「わたしにつながっていなさい」

及川 信

ヨハネによる福音書15章 1節〜10節

 

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

 講解説教とは


 八月半ばから中断していたヨハネ福音書の連続講解説教に戻ります。講解説教というのは、「公に開く」の公開でも、「後で悔やむ」の後悔でもなく、講義の講と解説の解と書いて講解説教と言います。中渋谷教会が代々大事にしてきた説教のスタイルで、私を牧師として呼んで下さる時の招聘状にもはっきりと「講解説教をしてほしい」と書かれていました。講解説教で大事なことは聖書の文脈から逸れないことであり、同時に、使われている言葉の意味を原語に遡って神学的に正しく解釈することだろうと思います。主題説教が、一つの段落の中から主題聖句を選び出して現代の私たちの現実に適用することを目指すことに対して、講解説教は聖書が書かれた時代の中に入っていき、そこに現代に生きる私たちの姿を見つけ出し、今に生きておられる主イエスの姿を発見する。そう言ってよいかもしれません。そして、そのように一つの書物を最初から最後まで読みつつ語ることを「連続講解説教」と言います。私の場合は、教会暦や教会の行事などによってしばしば主題説教も入れますから、厳密な意味での連続講解説教ではなく断続講解説教ということになるかもしれません。

 これまでの文脈

 二か月間、ヨハネ福音書から離れましたから、少し復習をしておきたいと思います。
 今日の個所も十四章と同じく、主イエスの言葉だけが記されています。素直に文脈を読めば、それは十三章から始まった主イエスと十二弟子たちとの最後の晩餐の場面が続いているということになります。ヨハネ福音書では、その晩餐の時に、主イエスが弟子たちの足を洗い清め、弟子たちも「互いに足を洗いなさい」と命令をされました。しかし、その時既に、主イエスは「皆が清いわけではない」とおっしゃり、ユダの裏切りを暗示されました。そして、その食事の最中に、ユダは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と主イエスに言われて、その部屋から出て行ってしまいます。つまり、弟子であることを捨て、主イエスを敵対者に売り渡す者となる。そのユダが出て行った後で、主イエスは、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」とおっしゃったのです。そして、残った弟子たちに、主イエスが彼らを愛したように、互いに愛し合いなさい、という「新しい掟」を与えられました。互いに愛し合うことで、彼らが主イエスの「弟子であることを皆が知ることになるからだ」と。ここに出てくる「栄光」「愛」「掟」「弟子」という言葉は今日の個所でもキーワードです。
 しかし、そのあたりから、主イエスは弟子たちを後に残して去っていくことを明言され始めます。一四章の主題はそのことです。つまり、主イエスはこれから十字架に磔にされて殺されてしまうのです。しかし、そのことによって主イエスは復活し、さらに聖霊が送られる。その事態を主イエスはこう言われました。

「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

 ここにも「掟」という言葉があり、「愛」という決定的な言葉がある。そして、「内にいる」という言葉も今日の個所に通じるものです。そのことから、この主イエスの言葉が一五章の背景、あるいは前提にあることはお分かり頂けると思います。その上で、主イエスはさらにこうおっしゃいました。

「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。・・・さあ、立て。ここから出かけよう。」

 ヨハネ福音書の記述方法


 一四章は、こういう言葉で終わる。つまり、主イエスがいよいよ逮捕されるという切迫感を持って終わるのだし、最早「多くを語らない、ここから出かけよう」と言って終わるのです。でも、現実には一五章、一六章、一七章と延々と主イエスは語り続け、祈られます。そして、どこにも行かない。その現実を前にして、学者の中には、一四章は一八章に繋がるはずだとか、色々と章を入れ替えたりする人もいます。それはある意味、合理的です。でも、既に引用した個所からお分かりのように、一四章と一五章は緊密な関係にあって、一四章なくして一五章はありません。ヨハネ福音書はいつも目に見える歴史的現象を書き記しながら、同時に霊において生きておられる主イエスの言葉、時代を超えて語り続ける主イエスの言葉、あるいは存在を語る。そういうことがここで起こっているのだと思います。つまり、ここの言葉は、十字架に磔にされる直前のイエス様が、残った弟子たちに語った言葉であると同時に、数十年後のヨハネ福音書が書かれた時代の教会に信仰をもって集うキリスト者(弟子)たちに向けて語られた主イエス・キリストの言葉なのです。そういうものとして読む時、この一五章は、まさにこの文脈の中になければならないものとして読めると思います。

