「信じなさい」

及川 信

ヨハネによる福音書 14章 1節〜14節

 

 内にいる

  ヨハネ福音書一四章一節から一四節までの単元を読んでいて気がつくことがいくつかあります。その一つは、「信じなさい」という言葉が、その最初と最後の方に繰り返し出てくることです。一五節以下には「愛する」という言葉が何度も出てきます。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」ことを信じる。それが主イエスによって求められていることだし、イエス様を愛して、その言葉を守る者は、「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが分かる」ようになるのです。そのことを分かって欲しい。だから信じて欲しい。だから愛して欲しい。イエス様の言葉は、その一点に集中していると言って良いと思います。

  今日は一〇節以下の御言に入ります。

「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」    いつもながら不思議な言葉です。イエス様の言葉は、イエス様の内に生きておられる父なる神様の言葉なのですから、通常の人間の言葉とは違うのは当然です。ですから、私たちの理性も必要とされますけれど、理性だけで分かるのであれば、イエス様が「信じなさい」とおっしゃるはずもありません。イエス様の言葉は、信仰によってしか分からないのです。分かったから信じるのではなく、信じるから分かるのです。
イエス様は六章で、弟子たちに向かってこうおっしゃっています。
「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。・・・こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることは出来ない』と言ったのだ。」  イエス様の言葉は霊の言葉なのですから、霊的に受け取らなければ、全く理解出来ないか、誤解するかしかありません。理性とか知性だけで理解できるのであれば、それは、学者のような人にしか理解出来ないことになります。

 言葉と業

 そのことを自覚した上で、主イエスが何をおっしゃっているか、その字句の意味を確認しておきたいと思います。一四章で繰り返されていることは、イエス様と神様はお互いの内に生きておられるということです。それはつまり、イエス様は神様であり、神様はイエス様を通してご自身を現しておられることを表しています。そのことを信じる。どのようにして信じるのかと言えば、それはイエス様の言葉を聴いて信じるのです。そこに私たちの命がある。それは、逆を言えば、信じない所には命がないということです。
そして、一〇節一一節で、イエス様がおっしゃっていることの一つは、イエス様が話しているという行為とその言葉が神様の業であるということです。だから、イエス様が語る言葉を信じることとイエス様の業を信じることは同じことなのです。一見すると、言葉で信じることが出来ないのならば、数々の奇跡的な業を見て信じなさいとおっしゃっているように見えますけれど、そうではありません。イエス様の言葉が即神の業の現れであり、イエス様が語ることそのものが神の業なのです。そのことを信じる。それがここで求められていることです。

信じること、業を行うこと

そう受け止めた時、初めて一二節以降との繋がりがはっきりしてくるのではないでしょうか?イエス様はこう言われます。

「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」

 イエス様の言葉を聞いてイエス様を信じることと、イエス様の業を行うことは、イエス様の言葉そのものが神の業であることを信じることにおいて繋がるのだと思います。しかし、私たちはどういう意味でイエス様の業を、それももっと大きな業を行うようになるというのでしょうか?  そもそも、一四章が置かれた文脈において、弟子たちは、これからイエス様の行く所にはついていけないと言われているのです。ペトロが、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と、その愛と信仰を告白しても、イエス様は、「あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言って、イエス様と彼ら弟子たち、つまり肉をもって生きている人間とは隔絶した存在であることをイエス様自身が断言しておられるのです。つまり、人間にはイエス様の業は出来ないということです。しかし、その際も、「あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」と将来の含みを持たせておられました。そして、今日の箇所では、「もっと、大きな業を行うようになる」とおっしゃっています。これは完全に未来のことをおっしゃっているのです。
この「もっと大きな業をする」に関しては、古来様々な解釈があります。私も色々と考えてみました。弟子たちがイエス様の業よりも大きな業をするようになると考えることも出来るのですが、信じる者が今以上に大きな業をするようになると考えることも出来ます。つまり、比較の対象をイエス様と弟子と考えるか、弟子の現在と未来と考えるかということになります。ひょっとすると、二者択一ではなく、両方とも大事なのかもしれません。
 私としては、弟子たちが、イエス様を本当の意味で信じることが出来る時、彼らはイエス様の業をするようになり、その業は、イエス様が肉体をもって生きておられた時の業よりも、大きな業をするようになる。そういうことを、イエス様はおっしゃっているのだと思います。そしてそれは、もちろんこの段階の弟子たちの業をはるかに凌駕する業であることは言うまでもありません。その業を彼らがするようになるために、イエス様は「わたしが父のもとへ行く」とおっしゃっている。私は、そう思います。

