「悲しみ・喜び U」
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」 一週空きましたが、前回に続いて、ヨハネによる福音書一六章の御言を聴き、また見ていきたいと思います。そのことを通して、今生きる主イエスの声を聴き、その御姿を見て、「わが主、わが神よ」と礼拝を捧げたいと願います。 礼拝とは 「礼拝」に関して書かれた古典的な書物の中に、こういうことが書かれています。 「説教も、単純な聖餐式が行為によって示していることを、言葉をもって語るのである。すなわち、私たちの罪と死の贖いのための神の御業を新たに知るあの場所へ導き、またその時と同じ神が、同じく罪ある人間を、その時と同じ方法で、同じ世界において救うため、今もなお、働き給うことを私たちに理解させるためである。このようにキリスト教の礼拝は、福音を『同時化する』のである。」 「礼拝に来て、気分がよいとか、満足感を味わうとかは問題ではなく、礼拝によってわたしたちがキリストに似る者となるかどうか、あるいは私がイエスと共にいたと人々に認められるかどうか、それこそが問題である。」 説教の課題とは、語り手と聴き手の両方にとっての課題ですけれど、今この時、この場が、聖書に記されている主イエスと弟子たちがいる時と場となるかどうかです。昔ある所で起こったことが、今ここで起こる。説教が説教として語られ、聞かれる時に、それが起こるとすれば、その人は礼拝することが出来たということだし、起こらないとすれば、それは礼拝したのではなく、礼拝と呼ばれるものに出席したということだと思います。誰だってそこから始まります。その時は、まさに今日の個所に出てくる弟子のように、説教を聞いても、讃美歌を歌っても「何のことか分からない」のです。「よいお話を聞いた」とか、「讃美歌を歌うと気分がよくなる」とかいうことがあれば、それはそれで感謝すべきことですが、そういう気分と自分自身が礼拝を捧げることとは本質的に違うことです。洗礼を受ける前、私たちが礼拝に出席していた時は、主イエスと共にいることが分かるとか、キリストに似た者にされるということは起こり得ません。洗礼を受けて以後も、聖霊によって導かれていなければ、あるいは聖霊に心を明け渡していなければ、そういうことは起こらない。聖霊の導きの中で御言を聴けた時だけ、今、ここで主イエスがお語りになっていることが分かり、その心は喜びで満たされるのです。今、自分が主イエスと共にいることが分かるからです。そしてそれは、主イエスと似た者にされていることでもあるのです。 今日も、私を含め、一人でも多くの方が、そういう礼拝を捧げることが出来ますように、聖霊の導きを祈りつつ、御言を聴き、また見ていきたいと思います。 一六章の主題 この一六章は、ぶどうの木の譬えが語られた一五章と主イエスの祈りだけが記される一七章に挟まれている章です。そして、この一六章を特徴づける一つの言葉は「悲しみ」であることを前回言いました。名詞としては、一六章にしか出てこない言葉です。出産の例の中で「苦しむ」と出てきますが、原文では「悲しむ」と同じ言葉が記されており、「悲しむ」という動詞もここ以外には一か所にしか出てきません。 この「悲しみ」という言葉が最初に出てくるのは六節です。 「わたしが、これらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。」 しかし、今日の個所の後半二二節にはこうあります。 「しかし、わたしは再びあなたがたに会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」そして二四節では、「あなたがたは喜びで満たされる」と主イエスはおっしゃっている。つまり、この「悲しみと喜び」が、あるいは「悲しみから喜びへ」が、一六章の一つの主題であることは間違いありません。 そして、「悲しみから喜びへ」とは、やはり時間の経過の中で起こる変化ですから、前回も言った通り、この一六章には「時」に関する言葉がたくさん出てきます。一六節以下に頻出するのは、一見してお分かりのように「しばらくすると」です。使われている言葉は、ミクロスと言います。ミクロの世界のミクロです。ほんの僅かな時、と言ってもよいかもしれません。そのほんの僅かな時の差で、人間の全歴史がひっくり返るようなことが起こり、また一人の人間の人生がひっくり返るようなことが起こるのです。 しばらくすると見なくなる、そして見るようになる 今、主イエスは、ご自身がほどなくユダヤ人の支配者、つまりこの世の代表者に逮捕され、あっという間に十字架に磔にされて処刑されることをご存知でした。