「愛、憎しみ、真理」

及川 信

ヨハネによる福音書 15章18節〜27節

 

 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。


 一五章一節から一七節においては、主イエスと私たちが一体の交わりを生きる「愛」が主題であり、その愛に伴う「喜び」が語られていました。その「愛の喜び」はぶどうの木である教会を特色づけるものです。しかし、今日の個所に何度も出てくる言葉は「憎しみ」であり「世」という言葉です。世が弟子たちを、つまり教会を憎み、迫害するという現実です。そしてそのことは、ぶどうの木がぶどうの木として豊かに実を結ぶことに伴うある種の必然であると、主イエスはお語りになるのです。

 世とは何か?

 そこで、「世」とは何であるかが問題となります。この言葉はヨハネ福音書に頻出する言葉ですけれど、常に様々な意味で二重三重の意味を持っています。「世」は、なによりもまず神様が愛する対象です。前回も引用しましたように、三章一六節以下に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。これは、ヨハネ福音書において非常に大切な言葉です。世が救われるために、神様は最愛の独り子をさえ惜しまずに与えたのですから、神様は世を愛しておられる。しかし、その世は、常に神様から派遣された独り子であるイエス様を憎み、抹殺しようとする。そういう矛盾というか、微妙な関係にあるのが世とイエス様、そして世と神様との関係なのです。
 また、ヨハネ福音書において「世」とは、多くの場合、明らかに当時のユダヤ人、それも律法に忠実に生きようとするユダヤ人の支配者層を現します。それはイエス様が肉体を持って生きておられた時のユダヤ人であるよりは、ヨハネ福音書が書かれた当時のユダヤ人の支配者層、つまりファリサイ派と呼ばれる人々のことなのです。それは、今日の個所で、イエス様が「『人々が理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いている言葉が実現するためである」とおっしゃっていることからも分かります。「彼らの律法」とは、私たちが旧約聖書と呼ぶ書物のことです。また、次のページには、こうあります。
 「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」
 当時、ユダヤ人の宗教生活の中心である会堂を支配していたのはファリサイ派の人々です。彼らは、自分たちは聖書(律法)を通して神を知っていると思っています。目に見えない神を知っているが故に、イエスという「人」となって現れた独り子なる神など認めるわけにはいかないし、その独り子なる神を信じる者たちを迫害し、殺すことが、唯一の主なる神への奉仕だと確信するのも、ある意味、当然のことです。そういう人々が主イエスの言う「世」でもありますから、それは明らかにユダヤ人のことであり、ファリサイ派の人々のことなのです。
 しかし、その一方で、「世」をそのように特定してしまうことは出来ない事情があります。イエス・キリストを憎むとか、キリスト者を迫害することは、当時のユダヤ人だけがやったことではなく、ギリシア人もローマ人も、ユダヤ人とは別の意味でキリスト者を迫害したのですから。当時、キリスト者は無神論者というレッテルを貼られて迫害されました。偶像の神々を拝まず、ローマの皇帝を神として崇めないからです。ヨハネ福音書が書かれた時代も、既にそういう時代に入り始めているのです。
 また、さらにキリスト者だと自分では思っている者たちも、時に、キリストを憎み、無き者としようとすることもよくある話です。私たちの礼拝で、毎週、司式者が会衆を代表して罪を悔い改める祈りを捧げています。それは、私たちキリスト者がこの一週間の歩みの中で幾度も、イエス様のことを「あの人のことは知らない」と、まるでイエス様とは無関係に生きてしまったこと、今日の個所の言葉で言えば「世に属している、世の身内」として生きてしまったことを悔い改めているのです。「世」は常に私たちの中にも入り込んできます。このように、主イエスはいくつもの意味を込めて、ここで「世」という言葉を使い、また、ここで「あなたがた」とか「彼ら」という言葉を使います。そして、「あなたがたは」と呼ばれる弟子たちはいつだって「彼ら」と呼ばれる主イエスへの敵対者になる可能性があり、その逆の可能性もある。そういうことなのです。

