「わたしは道であり、真理であり、命である」
「 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(四節〜一一節) 「分かる」とは ヨハネによる福音書の一四章に入って二度目となります。ある学者は、「この一四章にはすべてがある。この土台の上にヨハネ福音書は成り立っている」という趣旨のことを言っています。たしかに、そうだな・・と私も私なりに思います。ここに出てくるイエス様は、肉体をもって世にある者として、また肉体としては既に世を去ってしまった者として、その両方の立場を持って語っておられるのだし、それは同時に、過去の歴史的人物として語っている面と、今も霊において生きておられる神・キリストとして語っておられる面の両方を持っているということです。だから、ここに登場する弟子もまた、イエス様が十字架に磔にされる直前の弟子たちであると同時に、この福音書が書かれた当時の教会員でありまた今の私たちの姿でもある。そういうことなのです。 私は今、「そういうことなのです」と何だか分かったような言い方をしました。でも、理屈ではそういうことなのだと「分かる」ということと、この箇所を読むこと、語ること、あるいは聴くことを通して、主イエスを知り、また父なる神を見る。そういう意味で「分かる」ことは全く別のことです。説教を聴くことを通して理屈が分かっても、全く分かっていない人はいますし、理屈はよく分からなくても、主イエスを見、その御前にひれ伏し、感謝し、賛美をもって帰っていく人もまたいる。それは説教を語る牧師の側においても全く同じであり、分かったように語りながら分かっていないことがあり、分かったように語れなくても分かっている場合があります。主イエスの言葉は、絶えず、そういう裁き、分離を私たちの間に引き起こしていくものである。それもまた、ヨハネ福音書が何度も強調してきたことです。 私は説教者ですから、礼拝で語るために、また自分自身として知りたいので、ヨハネ福音書を一生懸命に読みます。皆さんに先んじて、皆さんの目となり耳となるような気持ちも持って聖書を読む。そうして、特にこの一四章のような箇所、つまり、出来事が記されているのではなく、イエス様の説教が続いているような箇所を読む時、やはり困惑します。よく分からないのです。 先日も、「行く」と訳されている言葉が、ギリシア語では三つの言葉が使われていることを言いました。「行く」という言葉一つとっても、様々な意味合い、含蓄があるので、トマスやフィリポのような気分になります。そこで、手元にある色々な本を読んだりもします。でも、妙に分かったようなことが書かれているものは、何だか信用できない。なんだか嘘っぽい感じ、薄っぺらな感じがしてしまう。私が天邪鬼だからそうなのかもしれません。でも、もっと苦しんでくれよ・・と思ってしまう。理屈が通ったからって、嬉しそうに語るんじゃないよと思うのです。そういう時、アウグスティヌスという人の説教を読むと、なんだか嬉しくなることがあります。多くの場合は、私などが読んでもよく分からないことが多いのですけれど、一四章に入るとアウグスティヌスの説教が、突然歯切れが悪くなったり、この点は、次の機会に回すことにしよう、と言ったりする。理解することや語ることに苦しんでいるのが、よく分かるのです。こうやって苦しんで聖書を読み、そして苦しみながら語っている人の話はやっぱりちゃんと聞こうと思って一生懸命に読んでいると、こういう言葉に出会いました。 「主ご自身はご自分を通ってご自分へ、そして父のところへ行かれるのである。わたしたちも主を通って主ご自身のもとへ、そして父のもとへ行くのである。霊的に洞察する人以外に誰がこのことを理解するであろうか。たとえ霊的に洞察するとしても、その人が理解するのはどの程度であろうか。」 「主ご自身はご自分を通ってご自分へ、そして父のところへ行かれる。」それがこの箇所で主イエスがおっしゃっていることだと彼は言う。しかし、このことは霊的に洞察する者だけが理解するのであって、理屈で理解出来るものではない。また霊的な洞察と言っても、それがどの程度のものなのかは、所詮人間には分からない。そう言った上で、彼は、そういう霊的なことを、人間が語るのは、基本的に不可能なことなのだが、しかし、主が説教することを与えるが故に出来る限り語るが、主が理解を与えてくださらない限り説教を聴いても理解は出来ないのだと言います。そして、その理解の前提は信じることであり、信じて聴かなければ何も理解出来ない、と彼は言います。それは本当のことだと、私も思います。