 行くこと戻ること

 この場合の「行く」は、二節や三節に出ていた「行く」で十字架において「死ぬ」ことです。そして、それは同時に弟子たちの所に「戻って来て」、弟子たちを「迎え」、いつも弟子たちと共に生きるということでもある。少なくとも、そのことのために主イエスは「父のもとへ行く」のです。それは一五節以下にありますように、イエス様が十字架の死を経て復活し、天に上げられて以降、父から送られる弁護者、真理の霊、つまり聖霊として主イエスが戻って来る。その霊が、いつも弟子たちと共におり、弟子たちの内にいる。そういう時が来る。主イエスは、そうおっしゃるのです。その霊が弟子たちに送られるために、主イエスは父のもとへ行かれる、と。その時に、弟子たちはイエス様の業、それももっと大きな業をするようになる。主イエスは、そうおっしゃっている。
 そういうことを考え合わせると、ここで主イエスがおっしゃっていることが次第に分かってくるようにも思います。しかし、その先には、さらに不思議な言葉が続きます。

「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 この「何でもかなえてあげよう」という言葉もまた、イエス様の業よりも大きな業をすると同じく、よく意味が分からない言葉です。
イエス様自身が一三章では「僕は主人にまさりはしない」ともおっしゃっているのです。私たちは、その言葉は何の抵抗もなく受け容れることが出来ます。私たちが主イエスに勝るはずはないからです。そんなことは分かっていることです。それと同じように、主イエスにお願いすれば「何でもかなえられる」わけではないことも、私たちは知っている。しかしそれなのに、主イエスは、弟子たちが、ご自身よりも大きな業をするようになると言われ、ご自身の名によって願うことは何でもかなえてあげると言われる。これは一体どういうことなのか?

「わたし」の二重性 肉と霊

 ヨハネ福音書が時間や空間を越えた叙述をすることは、何度も言ってきました。表面的な文脈としては、十字架にお掛かりになる前のイエス様が語っていることであっても、実際には、復活以後、聖霊において生きておられる主が語っている。そう受け止めないと分からない所がたくさんあります。今日の箇所に出てくる「わたし」とか「わたしを信じる者」という言葉が何を意味するのかも、よく考えないといけないと思います。
 イエス様に向かってペトロが「あなたのためなら命を捨てます」と言った時、彼は彼として、イエス様を信じ、愛していたことは間違いありません。しかし、そこで彼が見ていたイエス、あるいは信じ、愛していたイエスは、明らかに十字架以前のイエス様、肉体を持って生きておられるイエス様です。イエス様は、その信仰と愛は拒絶されます。その信仰と愛は、必ずや挫折するからです。それはイエス様を信じているのではなく、自分の信仰を信じているからです。  ですから、一二節でイエス様が「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」とおっしゃる時の「わたし」とは、肉体をもって生きている時のイエス様のことではあり得ません。父のもとへ行って、戻ってきたイエス様のことです。そして、ここに出てくる「わたしを信じる者」とは聖霊において語り、その業をなすイエス様を「信じる者」のことです。つまり、私たちキリスト者のことです。私たちは誰一人、肉体をもって生きているイエス様をこの肉眼で見て信じているわけではありません。私たちは聖霊の導きの中で、聖書の言葉と、その説き明かしの説教と、信仰に生きる人々の言葉とその業を通して、イエス・キリストと出会い、神と出会い、信じ、罪を赦され、新しい命、永遠の命を与えられて生かされている者たちです。そして、二一世紀の今、イエス様が霊において生きておられること、私たち人間に語りかけ、働きかけてくださること、それは全世界において今もイエス様の弟子たち、つまり私たちキリスト者によって行われている業です。私が今語っている説教、その言葉、それもまた生きているイエス様の業であり、ある言い方をすれば、イエス様が地上に肉体をもって生きておられた時よりも大きな業であると言えますし、また、こんな業は、私が信仰を与えられ、聖霊の導きを与えられなければ決して出来ない業です。そういう意味で、信仰を与えられていなかった当時の私とは比べ物にならない業をすることが出来るようになったのです。それは、信仰者すべてに与えられていることです。目は目だし、耳は耳だし、口は口、手は手、足は足です。それぞれの賜物を通して、イエス様の業をすることが出来るようにされたのです。しかし、その業とは具体的には何なのか?あるいは本質的には何なのか?それが問題になります。

