「わたしは既に世に勝っている」

及川 信

ヨハネによる福音書 16章25節〜33節

 

 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」


 今日でヨハネ福音書一六章を読み終えて、来週からはマタイ福音書のクリスマス物語を三回連続して読んでいきたいと思います。ヨハネには二〇一〇年の最初の礼拝から戻ります。

 「時」「あなたがた」

 これまでも語って来たように、一六章には「時が来た」とか「時が来る」、また「今」とか「その日には」という時に関する言葉が何度も出てきます。そして、福音書の文脈としては、主イエスは今、弟子たちと最後の晩餐を共にした直後に語っているので、目の前にいる弟子たちを「あなたがた」と呼んでいることになります。しかし、ヨハネ福音書のイエス様は聖霊において生きておられるイエス様である場合がしばしばあります。その場合、「あなたがた」とは、ヨハネが属していた教会のメンバーということになります。さらには、今礼拝に集まっている私たちということにもなる。細かいことは省きますけれど、時の変化と呼びかける対象の変化が今日の個所の中にも混在していることを、一応、念頭に入れておいて頂きたいと思います。
 しかし、時の変化の中で変化する「あなたがた」とは、私たちにとってもリアルな話だと思います。洗礼を受けた時に、私たちはイエス様の弟子になりました。しかし、その時の信仰はその後変化します。成長する場合もあるし、衰弱して、ついに無くなってしまう場合もある。教会から離れて、自分の家に帰って行ってしまう場合もあるし、逆にますます強められて、勇気をもって信仰を生き続ける場合もある。しかし、いずれも永続する状態かどうかは分からない。「あなたがた」と呼ばれる私たちは、いつも変わらぬ存在ではなく、「時が来たとき」に様々な「あなたがた」になるのです。そういう私たちのために、主イエスは、本当に心を尽くして語りかけて下さっている。それが一六章だと思います。

 「これらのことを話したのは」

 今日、最初に注目したいのは、「これらのことを話したのは」という言葉です。イエス様は、ご自分が話すことは何であり、また何のためであるかを、ちゃんと弟子たちに、つまり、私たちに教えて下さいます。一節で、主イエスはこうおっしゃっています。

 「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。」

 来るべき迫害の時に信仰を捨ててしまわないように、せっかく与えられた「神の子」としての身分を失ってしまわないようにと、主イエスは語って下さるのです。
 また、一六章の最後には、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」と、おっしゃいます。つまり、信仰をもってこの世を生きる弟子たち(キリスト者)に、励まし、慰め、望みを与えるために、主イエスは心を尽くして語りかけて下さっている。そういう言葉を心で聴きとっていくことが出来ますように、共に祈りつつ、今日の個所に入っていきたいと思います。

 たとえ 謎

 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」


 ここに「たとえ」と出てきます。他の福音書には譬話というものがあります。からし種の話とか種蒔きの話とか放蕩息子の話などです。その場合の「たとえ」にも、分かりやすくするための例話という面と、聴く耳のある者だけが分かる秘密という面があります。しかし、ヨハネ福音書で「たとえ」と訳されている言葉は、他の福音書とは違ってパロイミアという言葉が使われています。それは一六章と一〇章にしか出てきません。一〇章の場合、それを聞いたファリサイ派の人々は、「何のことか分からなかった」とあります。そして、一六章一九節では、弟子たちも「何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」と言っています。ですから、このパロイミアとは、人間の知性によって聞いても決して理解できない「謎」のことです。英訳の聖書のいくつかは「ベールで覆われた言葉」と訳しており、そちらの方がニュアンスをよく伝えていると思います。
 既に一二節で、主イエスは「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたは理解できない」とおっしゃり、「しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とおっしゃっています。そして、今日の個所では、「はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」とおっしゃるのです。つまり、来るべき「時」「その日」とは、「真理の霊が来る時」です。私たちがその霊を受ける時にのみ、ベールは取り払われる。覆いは取り除かれて、主イエスが何を語っておられるかが明らかになるのです。そして、イエス様は父なる神様について語っておられるのですから、イエス様の言葉が分かるとは、父なる神様がどういうお方であるかがはっきりと示されることです。結論を先取りして言えば、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉が実現することなのです。

