「心を騒がせるな」
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」 見なさい、ここに私の家族がいる 先週は特別伝道礼拝で、私は例によってぐっすりと眠れず、明け方に凄まじい雨の音で目が覚めて、早朝から神様を恨み、絶望的な気分になりました。でも蓋を開けて見ると、あの雨の中、多くの方が礼拝に来られて大変嬉しく思い、神様を恨んだことを反省しました。去年は、初めての方が一人もおらず、全体の人数もあまり多くない礼拝でした。今年は一〇名前後の方が初めて礼拝に出席してくださいました。教会員の方のご家族や友人の方が何見なさい、ここに私の家族がいる人もいて、「顔の見える伝道」をヴィジョンに掲げている私たちとしては、とても喜ばしいことだと思います。しかし、私がそれと同時に嬉しかったのは、教会員の方が普段の礼拝よりも多かったということでした。雨の日は、特に高齢の方たちが遠方から電車やバスに乗って礼拝に集まることは大変なことです。日傘が必要な暑い日も大変ですが、雨の日の道は滑りやすく危険ですし、人ごみの中で傘と傘がぶつかったりして、普段以上に気を遣います。それでも先週は、やはり特別伝道礼拝ということで、勇気を振り絞って多くの会員の方が集まって下さったのだと思います。それもまた「礼拝に結集する教会形成」をヴィジョンに掲げている中渋谷教会のあり方として喜ばしいことだと思います。 私が特別伝道礼拝の説教に「見なさい、ここにわたしの家族がいる」という題をつけた時いくつかの思いがあり、その内の二つを先週は語りました。しかし、語らなかった一つのことがあります。それは、こうして日曜日の朝夕に中渋谷教会の礼拝堂に集まってこられる教会員の方たちこそ、主イエスの家族であり、また私の家族なのだということです。この家族を、新来者の方や特伝だから来てくださった方たちに見て欲しい。この家族が、こうして日曜日ごとに集まって、イエス様を主と崇め、父なる神様を礼拝している姿を見て欲しい。こうして私たちは命の糧を頂き、神様と呼吸を合わせ、汚れを清めていただき、新たにされ、そして互いに愛し合っている。この私たちの姿を見て何かを感じ取って欲しい。「気が変だ」でも何でもいい。この世にはないイエス・キリストの愛の姿を感得して欲しい。そう願っていたのです。そして、その願いは、先週、叶えられたと思い、神様に感謝しました。少なくとも、私たちは心を一つにして種を蒔いたと思います。その種がどうなっていくかについては、私たちとしては祈りつつ待つほかにありません。 文脈を大切に 今日は、いよいよ一四章に入ります。しかし、元来福音書は章だとか節などで区切られているわけではなく、段落さえもない形で文字が連ねられているのですから、私たちもあまり章の区切りに気を取られないほうがよいと思います。つまり、一四章も一三章後半に直接繋がるものとして読むべきなのです。その文脈を無視してこの箇所を読むと、誤解とまではいかないにしても、本質を見抜けなくなってしまうかもしれません。 一四章の最初の三節を愛唱聖句の一つにしている人は多いと思います。特に葬儀の時に読む箇所として、この箇所を挙げている人は、詩編二三編と共に多いし、私もしばしば臨終の祈りの時、あるいは前夜式や葬儀の時にこの箇所を読んできましたし、これからも読むでしょう。そして、それは相応しいことでもあります。しかし、ここに出てくる「父の家」とか「住む所」とか「場所」という言葉は、すべて死後に行く場所、天国、天の住まいのことなのかと言うと、それは違う。それは、少なくとも事柄の半分しか見ていないことだと言わざるを得ません。 一四章の舞台は一三章と同じです。つまり、主イエスと弟子たちとの最後の晩餐の席上でのことです。そこでイエス様は弟子たちの足を洗い、ユダの裏切りを告げ、ユダが出て行った後に、「今や人の子は栄光を受けた」とおっしゃってから、弟子たちに「新しい掟」をお与えになりました。それは、イエス様が弟子たちを愛したように、弟子たちが互いに愛し合いなさいという掟あるいは命令であり、一四章一五節以降に、この掟がクローズアップされていきます。問題は、「愛」なのです。それは、「愛」という言葉が出てはこない今日の箇所においても同様です。その問題を考えるにあたって、少し文脈を振り返っておく必要があります。 「行く」ことを巡る問答 一三章三三節で、主イエスは弟子たちに向かって「子たちよ」と呼びかけつつ、ご自分がこれから行く所にはついて来られないとおっしゃいました。その後に、今言った「愛の掟」を与え、そして、ペトロとの問答が続きます。 