 「世」の特色

 以上のことを踏まえた上で、「世」の特色を考えていきたいと思います。世が持っている特色の一つは、明らかに「自分がすべて」ということにあります。新約聖書が書かれたギリシア語では、自分のことをエゴウと言います。そこからエゴイズムという言葉が生まれました。つまり、自己中心です。世にとっては世がすべてであり、自分がすべてなのです。すべてのものが自分のために存在するならば私たちは満足し、喜ぶのです。それが、私たち人間の姿です。色々と取り繕ってはいても、現実にはそういう思いの中で私たちは生きている。そういう私たちにとっては、「友のために命を捨てる」なんてことは考えられないことです。そして、既に語ったように、ここでイエス様が「友」と呼んでいる弟子たちは、ほどなくイエス様のことを「あの人のことなど知らない」と言って逃げていく者たちなのであり、イエス様はそのことも承知なのです。承知の上で「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とおっしゃっているのです。それは自分を捨てて逃げる者たちのために自分の命を捨てる愛に生き、死ぬことですから、エゴイズムとは正反対のことです。そして、イエス様は、言うだけでなく、そのように生きた。いや、そのように死んだ。それがイエス様です。
 私たちは、そういうイエス様を「偉いもんだ、凄いことだ」と口では褒めるし、心でも尊敬しているでしょう。しかし、まさに「敬して遠ざけている」のです。イエス様が生きたように生きようとは思わない、まして死んだように死のうとは思っていません。自分の命がすべてだからです。「命あってのものだね」だからです。そして、自分の命は自分で守れると思っているからです。しかし、その命は「永遠の命」ではなく、肉体の命であり、実際にはその命だって、自分で守れるものではありません。自分で造ったのでもないのですし、そもそも自分のものではないのですから。そういう誤解というか錯覚の中で、私たちはエゴイズムを生きている。実際には、幹から離れた枯れた枝のように、実は既に死んでいる。それなのに、その惨めな現実に気づかない。いや、気づきたくもない。
 イエス様がこの世に遣わされてきたとは、その事実を私たちに知らせるため、証しするためです。それはつまり、「真理」を証しするため、本当のことを知らせるためなのです。しかし、私たちは実は本当のことを知りたくないのではないでしょうか?自分と無関係の事件の真相は知りたがっても、自分についての真理、真実は知りたくない。末期の癌であっても、その事実を言って欲しくない。その事実から目をそらすことを言ってくれる人を好むものです。「王様は裸だ」と言われると、王様は困ります。誰も困りたくはないし、王様を怒らせて困ったことになりたくもない。そういうまやかしの中で生きているのが、この世であり、私たちである場合が多いと言わざるを得ないのではないでしょうか。

 罪

 イエス様は、二二節から二四節までで、イエス様の言葉を聞き、その業を見た上で、イエス様を憎み、イエス様を遣わした父を憎んでいることを「罪」と言っておられます。それまでは罪はなかった、あるいは顕在化していなかったということです。イエス様の言葉と業、それは神の言葉であり、業です。そして、その究極は十字架の死であり復活です。それまで語ってきたこと、なしてこられたことは、すべてそこに行き着くからです。そのすべては「信じる者に永遠の命を与える」ためであり、そのためには罪なき神の独り子が死に、そして復活する必要があったのです。しかし、そのイエス様の言葉を聞き、業を見て尚、イエス様を憎み、神を憎んでいる人々の罪を、イエス様は指摘されます。つまり、この言葉は、ヨハネ福音書が書かれた時代に霊において教会に生きておられる主イエスの言葉でもあるのです。イエス様は過去の存在ではなく、今生きておられる存在としてお語りになっているからです。
 そういう意味で、この言葉を聞いている私たちの現在が問われるのです。イエス様が自分を友として十字架上で死んで下さり、そして復活して下さったことを知った上で、そのイエス様を愛するのか、それとも憎むのか。そのことが、今日、私たちに問われている。信じる者は神の子として永遠の命に生きるのだし、信じない者は罪人として滅びの道を歩む。そういう二者択一が迫られている。イエス様の言葉を聞くとは、そういう厳しいことなのです。昔の人の思想を学ぶとか、そんな呑気なことではありません。