 まことのぶどうの木

 以上のことを踏まえた上で今日の個所に入っていきます。しかし、ヨハネ福音書の単元は長くそれぞれの文章が直線的ではなく螺旋階段のように繋がっていくので、ここからここまでと区切ることが難しいのです。今日もお読みした範囲を超えて、文脈と言葉の意味を探求していくことになります。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」

 いきなり「わたしは〜〜である」という言葉が出てきます。そこに既に、世々の教会に臨在される主イエスの存在が現れているのだと思います。つまり、この福音書が書かれた時代の教会の主として、また今、礼拝を捧げている私たちの主として、主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木である」とお語りになっている。
 そして、「まことの」という限り、「偽りの」があるわけです。旧約聖書ではしばしば神の民イスラエルがぶどうに譬えられます。しかし、多くの場合、そのぶどうは神様の期待に背いて苦いものであり、切り取られる。そういう形で出てきます。そういうことが、この主イエスの言葉の背景にあることは間違いありません。また、「まことのぶどうの木」は、待ち望まれていた真実の共同体がついに到来したという意味もあると思います。
 そして、その木を植え、また手入れをし、豊かに実を結ばせ、収穫をするのは、主イエスの父なる神である、と明言されます。すべては、この神から出て神に帰るのです。

 矛盾

 さて、そこまでは良いとして、その後は、なかなか難しい所があります。この一五章の言葉は有名だし、多くの方が好んで読まれる個所の一つだと思います。それは具体的なイメージが直ぐに湧くからだと思います。しかし、その一方で、「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」というギョッとするような厳しい言葉も出てきます。また、四節五節を読む限り、枝が幹に繋がっていれば実を結ぶはずなのに、二節では「つながっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」とあるのは、どういうことなのか?言葉の論理だけ見れば矛盾があると言わざるを得ません。色々な解釈を調べてみても、分かったような分からないようなで困りました。しかし、私はやはり文脈を重視しなければならないと思います。
 この段階で、主イエスの目の前にいるのはユダを除いた弟子たちです。ユダは、それまで主イエスの弟子として行動を共にし、その食卓にもついていた。しかし、彼は主イエスの言葉を受け入れていたわけではなく、預かっていた金をくすねたりもしていましたし、ナルドの香油を主イエスに捧げるマリアをなじりもしました。そういう者は、主イエスに繋がっているように見えても、結局、主イエスにではなく、サタンに従う。その誘惑に負けて、主イエスから離れていきます。そして、この世の支配の中に帰っていく。教会から離れて、俗世間の中で生きていく道を選ぶ。しかし、それは結局、永遠の命から離れていくことなのであり、枯れてしまうことであり、また火に焼かれる裁きを受けることになってしまう。自分で繋がっているつもりでも、主イエスを受け入れてはいないからです。そういうことが直前に起こっているのです。そしてそれは、いつの時代の教会にも起こることです。その現実を見据えた上で、主イエスは、目の前にいる弟子たち、つまり食卓の席になお残っている弟子たちに向けて、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とおっしゃる。それまで一般論のようにぶどうの木を語っておられた主イエスが、「あなたがた」と特定の個人、あるいは人々に向って語りかける。その語りかけを、今日、この礼拝堂に集まっている私たちは聴くのです。