 父の愛

 主イエスは言われます。

「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。」

 これは、私たちにとって本当に喜ばしい言葉です。私たちは、神様に愛されている。イエス様は、そう宣言して下さいます。そして、その神の愛は、イエス様が神のもとからこの世に来られ、また世を去って、神のもとへ行かれることを通して具体的に現れているのです。つまり、神と等しい方が、私たち人間と同じ肉体をとりつつも、罪を犯さなかったが故に、私たち罪人の罪をその身に負い、代わりに裁きを受けて下さったこと。そして、その贖いの死から甦らされ、聖霊によって確かな信仰を弟子たちに与え、弟子たちを初めとするすべての罪人が神の子として新たに生まれる道を開いて下さった。そこに、父なる神の私たちへの愛、罪人である私たちへの愛が現れているのです。
 病で苦しんでいる人が願うことは病の癒しでしょう。貧困にあえぐ人が願うことは貧困からの脱却です。神様との交わりを失ってしまった罪人が願うこと、それは罪の赦し以外のものではありません。罪を罪として自覚するなら、それほど苦痛なことはありません。その苦痛が取り除けられない限り、罪人が喜びに生きることなどあり得ません。そして、罪とは、目に見える形としては人に対して犯していたとしても、厳密な意味では、神様に対するものですから、その神様からの赦しが与えられない限り、その問題の解決とはなりません。イエス様が、「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」とおっしゃる時、それは、その罪の問題の解決、罪人を罪の縄目から解放するために、神様がその独り子であるイエス様をこの世に送られたことをお語りになっているのです。そこに神様の愛が現れているのだ、そこに罪の問題の解決、罪からの解放という救いがあるのだ、と。そのことを、私たちはいつも正しく理解していなければなりません。

 私たちの愛 信仰

 しかし、愛とは、いつでも正しく受け取られるとは限りません。愛しても無視されたり、拒絶されたりすることもあります。人間同士の愛も、それが本当の愛であるかどうかを含めて、真実に愛し合うことは難しいものです。真実に愛し合うことが出来るとすれば、それは神の恵み、神の御業だと言ってよいと、私は思います。
 主イエスは、父なる神様の私たちへの愛を語った直後に、「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出てきたことを信じたからである」とおっしゃっています。ここには、主イエスの深い喜びがあると思います。
 私たちが、人から愛される喜びを感じるとすれば、それはその人が自分のことを本当に深く知ってくれていると分かる時ではないでしょうか。ただ「好きだ」とか「愛している」と言われたって、何を好きで、何を愛しているのか分からない場合は幾らでもあります。容姿が好きだ、才能に惹かれている、持っている富や権力に心が奪われている。そういう意味で好きになってくれたり、愛してくれたりするということがあるとしても、それは所詮、空虚なことです。その空虚なことを、私たちはまるで大事なことであるかのように誤解して、容姿を磨いたり、才能をひけらかしたり、富や権力を持とうとしたりするのですが、それは心の空虚さを消すどころかむしろ実は増していくことです。本当の愛は、誤解に基づくものではなく、深い理解が伴うものです。深い理解が愛だと言うつもりはありません。しかし、深い理解がない所に愛はありません。
 主イエスは、ここで「あなたがたが、わたしを愛し」と言っておられる。それは、主イエスにとって本当に深い喜びです。何故なら、その愛は、イエス様が「神のもとから出て来たことを」弟子たちが「信じた」という愛だからです。神のもとから出て来たとは、イエス様が神と共にいる神であるということです。ヨハネ福音書一章一節の「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という、あの言葉の意味を、弟子たちは正しく理解し、そして信じたのです。このように、主イエスが誰であるかを正しく理解した信仰を、主イエスはここで「愛」と表現しているのです。その愛で愛されていることを、主イエスが喜ばないはずがありません。
 しかし、それだけではない。主イエスの喜びは自分のためだけではなく、主イエスをこのように正しく理解し、信じ、愛することで、罪人が救われ、永遠の命に与ることになるのです。そういう意味でも、主イエスは喜んでおられるに違いありません。ただ愛されて嬉しいということではなく、イエス様を正しく愛することで罪人たちが救いに導かれることが嬉しい。そういう喜びが、この時の主イエスにはあると思います。