 理由もなく憎む人間

 話の道理からすれば、信じない方がおかしいとも言えます。しかし、道理とは別に、何故か私たちは聞いても、見ても、信じないことが多かったし、今もそうである場合がある。そのことを、イエス様は詩編の言葉を引用して、「『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』という言葉が実現するためだ」とおっしゃる。つまり、自分でもよく理由が分からないのに、私たち人間はイエス様の愛を信じることをしない。これは道理には合わない、理屈には合わない面がありますけれど、現実ではないでしょうか。
 先週は、パウロが書いた、コリントの信徒への手紙を読みました。彼はローマの信徒への手紙というものも書いています。その中で、こう言っているのです。

 「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。・・・ わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」

 私たち人間とは、実に道理に合わない存在です。犬などを見ていると、彼らはまさに望むことだけ実行していることがよく分かります。だから可愛いのです。彼らには、悪が付きまとっている法則などはありません。彼らが、自分が欲する善を行わないということで悩んでいたら大変です。しかし、私たち人間には悪の法則がある。そういう私たちにおいては、自己愛もまた倒錯したものとなっている場合が少なくありません。つまり、自分を愛しているつもりで憎んでいる。自分を救っているつもりで滅ぼしている。そして、自分を愛してくれる存在を憎み、恐れ、隠れて生きている。そういうことが、しばしばあるものです。

 倒錯した人間

私たちは、夏以来、芸能人が覚醒剤とか違法ドラッグを使ったというニュースを嫌というほど見させられてきました。彼らだって、そのようなことは社会的には犯罪であることは分かっています。そして、それらのものが心身の健康を著しく損ない、廃人にさせていく恐ろしいものであることも分かっている。だから、そういうものに手を出すことは道理には合いません。しかし、エデンの園にいた蛇は死に絶えたわけではなく、今でも「女から生まれた者」、つまり「人間」の踵に食らいつこうと躍起になっています。いつでも隙あらば、人間を神から引き離そうとする。つまり、人間に自分は神であるかのような錯覚を与えようとするのです。蛇の常套文句は、「これを食べても死にはしない。むしろ、神のようになれるんだよ。最高だろ?」というものです。自分を中心としてすべてがうまく回っていく、それも永遠に・・と言って唆すのです。そこに甘美な幸せの時があると言うのです。疲れている時、落ち込んでいる時、焦っている時、孤独な時、私たちはそういう誘惑の声に耳を傾けてしまい、禁断の木の実に手を伸ばしてしまう。自分を愛しているからです。でも、その自分への愛によってその実を食べることは自分を滅ぼすことなのです。つまり、自分を憎むことなのです。愛することをしているつもりでも、実は自分を憎むことをしている。自分を救おうと思ってやっているつもりが、自分を滅ぼすことをしている。そういう倒錯、錯覚に私たちは陥っている場合があります。主観的事実と客観的事実はしばしば正反対なのです。その時、自分を捕え、裁き、薬が手に入らない所に拘禁して薬を絶たせてくれる警察とか裁判所とかは、本当は自分を愛してくれ、救ってくれる存在です。ですから、自ら出頭することが自分を愛し、救うことになるのだけれど、倒錯した人間にとって、それらのものは自分を憎み、滅ぼす存在にしか見えません。だから憎み、恐れ、隠れていく。そして、幸いにして見つからないままで過ごす期間が長ければ長いほど、実は不幸にして心身を蝕み、自分を破滅させていくことになるのではないでしょうか。
 エデンの園で、アダムとエバが禁断の木の実を食べた直後に神様が現れて、「あなたはどこにいるのか」「あなたはなんということをしたのか」と語りかけて下さったのは、救いの道に立ち返るようにとの招いて下さったのです。でも、アダムもエバも、その招きを拒絶しました。全く道理に合わないことですけれど、それが人間だ、と聖書は告げるのです。そして、そのことに気付いた時、「死に定められた体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と必死になって問う。それが人間です。パウロは、こう叫んだ直後に、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と言うのです。