 言葉と存在

 九月末の創立記念礼拝において、パウロが書いたコリントの信徒への手紙に出てくる「十字架の言葉」を巡って説教しました。その時、「十字架の言葉」とは、十字架の贖いを成し遂げられた主イエス・キリストその方であるということを言いました。言葉と存在は、主イエスにおいては分かち難く結びついているのです。ですから、ここでも、主イエスと弟子たちが互いに繋がることを語りつつ、七節で「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」とおっしゃるのです。主イエスが弟子たちの内に生きておられることと、主イエスの言葉が弟子たちの内にあることは同じことです。「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という文章から始まるヨハネ福音書において、主イエスは神の言であり、主イエスの言葉は独り子なる神としての主イエスその方なのです。

 つながる=留まる

 先ほどから「つながる」という言葉を使って来ています。新共同訳聖書がそう訳しているからですけれど、原文を直訳すれば「内にある」「内に留まる」という言葉です。幹と枝を目で見る限り、「内に留まる」というイメージは湧きにくいので「つながる」と訳したのでしょうけれど、でも、幹と枝は元来一体のものです。幹があって、別に枝があって、それをボンドか何かで繋げてぶどうの木が出来ているわけではありません。幹と枝は一体です。枝は幹から出てくるのです。そういう一体の幹と枝の全体をさして、主イエスは、「わたしはぶどうの木だ」と言っているのです。つまり、それは幹が主イエスであり、枝は弟子であるとしても、その枝の中に主イエスが生きており、幹の中に弟子たちが生きている。そういうことなのです。そういう関係性、それを相互内在と言ったりしますけれど、そういう関係性の全体を、主イエスは「わたしはぶどうの木」という言葉で表現しているのです。互いに相手の中に生きているということです。別個に生きており、部分的に繋がっているのではない。弟子たちの中に主イエスが生きているのです。私たちの中にです。そして、私たちは主イエスの中に生きている。その相互内在を可能にするのは愛です。また、その愛を信じる信仰なのです。その愛と信仰に生きる時、枝は幹と一体なのですから、幹から命が流れてきて、自ずと葉を茂らせ、実を結んでいくのであって、枝が枝として幹とは別に生きようとするなら、それはただ枯れるだけだし、ついに焼かれて終わりです。

 実を結ぶ

 主イエスは、目の前にいる弟子たち、ユダが去った後、よく分からないままであっても主イエスのもとに残っている弟子たちに向って、また迫害の中でも御言を求めて礼拝に集まっているヨハネ教会、そして中渋谷教会の礼拝に集うキリスト者に向って、今日も新たに、「わたしに繋がっていなさい、わたしの中に留まりなさい。そして、わたしをあなたがたの中に受け入れなさい。そうすれば豊かに実を結ぶのだ」と命令し、その実りを約束してくださっているのです。私たちが実を結ぶために必死になって何かをやるのではなく、私たちはただひたすら、主イエスの中に留まる、その交わりの中に生きる、それだけです。そうしていれば、私たちの中に生きて下さる主イエスが実を結ばせて下さるのです。
 少し比喩としてはずれるかも知れませんが、私はこの個所を読みながら、詩編一編の言葉を思い起こしました。それはひたすらに御言を愛する人の歩みについて書かれた詩です。

いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

 「主の教え」
とは、主の掟とも言えるし、主の言葉とも言えます。その言葉を昼も夜も口ずさむ人、その言葉を身体全体で味わい、噛みしめ、気がつくと嬉しさのあまり歌うように口ずさむような人は物凄い行動的な人なのか、と言うと、そうではない。木のような人だと言うのです。木は動きません。ただ、どこに立っているかが問題です。御言を口ずさむまでになっている人は、命の水が流れる川のほとりに立っており、毎日毎日、地中から命の糧を吸い込んでいる。人の目には見えない形で吸い込んでいるのです。主の言葉を吸収している。そういう木は、「時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない」
じっと留まっている。命のあるところに留まっている。それこそが実を結ぶことに繋がるのです。もちろん、このことはパウロのように世界中を飛び回って伝道している行動的な人にも当てはまることです。彼は「十字架の言葉」に固着し、十字架につけられたキリスト以外のことは語らないのですから。そして、十字架を語ることは復活を語ることです。彼の中に生きているキリストが語るのです。そして、その言葉によって罪を清められてキリスト者になる人々が誕生してくる。それが水の流れの辺に立ち続けている人間の姿であり、豊かに実を結ぶ人間、人間たちの姿なのです。
 主イエスは、今日も、主の教え、その掟、その言葉を求めてこの礼拝堂に集まってきている私たちに向って、「わたしの話した言葉によってあなたがたは既に清くなっている」と語りかけてくださっています。そして、「わたしにつながっていなさい。わたしの内に留まっていなさい。わたしもあなたがたの内に留まる。そうすれば父によって手入れをされて豊かに実を結ぶことになるのだ」と語りかけてくださっているのです。私は、その言葉を聞いて、心の底から喜びが溢れてきます。

枯れた枝としての人間

 まだ信仰を持っていない若かった頃、必ずしもこのヨハネ福音書の言葉を意識してのことではないのですが、私は人間というものは、幹から離れた枝のようなものだと思っていました。そして、それが苦しくて仕方ありませんでした。まだ二十歳にもならない青年でしたから、自分が枯れた枝だとまでは思ってはいませんでした。木の枝は、幹から離れても即座に枯れるわけではありません。水分がまだ残っているからです。でも、それは時間の問題なのであって、必ず枯れるのです。まだ枯れていないだけで、時が巡り来れば、その葉はしおれ、実を結ぶこともないままに枯れていくことは確実です。つまり、水分が残っていてもその枝が生きているわけではない。新たな水分が補給されないのですから。そういう意味では、幹から離れた枝は生きているようで実は既に死んでいる。そのことが分かっていながら惰性で生きているだけの自分が苦しくて仕方ありませんでした。でも、礼拝に通い続ける内に、少しずつイエス様が私のために死んでくださり、また復活してくださり、今も生きて語りかけてくださっていることが分かり始めました。つまり、イエス様が私を愛してくださっていることが分かり始めたのです。洗礼を受けて直ぐに分かったわけではありません。洗礼を受けて礼拝に通い続けている内に、ふっと、今自分は独りで枯れるのを待っている枯れ枝ではないのだ、私は今、キリストの木に繋がれている小さな枝なのだと分かり始めたのです。毎日めざましいことが起こるわけではないし、毎日目に見えて成長しているわけでもありません。でも、目には見えないし、気づきもしないような形で、聖書の言葉が次第次第に私の中に入って来て、その言葉を支えにして、その言葉を望みとして生きている自分を発見するようになりました。そして、その言葉を語りたい、語り続けたいという、抑えがたい思いに捕らわれる自分がいることを認めざるを得なくなって、ついに牧師になってしまったのです。今は、有難いことだと思っています。こうして、毎週毎週、主の言葉を語らせていただける。主の言葉を求めて集まって来られる熱心な会衆と共に、その言葉を聞き、受け入れ、賛美をもって応答できる。そういう主イエスとの交わり、主イエスにある交わりの中に生かされている自分を発見する時、恵みによって幹に連なる枝にしていただいた幸いをつくづく思います。そして、一一節以下で、主イエスがおっしゃるごとく、まさに喜びに満たされていきます。そして、そのことを主イエスが喜んで下さることもよく分かります。その主イエスの喜び、「この子は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」と言って、帰ってきた放蕩息子を抱きしめる主イエスの喜びを見て、その主イエスの腕の中で生き返った私は、さらに喜びが深まります。洗礼を受けて教会生活をする、礼拝生活を続けるということは、そういうことなのではないでしょうか。皆さんも、それぞれの歩みの中で、そういう経験をしてこられたと思いますし、またこれからも経験されると思います。