 「その日」になるまでは

 しかし、ここで微妙な感じが残ることも事実です。主イエスは、「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」の後に「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」と続けられます。つまり、来ただけではなく、世を去って、ご自身を世に派遣された父のもとへ行くのです。実は、そのことが、まだ「この時の弟子たち」には分かっていないのではないか?と思います。
 彼らは、「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません」「今、分かりました」「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言っています。「神のもとから来られた」とは、イエス様が神であるということの表現です。でも、イエス様の本当の姿は、神のもとから世に来られて、「今、世を去って」神のもとへ「行く」ことにおいて「はっきり」するのです。しかし、最後の晩餐の時には、弟子たちはまだそこまでは分かってはいない。弟子たちは、この時に分かり得る最大限の所まで分からされているのですが、「その日」、つまり復活の主イエスによって真理の霊を与えられる時に初めて分かることまでは分かってはいない。それがこの時の彼らの信仰だと思います。

 自分の家に帰ってしまう

 ですから、イエス様は、彼らの愛と信仰を喜びつつも、「今、ようやく信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」と続けられるのではないでしょうか?
 あれほど彼らの信仰と愛を喜んだのに、今こんなことを言われる。 弟子たちは、主イエスのことが分かり、そして「信じた」と思っています。そして、主イエスもその信仰を喜びをもって受け入れている。にも拘わらず、弟子たちは、羊飼いが打たれた時の羊のようにてんてんばらばらに散らされ、「自分の家」に帰ってしまうとおっしゃる。これは一体どういうことなのでしょうか?
 最後の晩餐において、イスカリオテのユダが出て行ってから、主イエスは、弟子たちにはよく分からないことを語り続けてこられた。しかし、そうではあっても、主イエスがこの世の支配者たちに殺されてしまうのではないか、また残された自分たちにも迫害の手が及ぶのではないかということは、弟子たちにも分かって来たのです。だからこそ、イエス様は、「心を騒がせるな」「おびえるな」「父の家には住む所がたくさんある」、「行って、あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」「わたしにつながっていなさい」と語りかけてこられたのです。
 しかし、この夜が明けぬ前に、イエス様は逮捕されることになります。その時、弟子たちは、イエス様をひとりにして、「自分の家」に帰ってしまうのです。もちろん、この「自分の家」とはいわゆる自宅ではありません。彼らの自宅は、エルサレムから北に百キロ以上も離れたガリラヤ地方にあるのですから。この「自分の家」とは、「もともと自分が属していたもの」という意味でしょう。つまり、彼らは主イエスを捨てて、かつて属していたこの世に帰って行ってしまう。イエス様に従う以前の自分に戻っていっちゃうのだと、主イエスは言われるのです。
 何故でしょうか。「心を騒がせ」「おびえる」からです。肉体の命が奪われることに恐れを抱くからです。主イエスの十字架の死と復活を通して与えられる永遠の命を知らずに、肉体の命がすべての者にとって、死は破滅です。老衰なら仕方なく受け入れるとしても、迫害による死、処刑による死など、受け入れがたいのは当然のことです。彼らは、イエス様ひとりにして逃げました。

 ひとりではない

 しかし、イエス様は、ひとりではない。父が共にいて下さる。八章の段階で既に、イエス様はこうおっしゃっていました。

 「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」

   主イエスは、これまでもそうだし、これからまさに御自身をこの世へと派遣された父の御心に適うことを行われます。好き勝手なことをしても、神様は共にいるとおっしゃっているのではありませんよ。神様の御心に適うことをしているから、わたしはひとりではない、とおっしゃっているのです。それでは、その御心に適うこととは一体何か。それは、自分の命を与えてしまうこと、羊のために命を捨てることです。それは罪人に代わって、父から死の裁きを受けることに他なりません。そのことを通して、罪人たちを「父の住い」、あの自分の家から神の家に迎え入れる備えをなさってくださる。ある意味では、父からも見捨てられる裁きを受けることによって、父は御子イエス・キリストと共におられるという逆説が起こるのです。そのことは、この時の弟子にはまだ知りようもないことでした。

 世が与える平和 主イエスが与える平和

 ヨハネ福音書の一四章以下は、主イエスの「告別説教」と呼ばれる部分です。私たちは何カ月もかけて、一つの説教を読んできました。説教の後、説教者は祈ります。主イエスも長い祈りに入ります。そして、その祈りの直後に、世の支配者たちに捕えられます。その告別説教の最後が、こういう言葉なのです。

