「わたしを愛する人は」
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。 「世」と「あなたがた」 一五節以下からの主題の一つが「愛」であることは前回語った通りです。そして、一五節以下の一つの特色は、「世」と「あなたがた」、つまり弟子たちとの間が鋭く峻別されていることであることは、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れる事が出来ない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている」というイエス様の言葉を見るだけでも分かることです。 しかし、ここでヨハネ福音書における「世」について、最低限のことを踏まえておく必要があると思います。一章一〇節にこうあります。 「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民の所へ来たが、民は受け入れなかった。」 つまり、世はイエス・キリストにおいて創造されたのだが、世はイエス・キリストを認めない、信じない。そういうことです。自分の造り主を拒絶してしまう。それが世、つまり罪人の本質なのです。 それでも、神は世を愛されましたし、愛しておられる。それが三章一六節の言葉です。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 しかし、命の光が世に来たのに人々は闇を好んで光を憎み、光の方に来なかった。そのことで自ら滅びを招いてしまっている。この福音書は、その続きでそう告げています。 その後、世がイエス様を殺そうと機会を狙いはじめます。それは単に肉体的に殺すことだけを意味するのではなく、イエス様の存在をその心から消し去る、抹殺する、否定することを含みます。つまり、ヨハネ福音書においては、世とイエス様、あるいはイエス様の弟子たち、教会は、平和共存しているわけではありません。世は絶えず、イエス様を、またイエス様を信じ、愛し、その掟を守って生きようとする者たちを消し去ろうとしているのです。イエス様に石を投げつけようとし、ついには最高裁で死刑判決を下し、今は見つけ次第逮捕する、この時は、そういう体制を組んでいるのです。 一四章の終わりでは、「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない」とあり、一六章では「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕をしていると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである」とおっしゃっています。 つまり、かつては、この人こそ自分たちの王ではないかともてはやしたこともある人々も、世の支配者と共にイエス様を逮捕処刑しようとし、弟子たちはユダヤ人社会の中から追放され、処刑される者も出てくる。それも皆、神の名によってなされる。そういう弾圧、迫害の状況が、イエス様とその弟子たち、さらにはヨハネ福音書を生み出したキリスト教会を取り巻いているものです。それが、この福音書に出てくる「世」というものです。しかし、世はイエス様を殺そうがなにをしようが、本質的には無力である。どうすることもできない。そうもおっしゃっています。 世の現実 その状況は、多かれ少なかれいつの世にも存在することです。私たちの国が現人神の下で一丸となって戦争をしていた時代、敵性宗教であるキリスト教は敵視され、牧師や信者は弾圧や迫害を受けました。戦後はキリスト教の一大ブームとなり、多くの人が洗礼を受け、また牧師になしました。でも、その本質においては、戦前・戦中と現代の世は何も変わっているわけではありません。弾圧や迫害はなくても、世は初めからあった「言」を認めず、その掟を守りませんし、守ろうとする者たちを受け入れません。 私が小学五年生だった時ですけれど、担任の先生が、たしかホームルームの時間に「神様なんてものは人間が作ったものだ」と言いました。その先生が言っている「神様」が一体何なのか、そんなことは当時の私には分かりませんし、議論のしようもありません。しかし、その言葉に、私はやはり深く傷つきました。この国で牧師の家に生まれたわが身の不幸を嘆いてはいても、親をはじめ多くの大人たちが真剣に礼拝をしていることは知っていましたし、教会学校を通して、私にとって「神様」と言えば、それはやはりイエス様のお父様ですし、その神様を「人間が作った」とは、到底思えませんでした。ですから、その先生の一言は、何か物凄い侮辱をされた感じと、その人の物凄い無知さが露呈された感じと、その両方を持ちました。べつに嫌いな先生ではなかったし、小学生にとっては担任の先生はやはり大きな存在ですから、とにかく、その一言を聞いたときのショックと幻滅は、今も忘れません。数日後に、何かの拍子に、親にそのことを言いました。