「霊と共に生きる」
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。 共に読む聖書 四年前の一〇月からヨハネ福音書を断続的に読み始めて、今日でちょうど百回目になります。あと二回かけて一四章を読み終えたら、九月の修養会に備えて聖餐の食卓に関する御言を旧約聖書の出エジプト記から辿っていきたいと思っています。 私は、聖書の中の一つの書物を読み進めていくことを、しばしば登山に例えたり、また樹海の中を歩むことに例えて考えます。登山に例えれば、分量的にはヨハネ福音書の七合目辺りにまで来たとも言えますけれど、ヨハネ福音書は富士山のように頂が一つの山ではなく、いくつもの尾根を持つ山であり、一章が既に頂のような書物でもあります。全体像はまだ見えず、ましてこの先の登山道などは分かりません。そういう意味では、道などない樹海の中を歩んでいると言った方が感覚は近いかもしれません。いつも翌週の聖句の真相が見える保証はないまま、とにかく、一週間、道を求めて歩み続けるしかない。そういうことを百回続けてきて、二一章の終わりまで何十回と続けていくのでしょう。それは、苦しくもあり、楽しくもあることです。 そういう歩みを振り返ってつくづく思うことは、私は一人でその歩みを続けてきたわけではないということです。私も、一人の信仰者として聖書の言葉の意味を知りたいと思っています。だから読みます。でも、分かることは分かりますけれど、分からないことは分からない。それは皆さんも同じだと思います。一人で読む限り、分からないことは分からないままで長い時間が経ってしまう。ある意味では、それでも一向に構わないし、分かる時に分からせていただければ良いとも言えます。神様が人生の節々において、突然、分からなかった言葉の意味を明らかに示してくださった。そのことによって救われた。道が開けた。そういう経験をお持ちの方は多いと思いますし、私もそういう経験があります。聖書は、そうやって分かっていけばよい。そういう面があります。 礼拝で読む聖書 でも、毎週必ずやって来る日曜日の礼拝においては、少なくとも、説教する者は、読まれた箇所の意味が分からなければ、何も語ることはないわけですし、「分からなければ分かる時まで待っていればよい」というわけにはいきません。どうしたって、この箇所でイエス様が何をお語りになっているかを聴き取り、聴き取った言葉に突き動かされるような衝動に駆られなければ、説教壇に立つことは出来ません。だから一生懸命に読み、また祈るしかないわけですけれど、それは皆さんが神の言を聴かんとして、暑い日も寒い日も、雨の日も風の日も礼拝に来られるからでもあります。神様の愛の言葉を聞いて、慰められ、励まされ、戒められ、その赦しに与り、聖霊の注ぎを受けて新たな一週間に勇気をもって歩み出したい、そう願って礼拝に集まって来る信徒の方がおられる。だから、説教者はその礼拝に備えるという面があります。私個人のニードだけなら、「まあ今週はよく分からなかったけれど、来週は分かるかもしれない」程度で済ませることも出来ます。しかし、なによりも神様が毎週の礼拝で、愛する信徒一人一人に熱心に語りかけようとしておられるのですから、私の怠惰や呑気のせいで分からないままでよいというわけもありません。なんとしてでも神様の語りかけを聞き取って、その言葉を求めている人に伝えなければならない。ただその一事の故に、毎週、岩山にへばりつくようにして登り、また草むらをかき分けるようにして歩み、神様の導きによって、なんとか道であり、真理であり、命である主イエスと出合うことが出来、そのイエス様を証ししてくることが出来た。私は、そう思っています。 『聖書』は、やはり教会の礼拝で、同じ信仰を与えられた者たちが、共に主の名を呼びつつ読む時にこそ、本当の意味で分かるのだ。この四年間、皆さんと一緒にヨハネ福音書を読み続けることを通して、改めてそのことを教えられたように思います。 会報に記されていること 私は、中渋谷教会の「会報」を毎月楽しみに読んでいます。毎月巻頭言を書くことは、必ずしも楽なことではありませんし、自分で書いたものを読み返すこともしませんけれど、皆さんのお書きになったものや交わり欄は全部目を通します。そして、教会の交わりの有難さを思わされています。今日お手元に届けられている今月号の原稿も、すべて主にある交わりの豊かさを知らされるものです。 今月号は、特に大学生のMEさんや高校生のUYさんが、学生キリスト教友愛会(SCF)や高校生聖書伝道協会(Hi.b.a)の集会に参加しての感想を書いてくださって、これもまた嬉しいことです。今、各個教会に若者が少なくて残念ですが、いくつもの教派の教会から集まれば、若い人もそれなりの人数がいます。