「愛の喜び」

及川 信

ヨハネによる福音書 15章 1節〜17節

 

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 愛 栄光


 先週に引き続き、ヨハネ福音書一五章前半の御言を見つめ、またその語りかけを聞いていきたいと思います。いつものことですが、この個所の言葉を理解するためには、福音書全体を見なければなりません。

 一三章から頻出し始めた言葉は「愛する」という言葉です。主イエスが、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗う時から「愛する」ことが主題となっているのです。そして、ユダが出て行った後、主イエスは、残った弟子たちに、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という「新しい掟」を与えられました。彼らがこの掟を守ることを通して、彼らは弟子となるのだし、そのことを人々が知るのです。それはつまり、彼らの姿を通して、人々がイエス様を知る、その愛を知るということです。そのことこそが「豊かな実を結ぶ」ことであり、イエス様をこの世に遣わした、さらに与えた父なる神様が栄光をお受けになること、つまり、神様の栄光が讃美されることなのです。

 愛の命令

 主イエスご自身が、弟子たちの足を洗うことを通して彼らを「この上なく愛し抜かれた」のですけれど、それは主イエスが「父の掟を守り、その愛に留まっている」ということを現しています。それと同じように、私たち主イエスの弟子たちが掟を守ること、そのことを主イエスは求めておられる。いや、命じておられるのです。
 私たちは、命令と聞くと、拒否反応を起こす場合があります。私などは子どもの頃から反抗的な人間でしたから、親や教師に色々命ぜられることが嫌いでした。でも、たとえば、洪水が押し寄せてきて、床上浸水してしまった家の屋根に避難している時、救命ボートで助けに来てくれた人が、「あとちょっとでこの家は丸ごと流されるぞ!そこからボートめがけて飛び降りろ」と命令してきたとしたら、それは私の命を助けるために命がけで来てくれた人の命令なのですから、命令に従うことが嫌だからきかない、ということにはならない。感謝感激して、喜んで命令に従うでしょう。自分の命の危険をも顧みずに、私を助けるために来て下さった方が、何とかして私を生かそうとして命令をして下さったのですから。そして、命令に従ったことで生きることが出来た時、命の恩人としてその方に感謝するでしょう。
 主イエスが、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」とおっしゃる時、それは、そこに私たちの救いが懸かっているということです。主イエスは、私たちを何とかして救いたいと思って、父の許から来られた方です。自己愛に捕らわれ、他人のことなどどうでもよい、自分さえよければよいという思いから解き放たれることのないこの私たち、エゴイズムの縄目に束縛されてどうにもならない私たちの行きつく先は孤独であり、断絶です。神とも、人とも本当には繋がることが出来ず、どこからも命の糧を受けられないまま、やがて枯れてしまい、焼かれてしまう裁きとしての死なのです。その裁きとしての死、何の実も結ぶことなく滅びてしまう死から私たちを救い出すために、主イエスは神の許から遣わされてきた方です。そして、私たちを「友」と呼び、その友が救われるために死んでくださったお方なのです。そのお方が、「そこに留まっていては駄目だ。愛の掟を守れ、互いに愛し合え、わたしの愛に留まれ。そこにこそ命があるのだ」と命じてくださっている。そういうことなのだと分かれば、その命令を聞くだけで、私たちの心は喜びに満たされるのではないでしょうか。さらに、その命令に従うことが出来るなら、その喜びは数倍、数十倍になるはずです。

 具体的状況 世の憎しみ

 ここで、主イエスが、こういう言葉を弟子たちに語りかける状況を見ておきたいと思います。前回も語りましたように、一四章の後半には、世の支配者がイエス様を捕えにやってくることが明言されています。そして、今日お読みした個所の続きで、イエス様はこう言うのです。

 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」

 前回も、「愛することは喜びだ」と語りました。親子であれ、夫婦であれ、友人同士であれ、互いに愛し合うことは喜びです。その喜びがあるなら、私たちは生きていけます。しかし、その喜びは、互いに愛し合う中で味わうものです。しかし、主イエスは今、世の人々の憎しみに囲まれているのですし、弟子たちもその憎しみに囲まれることになることは明白です。また、この福音書が書かれた時代のキリスト者たちは、まさに世の人々の憎しみの中に生きていたのです。その時代の人々に向けても、主イエスは語っているのだし、現代の私たちに向けても語っているのです。戦時中、信仰をもって生きた方なら、その憎しみを肌身で知っておられると思いますし、戦争はいつだって起こる可能性はあります。要するに、世というものは、自分たちにとって異質なものは排除しようとする。それは戦争があろうが無かろうが、本質的に変わりはありません。いつ何時、時代が変わって、教会が敵視されるとも限りません。
 問題は、時代がどうであれ、私たちが神様に属しているかどうかなのです。時代によってコロコロ変わるこの世の国に属しているのではなく、永遠の神の国に属しているか、それこそが問題です。神に属することは、この世に属さないことです。そして、この世に属することは、神から離れることです。この世にありつつ、そして、この世における責任はきちんと果たしつつ、しかし、この世には属さない。堕ちない。それが私たちキリスト者、キリスト教会の在り方なのです。

