとして、こう描かれています。 ペトロの手からは旅の杖が、はたと地に落ちた。目はじっと前を見つめている。口があいて、顔には驚きと喜びと恍惚の色が浮かんだ。突然彼は両手をひろげてひざをついた。口からはしぼりだすような叫び声が漏れた。 「キリスト!キリスト!・・」 彼は誰かの足に接吻するように頭を地につけた。 長い沈黙が続いた。やがてむせび泣きに途切れる老人の言葉が静寂を破ってひびいた。 「クオ・ヴァディス・ドミネ?・・」(どこへ行かれるのですか、主よ) その答えをナザリウスは聞こえなかったが、ペトロの耳は悲哀を帯びた甘美な声がこう言ったのをきいた。 「おまえがわたしの民を捨てるなら、わたしはローマへ行ってもう一度十字架にかかろう」 この言葉を聞いて、ペトロはローマの方に踵を返します。ナザリウスがペトロに向かって「クオ・ヴァディス・ドミネ?・・」と問うと、彼は小声で「ローマへ」と答え、そして、引き返す。そして、ローマと世界のために祝福を祈りつつ処刑されるのです。 事実は、この小説の通りであるのか、それは分かりません。しかし、この小説が、 「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついて来ることになる」という言葉の意味を、その深みにおいて語っていることは事実だと思います。かつて「あなたのためなら命を捨てます」と豪語したペトロはものの見事に挫折しました。しかし、そのペトロが今、復活の主イエスに引き寄せられ、主イエスの後について行くことになったのです。彼が行きたい所ではなく、行きたくない所へいく主イエスの後について行くことになった。そして、彼のために死んでくださった主イエスの栄光を、彼の生と死を通して現す者とされた。それは確かなことです。彼は、主イエスを愛し、その羊たちを愛したのです。それは彼一人のことではありません。クオ・ヴァディスには、ペトロの殉教と並ぶようにして「誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしにはなんの益もない」と宣言したパウロの殉教も描かれています。そして、無数のキリスト者たちの殉教が描かれている。彼らは皆、目に見えない主イエスが生きているから私も生きると信じた人々です。そして、主イエスへの信仰と愛を互いに愛し合うことを通して証しをした人々です。その人々は皆、ペトロ達が主イエスの命令によってティベリアス湖に下ろした網にかかり、教会に、天の父の住いに至る教会に引き上げられた人々です。私たちもそうです。私たちも伝道してもらい、主イエスを紹介してもらい、教会に引き寄せて頂き、今も父の住いへと引き上げて頂いている者たち、救いを与えられている者たちです。 その私たちが来週、特別伝道礼拝をするように主に言われているのです。毎年、この季節は、個人的には気が重いのです。不安と徒労感に苛まれるからです。しかし、不安と徒労感が襲ってくるので、尚更、ペンテコステにペトロを初めとする弟子たちに降った火の舌のような聖霊が与えられることを信じて、燃えていく他ありません。私も毎年、何枚もチラシを配り、葉書きを出しています。宝くじではありませんが、「チラシを渡した人全部が来てしまったらどうしよう、とても礼拝後にすべての人の相手は出来ない。困ったな」と思う。しかし、そんな心配が当たったことは、幸か不幸かありません。毎年、せいぜい一人か二人が来てくれるだけです。一人も来ない年もあります。また、皆さんがお誘いしている人も実際に来てくれるかどうかは蓋を開けてみなければ分からないでしょう。「行く」という返事を聞いて、期待に胸を震わせながら待っていても、ついぞ現れないという失望を味わった人は何人もいるでしょう。私は、皆さんがご紹介してくださった様々な方のことを思い、私が誘った色々な方のことを思い、様々な方に合った説教、新来者にも分かりやすく、心に訴える説教を考えなければなりません。これも、ただただ聖霊の注ぎを祈り求めつつその日まで準備をするだけです。誰かをお誘いしている方は、ちゃんと来てくださった時のために、よく祈り、よく準備をしてください。お誘いする方がいない方たちも大勢いると思います。しかし、どうぞ心を一つに備えていただきたいのです。私たちは皆で網を降ろすのです。どなたを神が引き上げてくださるか、私たちには分かりません。でも、私たちは、主イエスに言われた通り網を降ろし、引き上げます。そして、神様によって引き寄せられて教会に入って来た方たちを心から愛する。主を愛するように愛する。誘う方、迎える方、祈る方、食事を作る方、声をかける方、様々な奉仕がそこにはあります。その一つ一つを、愛を込めて捧げたいと思います。特別伝道礼拝は、そういう意味で、私たちが主を愛し、互いに愛し合うことを通して、私たちが主イエスの弟子であることを多くの方に示す大切な機会です。あと一週間、一人でも多くの方が私たちの礼拝を通して主と出会い、神の家族としての教会に加えられますように祈りつつ備えましょう。 |