 イエスの名によって願う

 そこで、あらためて一三節以下の言葉を見なければなりません。そこには、「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」というイエス様の言葉が、二度も繰り返されています。そして、この言葉は、これから何度も出てくるのです。その一つ一つを検討する時間はありませんが、その言葉が出てくる前提は、主イエスと弟子たちが信仰と愛によって繋がっているということです。木とその枝が繋がっているように繋がっている。その時、弟子たちがイエス様の名によって願うことは、何でもかなえられる。イエス様は、そうおっしゃっています。その場合の「繋がる」「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」「おられる」と同じ言葉ですし、一七節でイエス様が「この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいる」とおっしゃっていることと同じ言葉です。そういうことを考慮すると、イエス様の名によって願うこととは、イエス様が私たちの内において願うことと同じことなのです。イエス様に対して、私たちの願望を何でも訴えればイエス様が聞いて下さるとか、そういうことでは全くありません。金持ちにしてくださいとか、病気を治してくださいとか、学校に合格させてくださいとか、そういう様々な現世利益を私たちは願っています。しかし、そういうものを何でもかなえてあげると、イエス様がおっしゃっているわけではない。

 人の願い 神の願い

 この福音書の一つの頂点は一一章のラザロの復活の記事です。その一一章の中での頂点は、マルタの信仰告白ですけれど、その告白の直前で、彼女はイエス様にこう言っているのです。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いすることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
 イエス様が神様に願うことは何でもかなえられるのです。このマルタの言葉を受けてイエス様がおっしゃったことは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」です。
 マルタは答えます。
「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」  ここで起こっていることは、マルタが願っていることを、主イエスがかなえてあげたということではありません。彼女は、ラザロが死ぬ前にイエス様に来て欲しいと願っていたのです。イエス様は、嫌というほどその願いを知っていました。しかし、その願いをかなえようとはされず、ラザロが重病であることを知らされた後、あえて二日間も動かれなかったのです。それは、神の願いをかなえるためです。そのために、ラザロが死んだ後に出かけられたのです。その神様の願いとは何かと言えば、ラザロを肉体的に復活させることに留まらず、マルタやマリアに信仰を与える、彼女らを「信じる者」とし、その信仰において、死んでも生きる命、また決して死なない命を与えることなのです。これが神様の願いであり、それがイエス様の願いであり、イエス様はその願いを実現して神の栄光を現されるのです。そして、その栄光を現すべく、イエス様は十字架の死と復活に向かわれる。そのことを通してしか、人の罪は赦されず、人が神の内に生き、神がその人の内に生きるという現実はもたらされないからです。その現実をもたらすこと、それが神の願いであり、イエス様の願いであり、そして、イエス様を信じる者が、イエス様の名によって願うことです。それこそ現世利益をはるかに越えた、永遠の利益でしょう。

   主イエスの願い

 主イエスは、私たちが真実に願うべきものが何であるかを明確に教えてくださっています。その一つの典型が毎週礼拝において祈る「主の祈り」です。主イエスが弟子たち、つまり、主イエスを信じる者たちに教えられた祈り、それは「天にまします我らの父よ、御名が崇められますように、神の国が来ますように、天で行われるとおり、この地上でも神の御心が行われますように」という祈りです。ただこのことを願いなさい。そうすれば、かなえられる、と主イエスはおっしゃっているのです。「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう」とは、そういうことなのです。  「信じる者」が主イエスの業を行う、それも肉において生きておられた時のイエス様の業よりも大きな業を行う。信じなかった頃とは比べ物にならない業を行う。それは、この主の祈りを祈り、その祈りを生きることです。