そこで礼拝を守りながら、信仰的な交わりをするなかで、若者たちが聖書の語りかけを共に聞き、神様の愛を知り、互いに愛し合う喜びを知っていくことが出来ると思いますから、各個教会の枠を超えた信徒の交わりに青年たちが参加してくれることは、教会にとってもまことに喜ばしいことです。 また、毎週夕礼拝に来られるISさんは、日常生活の中で聖書を読むことはほとんどないけれど、「礼拝が始まる前に聖書箇所の前後を含めて読む時」「静まった中で他の信徒さんがいる会堂で読んでいると生きておられるイエス様のお姿に出会える事があり、その後の礼拝でもっと具体的にイエス様の御心を知り嬉しく帰ってこられます」と書いておられます。 こういうことからも分かりますように、イエス様の言葉、神様の言葉は、信じる者たちの交わりの中でこそ、そのメッセージを豊かに聴き取ることが出来るのだし、イエス様と出会うことが出来るのだと思います。私も、説教を聴く方の大半が信じる方だからこそ、聖書に取り組んだ結果聴こえてきた御言を大胆に語ることが出来ます。そして、その説教が、いつの日か、聖霊の導きの中で、まだ信仰を与えられていない方に神の言として響くことを信じています。 信じること愛すること 一節から一四節までには「信じる」という言葉が何度も出てきました。しかし、一五節以下はそのことを踏まえた上で、「愛する者」とか「愛する」という言葉が何度も出てきます。弟子たちがイエス様を愛するだけでなく、父なる神様がイエス様を愛する人を愛するとか、イエス様が父を愛するとか、主語や目的語は様々ですけれど、「愛する」という言葉が何度も出てきます。「愛する」ことがこの単元の主題になっていることは間違いありません。そして、「愛する」ことは既に一三章の後半に出てきていました。 一三章三四節以下を読みます。 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」 私たちの信仰とは何であるかと言えば、それは難しげな教理を理解して信じるとか、その逆に、何がなんだか分からないけれど、とにかく神様というものを信じるとか、そういうことではありません。この「新しい掟」は、イエス様と弟子たちの最後の晩餐の席で与えられたものです。その晩餐の時、イエス様が突然弟子たちの足の汚れを洗い清められました。それは、彼らの罪を洗い清めることであり、それはまたイエス様が彼らのために十字架に架かって死ぬことであり、さらにそれはイエス様が復活して、彼らと共に永遠に生きるということでした。そのようにして、イエス様は弟子たちを愛しておられる。私たちを愛してくださっている。私たちの罪を赦し、永遠に共に生きてくださる。そのことを信じる。それがキリスト教の信仰です。 そして、その信仰に生きるとは、私たちを愛してくださっているイエス様を愛して生きることに他なりません。愛には愛で応える以外にはないし、愛は互いに愛し合うことにおいてしか存在しないのですから。ここでイエス様はイエス様を愛して生きるとは具体的にどのようなものかを教えてくださっているのです。それは、イエス様に愛されている者同士が、イエス様に愛されたように互いに愛し合うことなのです。弟子の足を洗った直後のイエス様の言葉を使えば、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」ということです。信仰とは、結局、イエス様を共に信じる兄弟姉妹に対する愛に生きることにおいて結実していくのです。だから、イエス様は「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と言われる。そして、それは二三節で、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」と繰り返されます。この場合、「掟」も「言葉」も同じことです。イエス様を信じるとはイエス様を愛することであり、それはイエス様の言葉を守ること、その言葉を生きることです。そしてそれは主にある兄弟姉妹を愛することだと、主イエスは言われます。 理想と現実 主イエスの祈り この主イエスの言葉に反対する人はいないでしょう。誰だって、イエス様がおっしゃっていることに納得し、それは素晴らしいことだと思われると思います。しかし、納得し、素晴らしいことだと思うそのことを実行できるのかと言えば、私たちはうなだれるしかない。それもまた事実です。 私たちは愛を求め、愛なくしては生きていけないのに、愛することが出来ない存在でもあります。その愛の究極は、罪を赦す愛だからです。赦されなければ生きてはいけないけれど、赦しつつ生きていくことが出来ない。しかし、赦さぬまま生きている人生は闇です。その闇を好む、それが罪です。その罪の支配から私たちを解放するために命を捨てて愛してくださったのが主イエスです。ただこの方だけが、罪の力よりも強いお方です。死を撃ち破る復活者であり、闇の中に輝く光なのです。 