 状況がどうであれ

 しかし、それでは、イエス様はこの世とは断絶した秘密結社のように内向的、閉鎖的に生きよと、私たちに命じているのかと言うと、そうではない。全く逆です。それは一体どういうことか?
 そこで私たちがどうしても思い起こさなければならない言葉が、三章一六節一七節の言葉です。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 この言葉は決定的な言葉です。神様は世を愛しておられるのです。その愛は、最愛の独り子を与えてしまうほどの愛です。そして、独り子であるイエス様は、たった一つの命を与えてしまう。その相手である「世」は、しかし、独り子を憎み、神を憎んでいる。実際には、「神を憎んでいる」とも思わずに憎んでいるのです。自分の命の源を憎む、自分の救済者を憎む、そんなことは本来あり得ないことです。救命ボートで助けに来てくれた人を憎むなんてことは考えられません。でも、現実にそういうことが起こっている。何故かと言うと、自分が絶体絶命のピンチに陥っている、幹から離れた枝でしかないことに気づいていないからです。屋根の上で、死の恐怖に怯えていないからです。だから、助けに来てくれた者の命令が鬱陶しいものに感じるのだし、拒否すべきものに感じる。世の快楽にまだまだ身をゆだねていたい者にとって、神の招き、選びは迷惑千万なものであり、しつこく招く神は排除すべきものです。しかし、神はご自身を憎む者たちを愛し、彼らが愛してくれる保証はどこにもないのに、一方的に独り子を既にお与えになってしまったのです。これはあり得ないこと、私たち人間には不可能なこと、この世の中にはないことです。
 主イエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない」とおっしゃいました。でもこれは直訳すると、「これ以上大きな愛を、人が持つことはない。その愛とは、友たちのために自分の命を捨てる愛である」となると思います。「友」は複数形です。「友たち」なのです。いわゆる唯一無二の親友ではない。ある意味では、不特定多数の人たちです。イエス様は、それに続けて、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と条件を付けておられます。しかし、それに続けて「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」とおっしゃる。この言葉は、十字架にかかる直前の言葉と言うよりは、やはり、十字架の死、復活、聖霊付与を経ての言葉だと思います。聖霊が与えられた時に初めて主イエスの言葉、その業の意味が弟子たちには本当の意味で分かったのですから。

 友と呼ぶ

 しかし、それにしても、この「友と呼ぶ」というのは一方的な言葉です。これは、「既に呼んだ」、そして「呼んでいる」という完了形です。どうして主イエスは友と呼ぶのかと言えば、既に父の御心を彼らに告げ知らせたからです。しかし、その御心を「行うならば」と言いつつ、「その時は友と呼ぶことにしよう」という未来形ではない。既に今、「友と呼ぶ」のです。主イエスにとって弟子たちは今既に友なのです。そして、その友のために命を捨てる。いや、既に捨てているから友なのです。
 先ほど、この言葉の「これ以上大きな愛はない」の直訳は「これ以上大きな愛を、人が持つことはない」であると言いました。英語ではほとんどの場合、「no one have」と「誰もこれ以上の愛は持てない」「こんな愛に生きる人は誰もいない」となります。愛の大きさと同時に、その愛を生きる人などいないことが明言されているのです。そして、それは大事なことだと思います。
 この「命を捨てる」と言った人が既にいます。ヨハネ福音書の場面設定で言うならば、今も主イエスが語り続けている最後の晩餐の席上のことです。「わたしの行く所に、あなたはついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われる主イエスに対して、ペトロはこう言いました。

 「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」

 しかし、彼はもうじき、「あなたは、あの人の弟子のひとりではないか」と言われると、「違う」(わたしは、そうではない)と打ち消すのです。三度も、です。主イエスは、彼が弟子であることを否定する、いや「捨てる」ことを御承知でした。主イエスとの愛の関係から離れ、主イエスを拒むことになることをご存知だったのです。しかし、主イエスは、そういうペトロを初めとする弟子たちのことを、「友と呼ぶ」と言い、その友たちのために命を捨てるのだし、事実捨てたのです。こういう愛を持っている人はいない。No oneです。