以上のことを踏まえた上で、今日は四節以下に入っていきたいと思います。 「行く」を巡って 先ほど、「行く」という言葉が三つ使われていると言いました。二節三節で、イエス様が「場所を用意しに行く」という場合の「行く」(ポレウオマイ)は、この世を去る、旅立つ、そういう意味であることを先週言いました。四節と五節に出てくる「行く」(ヒュパゴウ)は、一三章の後半に「わたしが行く所にあなたたちはついてくることができない」という形で既に出ています。これはイエス様が父の許へ行くということであり、そこに含蓄されているのは、十字架の死と復活と昇天です。罪人の罪を贖う小羊として死に、復活、昇天を通して、罪人と神を繋ぐ道となる。これは、主イエスだけが行くことが出来る道であり、いや、主イエスその方が道であることを暗示する言葉だと思います。しかし、トマスは、「自分たちは主イエスがどこへ行くのかも分からないし、目的地が分からないのだから、その目的地に向かう道だって分かるわけがないじゃないか」と主イエスに訴えます。それに対して、イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃる。「わたしが道である」と訳してもよいと思います。そして、「わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことができない」とおっしゃる。その時の「行く」にはエルコマイという言葉が使われています。これは英語で言えば、goとかcomeで、文脈によっては「故郷に帰る」という意味になります。この場合は、「イエス様を通らなければ、だれも父のもとに帰ることはできない」という意味合いで解釈することが相応しいのではないかと思います。ということは、父に至る道であるイエス様を知らない人間は、すべて故郷を失っている。父の住まいに場所を持っていない。永遠の住まいがない。自分がどこから来て、今自分がどこにいて、これからどこに行くのかが分からない。そういう迷子の状態であるということになります。 迷子の現代人 現代は価値観の多様化が叫ばれ、また科学の時代とも言われ、それはまた理性の時代とも言われます。それはつまり、一つの価値観に束縛される時代は終わり、迷信の時代も終わり、人は自分の理性によって自分の生きる道を選択できるのだということです。そして、それは確かにそうだと思いますし、よい面が沢山あると思います。しかし、その一方で、実は多様な価値観の中で何を選んだらよいかも分からず、「我思う、故に我あり」と近代的な自我の確立を自分の思考の中に求められても、困ってしまう。「我思う」の、「我」とは何かも分からぬまま、善いと思うものを選べと言われても、何を選んだらよいか分からずにうずくまってしまう。あるいは、考えても何も分からないのだからとただ流れに身を任せて漂ってしまう。そういうことも実際には多いのではないでしょうか。「あなたの生きる道はこれだ」と言ってくれないと、どうすることもできない。そういうこともあるだろうと思います。 ヨハネ福音書一四章の段階の弟子たちは、言うまでもなく科学の時代に生きていたわけではなく、ユダヤ教の世界の中で生きていたのです。その彼らが、主イエスとの出会いを通して、全く新しい世界に触れ、その世界の中で生きようとしてついて来た。しかし、その頼みのイエス様が、今、「わたしが行く所に、あなたたちは今ついてくることが出来ない」と言われ、ペトロの「あなたのためなら命を捨てます」という言葉に対しては、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」とおっしゃった。これはもう関係の断絶を宣言されたということです。彼らは今、ユダヤ人に殺されようとしているイエス様の弟子なのですから、今更、ユダヤ教の世界にすんなり帰ることもできませんし、かといって、主イエスの行く所についていくことも出来ないとすれば、自分の居場所がないということになります。それが、彼らが「心を騒がす」理由です。そして、先週言いましたように、主イエスが「心を騒がす」という場合、それはいつも、死に直面する時です。弟子たちも今、自分たちの存在の根拠が脅かされる。そういう現実に直面している。あるいは、直面していることを自覚したのです。 しかし、考えてみれば、私たちは生まれた時から、自分の存在の根拠が脅かされる現実に直面しているのです。つまり、死の現実に直面している。誰だって生まれた時から死に向かっているのだし、その死がいつ何時襲ってくるか分からないのですから。