その時は、訳も分からず涙が溢れて仕方なかったのですが、親が真剣に怒り、「学校に抗議に行く」とまで言っているのを聞きながら、実際に行ったかどうかは知りませんが、とにかく心の奥底で安心したこともよく覚えています。親の反応を見ながら、この大人は、とにかく真剣に神を信じているんだということが分かったからです。 これは公立の学校での私の経験ですけれど、つい先日、キリスト教主義の一貫教育をしている中学校において似たようなことがあったことを聞いて、愕然としました。教会に熱心に通っている中学生が、自分が属している運動部の顧問に、「日曜日は教会があるから、試合に出られない」と言ったら、「あなたは神なんて今でも信じているのか。そんなものを信じて、これから世の中を生きていけると思っているのか」と言われたというのです。キリスト教主義学校に勤務している教職員のすべてがキリスト者ではありませんし、キリスト教信仰を持っているからその学校の教師になったわけでもない。それは分かります。そして、思想信条は個人の自由ですから、学校の主義がどうであれ、自分の思想信条で生きていくことは何の問題もありません。が、キリスト教教育をする学校だからと子どもを進学させた親がおり、教会学校に通っているからこの学校を選んだという生徒がいることも当然のことです。その生徒の一人が、自分だって試合に出たいだろうに、日曜日は教会の礼拝に出るという掟を守ろうとしている。そのことに対して、「そんな掟は世の中では通用しない。捨ててしまえ」と教師の立場で言うことは、やはり大きな問題だと、私は思います。その生徒のご両親はキリスト者ですから当然の如く、学校に裏切られた思いの中で怒られたのですが、教師との問題を起こすことで自分の子どもが学校に行きづらくなることはどうかと思い、何も言っていないようです。しかし、その子は、そんな顧問のもとで部活動など出来ないと退部届けを出したというのです。退職届をだすべきは教師のほうではないのかと思わないわけでもありません。 愛を信じないで生きることが出来るのか? あくまでも「私の感覚」からしてみるとですけれど、キリストを通して示された神様の愛を信じることが出来ないで、どうしてこの世を生きていけるのか不思議でなりません。今の私は、神を信じ、イエス様を信じるからこそ、この世を生きていけるのであって、もし信じるものがなければ、この世なんて空しいだけの何の意味もないものだと思うからです。人を信じることが出来ない、自分も信じることが出来ない、そして、神とはまだ出会っていないので信じようがない。出来るものなら出会いたい。そういう思いの中で、学校に通い、時間が来れば卒業し、なんとなく就職し、食べるために働かねばならない。そんなことは到底できない。高校から大学一年の頃の私は、心底そう思っていました。ですから、先ほどの運動部の顧問の教師とは全く逆の価値観を持っていたということでしょう。「神様などを信じていたらこの世を生きていくことなど出来ない」ではなく、「神様を信じることができなければ、この世を生きていくことは出来ない」と思っていたし、信仰を与えられて以降、ますますその思いは深くなっています。 神様でなくとも、私たちは愛を信じることによって生きている、それは事実だと思います。その場合の「生きる」とは、単に栄養を摂ることで肉体的に生きているという意味ではありません。人として生きるという意味です。聖書的に言えば、人は神に似せて造られた存在です。その点で、動物とは決定的に違う存在です。神に似せて造られた、その「神」とは何であるかと言えば、ヨハネの第一の手紙には「神は愛である」とありますから、「愛」だと言って間違いありません。その愛なる神に似せて造られたとは、愛し合う中で生きる存在であるということになります。それは、言葉の論理としてそうなるだけでなく、私たちの実感としてよく分かることなのではないでしょうか。 愛の交わりの中で生きる人間 私たちは誰だって最初は赤ん坊です。つい先日、病院の検診に行ってエレベーターに乗っていたら、産婦人科の階で、生まれたばかりの赤ん坊が小さなベッドに寝たまま看護士さんと一緒に乗ってきました。私は、そのあまりの小ささ、か弱さを見て、なんだか胸がつまりました。この赤ん坊は、愛されなくては一日も生きていけないことが分かったからです。その小さくか弱い姿を通して、親をはじめ周囲の人々の愛を引き出し、またその姿を通して親をはじめ周囲の人々を愛している。愛されることで生きており、そして愛することで生きている。人間の根源的な生の姿がそこにあると思いました。 母親は、自分が産んだ子を胸に抱き、その乳房を吸わせます。その時、母親は我が子を目の中に入れても痛くないという思いで見つめるでしょう。そして、赤ん坊はその目の中に自分の命が生かされていることを無意識の内に知り、安心して身を委ねているのです。母は、我が子を愛することによって自分が生きていることを実感し、我が子に信頼されていることで希望をもって生きていけるのです。