だからこそ、イエス様は、「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」とおっしゃった。私たちが心の底から願うこと、それは愛と赦しを与えて欲しいということだし、愛と赦しに生きる人間にして欲しいということです。そして、私たち一人一人がそういう人間になることが神の国がこの世にも実現していくことであり、それが神の願いなのです。神様はそのことを願って、独り子をも惜しまずに世にお与えになったのです。 イエス様は、こう言ってくださいました。 「わたしは父にお願いしよう。」 私たちが愛と赦しに生きることが出来るように、イエス様が神様に願ってくださる。 「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」 少し話が逸れますけれど、以前、教会学校育ちの青年が、「聖書のイエス様の言葉は、牧師が説教し始めた途端に分かりにくい理屈になる。だから、教会の礼拝に行くのが嫌になった」と言っているのを聞いたことがあります。その牧師とは、具体的には私のことではなかったのですが、でも、私を含めてのことであることは明らかです。 私も、究極的には聖書を朗読しただけで、イエス様の言葉、神様の言葉が聴衆にストレートに届き、皆で「アーメン」と言えれば、それが最高の説教だとしばしば思います。そういう意味でも、牧師が聖書朗読をすることに意味があると思って、この四月からそのようにしています。あの人が聖書を読むと、聞いただけでなんだか胸に響く。そういう人は私にとってもごく少数ですが、たしかにいました。 この福音書を書いたヨハネかどうか分かりませんが、古代教会には長老ヨハネという人がいました。その人が、礼拝の最後に会衆を祝福して、「私たちの主イエスが愛してくださったように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言う。すると、会衆一同は圧倒的な感動を与えられて、主を賛美しつつ「アーメン」と言ったという話が伝えられています。主イエスを信じ、愛し、会衆を愛するその人格からほとばしり出てくるイエス様の愛に会衆が打たれたということだと思います。こういう長老ヨハネのような人物が、私たち牧師の一つの理想なのだとは思うのですが、私などは、まだほんの若造であり到底「長老」とはなり得ていないので、とにかく今は、聖書に記されているイエス様の言葉の意味を一生懸命に探求して語るしかないことを、お許し頂きたいと思います。 肉体と霊の二重性 いつも言っていますように、ヨハネ福音書のイエス様は、肉体を持って弟子たちに語りかけているイエス様であったり、復活後、霊において教会と共に生き、信徒一人一人の中に生きている主イエスであったりします。今、お読みした所は、その両方が混在している所だと思うのです。父なる神にお願いして、別の弁護者を送ってもらおうとおっしゃっているのは、まだ肉をもって生きているイエス様が目の前の弟子たちに語りかけている。しかし、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」と、すべて現在形で語りかけておられるのは、明らかに、霊において教会と共に、また教会に生きる信徒一人一人の中に生きている主イエス・キリストです。つまり、二一世紀の今、この礼拝堂において私たちに語りかけているイエス様なのです。この時イエス様の目の前にいた弟子たちは、肉体を持って生きておられたイエス様と、復活後聖霊において共に生きてくださるイエス様の両方を経験した歴史上唯一の人たちですけれど、その彼らのために、そして彼らの言葉を聞いてイエス様を信じるようになる人々、つまり私たちキリスト者のために、主イエスはこの時現在の弁護者であるイエス様とは別に、真理の霊、聖霊を弁護者として送ってくださると約束してくださっているのです。 弁護者 真理の霊 「弁護者」とは読んで字の如く、法廷における弁護人を意味する言葉ですけれど、原語では、「傍らに呼ばれた者」という意味です。口語訳聖書では「助け主」と訳されており、「慰める者」とも訳されます。様々な意味で、助けを必要としている者、孤独の中に置かれている者、迫害の中に苦しめられている者、自らの罪責によって苦しんでいる者を助け、慰め、弁護してくださる者です。それを主イエスは「真理の霊」とも呼んでいます。そしてその霊について一五章二六節や、一六章十二節以下ではこうおっしゃっています。 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」 「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」 つまり、弁護者としての真理の霊とは、イエス様が誰であり、何をしてくださったか、そして何をして下さっているかを明らかに示してくださるものなのです。