 友と呼ぶとは

 しかし、主イエスは、「新しい掟」を弟子たちに与えて以後、その愛を持って生きることを私たちに求め、そして命じておられるのです。私たちは今日、その求め、その命令の前に立っている。何度も主イエスの弟子であることを捨てて、この世に埋没し、自己愛にのみ生きてしまう私たちのために命を捨てて下さった主イエスの求め、命令の前に立っているのです。厳しいことです。
 青山学院の短大での講義においては、私は必ず創世記の記事を学ぶことから始めます。その中で、神はご自身に象り、似せて人を造ったことを語ります。その「人」に差別はない。人種、民族、性別、身分を問わず、誰もが神に似せて造られたことを語ります。その上で、世界の現実、まさに差別に満ち満ちた現実を様々な事例を挙げて語ります。人種差別、民族差別、部落差別、女性差別、南北問題、苛め、戦争。そういう話の中で、学生たちが非常に深く納得するのは、「あの人は敵だ」と言った途端に「敵となって殺してよい存在になる」ということです。またクラスの中で、「あの人はゴキブリだ」と言えば、その時からその人は「ゴキブリになって苛めてよい存在になる」ということ。そうやって、戦争では人殺しを平気ですることが出来るようになるのだし、苛めをしても良心の呵責を感じなくなる。敵は殺さねばならなし、ゴキブリも殺さねばならないものだからです。敵などいない、ゴキブリなどいない、すべての人は神の像をもっており、神聖な、尊厳ある存在なのだと思い、そういう意味で人という言葉を使っていたら、人を殺すことは出来ず、尊厳を踏みにじるような苛めも出来ません。人を「敵」と呼ぶ、「ゴキブリ」と呼ぶ、「二グロ」と呼ぶ、差別的な意味を込めて「朝鮮人」と呼ぶ、「女子供」と呼ぶ、「障害者」と呼ぶ、そういうことを通して、私たちは差別を生み出し、憎しみを生み出し、殺人を生み出すのです。
 そういう講義をしながら、しばしば、アメリカの公民権運動やベトナム反戦運動を推進したマルティン・ルーサー・キング牧師の話をビデオを見ながらします。キング牧師は、自分たち黒人を「カラス」だとか「猿」だとか呼んで見下し、リンチをし、殺す白人を決して「敵」とは呼びません。暴力で叩きのめされても、暴力で打ち負かすべき敵とは呼ばない。「敵と呼ぶ」と「敵となる」からです。彼は差別する白人たちを「友」と呼びます。今、友でなくても、いつか友となるべき人たちだからです。そして、いつの日か、奴隷所有者の子孫と奴隷の子孫が、共に兄弟愛に満ちた食卓を囲む日が来るという夢、神の創造の秩序にかなった希望を語り続けます。そして、結果として暗殺される前夜の演説となってしまったのですが、アメリカ南部のメンフィスの教会において彼は、こういう演説をしました。
 「誰だって長生きはしたいし、長生きにはそれなりの意味があるだろう。でも、今の私にはそれもまたどうでもいいことだ。私は神の恵みによって既に山の頂に登ったのだから。そこから約束の地を見たのだから。私は皆さんと共にそこには行けないだろう。でも、私の友たちが必ずその地に着くはずだ。私は今、幸せだ。主の来臨の栄光を既に見たのだから。」
 自分を出エジプトの指導者モーセになぞらえたこの演説の中で、彼は「約束の地を見た」「主の来臨の栄光を見た」と言います。それは、単にアメリカの黒人が白人と同じ権利を取得するというようなレベルのことではありません。そのレベルなら、彼の生前に公民権法は制定されましたし、今のアメリカ大統領は奴隷の子孫ではないにしてもアフリカ系の方です。この事実も、驚くべきことです。しかし、彼がはるかに見させられた「約束の地」、「終りの日の主の栄光」とは、そんなものではありません。すべての人間が自己愛から解放され、すべての人間がぶどうの木の一部となり、主と結ばれ、主に在って互いに結ばれて豊かに実を実らせることです。そのようにして、神の栄光が現れることなのです。
 幸い、日本の中学や高校でもキング牧師の有名な演説「わたしには夢がある」は英語の教科書などに出ているようで、学生たちは、その演説の背後にキリスト教信仰があることを知って驚いてくれます。叩き潰すべきゴキブリのような扱いを受けながら、その扱いをする者たちを友と呼び、愛し、赦して生きていく。そのことを倦まず弛まず繰り返していく。その歩みとは、一粒の麦が地に落ちていくことです。そして、そのことを通して少しずつ豊かな実を結んでいくのです。その最初の麦は、神の独り子、主イエス・キリスト、その方であることは言うまでもありません。

