「悲しみ・喜び T」

及川 信

ヨハネによる福音書 16章 1節〜15節

 

 これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」
 「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 悲しみ

 「悲しみ」
という言葉が出てきます。この言葉は、ヨハネ福音書では、一六章にしか出てこないのです。この一六章は、ある面から見れば、悲しみに満ちた章です。それは、もうあと数時間でイエス様がこの世の支配者たちに捕えられ、まやかしの裁判にかけられ、神への冒涜者、ローマ皇帝への反逆者として処刑されることになっているからです。そのことを、イエス様ははっきりと分かっておられました。弟子たちは具体的には知りようもありませんでしたけれど、イエス様が殺されてしまうのだということは分かってきた。そして、その心は悲しみで満たされている。その弟子たちに主イエスが語っている言葉が一六章の言葉です。

 「時」 「今」

 少し注意深く読むと、この章には、「時」という言葉が五回も出てくることが分かります。「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」「その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」「自分の時が来た」などです。
 また、一六章を特徴づけるもう一つの言葉は、「今」という言葉です。「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている。」「今、あなたがたには理解できない。」「今は、あなたがたも悲しんでいる・・・しかし、心から喜ぶことになる」などです。この「今」は七回出てきて(言語では異なる言葉ですが)、それに対応して、「時」という言葉が使われているのです。「今あなたがたは悲しんでいるが、喜ぶ時が来る」という形です。
 こうやって見ると、一六章が、今と将来の「時」を巡って一つのまとまりをもった章であることが分かります。そのことを踏まえた上で、内容に入って行きたいと思います。

 聞いたことを伝える

 私は、毎週、礼拝で説教をすることを最大の務めとして生きています。説教で大切なことは、聖書を通して神様が語っておられることを正確に聞きとって、正確に取り次ぐということだと思います。また、説教とは、聖書の説き明かしでもあります。しかし、そこにはどうしても、私という人間の個性とか限界が入り込みます。そのことを含めて説教は成り立っているのだし、この世がある限りは、その務めは必要なものとして、神様が説教者をお立てになるでしょう。しかし、私としては、説教者の個性とか限界とかが出てくる部分はなるべく少なくして、ただ聖書が語っていることを取り次ぎたいと願い、説教の中でたくさん聖書を引用します。それが良いことかどうかは、分かりません。かえって、分かりにくくしているのかもしれません。が、説教で牧師が語ったことが皆さんの心に残る必要はなく、今日読まれた聖書の言葉が心に残り、その言葉に生かされれば、そこに説教の使命が果たされると私は思っているので、そうします。

 聖霊(真理の霊)の働き

 今日の個所で言われていることは、平たく言えば、イエス様が、イエス様をお遣わしになった方、父なる神のもとへ行くことによって、弟子たちに弁護者、つまり、真理の霊が送られてくるということです。その真理の霊、聖霊が来るとどういうことが起こるのか。主イエスは、こう言われます。

 「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げる。」

 なぜ、真理の霊が、弟子たちにすべての真理を悟らせるのかというと、その先にありますように、この霊は父から子に託されたことを受けて語るからです。霊は父なる神からイエス様に託されたことをすべて受け、またその言葉を聞いて、それをそのまま語るのです。自分から語るのではない。説教もそういうものですし、そうであらねばならないと思います。
 「三位一体」という言葉が、聖書に記されている神様の在り方を表現する言葉であるとも知らぬまま、現在の日本ではしばしば使われています。「三位一体」とは、父と子と聖霊が一つの交わりの中に生きていることを表現した言葉です。父の心は子に託され、子の心は聖霊に託されて人間に伝えられる。私たち人間は、その「真理の霊」を通して、初めて子を知り、子を知ることを通して父を知る。神様を知る。その愛を知る。真理を知る。そして、弁護者としての霊に助けられて、知らされた真理を証しつつ生きる。その時、人は人として生きる命を得る。そう言ってよいのです。

