「心を騒がせるな。おびえるな。」

及川 信

ヨハネによる福音書 14章 14章25節〜31節

 

わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

 心を騒がせるな

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」
という主イエスの言葉で一四章は始まり、次に愛することに関する言葉が続きました。そして今、「心を騒がせるな。おびえるな」と主イエスはおっしゃり、「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」という言葉で終わろうとしています。問題は、信じることであり、また愛することです。神と主イエスを信じ、愛することが出来るなら、弟子たちは心を騒がせる必要もなく、おびえる必要もない。立ち上がって、ここから出かけていくことが出来るのです。

 弟子たち・教会の置かれた状況

 こういう言葉を主イエスがおっしゃる状況は、かなり深刻です。主イエスに対するユダヤ人の敵意は殺意にまで達していました。そのことを、弟子たちも既に一一章の段階で感じていたのですし、一三章の終わりには、ペトロが、イエス様と「一緒に死にます」との告白もしています。そして、イエス様は、弟子たちがついて来られない所に行くとおっしゃっている。それが死を指すことは、弟子たちにも感じられることでした。
彼らが今いる場所は、最後の晩餐をとっている部屋の中です。立ち上がってこの部屋を出ることは、主イエスが逮捕され、処刑されることです。そのすべてのことを、主イエスはご存知でした。弟子たちは、そこまでは知らなかった。しかし、不吉な予感はしている。その予感の中で、心を騒がせているし、おびえているのです。それは無理からぬことです。
 そして、その状況は、この福音書を生み出した教会に集うキリスト者の状況でもありました。福音書に限らず、聖書に収められているすべての文書は、多くの信徒たちにとっては週に一回礼拝の中でしか聞くことがない言葉です。印刷された聖書が出てくるのは一六世紀ですし、信徒一人一人が自分の国の言葉で書かれた聖書を持っているなんてことは、長い歴史の中ではつい最近のことです。当時のキリスト者は、礼拝に集まる度に、この福音書を通して肉において生きておられた時のイエス様の言葉を聞き、同時に、今現在霊において語っておられる主イエスの言葉を聞いたのです。
その礼拝堂の外の世界、主イエスの言う「世」は、イエス様を犯罪者として十字架に磔にした世です。誰も、イエス様が復活したことなど信じてはいません。だから、自分たちが殺したイエス様が復活して今も生きておられるとか、イエス様は神様の命じられた通りに世の罪を取り除く過越の小羊として死に、すべての罪人の罪を赦して新しい命を与えて下さる救い主であると信じ、宣べ伝えるキリスト者に対して激しい敵意を持っているのです。そういう世にありつつ、イエス様は目に見える形としては自分たちと一緒にはいない。ヨハネ福音書の背後にはある状況は、そういうものです。だから、主の食卓を囲む礼拝が終わっても、立ち上がって、外に出て行く勇気がなかなか持てない。だからこそ、弁護者としての聖霊、祈りに応えて助けに来て下さる聖霊の臨在が強調されているのです。つまり、肉眼では見えない形で共に生きてくださる主イエスを信じること、愛することが強調されるのです。その信仰と愛に生きる時にのみ勇気を与えられるのだし、主が共におられるのだから、心騒がせる必要も、おびえる必要もないことを知ることが出来るのです。迫害や死の恐怖の中にあっても平和を得ることが出来るのです。