 勝利

 主イエスは、この先の一六章で、主イエスを「信じる」と告白した弟子たちに向って、こう語りかけています。

 「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 この勝利とは、人生を生きて行く上で経験する様々な苦難や試練に対する勝利ではありません。愛の勝利です。

 キング牧師の指導で湧き起こった公民権運動やベトナム反戦運動の中で歌われた歌は、we shall overcomeです。「我らは勝利せん」という意味です。しかしそれは、目に見える具体的な敵に対する政治的な勝利ではなく、私たちを神から引き離す罪の力に対する勝利、世を支配している悪の力に対する勝利です。その勝利、愛の力による勝利こそ、主イエスが一粒の麦となって獲得した勝利であり、ご自分を知らないと言う者を友と呼びつつ、その友のために死んでくださったことによって始まった勝利、神の栄光が現れる勝利なのです。

 選び

 その主イエスが、その友である、また友となっていくべき弟子たちにこう言われます。

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしが任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 私たちキリスト者は誰も、自分でキリストを選んだわけではありません。自分で選んだと思った人は、そのうち教会からいなくなります。キリストを捨て、弟子である身分を捨てるのです。自分で選んだのだから、捨てるのも自分の意志なのです。自分にとって必要がなくなれば、教会に留まる理由はありません。しかし、キリストに選ばれた人は消えない、消えることが出来ません。キリストが捨てない限り、私たちは教会から消えることはありません。その私たちは、ぶどうの木である教会の中で兄弟姉妹として愛し合うこと、互いに友として愛し合うことを通して、主イエスの弟子として、また友として生きて行くのです。それだけだって、私たち人間の力で出来ることではありません。私たちは、枝として幹に連なっていなければ何も出来ない、愛の実を結ぶことなど出来ません。

 出かけて行く

 しかし、イエス様はここでただ単に教会内のことを語っているのではありません。主イエスに選ばれ、弟子とされ、また友と呼ばれている私たちは「出かけて行く」のです。実を結ぶために出かけて行かねばならない。どこに出かけるのか?世の中に出かけるのです。主イエスを憎み、そして弟子たちを憎む世の中に出かけて行くのです。そこで実を結ぶためです。しかし、こんなに絶望的なことはありません。考えただけで、嫌になります。
 私は伝道をもっぱらするために選ばれ、任命された人間ですから、招かれれば基本的にはどこにでも行くつもりです。しかし、私を招いて下さるということだけで、そこにいる全員がではないにしても、何人かはキリストの福音を語って欲しいと願っているわけです。誰もかれもが無関心な所、それどころか警戒心や敵愾心を持っている人たちだけが集まっている所に話しに行くということは、今のところありません。皆さんは尚更そうだろうと思います。でも、皆さんの中には家族が信仰に理解がないという方は何人もおられると思いますし、中には理解がないどころか反対している、キリスト者を軽蔑している、そういうご家族がいる場合もあるだろうと思います。礼拝が終われば、そういうご家族の中に「出かけて行く」のです。教会こそが、永遠の神の家であり、私たちはその家、神の家族に属しているので、敢えて自宅に「帰る」ではなく、「出かけて行く」という言葉を使いますけれど、私たちの毎日の生活は、そういう家族と共に生きる生活であり、職場に行けば尚更そうでしょう。しかしそれは、そこでかりそめの生活をすることではないし、下らない世事にかまけることでもありません。主イエスによって実を結ぶようにと派遣された上での使命を生きることなのです。そして、その使命を果たすために、私たちは任命されたのです。