「主よ、どこへ行かれるのですか。」 「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」 「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」 「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 こういうペトロとの対話に続く言葉が、「心を騒がせるな」です。写本では何の段落もなく「三度わたしのことを知らないと言うだろう。心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」となっているわけです。ただ、「心を騒がせるな」と語りかけている対象は「あなたがた」という複数ですから、ペトロだけではなく、弟子たち全員です。三度の否認を予告されたペトロの衝撃は計り知れません。他の弟子たちも、イエス様がこれから行く所には誰もついて来られないと言われたわけで、それはイエス様との愛の関係がまるでないかのようなことですから、彼らのショックが大きいことは想像に難くありません。 心を騒がせる ここに出てくる「心を騒がす」という言葉が、最初に出てきたのは、一一章のラザロ復活の場面です。周囲の者たちが、死の力に押し潰されて泣き崩れている。その現実の中で、主イエスは「心を騒がせ」られました。そしてそれは、ラザロを復活させるために、ご自身が十字架の死と復活に向かって最終的な一歩を踏み出す決意をされたことと深く関係しています。その次は一二章で、いよいよ主イエスが犠牲の小羊として十字架に磔にされる過越の祭りの際にギリシア人がイエス様に会いに来たことを知らされた時です。その時、イエス様は、「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」とおっしゃいました。そして一三章、最後の晩餐の席でユダの裏切りを告げる時、イエス様はやはり「心を騒がせ」られました。しかし、そのユダが家から出て行った時、イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた」とおっしゃり、ご自身の十字架の死は、ご自身の栄光であり神の栄光を現す業であることを宣言されたのです。つまり、「心を騒がす」という言葉は、すべてイエス様がご自身の十字架の死に使われてきました。 しかし今、主イエスは弟子たちに向かって「心を騒がせるな」とおっしゃっている。より正確に言うと、受身形で書かれていますから「心を騒がせられるな」です。つまり、ここでは主イエスの死を漸くにして予感し、その主イエスについていくことは出来ないと断言されてしまい、心を騒がせている弟子たちに対して、イエス様が「心を騒がせるな」と言っているのです。しかし、これは「心頭を滅却すれば火もまた涼し」「不動の心を持て」ということであるはずもありません。イエス様ご自身が、そんなお方ではないからです。 先ほどあげたラザロ復活の場面ではご自身が「心を騒がせ」、また「涙を流された」のです。イエス様の心はいつも悲喜こもごもであり、何事にも動じないとか、氷のように冷たいとか、そんなものではありません。何故なら、イエス様の心は愛に満ちているからです。そして、愛はいつも活き活きとしており、絶えずドキドキと脈打っているものです。でも、ここでその愛を生きるお方が、つまり、死に直面して「心を騒がせる」ことを知っておられるお方が、イエス様が死に向かっているのではないか、最早共に生きることが出来なくなるのではないか、という恐れに捕らわれ、不安と怯えの中に置かれ始めている弟子たちに向かって、「心を騒がせられてはならない」とおっしゃっている。それは、どういうことか? 神を信じるイエス様 この言葉の背景にも、イエス様の経験があると思います。先ほど一二章で、イエス様が父に向かって救いを求めつつ、栄光を現してくださるように叫んだ言葉を引用しました。その後にはこういう言葉があります。 「すると、天から声が聞こえた。『わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。』」 この言葉は、イエス様だけが聴き取ることが出来た言葉です。周囲にいた人々には、何が起こったのかよく分からなかったのです。しかし、この父なる神様からの言葉を聞いた時、イエス様は、はっきりと、「わたしは地上から上げられる時、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」とお語りになりました。