その時が来ている、切迫していることをご存知なのです。そして、弟子たちも、ことの詳細はさっぱり分からないとしても、何か重大なことが起こるであろうことは分かっている。しかし、それが何なのかは分からない。そういう状況です。 そういう状況の中で、一三章後半から、主イエスはユダを除く弟子たちに、これから自分は「父のもとへ行く」こと、そして弁護者、また真理の霊として帰ってくることを語ってきました。しかし、そのことはまだ起こってはいない。それでも、そのことが起こった時のために、予め語り続けておられるのです。そこで言われることは、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」という謎めいた言葉です。この「見る」という言葉は、今日の個所に四回も出てくる大事な言葉です。 でも、弟子たちは、さっぱり分かりません。「見る」とは、どうしても肉眼で見るという意味で考えてしまうからです。しかし、主イエスはそういう意味だけでおっしゃっているのではありません。だから、彼らとしては「何のことだろう。何を話しておられるか分からない」とお互いに言うしかないのです。 そこで、イエス様はこう言われます。原語では「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」です。非常に大切なことを語る時の決まり文句です。 「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」 これが「しばらくすると」起こる一つの現実です。ヨハネ福音書の文脈で言えば、主イエスは最後の晩餐の時に弟子たちに語っているのです。その夜が明けぬ間に、主イエスは逮捕され、そしてあっと言う間に処刑されて、最早弟子たちの目には見えなくなるのです。その時、弟子たちは「泣いて悲嘆にくれる」しかありません。しかし、かねてからイエス様を亡き者にしようとしていた世の支配者たちは、イエス様が見えなくなったこと、つまり死んだことを喜ぶのです。彼らがついに勝利をしたのですから。 しかし、それから「しばらくすると」、弟子たちの悲しみは誰も奪い去ることが出来ない「喜び」に変わる。何故かと言うと、主イエスが復活し、彼らに聖霊を与えるからです。その聖霊において、彼らは再び主イエスを見るからです。これまでに何度も引用してきた二〇章に、その言葉の実現が記されています。弟子たちが自分たちの罪に打ちひしがれて悲嘆の中に閉じ籠っていた部屋に復活の主イエスが現れました。そして、「平和があるように」と語りかけて下さった。その時、主イエスを見た弟子たちは「喜んだ」とあります。この復活の主イエスと出会う喜び、それはもう誰も奪い去ることは出来ません。 出産の苦しみと喜び そのことをお語りになった後、主イエスは突然具体的な例を持ち出されます。 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。 当時の出産は、隔離された病院などでなされるわけもありませんから、陣痛の苦しみによる女性の叫びは、誰もが家の中であるいは外で聞いておりよく知っていたのです。そして、この陣痛の苦しみは、旧約聖書の中では、神の恐るべき裁きが到来した時の人間の苦しみに譬えられてもいます。 預言者イザヤは、こう言っています。 「泣き叫べ、主の日が近づく。 全能者が破壊する者を送られる。 それゆえ、すべての手は弱くなり、 人は皆、勇気を失い、恐れる。 彼らは痛みと苦しみに捕えられ、 産婦のようにもだえ、 驚きのあまり、顔を見合わせ、 その顔は炎のようになる。」 こういう神様の恐るべき裁きの到来が、この主イエスの例話の中に暗示されているのだろうと思います。それはつまり、これから弟子たちが味わう悲嘆、悲しみについて語っているようでありながら、そして、事実そうでもあるのだけれど、その根底において、主イエスご自身が味わう苦しみ、悲しみについて、そしてその後に味わう喜びについて語っておられるのです。そして、その主イエスの喜びが弟子たちにも与えられる。そういう現実を語っているのだと、私は思います。しかし、それは一体どういうことなのか。それが問題でしょう。 しばらくすると起こること。それは、弟子たちが主イエスを「見なくなる」ことです。しかしそれは、主イエスが十字架に磔にされて殺されることなのです。また、弟子たちが主イエスを「見なくなる」とは、現実には、主イエスが捕まった時既に弟子たちは逃げてしまうのですから、肉体をもった主イエスの姿を肉眼で見なくなるという意味では、その時に既に見なくなっているのです。主イエスはひとり捕まります。