 復活の日 聖霊の日

 ヨハネ福音書を読み始めてもう九九回目の説教で、来週は百回目となります。その中で、何度引用したか分からないのが、復活のイエス様が弟子たちに現れた最初の日の出来事です。この福音書を、私たちなりに丹念に読んできて思うことは、この福音書はやはりその日の出来事を書くために書かれたものなのだということです。私は、何度も読んでもそこに新しい発見があります。
その日、それはこの後、賛美する讃美歌二七〇番にありますように、「代々の聖徒らを強く生かしたる、御霊」与えられた最初の日です。キリスト教会が霊と御言において誕生した日です。弟子たちが、本当の信仰を与えられ、本当の意味でイエス様を信じる者とされた日。そして、イエス様の業を行うために派遣された日です。その日のことを描くために、この福音書は書かれた。私は、そう思います。
 その日、主イエスは、十字架の傷跡が残る手とわき腹を弟子たちに見せて、「平和があるように」と語りかけ、さらに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。聖霊によって、主イエスは弟子たちと繋がり、弟子たちの内に生き、そして共に生き、その業をなさって下さるからです。そして、聖霊を受けた人間しか、主イエスを信じることはないし、それ故に、主イエスの業を行うことは出来ないからです。主イエスは、ご自身の業を、それも主イエスが肉体を持っておられた時には、まだ為し得なかった究極の業を、聖霊を通して弟子たちに託されるのです。それは何よりもまず、主イエスを信じることです。そして、主イエスを信じる者として、主イエスの業を行う。それは、こういう業です。
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 罪の赦しを与える。これが、聖霊によって主イエスを信じる者とされた人間が為していくべき主イエスの業なのです。十字架の死と復活、そして聖霊において初めて為し得る主イエスの救いの御業です。イエスの名による罪の赦しを宣べ伝えること。証しすることです。
そして、私たちの最大の願いは、「赦されること」と「赦すことが出来るように」ということではないでしょうか。私たち罪人の現実、その最も深い現実は、何を食べるとか何を飲むとかそんなレベルの話ではありません。赦されるのか、赦されないのか、赦せるのか、赦せないのか、です。つまり、愛の問題なのです。毎日毎日起きている殺人事件にしろ、何にしろ、問題は赦し、愛の問題です。人間関係の様々な摩擦と軋轢の中で、私たちは赦せない思いの中に閉篭もり、赦されない現実の中で呻いています。しかし、そういう思い、そういう現実の中に、主イエスが入ってきてくださる。あの十字架の傷跡を体に生々しく残している主イエスが、両手を広げて入ってきてくださる。そして、「平和があるように」と語りかけて下さる。それは、「わたしはあなたの罪を赦した」ということです。「だから、安心しなさい。三度も私の名を知らないと言ったあなたの罪をわたしは赦している。愛している。わたしの愛と赦しを受け容れ、新しく生きなさい。そのことが出来れば、あなたはもはや死なない。迷子にもならない。わたしの内に生きるのだから。わたしもあなたの内に生きるのだから。」そういうことです。この赦しによって、私たちを永遠に生かしてくださる主イエスを信じる。それが聖霊によって与えられる信仰ですし、その聖霊によって信仰に生きる者は、主イエスの赦しを証しをしながら生きることだけを願うことになるのです。そこに、キリスト者の命、決して死なない命があります。

   イエスの名 信仰

 ヨハネ福音書本文の最後の言葉は、こういうもんです。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」
 「信じる」
こと、そして「イエスの名」という今日の箇所におけるキーワードが出てきます。イエス様を、神の子メシアとして信じる。そのようにイエス様を信じる者が、イエス様の名によって願うこと、それは自分の罪が赦されることと同時に人の罪を赦すことが出来るようになることでしょう。「われらに罪を犯す者を、われらが赦す如く、われらの罪をも赦したまえ」とは、まさにその願いです。「御名があがめられように」も、「御国が来ますように」も、「御心がなされますように」も、この赦しとの関りなしには無意味な祈りです。すべては、主イエス・キリストによる罪の赦しに掛かっているのです。主イエスを通して示された神の愛こそが、すべての要なのです。この愛を求める祈りを真実な信仰をもって祈ることが出来る時、その願いは必ず聞かれ、かなえられていく。主イエスが、私たちの中で生きてくださるからです。そして、その主イエスが生きてくださる私たちを通して、神の栄光が現れていく。神の御心が地上で行われ、神の御名が崇められ、神の国が実現していくのです。「こうして、父は子によって栄光をお受けになる」とは、そういう事態を言っている言葉だと思います。

   イエスの名 命

 最後にペトロのことを少し語らせてください。「あなたのためなら命を捨てます」と言ったペトロは、その後、自分で命を守ることを通して、決して死なない命を捨ててしまいました。しかし、そのペトロに復活の主イエスが現れ、聖霊を与えてくださったのです。それ以後のペトロの業は、使徒言行録に詳しく書かれています。
神殿に向かうペトロとヨハネに対して、生まれながらに足の不自由な乞食が施しを求めました。その時彼は、乞食の目をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言い、「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言ったのです。その途端、乞食は立ち上がり、神を賛美する人間に造りかえられていきました。しかし、その業を見て腹を立てたユダヤ人の権力者に、ペトロとヨハネは捕らえられ、裁判にかけられました。その時、ペトロは聖霊に満たされて、こう証言しました。
「この人がよくなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。・・・ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
 ペトロがイエス様の名によって願ったこと、それはすべての罪人の罪が赦されて、イエスの名によって命を得ることです。それは足の不自由な乞食に限られた話ではありません。ユダヤ人の権力者、エリートたちも同じことだし、異邦人も同じことです。主イエスの愛によって罪を赦して頂いたことを信じ、感謝し、聖霊に満たされている彼は、すべての罪人がイエスの名によって命を得るために、イエス・キリストの名による罪の赦しの福音を宣教し、そして、そのことによってかつて自分で守っていた命を捨てて行ったのです。殉教の死に向かって行ったのです。しかし、そのようにして、イエスの名によって命を得た。それが、信じる者に与えられる恵みです。その恵みを与えようと願って、主イエスは、今日も、私たちに「信じなさい」と語りかけてくださっているのです。「信じる者」となることが出来ますように。
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