赤ん坊だって同じです。子どもは、なんと言っても親のことが好きなのです。そのような存在として生まれてくるのです。親に愛され、親を愛し、その愛の交わりの中に自分が生まれてきたことを喜ぶことが出来ます。その愛が傷ついたり、愛を疑ったりした時に、子どもは心の奥底から崩れ始めていきます。 どんなに頭がよくて、成績もよく、仕事も出来、世の中で立派に通用していても、愛を信じて生きることが出来なければ、人は心の中に愛に対する飢えと渇きを絶えず覚えているのです。世の中を生きている多くの人が、そういう意味で「みなしご」になっていると、私は感じています。立派に通用している人も、もう世の中では落ちこぼれてしまったと思わざるを得ない人も、目に見える境遇の違いを超えて、真実の愛を知らずに、自分の存在の不確かさを抱えつつ漂っている。そういう状況があると思います。私が直接知っている人たちと、ちょっと深い話をしてみると、そういう感覚を抱いて悩んでいる人が何人もいます。 「こんにちは赤ちゃん」 主イエスは、ここで何度か、「見る」とか「知る」という言葉を使っておられます。イエス様を見る、またイエス様が、弟子たちの内にいることが分かる、と。そのイエス様とは、父なる神様の内にいるイエス様です。「内にいる」とは母と子が一体であり、互いの存在をその内に受け入れていることに似ています。つまり、一体の愛の交わりを生きているということです。 私が子どもだった頃に「こんちは 赤ちゃん」という歌が流行りました。ご存知の方も多いと思います。そこで繰り返されるフレーズは、「わたしがママよ」という言葉です。母親が、子どもの目の前に自分を現すのです。「私だよ、あなたを産んだのは。私だよ、あなたを愛しているのは。私だよ、あなたを守るのは。私だよ、あなたと一緒に生きるのは。」そのように自分の存在を赤ん坊に現す。それが「わたしがママよ」の意味でしょう。赤ん坊の笑顔、泣き声、ちいさな手、つぶらな瞳を見ながら、我が子に愛され信頼されている喜びに満たされながら、そう語りかける。それが「ふたりだけの愛のしるし」だと、そう歌われます。その歌の中で、母親が赤ん坊にお願いをしているのですが、それは「時々はパパと、ホラ、ふたりだけの静かな夜をつくって欲しい」という願いであることが、父親の一人としては切ない感じがしますけれど、とにかく、親というものは、愛する子に、そして自分を愛してくれる子に、こうやって自分を現す。 それと同じように、主イエスは「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」と、おっしゃっているのです。「わたしがママよ」と同じように、「わたしがあなたを愛し、守り、育て、養い、永遠に共に生きる救い主だ」と。 愛の交わりの中でこそ起こること これは愛の交わりの中でこそ起こることです。それ以外の所で起こるわけではありません。復活の主イエスは弟子たちにだけ、ご自身の姿を現したのであって、世の人々に現されたわけではありません。世の人々の前で十字架に磔にされ、誰が見ても死んだことが分かり、多くの人がその死体を見て、また何名かはその死体を墓に納めました。しかし、それらの人々に見える形で復活のイエス様が現れたとは、聖書のどこにも書いてありません。誰にも現れていない。ただ弟子たちだけに、ご自身の体を現されたのです。いっそ、多くの人に現れてくれたならば、すべての人がイエス様を信じただろうにと思わないわけでもありません。 その思いを、イスカリオテのユダではない方のユダという弟子も抱いたのでしょう。彼は問います。 「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか。」 主イエスは答えます。 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」 これが答えなのかどうか?見解が分かれますけれど、直接的な答えではないにしろ、本質的な答えではあると思います。要するに、主イエスを「見る」とは、主イエスが父の内に生きておられる方であり、同時に、私たちの内に生きて下さっているお方、真の神にして真の人、ヨハネ福音書の言葉で言えば「人の子」あるいは「独り子なる神」であることが「分かる」ということです。それはまさに信仰と愛においてのみ分かることであって、そのこと抜きには分からないのです。そういう意味で、霊を見ようとも知ろうともしない世に、イエス様は現れません。現れようもありません。 私たちは、この後、聖餐の食卓に与ります。そこでパンとぶどう酒を頂くのは信仰を告白し、洗礼を受けたキリスト者のみです。何故なら、キリストを信じ、愛し、互いに愛し合う信者にしか、あのパンとぶどう酒に、ご自身の命を捧げて下さったキリストの愛を見ることなど出来ないからです。あの食卓において語られる言葉と行為のすべてにおいて、キリストがご自身を現していることが分かるのは、キリストへの愛と信仰を生き、キリストに愛されている者として互いに愛し合っている者たちだけです。 