つまり、十字架の死を通してすべての人の救いの道となろうとおっしゃったのです。それは、イエス様が、神の言葉を聞き、神を信じたからです。信じるということ。これが決定的なことです。 神を信じ、イエス様を信じるとは そのイエス様が、今、弟子たちに言われる。 「あなたがたは心を騒がせられてはならない。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい。」 何か二つの者を信じるかのような印象を持たれるかもしれませんし、それは一面まさにそうなのですけれど、神を信じることはイエス様を信じること抜きに考えられません。七節に「あなたがたはわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」という不思議な言葉があります。一四章は、現在形と未来形が入り乱れているので、何がなんだか分からない面があるのですけれど、その問題はとにかくとして、ここでもイエス様を知ることと神を知ること、神を見ることは一つのこととして言われています。そして、そのことは既に一章で言われていたことです。一章の一八節にはこうあります。 「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」 私たちは父なる神様のことを、独り子であるイエス様を通してしか知ることも見ることも出来ません。その独り子とは、「父のふところにいる独り子」です。「ふところにいる」とは、愛において一つの交わりの中にいるという意味です。神と一体の交わりをしている方だけが神を知っている、見ているのであり、その神を知らせる、見させることが出来る唯一のお方なのです。だから、旧約聖書を読む時も、この独り子なるイエス・キリストを無視して聖書を読む限り、私たちは神様のことなど何も分からない。古代社会の宗教的文学とか歴史的資料以上のものを見ることは出来ません。神様を見る、神様のことが分かる、神様を信じる、それはすべてイエス様を見る、イエス様が分かる、イエス様を信じることであり、そこから生じることなのです。 そして、そのすべては愛に掛かっています。だから、イエス様は愛の掟を弟子たちに残しておられるのです。イエス様が神を見ることが出来るのもイエス様が神を愛しているからだし、イエス様が弟子たちに神を見せることが出来るのも、イエス様が弟子たちを愛しているからです。そして、弟子たちが、つまり私たちがイエス様に神様を見ることが出来るとすれば、それはイエス様を愛している時です。そして、そのような意味での愛することが、ここでイエス様が「信じなさい」とおっしゃっていることの内容だと、私は思います。 「行く」とは そのことを踏まえた上で、次の言葉に目を凝らしたいと思います。 「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」 ここで二度「行く」と出て来ます。その後の四節と五節にも「行く」と出てきて六節にも「行く」と出て来ます。でも、原文は皆違う言葉が使われています。ヨハネ福音書では、基本的に同じ意味でも異なる言葉が使われることがありますけれど、この場合は、その違いは無視出来ないようにも思います。二節と三節に出てくる「行く」という言葉は、旅を続けるという意味があり、普通に「行く」という意味もあります。しかし、日本語でも逝去の「逝」に「く」をつけて「死ぬ」ことを現す場合があります。この場合は、その意味が強いように思います。ですから、ここは「あなたがたの許から去る」とか「この世から旅立つ」と訳した方が正確だと思います。そして、その旅の目的は何かと言うと、弟子たちのために場所を用意することであり、再び戻って来て、弟子たちをご自身のもとに迎えることです。「だから、心を騒がせるな」と、イエス様はおっしゃっている。 弟子たちは、イエス様が去ってしまったら、死んでしまったら、イエス様と共に生きることが出来なくなってしまうことを恐れ始めているのです。しかし、「もしそんなことになるのであるとしたら、前もって言っておいた」とイエス様はおっしゃいる。一二章の段階で既に、イエス様はご自分が地上から上げられる時、「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」とおっしゃっています。つまり、イエス様が殺されて死ぬということは、イエス様が人間を見捨てて、永遠に不在になってしまうことを意味するのではなく、弟子だけでなくすべての人をご自身のもとへ引き寄せることに繋がるのだ、とおっしゃっていたのです。