しかし、勝手にまだ死なないだろうと決めている、思い込んでいるだけであって、いつ何時交通事故に巻き込まれるか分からないし、災害に巻き込まれるか分からないし、不治の病に侵されていることを知らされるか、それは分からない。そのことを思う時に、あるいは気づく時に、心を騒がせない人はいないと思います。私たちは、自分がどこから来て、今、どこにいて、これからどこに行くのか分からない時、このまま死んでしまうということに脅えます。それは自分の存在があまりに空虚であり、所在ないものであることを知るからです。心を騒がすとは、そういう現実のことでしょう。 しかし、主イエスは、そういう現実に何度か直面しつつ、今は、心定まっておられるし、弟子たちにも、同じことを求めておられるのです。主イエスが何故、心が定まっておられるのか?それは、ご自身がこれから行く所は、父のもとであることをはっきり知らされており、信じておられるからです。父のもとから来て、父のもとへ帰り、そして再び戻って来て、弟子たちを父の住まいに迎え入れる。その道筋、つまり、神様の秘められた救いのご計画が鮮明に見えているからです。そして、その「父の住まい」とは、いわゆる天国のことだけでなく、実は、主イエスご自身のいる所、聖霊において生きておられる所、つまり、聖霊によって誕生した教会、イエス様を「わが主、わが神」と信じる者たちの共同体、教会こそが「父の住まい」なのです。その事態を、アウグスティヌスは「主ご自身はご自分を通ってご自分へ、そして父のところへ行かれるのである。わたしたちも主を通って主ご自身のもとへ、そして父のもとへ行くのである」と言ったのです。 私たちが、そのことを霊的に理解すること、ただそのことに救いが掛かっています。ヨハネ福音書においてイエス様が語る「永遠の命」とは、そういうことなのです。この先の一七章三節に、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とあります。神から道として、真理、命として遣わされたイエス様を知ること、信じること、そのことを通して神様を知ること、見ること、そこに永遠の命があるのです。何故なら、そのことが、自分の帰るべき故郷に帰ることだからです。この世に生まれたとは、実は、帰るべき故郷を捜し求めるために生まれたということであり、その故郷を見つけた時、人の心は初めて平和になるのです。そして、それが見つかるまでは、実は、絶えざる不安と恐れに満たされている。心を騒がしているのです。その状態だけでは生きていけないので、仕事に熱中したり、遊びに熱中したりして、結局は、パスカルという人が言ったように、惨めな自分を忘れるようと気紛らわし、気晴らしをしているに過ぎない場合が多いと思います。 英語で迷子になったことを、I'm lostと言います。ロストとは、失われたとか、見失ったとか、いう意味であると同時に、破滅したとか、死んだという意味もある言葉です。そういう意味で、永遠の命を失った状態を意味する言葉でもあります。 「あなたはどこにいるのか」 私は、創世記が好きで、何度も何度も読み、また語っています。青学の短大の講義もいつも創世記から始めますし、明後日から出かける大阪女学院の中学一年生相手の講演でも、最初は創世記の話をします。もう三〇年以上、創世記は読み続けている。だけれども、少しも飽きないし、いつもドキドキします。何故かと言うと、そこには人間の最も深い姿が描かれているからです。その姿の一つは、神様からの問いかけの中にあります。神様は、蛇に唆されて禁断の木の実を食べてしまい、夫婦の関係を壊し、また神様との関係も壊してしまい、葉っぱの陰に隠れているアダムに向かって、こう問いかけられました。 「あなたは、どこにいるのか。」 そして、エバに向かっては、こう問いかけられた。 「あなたは、なんということをしたのか。」 「あなたはどこにいるのか。」 「あなたは、なんということをしたのか。」 この二つの問いは、人間の本質を言い当てていると思います。私にとって、いつでも胸に突き刺さってくる問いです。「あなたは、どこにいるのか」は、「あなたは、今、誰なのか」という問いです。たとえば、門限になっても帰ってこない子どもに親が携帯電話で電話して真っ先に聞くことは、「今、どこにいるの?」ということです。でもこれは、居場所を聞いているだけではないでしょう。「門限を守ると約束したあなたは今、どこにいるの?」ということです。「わたしとの愛と信頼の関係の中に生きていた子供としてのあなたは、今、どこにいるの?もう私の子どもではないの?」