わたしを愛するものとは? しかし、ここで私たちは注意深くならねばなりません。ユダは「世にはそうなさらないのは、何故でしょうか」と訊いています。しかし、主イエスは、「世は、わたしの言葉を守らないからだ」とはおっしゃっていない。つまり、「わたしを愛さない者」を「世」と重ねてはいないのです。これまでは、はっきりと「世」と「あなたがた」、つまり「弟子たち」を区別しておられた主イエスが、ここでは「世」は当然のこととしても、「弟子たち」をも含む形、つまり普遍的な意味で「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない」とおっしゃっているのです。 それはどういうことかと言えば、弟子たち、つまり私たちキリスト者もまた、絶えずイエス様を愛さない者、その掟を守らない者、互いに愛し合って生きない者となり得るし、現にしばしばそうなっているということでしょう。洗礼を受けてキリスト者になった私たちは、それ以後、世とは隔絶して、絶えず主イエスを愛し、その掟を守り、主イエスに愛されたように互いに愛し合っているのかと問われれば、それはうなだれるしかありません。 そして、そうなってしまうのは、私たちが絶えず新たに主を愛し、その言葉を聴いていないからでしょう。守るべき主の言葉、その掟を、いつも心新たに信仰をもって聞き続け、その言葉を生きるために聖霊を求め続ける。主イエスの名によって求め続ける。それが、私たちがこの世の中で信仰を生きる上で必須のこと、神に似せて造られた人として生きる上で必須のことです。その必須のことを教えるために、主イエスは一三節で「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」とおっしゃり、さらに「わたしは父にお願いしよう」と言って下さっているのです。その私たちの願い、さらに主イエスの願いに応えて、父は弁護者、真理の霊、聖霊を私たちに与え、その霊が私たちと共に、そして私たちの内に共に生きてくださるのです。その時、私たちは初めて主イエスの掟、その言葉を守ることが出来る。信仰と希望と愛に生きることが出来るのです。それは絶えず新たな現実なのであって、信仰と愛が過去形になれば、過去の現実とならざるを得ないものです。 一緒に住む イエス様はここで「父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む」とおっしゃっています。この「一緒に住む」と訳された言葉は、「彼と共に住む所を造る」が直訳です。この「住む所」とは、新約聖書ではヨハネ福音書の一四章二節とこの二三節にだけ出てくる言葉です。そして、二節のほうでは、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」という形で出ていました。その「住む所を用意しに行くのだ」と、イエス様はおっしゃったのです。その時の説教で語ったことですが、それは私たちが死後住むことになる父の家という意味だけではなく、復活の主イエスの命の中に私たちが生かされるということです。そして、教会とは復活の主イエスの体そのものであり、私たちは信仰によって罪赦されて、教会に招き入れられ、今既に、主によって、主と共に永遠の命に生かされているということでした。 この二三節でも意味は同じなのですが、こちらの方は父なる神とイエス様が、私たちの方に来て下さって、私たちを住いとして下さると言うのです。私たちが主イエスの中に生きるだけでなく、主イエスが、また神様が私たちの中に生きてくださる。神を信じるとは、イエス様を信じるとは、そして愛するとは、そういうことなのだ。だから「心を騒がせるな」と主は言われるのです。 イエス様が与える平和 この先の二七節でイエス様は、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と語りかけてくださっています。この主イエスの言葉を信じる、受け入れる、そして主イエスを愛し、私たちが互いに愛し合うとき、私たちは主イエスの中に生き、それは神の中に生きることです。そして、それは同時に、私たちの中に主イエスが、そして神が生きてくださるという救いが与えられることなのです。その救いのことを、イエス様はここで平和とおっしゃっており、その平和は、世が与えることが出来るようなものではありません。その平和が与えられる時に、私たちは何事があっても、最早心を騒がせることも、おびえることもなくなります。 私たちの国は今選挙を控えており、政権与党と政権をうかがおうとしている野党がそれぞれマニフェストを出しています。そこに躍る言葉は「安心」とか「希望」、「平和」や「繁栄」という言葉です。世の支配者は、そういうものを私たちに与えようとしている。世に生きる国民も、今は将来に不安を感じているので、仕事、給料、年金、経済的補助、医療の充実などを求めて、どの政党の政策がそのことを実現してくれるのか、誰が責任を持って実行してくれるのかを見ています。