 真理の霊によって知らされること

 それは、聖霊を与えられて「真理」を知らされた人間だけが口にすることが出来る言葉です。「真理の霊」を通して主イエスの言葉を聴くことが出来る時にのみ、主イエスから離れている限り自分は「死の体」でしかないことを知ることが出来るのです。最も知りたくない事実、目を逸らしていたい事実を嫌というほど知らされる。そしてそれは、自分を愛しているつもりで憎んでいる惨めな自分のために、主イエスが死に、そして復活し、今、自分の中に生きようとして下さっているという「真理」を知らされることです。そんな愛はこの世にはなく、真理はこの世にはありません。この世の中で倒錯した愛しか知らない私たちは、だから理由もなく主イエスを憎んでしまう。そして、それは主イエスを信じ、真理の霊に導かれて主イエスを証しする人を憎むという形になって現れます。しかしそれは、結局、自分自身を憎んでいることになるのです。それが主イエスがお語りになる「世」の現実、「世」の実態です。

 わたしが選び出した

 主イエスは「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」とおっしゃいます。
 ギリシア語では、動詞の変化だけで、誰が何をしたかを言い表すことが出来るのですけれど、主語を強調したい時は、きちんと主語が出てきます。ここでイエス様は、はっきりと「わたしがあなたがたを世から選び出した」と言っておられるのです。エゴウと言っておられる。「わたしが」を強調されたいのです。前回も、私たちがキリストを選んだのではないのだ、と言いました。私たちは選んで頂いたのです。キリストに選んでいただいたからこそ、その過程では様々な罪を犯し、離れたり、背いたりしても、こうしてぶどうの木に立ち返らせて頂いているのです。しかし、倒錯した世は、そういう私たちを憎みます。滅ぼそうとするのです。

 身内の誘惑と迫害

 しかし、現代は迫害の時代ではありません。でも、世がキリスト者を憎んでいる事実は変わりありません。現代は、いかにも愛しているかのようにして憎むのです。覚醒剤に手を出す使う人は、必ず誰かに誘われたり、唆されて使い始めるものです。その誰かとは、自分を憎み、憎悪の炎をめらめらと燃えあがらせているような人であるはずがありません。そんな人が差し出すものを、自分の救いのためだと思って受け取る人はいません。実際には、夫とか恋人とか、友人に「これを使えば、疲れがとれるよ。ダイエットが出来るよ。すべてを忘れる快感を得ることが出来るよ」と囁きかけられるのです。その蛇の言葉に耳を傾けた上で、改めてそれを見ると、それは食べるによく、賢くなるには好ましく見えて、手を伸ばして食べることになる。そして、それは覚醒剤とか薬物に限った話ではありません。清濁を併せのみながら手にする名誉だって地位だって富だって、みんなそういうものになるのです。とにかく、誘惑する人は、自分の仲間にしようと思って近づき、囁きかけるのですから。それが「身内として愛する」ということです。「身内」とは、お互いがその体の中に入っている存在、切っても切れない関係のことです。しかし、先ほどからずっと言ってきていますように、世の考える愛は実は憎しみであり、世が考える救いは実は滅びです。世が私たちを身内として愛し、私たちも世を身内として愛する時、それは一時の快感を代償として、共々に滅びの道を歩むことにならざるを得ません。
 ここで「あなたがた」と呼ばれている弟子の一人であるペトロが、この直後に、イエス様のことを「知らない」と言った時、彼はイエス様ではなく世を愛したのだし、世の愛を求めたのです。世の身内となった。世に属する者となったのです。そして、ヨハネ福音書が書かれた当時、キリスト教会はユダヤ教側からは会堂追放という処罰を受けていましたし、指導者は死刑にされてもいました。またローマ帝国側からも、皇帝崇拝をしないという理由で迫害の対象でした。そういう厳しい現実の中で、幹から離れてしまう枝が何本もあったのです。信仰を捨ててしまう、教会から離れてしまう。そういう現実があった。
 しかし、そういう現実は迫害の中だけで起こるわけではありません。キリスト者の人口は、独裁者によって抑圧された貧しい社会の中でしばしば増えていくが、独裁政権が倒れたり、社会が豊かになるにつれて減っていったり、その力が失われていくと言われもします。そして、それは確かにそうだと言わざるを得ない面があります。教会が体制の中に入ることで、いつしか世が身内になる。教会が世になる。そうなれば、日曜日ごとに礼拝を守る教会に留まる必要などなくなります。迫害だけが、枝が幹から離れる理由ではありません。世はいつも私たちを身内として愛そうとし、また愛が受け入れられないと憎みます。いずれにしても、自分たちと同じ「死の体」に引き戻そうとするのです。そういう世が、いつでも教会の中に、また私たち一人一人の中にも入り込もうとしているのです。
 そういう現実の中で、私たちは今日、はっきりと「わたしがあなたがたを世から選び出した」という主イエスのお言葉を聴いているのです。これは本当にありがたいことです。この言葉は蛇の囁きではありません。甘い罠ではない。永遠の命への断固とした招きです。その招きに応えようとすればするほど、世は私たちを憎むのだと、主イエスはおっしゃる。蛇は、なんとかして踵に食らいつこうとするからです。しかし、私たちが、この主イエスの言葉を聞き、感謝をもって「アーメン」と答えることが出来るならば、蛇の頭を砕くことは出来るのです。主イエスはこの先でこうおっしゃっているのですから。
 「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
 この主イエスが私たちの「身内」、つまり体の内にいて下さるなら、私たちがこの方を迎え入れているなら、この方が罪に勝利して下さるのは当然のことです。