 「平和」とは

 八月は、私たちの国においては、やはり戦争と平和について思いを深める季節でしょう。しかし、この戦争と平和に関しては、同じ国民でも、真っ二つに意見が分かれます。
今日は長崎に原爆が投下された日です。六日は広島に原爆が落とされた日であり、毎年平和記念公園にて原爆死没者慰霊式並びに平和記念式典が行われ、広島市長によって核廃絶に向けた平和宣言が発表されます。しかし、今年は同じ日に「広島の平和を疑う」という題の講演会が開催されました。招かれた講演者は、「かつての戦争はアジア諸国への侵略戦争ではない」という自説を展開してその職を追われた自衛隊の元航空幕僚長です。彼は、その講演会において「第三の原爆を落とされないためにも日本は核武装をすべきだ」と語りました。それはかねてからの彼の自説で、既に語ったり書いたりしているものです。八月六日の広島で、日本も核武装すべきだと語ることが明らかな人を招いての講演会をすることに対しては、各方面からの抗議が寄せられたようです。しかし、開催されました。そして、全国から被爆者やその遺族を含めて千三百人が集まり、多くの支持者から手紙が寄せられたと主催者側は報告しています。ホームページ上に掲載されているその手紙を読むと、日本の伝統、文化、宗教の素晴らしさを称えるいわゆる「愛国主義」的な思想が展開されており、反戦反核を主張する「平和教育」が非難されています。
日本の戦争が侵略戦争だったのか、正義のための戦争、あるいは自衛のための戦争だったのか。その評価が、誰もが納得する形で決着がつくことは今後もないと思います。どの国の戦争であれ、それを正当化する人と自己批判する人はいるのですし、それはまた当然のことです。また、日本の終戦記念日、あるいは敗戦記念日は、近隣諸国にしてみれば日本の苛烈な支配からの解放記念日であり、独立を勝ち取った光復記念日です。それらの国からしてみれば、日本もまたかつての欧米列強と同じ、あるいはそれよりも悪質な侵略者であったことは明らかなことです。そして、原爆投下は戦争を早く終わらせたという点で、必ずしも非難の対象にはなっていません。
しかし、日本の有力な政治家の発言の中に、そういう相手方の見方を汲み取った発言を聞くことはほとんどありません。大体の場合は、戦争を覚える=靖国神社に参拝する=戦争で死んだ日本の兵隊を慰霊し、その栄誉を称えるという思考回路になっていて、何故戦争が起こったか、いかにして相手国と和解をすることが出来るかについて深く考えた上での発言を聞くことはないと言って良いのではないでしょうか。多くの政治家は、自衛のための軍隊を持つことを前提とし、同盟国をもって、仮想敵国との武力による均衡を保つことで、戦争がないという意味での平和を維持することが大切だと考えているようです。しかし、中には北朝鮮がミサイルを持つならば、こちらも先制攻撃できる体制を作らねばならない、そうでなければ平和を維持出来ないと主張する人もいます。国民の生命財産を守ることが政治の務めである限り、それもまた一理ある主張なのでしょうし、武装放棄を謳う憲法を持たない他の国々では、武力には武力で対抗することは国家として当然の権利であることもまた事実です。
 しかし、戦争が始まれば、国民を守るための兵器工場や軍隊の基地がある所が攻撃対象になり、その周辺に住む人々の多くも巻き添えにされます。そして、核兵器が造られたり、保管されているところが攻撃によって爆破されれば、その周辺に留まらない広大な地域の人々の命が危険さらされます。そして、今核兵器を持っている国々が最も恐れているのは、その兵器、あるいは製造技術が、彼らが「テロリスト」と呼ぶ人々の手に渡ってしまうことです。つまり、自分たちが平和のために造り、持っているものが、実は、自分たちの平和を脅かす最も危険なものなのです。そういう矛盾あるいは皮肉は、様々な面でよくあることです。

 主イエスの平和

 誰だって平和を求めています。しかし、立場が違えば、平和の意味も違います。上に立っている人、中心に立っている人の平和は、下や周辺に立っている人の苦しみであることは、よくあることです。それが世の平和の現実でしょう。
 主イエスは、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」とおっしゃいました。世が与える平和、つまりそれは世の支配者が与えようとする平和であり、また私たちが通常考える平和でもあります。それは繁栄であったり、健康であったり、力であったりします。また、戦争がない状態を平和という場合もあります。家族が皆健康で経済的にも安定している。そういう状態を平和と言う場合もあるでしょう。しかし、主イエスがここでおっしゃっている「平和」とは、そういう意味なのでしょうか。そういう平和を与えると、主イエスはおっしゃっているのか?それは全く違うとしか言い様がありません。
 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と主イエスはおっしゃっています。ここで「あなたがた」とは、弟子たちのことであり、また私たちキリスト者のことです。ここでは少なくとも世の支配者を含みませんし、その支配者によってパンと娯楽を与えられることで平和を享受している庶民のことも含みません。「あなたがた」とは、「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」というイエス様の言葉を聞いて、信じている人々のことです。そして、その主イエスを愛し、愛するが故に、主イエスが父の許へ行くことを喜んでいる人々のことです。
 この点については何度も語ってきました。主イエスが父の許へ去り、戻って来るとは、十字架の死を通して罪人の罪を贖い、復活して天に上げられ、聖霊において帰ってくることであり、それは主イエスが永遠に私たちと共に生きてくださることです。私たちを父の家に迎え入れ、父なる神と子なる神であるイエス様が、私たちをご自身の住いとして下さることなのです。信仰と愛によって、私たちが神の内に生かされ、神が私たちの内に生きてくださる。それこそが、主イエスが与えてくださる平和であり、その平和が与えられることで喜びに満たされる者たち、それが主イエスの弟子であり、私たちキリスト者なのです。