それはそれで大事なことです。しかし、その一方で、私たちは世が与えるような平和とは違う平和を知っていますし、その平和を誰が与えてくださるのかを知っています。そして、その知っていることを世に知らせていく務めがあることを覚えることも、大事なことではないでしょうか。 よるべない世の人々 先日の新聞に、僧侶の人材派遣に関する特集記事が出ていました。東京近郊の寺は、次第に檀家の数が減り、檀徒のお布施だけでは寺を維持出来ない現実が増えています。教会はもうずっと前からそういう状態があり、地方では互助制度をもって支え合っていることが多いのですけれど、寺はどうなっているのか知りません。とにかく僧侶の方たちも生活に苦労してアルバイトをしなければならない。その一方で、先祖代々の家屋敷はなく、寺や神社との関係もない多くの都会人は、死ぬまで宗教などとは関りを持たず、神や仏など信じてこの世を渡って行けると思うのか!と嘯きつつ生きてきても、いざ死を前にすると、なにか宗教的な儀式を、それも格安でやって欲しいと願うらしい。もうずっと前から、結婚式などはホテルや見せ掛けのチャペルで、お雇い牧師を立ててキリスト教式でやることが都会では当たり前のようになっています。私も、東京に来る前も来てからも、何回かそういう仕事をしないかと依頼がありました。最近も、結婚式場からタイアップ出来ないかという問い合わせがありました。私に言っても、私が課す条件が高すぎて、到底実現出来るはずもありません。それはともかくとして、収入の少ない僧侶と、お金はかけたくはないし信仰心を求められても困るけれど、葬式は宗教的にやって欲しいと願うこの世の人たちの利害が一致して、今は僧侶の派遣会社というものがあるそうです。牧師も登録していて、既に四十人程度の方の葬儀をしたそうです。もちろん、その多くは洗礼を受けていない方です。 そういう現実を知るにつけ、また様々な人とお会いしてお話を聴くにつけ、この世に生きていること、この世の中の安心とか繁栄だけを求めて生きていることの寄る辺なさを感じます。そして、その心の空虚感につけ込む新興宗教の数々が存在し、その中のあるものは、政治の世界に進出を始めてもいます。 私たちは、そういう世に生きている。そして、「わたしがあなたがたと永遠に一緒に生きる者だ」と語りかけて下さる方を知っています。そして、その方を知らせていく使命を与えられているのです。イエス・キリストを証しする。礼拝を通して、また教会の交わりを通して、そして信仰生活を通してです。 キリストが我が内に生きておられる 新約聖書に残るいくつもの手紙を書いたパウロという人は、こう言っています。 「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。」 彼は、それこそ神の名によってキリスト者を迫害していた人です。しかし、霊に生きるキリスト者と出会った時、それまでの彼は死にました。そして、今や、キリストが自分の中に生きている、キリスト教への迫害者として生きてきた自分のような者を愛し、その罪の赦しのために十字架に架かって死んでくださったキリストが、今、自分の中に生きている。そして、自分はキリストの中に生きている。そのことを知ったのです。そして、イエス・キリストへの感謝と賛美をもって、そして何よりもキリストへの愛と、人々への愛をもって、キリストの愛を語り始めました。「その自分の言葉は、キリストの言葉として聞き、信じて欲しい。あながたがたを愛し、十字架に架かり、死にて葬られた方が、甦り、生きておられることを信じて欲しい。そして、キリストの愛に応えてキリストを愛して欲しい。その時、あなたがたの中に、キリストが生きてくださる、神とキリストがあなたがたを住む所としてくださる。イエス・キリストは、あなたがたをみなしごにはしておかない。その恵みの事実を信じて欲しい。どうか、まやかしの神ではない神、みせかけの安心ではない安心、表面的な平和ではない平和、まことの繁栄を求めて、キリストと出会って欲しい。」彼は、ただその願いによって生きた人だし、このヨハネ福音書を書いた人もまた同様です。そして、彼らの言葉を通して語られるイエス・キリストの言葉を、神の言として信じ、イエス様を愛して生きる私たちの願いもまた同じです。 かつて世に生きていた私たちは、今や、イエス・キリストが生きているので生きる者とされています。寄る辺ないこの世の中、神を軽視し、無視し、抹殺すらしようとするこの世の中、そうであるが故に、見せかけの神を作り出し、勝手に安心しようとするこの世の中に生きるすべての人に、今に生きるキリストの愛を伝え、そのキリストを愛する信仰を伝え、キリストが共に住んでくださる恵みを分かち合うべく、今日からの歩みをまた新たに始めたいと思います。キリストを愛し、信じ、受け入れている私たちが語る言葉はキリストの言葉となり、その業はキリストの業として用いられるのですから。 |