つまり、イエス様こそ命を捧げて私たちの罪の贖いをしてくださり、復活して今も共に生き、愛し続けてくださっている救い主であることを、証しして下さるものなのです。イエス様こそ、神様に至る道であり、真理であり、命であることを、さやかに示し、そのことを通して教会を力づけ、信徒を慰め、そしてイエス様の愛と赦しを証しする人間として生かす霊です。その霊は、信じる者に与えられるのです。もちろん、信仰そのものも聖霊によって与えられるものですけれど、信仰を守り、育てるのも今に生きるイエス・キリストとしての聖霊です。その霊が、信仰者の集まりである教会と共に留まり、信仰者の内に生きてくださるように、イエス様は父に願ってくださるのです。 そして、その願いは、実現している。叶えられているのです。何故なら、弟子たちに聖霊が吹きかけられたことによって、彼らはすべての恐れを取り除かれ、罪の赦しという平和を与えられ、閉篭もっていた部屋から出て行き、イエス様こそ神の子、メシア、わが神、わが主として証しを始め、キリスト教会が誕生したのですから。そして、その教会は、聖霊に励まされ、七つの海を越えてキリストを宣べ伝え、この国にも今現にいくつもの教会が建っています。そして、私たちは今日もこうして礼拝において主イエス・キリストにまみえ、その言葉を聞くことを通して、主の愛を確信しているのです。そして、互いに愛し合う共同体、神の国の実現を共に祈り願っています。(今月号の会報の巻頭言には、エルサレムから始まって中渋谷教会誕生に至る聖霊の歩みの一端を書いておいたので、お読みください。) 主イエスの愛を確信し、互いに愛し合う共同体、それはこの礼拝堂の壁一枚外にある「この世」とは全く異なる世界であることは言うまでもありません。私たちもかつてはこの壁の外に生きていたし、そこしか知りませんでした。神など信じていませんでしたし、イエスという人物が「神の子」だとか「救い主」だなどと言うのは洗脳された憐れな人々の戯言だと思っていたのです。しかし、今は恵みによって、この教会の中にいます。それは、霊を見ようともせず、知ろうともしなかった私たちを、それでも愛してくださるお方がおり、そのお方を真理の霊によって証ししてくれる牧師や信徒がいてくれたからです。神様は、ご自分を知ろうともしない世を愛して、その独り子をさえ惜しまずに与え、信じる者に永遠の命を与えてくださったのです。つまり、父の住まいである教会に招き入れ、神の家族としてくださったのです。そして、今もその救いの御業を続けておられるのです。私たちを通してです。 みなしごとしての人間 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と、主イエスはおっしゃいました。「みなしご」とは親がない子のことです。自分の命に代えても子を愛してくれる親がいない。その「みなしご」の心の根底にあるのは、物凄く深い孤独であり、悲しみです。私たちは誰も独りでは生きていけません。誰かに愛されて、初めて人として生きることが出来るのです。その愛は、通常最初は肉親の親から与えられるものですけれど、それは永遠のことではありませんし、親が子を愛せないこともまたよくあることであり、愛せたとしても、それは完全な愛ではあり得ません。友人同士であれ、恋人同士であれ、夫婦であれ、それは同じことです。 私たち人間は、誰でも生まれたその時から永遠の親を求めて生きています。完全な愛で愛してくれる存在を求めている。まさに恋焦がれるように求めて生きています。しかし、いくら恋焦がれるように求めても与えられない時、次第に諦めていくのです。そして、心の奥底に孤独や悲しみを押し込めて、そういう思いがあることを認めない、忘れようとします。しかし、そうすることで実は心はさらに飢え渇いているのです。 今月の初めに、大阪女学院の中学一年生の修養会に招かれて聖書の話をさせてもらいました。そして、つい先日、青山学院女子短期大学の学生さんたちへの前期の講義を終わり、講義を聞いて考えたことを書いてもらうテストをしました。今、約二百人の中一の生徒さんたちが書いてくださった感想文と、短大の学生さんが書いてくれたレポート百十人分を、一生懸命に読んでいます。それぞれに胸を揺さぶられるような思いで読んでいます。 中一の修養会でも、短大の講義でも、私は世の悲惨さを語ります。私たち人間がどれ程悲しい存在であるかを語るのです。差別やいじめをしてしまう心があることを語り、裏切ってしまう心を語り、戦争によって人を殺すことがまるで正義であるかのように思ってしまう惨めさ、恐ろしさを語るのです。しかし、そういう悲しい私たちを、主イエスは一体どのように愛してくださっているかを語る。その愛は、ついに十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分のしていることが分からないのですから」と祈りつつ死ぬことに行き付いたことを語ります。