 喜びと平和

 その私たちキリスト者の現実を、この続きの一五章で、主イエスは「ぶどうの木」の譬を通して懇切丁寧に語って下さっています。そこで言われていることは、主イエスの愛に留まっているならば、その人は喜びに満たされるということです。主イエスの喜びが私たちの内にあって、私たちが喜びに満たされることになる。主イエスは、そう約束してくださっています。そして、その喜びの内容は、神に見捨てられるべき罪人であった自分が、今や主イエスを通して神に愛され、受け入れられ、生かされ、用いられているというものです。この喜びを与えることが出来るのは、神様に遣わされ、神様の命令通りにその業を全うされた主イエスその方だけです。そして、このように神に愛され、神と共に生きることが出来ることを、主イエスは「平和」、「わたしの平和」とおっしゃっているのです。礼拝の度毎に、私たちが与えられるもの、それはこの「平和」です。

 礼拝で与えられる喜びと平和

 思い起こして頂きたいのですが、礼拝の最後に、私が毎週語る言葉、それは主イエスの代弁者として語る言葉ですけれど、こういうものです。
「平和のうちに、この世へと出て行きなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」


 これは願いであると同時に宣言であり、命令です。「わたしは平和を与えた。さあ、立て。ここから出かけよう。わたしが共にいる。神を愛し人を愛して生きなさい。そのようにして、平和をこの世にもたらしなさい」という主イエスの宣言であり、命令なのです。
 毎週礼拝の後、私は階段の所で皆さんを見送ります。その時、皆さんも色々な挨拶の言葉を言ってくださったり、あるいは黙ってお帰りになったりしますし、私もその都度、色々な言葉を言ったり、目礼だけをしていると思います。でも、あの場は、礼拝を通して平和を与えられた私たちが、戦いに出陣する場だと言ってもよいのです。この世からは決して与えられることのない平和を与えられた者たちが、平和の主を証しするために、信仰と希望と愛をもって生きるために出陣する。そういう場です。勝ってくるぞと勇ましく出て行くのです。主が共にいてくださるのだから、何も心配しないでよい。主イエスを信じ、愛して生きていけばよい。主イエスを受け入れれば、主イエスが隣人を愛せるようにしてくださる。仕えることを教えてくださる。そのことを信じて、勇気をもって礼拝堂から出て行く。それがあの時あの場で起こっている、起こっていなければならないことなのです。
 主イエスとの食卓を囲む礼拝を終えて、立ち上がって、この部屋を出て行かねばならぬ弟子たちに向かって、一五章一八節以下で、主イエスはこうおっしゃっています。
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」
 そして、一六章三三節では、こうおっしゃっています。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
 「あなたがたがわたしによって平和を得る」
という言葉は、復活の主イエスが、ユダヤ人、つまり世に対する恐れに捕らわれて部屋の鍵を締め切って佇んでいた弟子たちに現れた時に実現しました。

 日曜日礼拝の起源

十字架の死から三日目、日曜日の朝に復活された主イエスは、その夕べに弟子たちの真ん中に立って、こうおっしゃいました。
「あなたがたに平和があるように。」
 そして、十字架の釘跡が残る掌と槍の刺し傷が残るわき腹をお見せになりました。その主イエスの姿を見て、弟子たちはおびえたのではありません。「弟子たちは、主を見て喜んだ」のです。その喜びに満たされている弟子たちに、主イエスは再び「あなたがたに平和があるように」と語りかけられました。そして、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃった。「さあ、立て、ここから出かけよう」と。そして、「彼らに息を吹きかけて」言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 これがキリスト教会の礼拝の起源です。そして、礼拝によって罪の赦しを与えられ、平和を与えられた者たちは、その平和を世にもたらすために遣わされるのです。その使命を果たすために、聖霊が与えられるのです。この聖霊こそが、私たちに「すべてのことを教え」、主イエスがお語りになったことを「ことごとく思い起こさせてくださる」ものだからです。