真理は人を自由にする

 先週、私は、イエス・キリストを憎み、キリスト者を憎む世を、イエス・キリストは愛し、キリスト者も愛する。「そこに真理があり、真理は私たちを罪から自由にしてくれます。そして、その真理こそ、実は、世がその心の奥底で求めているものなのですから」という言葉で説教を終えました。真理は、私たちを自由にする。それは、主イエスご自身の言葉です。主イエスは、八章で、主イエスの言葉を聞いて信じたユダヤ人に向って、こうおっしゃいました。

 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

 しかし、その後、イエス様を信じたユダヤ人たちは、イエス様の言葉に躓き始めます。そして、真理を語るイエス様を殺そうとし始めるのです。その彼らに向って、イエス様は、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ」と言うのです。ここにおいて、ユダヤ人の支配者層は、イエス様をなんとしても抹殺せねばならないと決断していくことになります。
 「悪魔」という言葉が出てきたからと言って、アニメに出てくるようなイメージを持つのは愚かなことです。神が目に見えないように悪魔も見えません。悪魔とは、神から人を引き離そうとする力、人間の欲望を自由に解放させようとする力のことです。その力に屈服している人間は、神の支配から脱することこそ「自由」だと思ってしまう。しかしそれは、悪魔の支配、罪の支配に服し、罪の奴隷、欲望の奴隷となり、先週あげた例で言えば、自分を愛するが故に覚醒剤に手を出して自分を滅ぼすことをしてしまうのです。愛しているつもりで憎んでいる。自由になるつもりで自己を滅ぼす欲望に束縛されていく。そういう欲望は、この世に生きている私たちの誰もが何らかの形で抱え持っています。金銭欲、名誉欲、支配欲、性欲、堕落への渇望、悪への憧憬。様々なものを私たちは心の内に秘めている。そして、その欲望を満たしたいと願っている。そして、悪魔はいつもその思いを刺激しようと言葉巧みに囁きかけてきます。だからこそ、イエス様は、「わたしの言葉にとどまるならば、・・あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とおっしゃったのです。

 この世の支配者

 そして、一一節に出てくる「この世の支配者」とは、第一の意味は、目に見える支配者、権力をもった者たちのことですけれど、彼らはまさに人間の欲望を代表する人々なのです。民主主義社会において選挙で選ばれた政治家たちの多くは、市民、国民の声の代表者です。そして、市民、国民の多くは自分の利益を求める、快楽を求めますから、その代表者はその声を受けつつ、自らも利益を、快楽を求めて生きるのは当然です。
 ローマ帝国のような独裁社会においても、民衆に食べ物と娯楽を与えることが支配者層にとっては決定的に大事なことでした。それさえ与えておけば、民衆は支配者を支持し、彼らの権力と富は安泰でした。この世の基本は、独裁社会であれ、民主主義社会であれ、同じなのです。主人公が人間なのですから。二千年前と何も変わってはいません。そして、人間の欲望追求を権力を用いて行うのが「この世の支配者」です。しかし、それは具体的な人々であると同時に、すべての人間を支配している悪魔、罪、闇の力でもある。その人々、また罪の力が、イエス様を殺そうとする。抹殺しようとする。しかし、実は、彼らこそが断罪される、と主イエスは言われます。
 先週の水曜日でしたでしょうか。今や政権与党の幹事長が、仏教界の代表者と会って、選挙の時の支持を訴えたのでしょう。その会談の後で、「キリスト教は排他的な宗教だ。欧米社会の行き詰まりの原因もキリスト教の排他性にある。仏教こそ、人の生きる道を教えてくれるものだ」という趣旨のことを報道陣に語ったようです。事の真偽は、私たちにはよく分かりません。こういう発言の是非について思う所はあります。しかし、一般論として、世の支配者が、特定の宗教に入れ込めば、他の宗教を嫌うようになり、嫌われた宗教を信じる人々が時に排他的に弾圧を受けることは歴史の常識です。キリスト教徒が多く、権力者がキリスト教徒である場合、他の宗教の信仰者は肩身が狭く、時に弾圧されます。その事情は、イスラム教の国においてもそうですし、ヒンズー教の国においてもそうです。もちろん、仏教徒が大半の国の中で少数のキリスト者は、時に厳しく弾圧されたことは日本の歴史においても事実です。
 またそこには、政治、経済、社会、人種、民族など様々な要因が絡まっているのであり、宗教的要因は、実際には言いがかりに過ぎないこともあります。要するに、自分の利益を求める欲望から自由になれない罪人同士が、自分の利益のために他の者を排除しようとして争っている。しかし、その人間の罪を、宗教は神の名、仏の名にかけて正当化する機能を果たす場合がある。だから怖いのだとは言えます。しかし、だからこそ、近代社会では、政教分離という原則が作りあげられてきたのではないでしょうか。
 ちなみに、キリスト教は、たとえば一人の伴侶だけを心身共に愛し、他の異性を伴侶のようには愛さないという意味では、極めて排他的だと、私は思います。私たちは、キリストしか神として崇めないのですから。しかし、そのキリストが、隣人を愛しなさいと説き、さらに敵を愛し、迫害する者のために祈れとおっしゃったことを、私たちは決して忘れてはならないでしょう。キリストを信じることと、他の神々を信じている人々を愛することには、何の矛盾もありません。