 身内

 ここで「身内」と訳された言葉はイディオスという言葉ですけれど、直訳すると「自分の者たち」となります。一章一一節に「言は、自分の民の所へ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあります。ここに出てくる「自分の民」という言葉がイディオスです。そして、その言葉が、一三章ではこういう訳で出てきます。
 「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛された。」
この「弟子たち」がイディオスです。そして、主イエスはこの後、弟子たちがこの世を生きる上でどうしてもこびりついてしまう足の汚れを自ら洗い清めて下さいました。言うまでもなく、それは罪の汚れです。その罪を洗い清めるという究極の愛が、過越祭の中で、主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」として十字架に磔にされて血を流すことなのです。ご自分の死を通して、神の独り子である主イエスは、世の罪を取り除いて下さった。罪に勝利されたのです。
 目に見える現実としては、この世の支配者であるユダヤ人の権力者とローマ帝国の権力者の両方が、群衆を扇動し、また群衆に恫喝されながら、主イエスを憎み、殺しました。だから、彼らの憎しみが勝利をしたと言ってよい。しかし、本当の現実は、主イエスがその彼ら、自分を憎み、殺そうとするその彼らの罪を赦し、彼らを神の子、神の身内にするために、十字架で死んだのです。エジプトの奴隷であったイスラエルを神の僕にするためには、贖いの小羊の血が必要でした。しかし、今、罪の奴隷となっているすべての人間を神の子とするために、主イエスは自ら神の小羊として十字架にお掛かりになった。そこに神の独り子である主イエスの罪に対する勝利があるのだし、それが真理です。