 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 これが説教の最後の言葉です。「わたしによって」とか「世で」とは、両方とも同じ前置詞、「〜の中で」を表すエンという言葉が使われ、直訳すれば「あなたがたは、わたしの中で平和を手にする」「あなたがたは、この世の中で苦難を手にしている」となります。「わたし」と「この世」、「平和」と「苦難」が対比されていることは明らかです。
 「苦難」とは、先週読んだ、女が子供を産むときの「苦痛」と同じ言葉です。信仰に生きる神の子を産み出す苦しみがそこにはありました。神の子を生みだす母なる教会の苦しみ、イエス・キリストの苦しみがそこにあった。今日の所では、信仰によってこの世を生きる神の子の苦しみが語られています。しかし、その苦しみを味わいつつも、弟子たちが信仰においてイエス様につながり、イエス様の中に生きるならば、そこには平和があるのだ、と主イエスは言われる。その平和を残すためにこそ、あるいは与えるためにこそ、主イエスは神のもとからこの世に来られ、今、その世を去って、父の御許に行こうとしておられるのです。
 「平和」という言葉は、ヨハネ福音書では三か所に出てきます。すべて主イエスの言葉の中に出てくるのです。イエス様しかお語りになれないことなのだと思います。
 一四章の終りには、こうあります。

 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

 世が与える平和とは何でしょうか?
 「天下泰平」という言葉があります。ある人が、戦乱の世を勝ち抜いて最早敵なしという状態を作り出す時、その状態を天下泰平と言います。日本の歴史では、徳川家康などが、「天下人」と呼ばれたりして、平和をもたらした名君と言われます。イエス様が誕生した当時のローマの皇帝オクタビアヌスは、「崇高なる者」を意味するアウグストと呼ばれ、「平和の君」として称えられていましたし、またそのように強制しました。彼が生まれた日は、福音、喜ばしいおとずれとも呼ばれたのです。自分に敵対する無数の人間を殺して作り出す平和、戦争に勝って作りだす一時の平和、世が与える平和とは、そういうものです。それはすぐに壊れます。
 しかし、イエス様が与える平和とは、世が与えるようなものではありません。この言葉が最後に出てくるのは、二〇章です。「あなたのためなら死にます」と言いながら、イエス様をひとり残して逃げ去り、自分の家に戻ってしまったペトロを初めとする弟子たちが、己が罪に打ちひしがれて蹲っているあの真っ暗な部屋の中に、復活の主イエスが突然現れて下さったあの日曜日のことです。その時、主イエスは十字架に磔にされた釘痕が残る手を広げて、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さいました。 この「平和」、それはイエス様を裏切った弟子たちに対する罪の赦し以外のものではないのです。分かった、信じたと言いながら、全然分かっていない。全然信じていない。「あなたのためなら死にます」と言いながら、死にはしない。愛していると言いながら、愛しているわけではない。彼らは、主イエスを裏切り、また自分自身をも裏切り、最早、自分でも自分を赦すことが出来ない絶望のどん底にいるのです。罪とは結局、絶望なのですから。そのどん底のさらに下、暗黒の死の闇の中にまで降り給うた主イエスが、そのことの故に、父に復活させられ、今、復活の命の光として弟子たちに現れて下さった。そして、その最初の言葉が、「平和があるように」なのです。「心配しないでよい。わたしはあなたたちを赦した。信じなさい。この愛を信じなさい。罪と死の力に勝利したわたしを信じなさい。これに勝る力はないのだ。信じなさい。そうすれば、あなたたちは新しく神の子として生まれ変わることが出来る。そこにこそ平和があるのだ。」そう語りかけて下さった。
 嘆き悲しみ、苦痛のどん底にいた彼らは、この主イエスの言葉を聞き、またその姿を見た時、一六章が語られれた三日前の夜に、主イエスがお語り下さった謎のような言葉を思い出したでしょう。そして、イエス様がおっしゃった通り、誰も奪い去ることが出来ない喜びを与えられたのです。はっきり父のことが分かった、その愛が分かったのです。
 その彼らに向って、主イエスはこう言われました。