 再び「実を結ぶ」について

  「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」


 ここで「実を結ぶ」ということから改めて考えていきたいと思います。実は、この言葉が最初に出てくるのは一二章です。そこでの主語は、主イエスご自身です。過ぎ越しの祭りの時にギリシア人が主イエスに会いに来た。その時、主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とおっしゃいました。そして、弟子たちに、「自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」とおっしゃったのです。ここでの「栄光」とは、主イエスが十字架にかかって世の罪を取り除くことです。そこで結ばれる「実」とは、その十字架の贖いを信じて新たな命を与えられた者たちのことです。その者は、主イエスに仕えて生きる「弟子となる」のであり、その弟子のことを、「父は大切にして下さる」と主イエスは約束してくださっています。
 私たち自身が、主イエスがその十字架の死を通して結んで下さった実なのです。私たちが主イエスを「わが師」と選んで弟子になったのではなく、主イエスが私たちを選んで弟子として下さったのです。主イエスに仕える者として下さった。「仕える」とは、英語ではサービスですけれど、それは元来「礼拝する」ということです。礼拝するとは神を崇めること、栄光を称えることです。主イエスの十字架において現れた神の栄光、人間を滅びへと追いやる罪の力に勝利し、罪を赦し、新しい命を創造して下さった神の栄光に与り、その栄光を讃美する、世に告げ知らせる。それが主イエスによって結ばれた実である弟子たちの姿であり、最大の喜びです。そして、その感謝と賛美にあふれた礼拝そのものが、私たちが豊かに結ぶ実でもある。主イエスの内に留まり、主イエスをその内に受け入れることによって、私たちは実を結ぶ人間になります。それは永遠の命という実であると同時に、神の栄光を讃美するという実です。

 人は主を賛美するために造られた

 私たちの中渋谷教会は、改革長老教会という教派の流れを汲んだ教会です。その改革長老教会を建てたのは宗教改革者カルヴァンですけれど、そのカルヴァンがジュネーブの教会のために定めた「ジュネーブ教会信仰問答」というものがあります。その最初の問いと答えは、こういうものです。

問 人生の主な目的は何ですか。
答 神を知ることです。
問 どんな理由であなたはそういうのですか。
答 神は我々の中に崇められるために我々を造り、世に住まわせられたのでありますから、また、神は我々の生の源でありありますから、我々の生を神の栄光に帰着させるのはまことに当然であります。

 カルヴァンは、そう言った上で、「神を知り、神を礼拝することこそが人間にとっての最上の幸せであり、そのことがなければ人間は動物よりも不幸である。そして、どんな時でも、神に全信頼を置いて救いとすべての善きものを神に求めることこそ、正しく神を崇めることなのだ」と続けます。

 私は本当にそうだと思います。神様を崇める、礼拝する、讃美する。それに勝る喜び、幸福はありません。主イエスが、私たちをがんじがらめに捕えていた罪の縄目から解き放って下さったのです。そのために十字架にかかって死に、復活してくださったのです。そのように死に、復活することが、主イエスに与えられた父からの掟です。主イエスはその掟を守られた。それも喜んで守って下さった。父を愛し、私たちを愛してくださっているからです。愛こそが喜びの源であり、その愛があれば苦難もまた喜びなのです。そして、私たちがその喜びに生きることが出来るようにして下さったのです。それは、私たちもまた肉の欲望の限界を打ち破った愛に生きる掟を守ることが出来るようにされた喜びです。主イエスが愛して下さったように愛を生きるという奇跡が、私たちにおいて起こることなのです。
もちろん、先ほども言いましたように、枝は直ぐに太くなって葉を茂らせ、実を結ぶわけではありません。一気に百倍もの実を結ぶことはない。しかし、主イエスの愛の中に生かされる時、その愛に留まり続ける時、主イエスの愛は次第に私たちの中に入り、かつては到底赦すことなど出来ようはずもないことや人と忍耐して付き合うことが出来るようになり、いつの日か、時が来れば主に在って和解をすることが出来るという望みを持って生きることが出来るようになった。そういうことは、多くの人が経験することなのではないでしょうか。もし、そういう経験があるとすれば、それは単に人生を長く生きてきて身に付けた経験ではなく、主イエスの内に生き、主イエスが内に生きてくださっている経験、ぶどうの木の枝として幹と一体となって時を過ごしてきた経験の結果なのであり、主イエスが結ばせて下さっている実なのです。そこに信仰に生きる喜びがあります。そして、その喜びは讃美となって現れます。説教もまた、「講解説教だ」などと言っても、やはり心から喜び、主を賛美するものでなければ何の意味もありません。