 願う

 私は先ほどペトロの話をしました。ペトロも、「あなたのためなら命を捨てます」と言ったのだと。しかし、彼は捨てませんでした。「命を捨てる」という言葉を自分の意志で言ったからでしょう。意志は弱いものです。死の恐怖に耐えることは出来ません。しかし、その彼を含めて、主イエスは主イエスの友として生きること、多くの実を結ぶために生きる弟子として任命したのです。
 七節には、「望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる」とあり、一六節にも、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」いずれも不思議な言葉と言うか、違和感を抱く言葉なのではないでしょうか。願うものは何でも叶うとか、与えられるとか、そんなことがあるのか?誰だって、そう思うのではないでしょうか?昨日も、多くの方が朝から夕方までバザーの準備をして下さいました。私は、時折ブラブラと挨拶をしながら説教の準備をしていました。夕方になって雨が降ってきた。どうも明日の予報も雨らしい。雨だったらどうしようと心配になります。しかし、「晴れにして下さい」と願うことが、ここで主イエスがおっしゃっていることなのかと言えば、やはり、それも違和感を持つ話です。では、一体どういうことなのか?
 決定的なことは、主イエスに「つながっている」ことであり、主イエスの「名によって願う」ということでしょう。それは端的に言って、主イエスの愛の内におり、主イエスを愛し、主イエスの愛で互いに愛し合いつつ、神に願うことです。ある人は、「愛が願うことは愛だけである」と言いましたが、それはその通りだと思います。神と人、人と人とが愛し合うこと。そういう世界が実現すること。世を愛する神は独り子イエス・キリストを与えることを通して、そのことを願われたのです。神を愛し、また世の人を愛するイエス様もまた、弟子たちに向って、「神の御名が崇められるように、神の国が到来するように、神の御心が天でと同じように地でも行われるように願いなさい」と教えて下さったのです。そして、この祈りの実現のために、一粒の麦となって地に落ちて下さったのです。この主の名による祈りを祈り続け、この願いをひたすらに願い続ける。それは信仰と希望と愛の業です。その業を、この世においてなしていく。そこにしか時代を超えて残っていく実を結ぶことはありません。主イエスと共に、主イエスの名によってこの祈りをささげつつ、世を愛していく。憎まれようが、蔑まれようが、無視されようが、世の救いのために主の愛を伝えて行く。そのことのために、自分の命を捨てる、捧げる。それが弟子たち、主イエスから友と呼ばれる者たちの歩みなのです。それはキング牧師がそうであったように、具体的現実としてはまだまだ途上であったとしても、はるかに救いの完成、主の来臨の栄光を見て、讃美する歩みです。

 任命 捨てる

 私は、このヨハネ福音書の一五章を読みつつ、また一五章を読むために、その他の個所をいくつも読みながら、一種、愕然とするような思いを持ちました。この個所が「愛」を巡るものであることは冒頭に言いました。そして、それとの関連で「実を結ぶ」とか「自分の命を捨てる」という言葉が使われています。その言葉がどこでどのように使われているかを調べて行くと、実に含蓄が深いことがいくつもありましたけれど、ペトロに関する一つのことだけを語ります。
 ペトロは、命を捨てませんでした。三度も主イエスを否んだのです。でも、彼は復活の主イエスに出会い、その主イエスから三度も、「あなたはわたしを愛するか」と言われ、そして、三度も「わたしの羊を飼いなさい、世話をしなさい」と言われます。そして、さらにこう言われるのです。

 「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

 続きは、こうです。

 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 「実を結ぶ」
という言葉は、原語ではフェロウという言葉です。そして、ここに出てくる「行きたくないところへ連れて行かれる」もフェロウなのです。そして、そのことは彼が、主イエスとその弟子である彼に対して敵意を抱く人々の真っ只中にも連れて行かれ、その人々を愛し、友と呼びつつ、主の愛を証しせざるを得ないことを現していますし、さらに彼が殉教の死を遂げることを現しているのです。彼は、その死、命を捨てて神の栄光を現すために選ばれたのだし、任命されたのです。そして、この「任命する」という言葉は、実は「命を捨てる」「捨てる」と同じティセーミという言葉です。弟子とは、主イエスの友とは、自分の命を捨てるために任命されている。しかしそれは、実は永遠の命を得るためなのです。
 主イエスは言われました。
 「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って、永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるとことに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。」
 自己愛に凝り固まり、自分で自分を大切にする道を選ぶのか、自分を憎む者を愛して、喜びを持って命を捨てることを通して永遠の命に至り、父に大切にしていただく道を選ぶのか、二つに一つしかありません。そして、私たちは幸いなことに、後者の道を選ぶ者として既に選ばれている。既に主イエスに「友よ」と呼んでいただいている者なのです。既に「任命」されているのです。だから、その与えられた使命を果たす限り、既に世に勝っている主が共にいて下さるのですから何の心配もないのです。苦労はあります。しかし、愛と信仰に生きる道には救いが完成する希望があります。だから、約束の地、終りの日を目指して共に歩んでまいりたいと願います。この願いは必ず実現するのですから。
 午後から始まるバザー、このこともまた、私たちが出かけて行って実を結ぶようにと託された主の業だし、その主のためにやるのでなければ何の意味もないことです。心を一つにして、一本のぶどうの木として、主が集めて下さるお一人一人と主の愛を分かち合う気持ちで、午後のひと時を過ごしたいと思います。
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