そして、ひとり十字架に磔にされる。激しい渇きを覚えつつ。 しかしそれは、何のためなのでしょうか。そこで起こっていることは何なのでしょうか。それは、罪に対する神の恐るべき裁きを、罪なき神の独り子が全身で身に受けるということなのではないでしょうか。罪を犯した者が裁きを受けるのは当然です。しかし、その当然のことが起こるときだって、私たちは泣き叫びます。子どもが悪いことをして親に叱られる、折檻される、そういう時、「自分は悪いことしたのだから、この裁きは当然だ」と平静にいられるでしょうか。悪事の結果怒られるとは分かっていたって、悲しくて、怖くて、苦しくて、泣き叫びます。しかし、自分が罪を犯してもいないのに、罪人の代わりに、怒られたり折檻されるどころか、処刑されるとしたら、一体、どれほどの苦痛がそこにはあるでしょうか。それはまさに死ぬほどの悲しみを味わうということでしょう。主イエスが今、目の前にしていること、しばらくすると起こること、それはそういう理不尽としか言いようがない苦しみ、悲しみの現実なのです。 そのことを、主イエスは出産に伴う苦しみに例えられました。しかし、出産が無事に成功するならば、その苦しみは喜びに変わります。その悲しみは、子どもを生み出すための悲しみなのであって、子が無事に生まれた時には喜びに変わるのです。主イエスは、今、子を産み出すための苦しみを味わおうとしておられるのです。 産む 生まれる 「産む」という言葉、それは受け身になれば「生まれる」となります。その言葉が、この福音書においてどこでどのように使われているかを見て、私はやはり心が震える思いになりました。 最初に出てくるのは、一章です。一〇節から読みます。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」とは、「人はイエス・キリストによって創造されたが、人はイエス・キリストを認めなかった」ということであり、それは自分の命の源を認めない、知らない、拒絶することです。赤ん坊が親の存在を拒絶するのと同じことで、それは自分の命を拒絶することと同じです。信仰に入る前の私たちすべては、そういう人間でした。そして、その人間のことを聖書は罪人と言うのです。罪人とは、本当に惨めで悲しい存在です。主観的には喜んでいたとしても、それは欲望が満たされている喜びに過ぎず、根源的には命の源から離れしまっているのですから悲しい存在です。しかし、その罪人を神の子とするために、初めからあった言、つまり神の独り子イエス・キリストは世に来られたのです。そしてそれは、端的に言って、十字架に磔にされるために世に来られたということなのです。 今日から、私たちはクリスマスを待ち望むアドヴェントという季節に入りました。それは、罪人を神の子として新しく生まれさせるためにイエス・キリストがこの世に来られたこと、また来られることを覚える季節です。 どのようにして、罪人は神の子として生まれることが出来るのか。それは、イエス・キリストを受け入れること、その名を信じることによってです。イエス・キリストが自分の罪を取り除くために犠牲となって死んで下さった「神の小羊」であると信じることなのです。それはつまり、自分は罪なき神の独り子が十字架の裁きによって死ななければならないほどの罪人であることを認めることでもあります。その人は、自ら罪を償うことなく、また怒られたり、折檻されることなく、ただ主イエスの十字架の贖いを信じる信仰の故に赦され、新しい人、神の子として生まれるのです。主イエスは、この神の子を生み出すためにこそ世に来られ、そして今まさに陣痛の苦しみ、悲しみに心が満たされている。しかし、父なる神は、必ず信じる者を生み出して下さるという確信の故に、既に喜びにも満たされている。その悲しみと喜びの中で、主イエスは、父のもとへ行こうとされているのです。 「見る」こと だから、主イエスはこう言われるのです。 「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」 「再びあなたがたと会い」とあります。これは「見る」という言葉です。主イエスが、先に弟子たちを見て下さる。そこに弟子たちの喜びがある。誰も奪い去ることが出来ない喜びがあるのです。 私は、子どもが小さかった頃は、よく近くの公園や森に行って遊びました。そこで自分の子にしろ他の子たちにしろ、遊んでいる姿を見るのはとても楽しいものでした。そういう中で、子どもが鉄棒から落っこちるとか、山で滑って怪我をすることがあります。すると、泣きべそをかきます。子どもというのは、その時に真っ先に親を探すものです。親が自分を見ているかどうかを、まず何よりも先に気にするのです。