迫害の現実

 主イエスが肉体をもって生きておられた時のユダヤ人社会の支配者は、エルサレム神殿の大祭司でした。しかし、ヨハネ福音書が書かれた当時、つまり一世紀後半には、神殿はローマ帝国に破壊されてもはや祭司はおらず、ユダヤ人社会を支配していたのはユダヤ教の中のファリサイ派に属する人々でした。彼らは、ユダヤ人社会の生活の中心である会堂(シナゴーグ)を管理しており、礼拝と生活を指導し、また監視をしていました。そして、自分たちユダヤ人の中に、イエス様を信じるキリスト者が少しずつ誕生し始めたことに危機感を覚えて、キリスト者を会堂から追放し始めましたし、それだけでなく、裁いて殺すことも始めたのです。それも「神への奉仕だ」と思い込んでのことです。
 しかし、その神は、イエス・キリストを遣わした父なる神ではありません。悪魔に支配された彼らの欲望が作り出した神であって、それは彼ら自身なのです。人間は、自分で造り出した神を拝むという愚かな存在です。そして、それが多くの宗教の現実です。自分の欲望の実現を願うのが、いわゆる宗教でしょう。キリスト教もまた、私たちキリスト者がそのような宗教にしてしまう場合があります。それは、神からの言葉を正しく聞いていないからです。真理の霊によって聞いていないからです。その時、私たちはこの世からの迫害に耐えることはできません。また、世の誘惑に耐えることもできない。そして、世に同化していきます。欲望の罪に支配されて、自分を愛しつつ、自分を滅ぼすことをしてしまう。

 父のもとに行く主イエス

 主イエスは、そういう「時が来る」ことを、予めご存知でした。だからこそ、十字架の死を目前にして、弟子たちに、「その時が来た時に」主イエスの言葉を思い出させるために、繰り返し語っておられる。「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている」と。
 十三章の終りから、イエス様はそのことを語り始めました。その時、ペトロやトマスは、イエス様の行かれる所に、「自分も行く」だとか、「どこへ行くのか教えて欲しい」だとか、言いました。しかし、ここまで来て、彼らも漸く、主イエスがこの世の支配者に殺されて死ぬのだということが分かり始めてきた。そして、自分たちも主イエスの弟子であるということで迫害され、最早ユダヤ人の社会では生きていけないのだと、分かり始めてきたのです。そういう恐怖と不安に叩き落とされている。だからこそ、もう「どこへ行くのか」と尋ねることすら出来ないのです。彼らの心は「悲しみで満たされている。」主イエスは、そのことがよくお分かりです。
よくお分かりの上で、主イエスはさらにこうおっしゃいます。