弟子たちだけでなく、すべての人がイエス様と一緒に生きることが出来るようにするために、地上から引き上げられるのだ、と。 父の家 住む所 戻って来て迎える そこで問題になるのは、「父の家」とか「住む所」という場所を示す言葉と、「戻って来て迎える」という言葉です。これらは何を意味するのか?一般的には、イエス様が天国に場所を用意して下さって、私たちが死ぬ時は、イエス様のお迎えによって天国に住まわせられるという意味で受け止められているのではないでしょうか。先ほども言いましたように、そのことは一面の真理です。しかし、イエス様はただ単に、死後に行くことになる天国における場所を用意しに去るとおっしゃっているのかと言うと、それは違うと思います。 「住む所」とはモネーという言葉で、新約聖書の中でここと一四章の二三節で「一緒に住む」という所にだけ出て来ます。二三節は、「あなたがたのために住む所を作る」というのが直訳です。そして、その言葉の前にはこういう言葉があります。 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」 つまり、父なる神様とイエス様の愛の交わりの中に入れられる、その愛の交わりの中に生きる。それがイエス様を愛し、その言葉を守る、その愛の掟を守る人に与えられることなのだ、ということです。「住む所」とは、その愛の交わりなのです。そして、その交わりは、父とイエス様が、イエス様を愛する人のところに行くことにおいて実現するわけですが、それは具体的には、一五節以下に記されていることです。 聖霊によって戻って来るイエス様 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」 「弁護者」「真理の霊」、つまり「聖霊」として、主イエスは戻って来るのです。弟子たち、つまり、愛の掟を与えられた教会に戻って来て、永遠に一緒に生きてくださるのです。いや、教会が、この聖霊によって誕生する、建設されるということです。 ですから、イエス様のおっしゃる「住む所」とか「あなたがたのための場所」とは、イエス様が霊において生きて下さっている教会のことなのです。神様のふところに生きるイエス様が一緒に生きてくださる場所、教会を誕生させるために、教会を地上にも建設するために、イエス様は去るのであって、それ以外の目的があるわけではありません。 聖霊を受けよ そのことは、ヨハネ福音書の二〇章においても明らかではないでしょうか。主イエスが十字架に磔にされてから三日目の日曜日の夕方、イエス様がいなくなってしまった絶望とユダヤ人への恐れに捕らわれ、まさに心を騒がせつつ真っ暗な部屋の中に閉篭もっていた弟子たちの只中に主イエスは現れて、「平和があるように」と語りかけられました。そして、彼らに「息を吹きかけて」こうおっしゃったでしょう。 「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 三度も主イエスを否んだペトロを初めとする弟子たちの罪を、主イエスは十字架の死と復活を通して赦し、そして聖霊を与えることを通して新たに生かそうとしてくださっているのです。ここに私たち人間にはない愛、究極の愛が現れている。その愛を信じる。イエス様を信じる。神様を信じる。そこに教会が誕生するのです。そして、その時に与えられるのが聖霊です。聖霊を与えられることによってしか、私たちはイエス様を信じることなど出来ないからです。聖霊によってのみ、私たちは自分の罪がイエス様によって赦されていること、神様はその独り子をさえも惜しまずに、私たちを愛してくださったことを信じることができる。そして、その信仰によってしか、私たちが救われることはないのです。イエス様は、その聖霊を弟子たちに与えるために、そして、弟子たちを愛に生きる共同体、ご自身と永遠に一緒に生きる教会とするために、父のもとに行かれるのです。去っていかれる。 だから、「住む所」とか「あなたがたの場所を用意したら」と言っていたイエス様が、最後には、「戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」とおっしゃったのです。「父の家にある住む所」とは、つまり、イエス様のいる所なのであり、それは聖霊の宮である教会のことであり、それは天上にだけあるのでも、地上にだけあるのでもなく、天地にあるのです。「その教会を造るために行くのだから、心を騒がせるのは止めなさい。安心しなさい。ただ神様を信じなさい、わたしを信じなさい。わたしはあなたたちを迎える。」