 神は我がやぐら

 私たちは、この後、信仰の戦士として命がけの戦いを戦い抜いた宗教改革者ルターが作った讃美歌を歌います。ルターは、ドイツの民衆に聖書を分かりやすく教え、信仰を励ますために、ドイツの民衆に分かる言葉に聖書を翻訳し、多くの讃美歌を作りました。その中でも多くの人が愛して止まない讃美歌が「神は我がやぐら」だと思います。彼は当時の堕落した教会、福音からそれてしまったカトリック教会から破門され、命を狙われながらも、十字架の主イエスによる罪の贖いを信じる、その一点に立ち続け、この十字架の主イエスを語り続けた人です。
 その彼が、こう歌うのです。
「神はわがやぐら わが強き盾
 苦しめる時の 近き助けぞ
 おのが力 おのが知恵を たのみとせる
 陰府の長も などおそるべき

 いかに強くとも いかでか頼まん
 やがては朽つべき 人の力を
 われと共に 戦いたもう イエス君こそ
 万軍の主なる あまつ大神

 悪魔世に満ちて よしおどすとも
 かみの真理こそ わがうちにあれ
 陰府の長よ ほえ猛りて 迫り来とも
 主のさばきは 汝がうえにあり

 暗きの力の よし防ぐとも
 主のみことばこそ 進みに進め
 わが命も わが宝も とらばとりね
 神の国は なお我にあり」

 イエス様は八章で、ご自身を殺そうとするユダヤ人たちと論争しつつ、こうおっしゃいました。
「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理を拠り所としていない。」
 戦後の世界は、東西の両陣営が互いに「悪魔」呼ばわりをして軍拡競争をしてきました。冷戦構造が壊れた九〇年以降は、民族紛争、宗教紛争が世界各地に起こり、やはり互いに「悪魔」呼ばわりをし、悪魔を殺すことは正義だ、聖なる戦いだと言い合ってきています。私たち日本人も例外ではありません。しかし、イエス様はここで人のことを悪魔と言っているのではありません。人を殺すことが悪魔を殺すことではないのです。人を殺すことが悪魔の業なのです。そこに真理はなく、命はなく、神に至る道はありません。しかし、人の世には、今も悪魔が満ちており、陰府の長が吼え猛りながら、私たち人間に自滅の道を歩ませているとしか言い様がないように思います。
そういう絶望的状況の中で、政治家なんて誰がなっても同じ、私たちが何を考えようが、何をしようが世の中よくなるわけではない。そういう諦めとか無力感に苛まれることしばしばです。しかし、本当の問題は、私たち一人一人の罪の問題なのであって、政治家だとか庶民だとかのレベルの問題ではないのだと思います。そして、私たちが見るべきは、人ではなく、神なのです。その神の目線で自分を見、人を見る。そのことが大事なのだと思います。

 神の命令・掟

前回も言いましたように、一四章では「世」「あなたがた」が区別されています。峻別されていると言って良い。主イエスへの信仰と愛に生きる人々と、そうではない人々とは、主イエスにおいても明白な違いがあります。しかし、その違いはどこにあるのかと言えば、それは主イエスの命令、掟を聞いて従うか否かにあるのです。名前だけのキリスト者は、掟を聞いても従いません。従わないのなら、この世と同じことです。また逆に、世に生きる人々が、聞いて信じ、従うに至るならば、その時、その人は「あなたがた」と呼びかけられる人になるのです。そして、主イエスは一四章の最後でこうおっしゃっています。
「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じなったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」
 イエス様は「世は知るべきである」とおっしゃっています。知って欲しいのです。主イエスが、何をなさっているかを。
父がお命じになっていること、それは父の掟です。それは何かと言えば、一〇章にある言葉ですけれど、主イエスが、すべての羊のただ一人の羊飼いとなるために、羊のために命を捨てることなのです。つまり、現在、教会という囲いの中に入っている羊だけでなく、今は入っていない羊のためにも命を捨てる。それが主イエスに与えられた神の命令、神の掟なのです。「だれもわたしから命を奪い取ることは出来ない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」と主イエスはおっしゃっています。愛する者のために命を捨てること。それが父の命令なのです。そして、その愛する者とは、主イエスを愛している者だけではなく、世でもあるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が、ひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とある通りです。
 だから、主イエスがこれから世の支配者に捕らわれて殺されることは、神の命令に従うが故なのであって、主イエスが逃げそこなったとか、無念の最後を迎えたとかいうことでは全くありません。世の支配者であれ、庶民であれ、皆、悪魔の支配に服している。罪の支配に捕らわれている罪人です。主イエスを、抹殺しようとする人間、無視し、拒絶する人間です。しかし、その罪人を愛し、その者たちが悪魔の支配、罪の支配から解放されて、神の支配に移されるために、神と共に生きる平和を与えるために、主イエスは、弟子たちと食卓を囲んだ部屋から出て行こうとされるのです。それは自分を殺す人々、また自分を裏切って逃げていく弟子たち、そのすべての人を愛し、命を捨てるためです。そして、いつの日か、聖霊によってその事実を世が知り、救いに与るためなのです。世が知らねばならぬことは、このことです。