 実を言うと

 「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。」

 「ためになる」
とは「利益になる」という意味です。あと二か所で使われる言葉ですけれど、そこでは「好都合だ」と訳されています。主イエスを死刑にしようとする大祭司が、「イエス一人を殺して、自分たちの地位が安泰ならば好都合ではないか」と、この世の支配者たちに言う場面に出てきます。しかし、主イエスはここで、自分が死ぬことが、弟子たちにとっては好都合だ、利益なのだ、とおっしゃる。しかし、この時の弟子たちにはその意味が分からない。
 だから主イエスは、何が起ころうとしているかを教えて下さるのです。「実を言うと」は、直訳すれば、「しかし、わたしはあなたがたに真理を言う」です。「本当は、こういうことなのだよ」と、ひそかに教えてくださっているのです。目に見える現実の中に、何があるのかを見せようとしておられるのです。

 行く、去って行く

 主イエスは、一六章では「死ぬ」という言葉をお使いになりません。「行く」「去って行く」とおっしゃいます。主イエスにとって死とは、父のもとへ行くことです。そして、それはまた、弁護者、真理の霊が弟子たちに送られることなのです。そのことを、二二節ではこう言い換えておられる。

 「ところで、今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」

 ペトロたち弟子においては、「この主イエスと再び会って喜ぶ」という出来事は、復活の主イエスと出会うことにおいて実現しましたし、その時に与えられた聖霊によって、絶えず新たな現実であり続けたことです。聖霊は、主イエスの十字架の死と復活を経て与えられるからです。彼らは、その聖霊によって、絶えず新たに主イエスとお会いできるようになった。共に生きることが出来るようになったのです。
 主イエスは、この聖霊、弁護者、真理の霊を弟子たちに授けるために「父のもとへ行く」「去って行く」のです。それが、本当のこと、事の真相なのです。そして、この聖霊が与えられることが、彼らにとっての益であり、実は好都合なことなのです。この世の支配者は、主イエスを殺すことが自分たちにとって好都合だと思って、十字架に磔にしました。しかし、実は、主イエスはその十字架の死を通して、この世の支配者に勝利される。神によって復活させられ、弟子たちにご自身の霊を授け、その霊によって真理を知った彼らを通して、主イエスはいつまでも証しされ続けるからです。そして、その主イエスは今日も、この礼拝において、私たちに語りかけているのです。実は、殺されることで永遠に生きて語り続ける方としてのご自身を現されたのです。そして、今の主イエスを殺すことが出来る存在はいません。
 私たちは今、主イエスを肉眼で見ることはありません。肉眼で見るということがあるなら、主イエスが世界中で礼拝されるわけもありません。今、この時、日本中の何千という教会で主イエスは礼拝されているのだし、主イエスはそこに集う者たちに聖書と聖霊に導かれた説教によって語りかけて下さっています。この世の支配者が何を言おうが、何をしようが、最早、その主イエスを排除することは出来ないし、殺すことは出来ません。そして、主イエスを信じ、礼拝する者を社会から排除し、殺したところで、主イエスとその者たちを引き離すことなど出来ないのです。信仰によって、主イエスに繋がっている者は、死を越えて主に繋がって生きるからです。それが真理なのです。主イエスが父のもとへ去って行くことにおいて実現した真理とは、そういうものです。そして、その真理を、私たちは主イエスに選ばれて、真理の霊を注がれる中で悟らされています。だから、嬉しいのです。だから喜ばしいのです。最早、死によっても奪い取られることのない主イエスとの結びつき、神様との結びつき、愛による一体の命を与えられているのですから。