イエス様は、そうおっしゃっている。 そして、イエス様が私たちを迎えて下さるのは、死の時だけのことではありません。私たちが今、肉眼ではイエス様を見ないのに、聖霊によってイエス様を信じる信仰を与えられ、洗礼を受け、そして日曜日にはこうして父なる神の家である教会において礼拝を捧げている。そのこと事態が、既にイエス様が戻って来て、私たちを父の家に迎えてくださっているという現実なのです。 イエス様を信じる喜び 先週の水曜日、私の前任教会のKMさんという方が九二歳で逝去されました。その方は、小学校時代にキリスト者の教師と出会い、いつの日か、教会に行きたいと強く願われた方です。しかし、その願いが叶ったのは、数十年後でした。りんご農家に嫁いでから何年も何年も姑に仕え、家族に仕え、漸くにして「日曜日に教会に行ってもよい」とのお許しが出て、最初にキリスト教を教えてくれた教師が属している松本の教会に通うようになったのです。私が赴任した当時は、まだ七〇代前半でした。その教会は、礼拝前に会員の方が来て掃除をする習慣でしたけれど、その方はしばしば二時間も前に来て、木の床や下駄箱の雑巾がけをしてくださっていました。本当に嬉しそうに、顔をしわくちゃにするような笑顔で雑巾がけをしてくださっていた。そして、礼拝が終わって、玄関でお別れする時、しばしば私に向かって、それこそ溢れんばかりの笑顔をもって、「先生、あたし、こうやって礼拝から帰る時、イエス様から、物凄く大きな花束を頂いたような気がするだよ」とおっしゃるのです。私は、その言葉を聞く度に、「ああ、この方は、私が感じているよりも何十倍もの祝福を感じているんだ。私よりも数十倍もイエス様を愛していて、そしてイエス様から愛されていることが分かるんだ」と思いました。そして、私もなんだか心の底から嬉しくなったのです。その方が住む村で、教会に通っているのはその方だけだし、もちろん家の中にクリスチャンはいない。先週の説教の言葉で言えば、世間の常識の外に立っている、まさに「気が変だ」と言われるような立場に立っている人です。でも、いや、だからでしょう。気が狂わんばかりにイエス様を愛しているのです。だから、イエス様の気が狂わんばかりの愛、自分の命を、あの十字架につけてまでして人間の罪を赦し、新しく生かそうとしてくださる、父の家に迎え入れてくださり、そこで永遠に生かしてくださるという愛が分かるのだと思います。 最近は高齢の故に、なかなか礼拝にも来られないと風の便りで伺っていたので、今年の五月に、妻と二人でお訪ねしました。八年ぶりです。家の中でも台車を押しながらでしか歩けなくなっておられたし、耳も随分遠くなっておられましたが、その分、大きな声で元気にお話してくださいました。そして、私たちに真っ先に見せてくださったのは、今年の冬に、教会の牧師と会員の皆さんが訪ねてくださって家庭集会を開いて下さったことです。記念の写真を見せてくれ、そして、その集会の後に教会員の方が書いてくださった葉書きを見せて下さったのです。そういうことを通して、KMさんが何を私たちに伝えたかったのかと言えば、「わたしはこんなにもイエス様に愛されているんです」ということです。「こんなに愛し合う神の家族の中に生かされているんです」ということです。「先生、うれしいだよ。ありがたいだよ」と、顔をしわくちゃにしておっしゃいました。それは、「先生、わたしは神様を信じることが出来て、イエス様を信じることが出来て、本当に嬉しいです。それもこれもみんな神様のお陰です。私は、イエス様に教会という父の家に迎え入れられて、こうして生きています。だから安心してください。私はこの教会を通して天に行きます。何も心配していません。ここにも、天上にもイエス様はいてくださいますから。」そういうことをおっしゃっていたのです。私はまたもや、この方から、信じて生きるとはどういうことなのかを教えていただきました。そして、今日の主イエスの言葉が、何を語っているのかを教えていただきました。 中渋谷教会にもたくさんの信仰の証人がいます。それぞれに父の家の中に住む所があることを知らされ、その愛の交わりの中に生かされ、そして、天上における永遠の愛の交わりの中に迎え入れられていったのです。私たちも、必ず、その道を歩むことになります。イエス様その方が、真理、命としての道なのですから。そして、私たちは今、聖霊の注ぎを受けつつイエス様を見ており、父を見て、賛美しているのですから。私たちは、父の家に住んで互いに愛し合う神の家族にしていただいたのです。だから、何も心配することはありません。心を騒がせることは、何もないのです。 |