そして、親が自分を見ていると分かると、安心してさらに泣いて親が来るのを待つ子もいるし、安心してすぐに遊び始める子もいます。いずれにしろ、親が、どんな時も自分を見ている。それが子の喜びなのです。いつだって近くにいて、ちゃんと見ている。少々危険なことをやっていて、心配だなと思っても、手を貸さずに見ていることだってあります。泣いても直ぐに飛んでいくわけではないことだってある。でも、「ちゃんとここにいるよ、見ているからね」と表情で伝えておけば、子どもたちは嬉しいものです。他の誰が見ているよりも、自分を愛してくれる親、自分が愛している親が、自分を見ていてくれれば何よりも安心なのです。 弟子たち、彼らはこれから悲惨な失敗をします。鉄棒から落ちるとか、山で滑るどころではありません。崖から転げ落ちるような大失敗をするのです。もう自分では立ち上がれない、まして崖を登るなんてことは到底できない。真っ暗闇の奈落の底に落ちていくのです。主イエスを見ることが出来ないし、主イエスからも見られないのです。親を失った子なのです。それも、彼らは自ら親を殺した子です。言を認めず、受け入れなかったのですから。「あの人のことは知らない」と言ったのですから。最早、その方から見て頂けるはずもありません。それが、私たち罪人の現実、本当の姿です。しかし、初めからあった言、命の言、闇に輝き、決して闇に負けず、勝利する命の光である主イエスは、そういう者たちのために十字架にかかって死んで下さり、そして、そういう者たちを再び見て下さる、会って下さる。そして、「平和があるように」と語りかけて下さる。「安心しなさい。わたしはここにいる。わたしはちゃんとあなたたちを見ているよ。あなたの罪は赦された」と語りかけて下さるのです。その時が来る。その時が来れば、「あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」と、主イエスはおっしゃっているのです。皆さんに、その主イエスの声が今、聞こえ、その姿が今、見えるでしょうか。礼拝とはその声を聴き、その姿を見ることです。 洗礼式の喜び クリスマス、神の御子誕生を感謝し、祝う礼拝。その礼拝においては、しばしば洗礼式が行われます。受洗者がいないクリスマスやイースターはやはり寂しいものです。今日の礼拝後、夕礼拝に出席を続けてこられた方が、受洗志願者試問会を受けられます。そこで承認されれば、晴れてクリスマス礼拝で信仰を告白して洗礼を授けられることになります。神の子が、一人生まれるのです。幸いなことだと思います。 洗礼を受けた方なら、よくお分かりだと思います。洗礼式は自分が受ける時よりも、むしろ人が受けている時の方が喜びが大きいということが。受洗者は、伝道の結果生まれるものです。伝道は楽しいけれど、でも苦しいものです。それは経験すればすぐ分かります。やってみなければ分かりません。先日のプロテスタント日本伝道一五〇周年記念礼拝においても、説教者は、伝道はその最初から苦しいもの、困難に満ちたものであることを語っていました。 誰かにキリストを伝えたいと日々願いながら生きるということは、本当に幸いなことです。しかし、それは本当に苦しいことです。何年経っても一人にもキリストを伝えることが出来ない。家族にも伝えられない、友人にも伝えられない、そういう現実に打ちひしがれるからです。悲しくなるのです。伝道なんて自分がすることではないと思っていれば、その苦しみ、悲しみを味わうこともありません。でも、新しい命が誕生する喜びも味わえないのです。苦しみ、悲しみこそ、実は喜びの源なのです。 教会とは、礼拝する共同体であり、それはまた伝道する共同体に他なりません。礼拝によって伝道しているのですから。皆で、奪い去られることのない喜びが与えられることを確信して、皆で、苦しみを共にする共同体なのです。宗教改革者カルヴァンは、その教会のことを「母なる教会」と言いました。神の子を産み、そして育てるこの世における唯一の共同体だからです。だから、教会には絶えず苦しみがあり、そして喜びがあるのです。 私は、礼拝に忠実に出席を続けた方が、洗礼を受けたいと申し出られる時の喜びがあるから伝道者をやっていけると思っています。説教を語ること自体も喜びですが、説教はやはり信仰を生み出し、育てるために語るのであって、語ること自体が目的ではありません。受洗志願者の方に、私たちが知らされたキリストが伝わっていること、その信仰が伝わっていることが分かる時、主イエス・キリストはまさに今生きて働いておられる神であることが分かり、何ものにも替え難い喜びに満たされます。それは皆さんも同じだと思うのです。