 罪 義 裁き

 今日の個所で、ちょっと読んだだけでは意味が不明なのは、八節以下の言葉だと思います。
 弁護者、真理の霊が来る時、「罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにする」と主イエスは言われます。「罪」とは、主イエスを信じないことだ、と。主イエスを信じないことが罪であり、その罪の結果は裁きとしての死です。信じる者には、主イエスと永遠に結ばれる命が与えられますが、信じない者は主と結ばれることがないので、その結果は滅びとしての死にならざるを得ません。命の源から断ち切られる死なのです。その死を自ら招くのが罪です。それは世が考える罪ではありません。世は、それが罪だと思ってもいない。主イエスを信じるなどという方が愚かなことだと思っている。だから、誤っているのです。間違っているのです。主イエスは、その間違いを知って欲しい。正しく神のことを知って欲しいのです。そのためには、主イエスを信じるほかにありません。そして、そのためには聖霊を受け入れ、聖霊によって語られる言葉を信じるほかにありません。
 「義」は罪の反対です。その義とは、主イエスが父のもとに行き、弟子たちがもはや主イエスを肉眼では見なくなることだと主イエスはおっしゃる。この時の弟子たちは、主イエスを肉眼で見ることが出来なくなることを悲しんでいます。しかし、実は、主イエスを見なくなるとは、主イエスが私たちの罪が赦されるために十字架で死に、復活し、天に挙げられることであり、以後、遣わされる聖霊において弟子たちに語りかけ、救いへと導き続けて下さることなのです。弟子たちは、真理の霊に導かれて、最早、主イエスを肉眼で見ないで信じる者とされます。だからこそ、そこに義がある。救いがある。現代における主イエスの弟子である私たちにおいても同様です。私たちは信仰によって、既に義とされている、救われているのです。
 「裁き」とは、その義が現れる時に明らかになることです。「断罪される」と訳されていますが、それは「裁かれる」と同じ言葉ですし、「裁かれている」という現在形です。神がその独り子を与えるほどに愛して下さっているのに、その愛を信じない。そのことで今、裁かれてしまっている。自ら死の裁きを招いてしまっている。聖霊が主イエスの言葉を語りかけているのに、信仰をもって応じない。それが既に裁きとなっているのだ、と主イエスはおっしゃる。だから、その聖霊の導きの中で語られる言葉を聞いた時、その言葉を聞いた今、信じなさいと招いておられるのです。そして、洗礼を受けていない者は信じて洗礼を受けなさいと招いておられるのです。そしてその招きは、今日、この礼拝に集っている私たちすべてに対する招きです。
 ここにおられる多くの方は、既に信仰を告白して洗礼を受けたキリスト者です。しかし、信仰とか愛とか希望とは、それが過去形であるなら何の意味もないことです。かつては信じていた、愛していたこともある、望みをもっていた時もある、なんてことが今、何の意味があるのでしょうか。「若かった頃、結婚した当時は、愛していたもんだ」と懐かしむような結婚生活に何の意味があるのでしょうか。今、愛している。愛していないのなら、愛すると新たに決断する。そうでなければ、その結婚生活は、ただ外面的な事柄に過ぎません。世間的に好都合だから維持しているだけのことでしょう。信仰だって同じです。外面を取り繕っても何の意味もないし、そもそもそんなものでは迫害に耐えることなどできないし、死を越えた希望など持ちようがないのです。
 神様は、かつて私たちを愛して下さったのではないし、主イエスも昔、ある一時期、イスラエルに住む少数の人々だけを愛したのでもありません。今も世界中の人々を愛しておられるのです。