 勝利の現実

 その十字架の場面にも、ヨハネ福音書独特の描写があります。そこには、イエスの母と他の数人の女性がいました。そして、その傍らに、これもヨハネだけにしか出てこないイエス様の愛する弟子がいたことになっています。母の名前も弟子の名前もヨハネ福音書では決して出てきません。それは、この二人を象徴的な存在として描きたいという願いがあるからだと思います。イエス様の母がマリアであることは、当時、誰だって知っていることですけれども、敢えて書かない。それは、彼女をキリスト教の母体であるユダヤ教の代表者として描いているからだと、私は思います。彼女が登場するのは、二章と十字架の場面だけです。二章では、婚宴の席でぶどう酒がなくなったのを知った母が、子であるイエス様に向って、「ぶどう酒がなくなりました」と言います。しかし、イエス様は、母に向って「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と答える。不思議な対話です。その後、イエス様はユダヤ教が清めのために使う水をぶどう酒に変えるという最初のしるしを行われます。つまり、体の外的な汚れを清める水ではなく、内的な罪を清める十字架の血こそが救いであるということでしょう。そして、その救いの時はまだ来ていない。主イエスこそ、その血を流す救い主であることを、イエスの母はまだ分かっていない。その母に象徴されるユダヤ人(ユダヤ教団)は、この後、激しくイエス様を憎むことになります。まさに理由もなく。そして、自らの罪を深めていくのです。
 イエス様の愛する弟子、彼はキリスト教会の理想を象徴していると思います。その母と愛弟子が、イエス様の十字架の下にいるのです。そして、イエス様はその両者を見て、母にこう語りかける。
 「婦人よ。御覧なさい。あなたの子です。」
それから、愛弟子に向って、こう言う。
 「見なさい。あなたの母です。」
そして、こういう言葉が続く。
 「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」

 キリスト教会はユダヤ教団から生まれた。それは歴史的な事実です。キリスト教会の正典は旧約聖書を含む聖書です。旧約聖書なくして新約聖書はありません。ユダヤ教なくしてキリスト教もない。イエス様自身が、あのサマリアの女に、「救いはユダヤ人から来る」とおっしゃっており、イエス様自身もユダヤ人の男性としてお生まれになっている。神様の選びは変わらないのです。しかし、イエス様のことを、そのご自身の民であるべきユダヤ人が受け入れない。理由もなく拒絶し、抹殺したのです。そして、キリスト教会を迫害することが神への奉仕であるとさえ確信するようになっている。神を愛することは、キリストを憎むことだと思っている。しかし、それはイエス様によれば、彼らがイエス様をお遣わしになった方が誰であるかを知らないが故です。自分たちは知っていると錯覚している。そのことの故に、愛と憎しみが倒錯したものになってしまっているのです。
 しかし、イエス様が愛する弟子は、つまりキリスト教会は、イエス様がそうであるように、またイエス様をお遣わしになった神様がそうであるように、自分たちを憎む「世」を愛するのです。敵を愛し、迫害する者のために祈るのです。それが真理の霊を与えられた者たちの「証し」なのです。敵や迫害者は、イエス・キリストを殺し、キリスト者を迫害することで、実は自分たちを憎み、破滅させることをしているからです。そのことが分かれば、どうして憎しみに対して憎しみで対抗できるのでしょうか?憎しみに対しては尚更愛で立ち向かわねばならないでしょう。イエス様の十字架はその愛の勝利の徴なのですから。その十字架の下で、ユダヤ人とキリスト者は、互いに憎み合う敵同士ではなく、互いに愛し合う家族、身内とならなければならないのです。
 「この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」とあります。「自分の家」には、イディオスの複数形が使われています。自分の家族、身内の中に迎え入れた。神の家族としての教会に迎え入れたということです。今こそ、水がぶどう酒に変えられる。そういう時が来たということです。敵対する者が、主イエスの愛によって真理を知らされ、一つのぶどうの木になるのです。

 証し

 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」


 「あの人のことは知らない」と言ったペトロは、聖霊を受けて以後、イエス・キリストの名の故に迫害を受けつつ、ただこの方だけが、私たちの救い主であることを証しし始めました。他の弟子たちも同様です。そして、その証しを聞いて信じる者が誕生していったのです。「証しする」という言葉は、そのまま「殉教する」という意味でもあります。彼らは主イエスのために、また主イエスが愛する人々のために、命を捨てていったのです。そして、豊かに実を結んでいった。すべては聖霊による御業です。そして今日も、聖霊が聖書とその説き明かしである説教を通して、イエス・キリストを証ししているのです。だから、信じる者となりましょう。そして、証し人となりましょう。そのことに自分の命を捧げましょう。そこに真理があり、真理は私たちを罪から自由にしてくれます。そして、その真理こそ、実は、世がその心の奥底で求めているものなのですから。
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