そして、その主イエスが復活して、今も、私たちが愛と赦しに生きることが出来るようにと一生懸命に語りかけ、愛し、赦してくださっていることを語る。その主イエスが、今も生きている。だから、私たちには希望がある。この主イエスが生きており、今もこの世を愛してくださっている。だからこの世は素晴らしい、と語るのです。様々な題材を用いて、そのことを語り続けているのです。 その話を中一の生徒さんも、大学一年生の学生さんも、眠気と戦いながら、一生懸命に聞いてくれます。そして、心に響いたことを原稿用紙や答案用紙に書いてくれました。それを読みつつ、私が語ったことはたしかに伝わるのだという確信が与えられます。私が語ったことは、私の思想ではなく、主イエスだからです。主イエスのことを語っているから、主イエスが働いて、聞く人の心に語りかけて下さるのだと分かります。何人もの中学一年生が、イエス様の愛を信じがたいものとして受け止めてくれました。そして、イエス様という方が今も神として崇められる理由が分かった、と書いてくれました。イエス様のように愛してくれる人と出会うことが出来たら、誰だって嬉しいと思う、と。 短大の学生の中には、自分は人が嫌いで、信用なんて出来ないとずっと思ってきた。人は嘘つきだし、この世の中は汚いことだらけだし、自分で自分を守るほかない。神様なんて、世の中の不公平も犯罪も少しもなくしてくれないし、無力な存在だと思っていた。でも、聖書をじっくり読んでみて、こんな人間を、神様はご自身に似せて造り、「よい」と言って下さった。その人間が、後に禁断の木の実を食べても、カインがアベルを殺しても、それでも神は人間を見捨てずに、心を痛めつつ愛してくださっていることを知った。そのことを知ったら、もう少し人に対して心を開いてもよいかなと思った。神様のことを見直そうかと思った。そう書いてくれた学生もいます。また、中学生の時に虐めに遭って、その傷が今もあるし、苛めた人をずっと赦すことなんて出来ずに来た。赦すなんて弱い人間のやることだと思っていた。でも、イエス様の十字架の話の時に、「愛の究極は赦しだ」と聴いた時、なんだか心が溶けたように思った。赦したいと思った。そう書いてくれた学生もいます。 イエス・神・私たちの一体の交わり 私は、そういう文章を読みつつ、「みなしご」として生きる私たち人間の現実と、私たちを父である神とご自身の愛の交わりの中に迎え入れて、神の家族として生かそうと切実に願ってくださっているイエス様の愛を強く知らされます。 「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」と主イエスは言われます。それは未来形で書かれています。つまり、それは肉体をもって生きているイエス様が目の前の弟子たちに向かって語った言葉です。「かの日」とは、弁護者としての真理の霊が来る時のこと、その霊を弟子たちが受け入れた時のことです。その時、弟子たちは「みなしご」ではなくなるのです。本当の親、永遠の愛を知るからです。そして、私たちにとっての「かの日」とは、私たちが聖書と説教を通して主の言葉を聞き、教会の愛の交わりを見て、主イエスを信じた時です。つまり、聖霊の注ぎの中に、主イエスを見、主イエスを知った時、私たちはイエス様を愛し、その掟を守って生きるキリスト者に造りかえられたのです。しかし、すぐに信仰と愛の実がなるわけではないでしょう。「桃栗三年柿八年」とも言われるように、私たちが信仰の実を結ぶのには時間がかかるかもしれません。誰だって簡単に長老ヨハネのようになれるわけではありません。 でも、私たちはイエス様の迎えによって既に父の家に帰ることが出来た者たちなのです。その家で、溢れるばかりの愛を、御言と聖餐を通して与えられています。そして、命の息である聖霊を与えられているのです。その霊の宮である教会に留まり続けることに希望があるのです。ただこの礼拝とそこに連なる交わりの中にのみ希望がある。この礼拝において、主の言葉を聞き、聖餐の食卓に与り、主の霊を受け続ける。そのことを通して私たちは主の愛を確信し、主を愛し、主の愛に押し出されるようにして互いに愛し合うようにされていきます。そして、そのことを通して、人々に私たちが主イエスの弟子であることを証しし、主イエスを証しすることが出来るようになるのです。それが私たちの願いである以前に、主イエスが父に願ってくださっていることであるが故に、必ずかなえられるのです。主が私たちの只中で生きておられるのですから、主に愛され、主を愛する私たちも生きるのです。そして、そのことを通して「道、真理、命」である主イエスを証しすることが出来るのです。 罪の中に、ただ死を待つほかにないみなしごであった私たちが、今や、生きておられる主イエスを証しするという栄えある使命を果たす者とされている。その恵みの奇跡を、今日も深く知り、主を賛美し、感謝を捧げたいと思います。 |