という問いです。この問いに対して、まともに答える子供は少ないでしょう。「友達が帰してくれないから」「電車が遅れてしまったから」ととっさにはぐらかす。夜、家に帰ってこない夫、また妻も同様でしょう。誰も彼もが、「あなたが一緒にしたあの女が食べろと言ったから食べた」「蛇がだましたから食べた」と言うのです。まさに、私たちは、そういう意味でも、「なんということをしてきたのか」という人生を生きてきたはずだし、神から隠れて生きている。そうやって、エデンの園から追放され、あるいは神の束縛を嫌って自ら脱出し、弱肉強食と性の乱れを伴う野蛮な文明を作り出しつつ生きている。それが創世記の楽園追放物語、カインとアベルの物語、カインの末裔の物語が明らかにしている、私たち人間の現実です。神の御前に自らの罪を悔い改めないが故に、追い出され、いや、自ら家を出て、それが自立だ、自我の確立だ、自分次第で何でも出来ると自負している。しかし、実は寄る辺ない自分の惨めさから目を逸らしているだけなのだし、絶えず根源的な不安と恐れを抱え持っているのです。それは、罪が赦されないまま残っていることの不安であり、恐れです。 弟子たちは「知っている」はず しかし、主イエスは、弟子たちに向かって、「あなたがたは、そうではないはずだ」とおっしゃっている。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」とは、そういう意味です。これは弟子たちにだけ向けた言葉です。私たちキリスト者に向けた言葉です。主イエスを信じている、少なくとも信じていると思っている者たちに対する言葉です。しかし、私たちの信仰もまた、実に不確かであり、不安定なものであることは、私たちが日々経験することでもあります。トマスは、言います。 「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 しかし、イエス様はこう言われました。 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 トマスの言葉の中に出てくる「分かりません」も「知りません」もギリシア語では同じオイダという言葉で、それは「その道をあなたがたは知っている」とおっしゃったイエス様の言葉に対応しています。しかし、ここでイエス様が、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知る。今から、あなたがたは父を知る」と三度も出てくる「知る」は、ギノースコウという別の言葉が使われており、オイダとは意味が少し違うように思います。このギノースコウは、この後の一五節以下で、イエス様が復活して以降弟子たちに送られてくる「真理の霊」を「知る」とか、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」という形で出てきます。つまり、聖霊が注がれ、その霊を受け入れることを通して、神様とイエス様が一体の交わりをしていることを知り、またイエス様が私たちと一体の交わりをして下さっていることが分かる。そういう意味なのです。つまり、ここで、復活と聖霊付与を通して誕生することになる、いや誕生している教会の霊的な現実が言われているのです。そして、その教会の本質が最も鮮明に現れるのは、この礼拝の時です。この礼拝において、霊の言葉を通してご自身を示されるイエス・キリスト、今日も与る聖礼典においてご自身を現すイエス・キリストを見て、そこに神の姿を見る。そして、賛美を捧げる。それが教会です。その教会に属している私たちは、全世界の救いが完成するその時に、パウロが言っているように、はっきりと神の御顔を見ることになります。罪人は神の顔を見ることは許されていないのですから、神の顔を見ること、そのことが救いなのです。しかし、聖餐に与るたびに歌う讃美歌二〇五番にありますように、今も既に、私たちは神の御顔を映し偲ぶことが出来るのです。そこにおいて、今「既に父を見ている」のです。そして、それが救われていることの証拠なのです。 「父を示す」御子イエス・キリスト しかし、そのことは信仰において起こる現実であり、それがふらついている時、おぼつかない時、私たちは、再び迷子のような不安に襲われる。自分がどこにいるのか、どこに行くのか分からないという不安に襲われるのです。 その不安の真っ只中にいるフィリポがこう言います。 「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」 イエス様は、こう答えられました。 