讃美の喜び

 昨日は、青山学院オラトリオ・ソサエティ合唱団の演奏会がこの礼拝堂でありました。素晴らしいものでした。協賛という形で、私も牧師として挨拶と短いメッセージを語ることになっていました。二度ほど練習に来られたので、私は邪魔にならないように、ベランダの窓から覗き見をしました。とても真剣な顔で練習をしている。でも、歌っているのは神を賛美する歌です。神の栄光を称える歌です。皆がクリスチャンであるわけではない。でも、その顔に喜びが溢れてくるのが分かります。もちろん、ハーモニーが合ったという喜びもあるに違いない。自分たちの声に聞き惚れるという喜びもあるでしょう。でもテレビで流れる流行歌をカラオケでうまく歌って見せた時の自己満足的な喜びとは違う喜びが彼らの中にあるのだと思いました。私はその顔を見ながら、ある詩編の言葉を思い起こし、その言葉で短いメッセージを語ることにしました。それは、詩編一〇二編の言葉です。
「後の世代のために、
このことは書き記さなければならない。
『主を賛美するために、民は創造された。』」

 主イエスの「弟子になる」とは、愛をもって神の栄光を讃美する者になるということです。そして、それは聖書においては何も特別なことなのではなく、人間が人間になることです。神に造られた人間になることです。私たち人間は、神を賛美するために創造されたのですから。洗礼を受けて主イエスの弟子になるとは、そういう人間、主を賛美する民の一員になって、喜びと幸福に満ちた人生を生きることです。
洗礼式の時に、私が必ず読む言葉に、こういうものがあります。
「わたしたちは今、この兄弟が御言に従ってバプテスマを受け、キリストの聖なる教会に受け入れられ、そのみ体の生きた枝となるように祈りましょう。」
 キリストの体なる教会とは、まことのぶどうの木であり、私たちはその生きた枝として生きるように求められ、また許されている。それは生きる喜びへと招かれていることだし、喜んで生きることです。
 一昨日の夜に、五年間の教会の歩みを説教、講演、写真でまとめた冊子が出来上がりました。お持ち帰りになり、少しずつ読んで頂けるとよいと思います。写真は、礼拝後、聖餐式、葬式、結婚式、墓前礼拝、全体交流会、バザー、クリスマスのものを掲載しました。全体交流会は賛美と食事の会ですけれど、冊子の編集を手伝って下さった方が、その写真を見ながら、「前に立って歌っている人たちだけでなく、テーブルに座って歌っている方達みんなが、本当に嬉しそうに讃美しているのが分かるから嬉しいですよね」としみじみおっしゃいました。私もそう思います。そして、目には見えないけれど、主イエスもまた、礼拝においても交流会においても、喜びに満ちて賛美する私たちを見て、やはり喜んでおられる。笑みを湛えておられると思います。豊かに実を結びつつある私たちを見て喜んで下さるイエス様を思うと、また、私たちの喜びはなお一層深まるのではないでしょうか。
ヨハネ説教目次へ
礼拝案内へ