 キリスト者に与えられた平和

 キリスト者が礼拝を通して与えられる平和、それは、私たちは主イエスからこのような愛で愛されていることを知らされる平和です。主イエスを愛していたから愛されたのではありません。命を捨ててまでして私たちを父の住いに迎え入れ、私たちを住いとして下さる主イエスに愛されたから主イエスを愛しているのです。そして、主イエスが今も生きておられることを信じているのです。そこに私たちに与えられた平和がある。そこに喜びがあるのです。その喜び、その平和をこの世にもたらすための戦いに出て行く。それが私たちのこれから始まる一週間の歩みなのです。
 一五章で喜びについて語った後、主イエスは、再び「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」とおっしゃっています。イエス様が、私たちを友として愛してくださる。そして、私たちを通してその愛をこの世に広めようとしてくださっている。世には悪魔が満ちており、暗きの力が、今も主イエスを抹殺しようと跋扈しています。武力には武力で、核には核で、憎しみには憎しみで対抗すべきだ、自分たちは正義の側に立っているのだと確信し、主張する人はたくさんいるのです。そういう世にあって、私たちは、「剣を持つ者は剣で滅びる」との主の言葉を聞いているのだし、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という言葉も聞いています。そして、聖霊によっていつも新たに思い起こすことが出来ます。十字架と復活の主イエスは既に世に勝っているのだ、と。主イエスの十字架は、世の力に対する敗北のしるしではなく、愛の勝利の現実であることを、聖書の言葉とその言葉の力を教えてくれる聖霊によって、知ることが出来ます。世の支配者は、主イエスに対しては無力なのだ、と。私たちが、この勝利の主イエスを愛し、信じ、心と体に受け入れるならば、何も恐れることはないのだと、信じることが出来ます。
 週報にありますように、先週は何人かの方をお訪ねし、ご自宅や施設の一室で聖餐を共にすることが出来ました。平日の集会や大学の講義がない夏の間に、出来る限り訪問聖餐をしたいと願っています。先週は、主イエスの愛のしるしであるパンとぶどう酒を前にして、すべての人に、ヨハネ一四章の御言を語ってきました。十字架と復活を通して罪を赦し、新しい命を与えてくださった主イエスの愛によって、父の家に住まいが用意され、また主イエスを愛する私たちが神の住いとされている喜びを語りつつ、聖餐を共にすることが出来ました。ある方は、私の話を聴きながら感嘆し「本当にすごいことですね。本当にすごいことです」と賛美の声を上げられました。また、「こんな所まで牧師を遣わしてくださる神様の愛に感謝します」と祈りを捧げられた方もいます。私だけが訪ねているのではなく、主にある友情で結ばれている皆様方が訪ねてくださったり、お便りを書いてくださっています。そういう愛の交わりの中で、「みなしご」ではない自分を発見し、病の故に、高齢の故に自宅から出ることが出来ない、施設から出ることが出来ない、ベッドから降りることが出来ない方たちが、勇気をもって生きておられるのです。イエス様の名によって遣わされる使者と聖霊が、主イエスのすべての言葉を教え、思い起こさせるからです。そこに平和がある。そこに喜びがある。世が与えるものとは全く違う、永遠の平和があるのです。私たちは、その平和を知らされている。その恵みに感謝しましょう。そして、闇の力に押しつぶされそうになったとしても、心騒がせず、おびえず、勇気をもって、この世に平和をもたらすために心新たに歩み始めたいと願います。
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