そして、それは何よりも、神の子を生み出すためにこの世に来られ、十字架の苦しみを味わわれた主イエスその方の喜びです。主イエスこそ、誰よりも大きく受洗者が誕生することを喜んでおられるのです。 喜びで満たされる 主イエスは、わたしの名によって願うなら、何でも与えられ、あなたがたは喜びで満たされる、とおっしゃいます。それは、十字架に磔にされて死んだ主イエスが復活して生きておられることを知った時の弟子たちに対する言葉です。つまり、聖霊を注がれて、主イエスを信じることが出来るようになった者たち、つまりキリスト者に対する言葉なのです。 「わたしの名によって願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」 今、「心が悲しみで満たされている」弟子たちが、主イエスに再び会った時は、主イエスの名によって願い、そして与えられ、「喜びで満たされる」ようになるのです。 この「満たされる」とはまさに充満するということですけれど、ヨハネ福音書では、何度も何度も、聖書に書かれた言葉が「実現する」という意味で出てくる言葉です。完全に実現する。神の言葉が実現する。それが実は、主イエスの喜びであり、そして、主イエスの喜びが、私たちの喜びとぴったり重なってくることなのです。聖霊に導かれて、主イエスを信じ、そして主イエスを証しすることに伴う苦しみ、悲しみを味わいつつ歩む私たちは、次第に、主イエスが喜ぶように喜ぶことになる。主イエスに似てくるのです。 思い出して下さい。一五章一一節には、こうあったでしょう。 「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」 また一七章一二節以下では、こうあります。 「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」 主イエスの喜び、それは「滅びの子」以外は、誰も滅びない、神の子となるということです。この喜びに主イエスは溢れている。神様の言葉は必ず実現するのだという確信をもって、悲しみの中にありつつ既に喜んでいるのです。そして、その主イエスの喜びが、弟子たちの喜びになること、私たちの喜びになることを願っておられるのだし、その願いが実現することを確信して既に喜んでおられるのです。私たちが礼拝において、つまり、主イエスと共に過ごすことを通して、主イエスに似た者となるとは、実にこの主イエスの喜びに満ち溢れるということです。苦しみ、悲しみの中にありつつ、しかし、そのすべてを凌駕する喜びに生かされることなのです。 悲しみの中にこそ 先週の木曜日、「信徒の友」という雑誌を手にとってパラパラと見ました。特集記事とかを読むことはあまりないのですが、漫画と映画評と書評は必ず読みます。そして、チェックするのは短歌の欄です。全国の信徒の方が、信仰を詠った短歌を寄せていて、選者によって選ばれたものだけが掲載されるのです。前任地の松本で共に礼拝を守っていた敬愛する信徒の短歌もしばしば選ばれるので、必ず見ることにしています。今月号にも選ばれていました。それはこういう歌です。 哀しみは吾を祈りに導きぬ 哀しみのある今日、祈る喜び まさに目を開かされる思いでした。この方の信仰生活の現実を多少なりとも知っている者にとっては胸を衝かれる思いもしました。パウロも、「神の御心にかなった悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」と言っています。主イエスの名による祈りに導かれる悲しみ、それは聖霊によって信仰を与えられ、神の子とされた者だけが経験する悲しみです。その悲しみの故に、私たちは主イエス・キリストの名によって祈るのです。そして、その祈りの中で、本当に必要なものは、何でも父が与えて下さることを知るのです。そして、その悲しみの中で、心は喜びに溢れる。その私たちの喜びを見て、主イエスは喜んで下さる。その主イエスを見て、さらに私たちは喜ぶのではないでしょうか。 礼拝とは、私たちのために死に、そして生きて下さっている主イエスと共なる喜びで、私たちを満たしてくれる時なのです。そして、いつか、天地を貫いて悔い改めた神の子らが、心から溢れる喜びと感謝をもって父・子・聖霊なる神を礼拝する日が来るのです。それは私たちにとってはとてつもなく長い年月の果てかもしれませんし、明日かもしれません。しかし、「千年は一日、一日は千年」という神様にとって、それもまた「しばらくすると」起こる救いの現実なのです。それが、聖書が語っていることです。だから必ず実現するのです。そのことを信じて、今日、私たちは心からの喜びをもって主を讃美したいと思います。 |