「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」 ある注解書には、「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」とは、ヨハネ福音書をここまで読み進めてきた者たちに対する言葉である、とありましたが、それはまさにそうなのでしょう。 私たちは、目に見える印を求めます。目に見えるものが確かだと思っているからです。愚かなことです。目に見えるものに永遠なものはないのですから。しかし、私たちは目に見えるものこそ確かだと錯覚している。 フィリポは、「お示しください」と言います。「見せてくれ」ということです。一〇章三二節にイエス様とユダヤ人の問答があり、その中に「示す」という言葉が出てきます。 すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」 イエス様が示す業、それはここでユダヤ人が皮肉にも言い当てているように、結局、イエス様が神であること、イエス様を通して神ご自身が示されている業なのです。その業を見て神様を信じるということが、次回一四章一〇節以下の問題になりますけれど、今日は、福音書の結論部を読みたいと思います。また例によって、主イエスが復活して弟子たちが閉篭もっていた部屋に現れ、その真ん中に立ったというあの場面です。 そこで、主イエスは、弟子たちに「平和があるように」と語りかけました。「心を騒がせないでよい。わたしはここにいる。あなたがたの真ん中にいる。心配しないでよい」ということです。「あなたが隠れていても、私はあなたを捜し求め、見つけだす。『なんということをしたのか』と言われるようなことをしてしまっても、私はあなたを赦す。だから、心配しないでよい。」主イエスは、そうおっしゃったのです。そして、「手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」 「手とわき腹」、それは、十字架に磔にされた時についた釘跡の残る手であり、槍で突き刺された傷跡が残るわき腹です。その手とわき腹を見せた、つまり、示したのです。これが究極の神の業だからです。そして、イエス様が神であることを示す業だからです。ここに「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された」という神の姿が示されているのです。 トマスは、この時、この場にはいませんでした。彼は、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。しかし、主イエスは一週間後の日曜日に彼の前にも現れ、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。その言葉を聞いて、トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の告白をし、主イエスを礼拝したのです。主イエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃいました。これがヨハネ福音書本文のイエス様の最後の言葉です。(二一章は付録ですから。) 「見る」こと「信じる」こと 言うまでもないことですが、「見る」という言葉も、二重の意味があります。肉眼で見ることが一つ、霊において見ることが一つです。主イエスが、求めておられることは、肉眼で見て信じるのではなく、主イエスの言葉を読み、またその説き明かしを聴くことを通して霊において見て信じることです。主イエスの手のひらを、そのわき腹を。そこに神の姿を見て、イエス様を「わたしの主、わたしの神よ」と信じ、礼拝することです。自立だ、自我の確立だと嘯いてエデンの園から出て行った罪人を、ご自身の独り子を十字架につけて裁くことまでして迎え入れてくださる、その神の愛を見て、信じることです。そこに救いがあるのです。その信仰によって、失われた子、いなくなっていた子、死んでいた子が、父の家に帰ることが出来るからです。 私たちがこれから与る聖餐の食卓、それはまさに父の家に帰ることができた喜び、「平和があるように」と語りかけて下さる主を見ることができる弟子の喜びの食卓です。この食卓を通して、私たちの罪は赦され、神の愛の中に包まれ、その愛で生かされ、その愛に生きる者と造りかえられるのです。その主を信じましょう。その時、一切の思い煩いから解放され、神の子とされた喜びに満たされます。 |