 神の愛

 私たちは、毎日、無残な人殺しのニュースを嫌というほど見させられています。キリスト教の影響などほとんどないこの日本の社会も、行き詰っていることは確かでしょう。死体を捨てる、バラバラに切り刻む、誰でもよかったと無差別に人を殺す。被害者の親の心を思うと、全く言葉も出ません。恐るべき悪魔の欲望に支配されているとしか言いようがありません。それが昔も今も人間の世なのです。
 しかし、だからこそ、この世は、昔も今も、神の愛を痛切に必要としているのです。「神はその独り子を与えるほどに世を愛された。」愛したし、今も愛している。しかし、世は、その独り子を捕え、リンチをした上で、十字架に釘で磔にしました。自分でやっていることが分からないのです。そして、槍でその脇腹を突き刺し、肉体を裂きました。その肉を裂き、骨を砕く音、その裂かれた肉体、ほとばしる血、そのうめき声、「わが神、わが神、なぜ、わたしを見捨てたのですか」という断末魔の叫び声、そのすべてを父なる神は見ており、聞いているのに、御子イエス・キリストをお助けにならなかった。死ぬに任せたのです。父としての心はズタズタに引き裂かれたでしょう。自分の独り子をいたぶりつつ殺す人間たちに対して、どれほどの怒りを感じられたか分かりません。その時、もちろん、神様は、主イエスを十字架から下ろすことが出来たし、主イエスを殺す者たちを焼き滅ぼすことだって出来たのです。でも、黙って、自分の独り子が殺されていく苦しみを見続けられた。
 何故ですか?私たち罪人を愛しているからです。罪の本質、また究極は神を抹殺することです。そのような私たちの罪は、罪なき神の独り子を裁くことによってしか赦せないからです。神様は、ご自身の独り子を罪人としてかくも恐ろしい十字架刑によって裁くことを通して、私たち罪人の罪を赦し、ご自身の義を明らかに示して下さったのです。罪の世から救いだして下さったのです。そこに神の真理があります。そしてそのことは、真理の霊を与えられた者しか知ることが出来ないことです。残念なことに、そしてまことに当然のことながら・・
 世の本質は、時代を超え、地域を越えて少しも変わることがありません。そういう世に属する人間として、私たちも生きていたのですから、そのことはよく分かることです。しかし、今や、私たちはキリストに選ばれて、世に属する者ではなく、神に属するキリスト者にしていただいたのです。真理の霊を通して、自分の罪を知らされ、義を知らされ、裁きを知らされたのです。だから、信仰と希望と愛に生きましょう。絶えず聖霊を求め、受け入れ、真理を悟り、憎しみに憎しみをもってではなく、愛をもって対抗しましょう。私たちは最早、奪い去られることのない喜びを与えられているのです。その特権的な恵みは、私するために与えられたのではなく、一人でも多くの人に伝え、共に分かち合うために与えられたのです。主イエスを通して示された神の愛を、神を信じる信仰を、その信仰から生じる望みを伝えるために、今日からの日々を新たに歩み始めたいと思います。

 幼児祝福式

 今日は、礼拝後に幼児祝福式を行います。その中で、「主我を愛す」という讃美歌を歌います。子どもたちに、この主の愛が伝わりますようにと祈りつつ歌うのです。

主我を愛す 主は強ければ
我弱くとも 恐れはあらじ

(くりかえし)
我が主イエス 我が主イエス 我が主イエス 我を愛す

わが罪のため さかえを捨てて
天よりくだり 十字架につけり

みくにの門を 開きて我を
招き給えり  勇みて昇らん

わが君イエスよ われを清めて
よき働きを  なさしめたまえ

 子どもたちは、この世を生きていきます。世の価値観に基づいた利益を教えられていくことでしょう。しかし、実は、その世に、天から降って来て、十字架の死と復活を通して、御国の門を開いて下さった方がいる。その方の愛を信じて生きることこそ、最大の利益であることを、私たちは全力で伝えていきたいと思います。
 主は、この世の支配者、悪魔、罪と死の力に勝利をさた方です。この方を信じ、この方を証しする。それはどんな悲しみをも凌駕する喜びです。その喜びをこの世を生きるすべての大人と子どもたちが生きることが出来ますように、祈りましょう。

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