 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 主イエスを信じて、新たに神の子として生まれた者は、主イエスが父から遣わされたように、今度は主イエスから遣わされる。そして、父は子がその御心を行っている限り、どんな時も共におられるように、主イエスもまた、弟子たちが聖霊の導きに従って使命を果たす限り、常に共に生きて下さるのです。ひとりにはしておかれない。その使命とは何か、と言えば、罪を赦された者として、罪を赦して生きるということ以外のものではありません。そういう意味で、この世に平和をもたらすことです。

 罪の束縛

 私たちにとって最大の困難とは、罪の赦しに関わることですよ。自分の罪が赦されていることを信じることが出来ない。自分に犯された罪を赦すことが出来ない。その傷を抱えながらずっと生きている。それは罪に負けながら生きているということなのです。
 「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。自分を殺す者を、自分を裏切る者をわたしは愛している。あの時も愛していたし、今も愛している。その愛を正しく理解し、正しく受け止めて欲しい。ただ、それだけなんだ。わたしは罪と死に勝っている.わたしを信じなさい。そうすれば、あなたたちも勝つ。そして、その罪の赦しという平和を証しする者として、私はあなたを遣わす。」

 派遣される私たち

 主イエスは、そう言って、聖霊を与えて弟子たちを派遣されました。その派遣に応えて、弟子たちが聖霊の導きの中で罪の赦しという勝利の福音を宣べ伝え始めた、キリストを宣べ伝え始めた。そして、信じる神の子らが続々と誕生してきた。その結果、キリスト教会がこの世に誕生し、今もその使命を生きているのです。私たちがまさにその教会です。教会が使命を生きているからこそ、私たちは罪人の救いのために独り子を与えた父なる神の愛を知り、主イエスを愛し、信じることが出来るようになったのです。そして、その信仰の故に、罪を赦され、神の子として生まれ変わり、いつも神様と共に生きる真の平和を与えられています。だからこそ、今、神様の愛を宣べ伝える使命を生きるのです。毎週毎週礼拝を捧げ、その最後に、「平和の内に、この世へと出て行きなさい」と派遣されているのです。「罪の赦しを与えられた、そのことを信じることが出来た、その平和をもって、この世へと出て行きなさい」と派遣されるのです。
 こんな有難いことはありません。主イエスは、こんな私たちに尚も期待し、この栄えある使命を与えて下さるのです。私たちは、自分に絶望することは一杯あるわけでしょう?絶望し、諦め、投げやりになって生きている。どうせ罪を犯す、どうせ赦せない、どうせ赦されない・・、私たちの肉はそう思うのです。しかし、聖霊は、「わたしはあなたを愛している。わたしはあなたの罪を赦している。わたしを信じれば、愛と赦しに生きることが出来るのだ。わたしはあなたに期待をしている。だから、わたしはあなたを遣わす。」
 毎週、そう言って下さる。こんなに有難いことはありません。
 罪の赦しは、人間の業ではありません。私たちが出来ることではない。それは神の業なのです。ただ聖霊を受け入れる時にのみ、私たちもなすことが出来ることなのです。私たちが信仰をもって主イエスの中に生きる時、自分の家であったこの世を去って主イエスの中に生きる時、それは天地を貫き、生死を貫いて私たちを生かす父の住まいの中を生きることなのであり、そこにのみ平和があるのです。私たちが帰るのは、自分の家ではなく、父の家なのです。心を騒がせる必要も、脅える必要もない、真の平和があるのです。主イエスは、既に世に勝っているのですから。主イエスの十字架と復活を通して示された愛の力で、罪は完全に打ち負かされているのです。
 問題は、私たちがその勝利の主イエスを信じ、主イエスの中に生きるかどうか、また主イエスを迎え入れるかどうか、それだけなのです。聖霊を求め、常に新たなる信仰をもって生きる時、私たちは主イエスによって罪の縄目から解き放たれ、罪を赦す愛に生きることが出来るようになっていくのだし、そのことを通して、主イエス・キリストを証しすることが出来るようになっていくのです。今日、こうして礼拝を捧げていることも、その証しそのものなのです。この礼拝で、聖霊の導きの中で主イエスの言葉を新たに聞いた私たちは、はっきりと神様の愛の勝利を知らされたのですから、つまずきを取り除かれ、勇気を与えられて歩み出すことが出来ます。
 最後に、ヨハネ福音書と密接不可分の関係にあるヨハネの手紙一から二つの言葉を読んで終わります。

 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。

 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

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