「父よ、時が来ました」

及川 信

ヨハネによる福音書 17章 1節〜 5節

 

イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。

 アドヴェントからクリスマスにかけて、マタイによる福音書のクリスマス物語に耳を傾けてまいりましたが、二〇一〇年の最初の日曜日である今日から再びヨハネ福音書に戻ります。

 主イエスの祈り

 この一七章は、「大祭司の祈り」としばしば呼ばれる個所です。それはそれで理由のあることです。しかし、私にはどうもこの祈りを「大祭司の祈り」と呼ぶことに違和感があると言うか、なにか居心地の悪さを感じます。それは「大」という言葉をつけようが何をしようが、イエス様と比べることが出来るような祭司など、どこを探したっていないからです。その理由をいくつも挙げることが出来ますけれど、一つ決定的なことは、イエス様は、父に向ってこう言える唯一のお方だからです。

「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」

 これは父なる神の独り子、つまり、独り子なる神であるイエス様の言葉です。これは、世が造られる前に神の御許にいて栄光に輝いていた独り子なる神の言葉なのです。私たちがそのまま信じるべき言葉であり、信じることが出来るなら、そのことにおいて永遠の命に生かされる神の言なのです。私たち人間を代表する祭司の言葉ではありません。しかし、そういうお方であるイエス様が、祭司のように私たちのために祈って下さっている。それは事実です。
 私は、そのことを思うだけで、まさに忝(かたじけな)さに胸が震える思いです。イエス様が、私のために祈って下さっている。こんな私のために祈っていて下さる。肉の罪にまみれたこの私が、神様の赦しに与って、神様との愛の交わりに生きることが出来るように、魂を注ぎ出すようにして祈って下さっている。その事実の故に、私は今、こうしてキリスト者として、信仰を与えられる前は全く知りもしなかった喜びに溢れることが出来る。神様を、イエス様と共に「父よ」と呼ぶことが出来る。神様の言葉を聴くことが出来る、取り次ぐことが出来る。共に信じる仲間、兄弟姉妹がいる。それは皆、イエス様が祈って下さったから、そして祈って下さっているから、その祈りが父に聞き届けられ、叶えられているからなのだ・・・。私は、独り子なる神であるお方が、私のために、私たちのために父なる神に祈って下さっていることを思うだけで、悔い改めと感謝と讃美の思いで満たされます。私たちが今日、二〇一〇年の最初の日曜日に、健康を守られ、信仰励まされて、こうしてこの中渋谷教会の礼拝堂に集うことが出来た。この事実の背後に、主イエスの祈りがある。魂を注ぎ出すような、そしてまさに身を投げ出すような祈りがあるのです。なんと有難いことかと思います。もちろん、この場には集うことが出来なくても、時を同じくして、主を仰いでいる兄弟姉妹のためにも、主イエスが祈っておられることは言うまでもありません。

 時が来た

 今日から何週間でこの一七章を読み終えるのか、私にはまだ見当がつきませんし、しばらくヨハネ福音書から離れていたので、いきなり一七章の「祈りの世界」に入っていくことは出来ません。今日は、ご一緒にヨハネ福音書の世界に戻りたいと思います。特に「時が来た」という言葉を中心にして振り返っておきたいと思います。その上で、主イエスの祈りの世界に入っていかないと、「祈り」という信仰において最も深い世界のただ表面をなぞるだけになってしまうと思うからです。
 一七章は、一四章から始まる告別説教が終った後に出てくる祈りです。この祈りが終わった途端に、主イエスはユダヤ教の支配者たちによって逮捕され、あっという間に処刑されてしまいます。そういう受難の切迫、それは一二章の半ばの段階で、イエス様には明確に示されています。イエス様は、過ぎ越しの祭りにやってきたギリシア人(異邦人)が、イエス様にお会いしたいと願っていることを知って、突然こうおっしゃったのです。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」
「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」


 その言葉に対して、この福音書を書いたヨハネが、「イエスは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」と解説を入れています。つまり、主イエスの十字架の死とは、ただ単にユダヤ人のためだけではない。ギリシア人、つまり異邦人のためでもある。すべての人のために、主イエスは一粒の麦として死なねばならぬということです。そのようにして「すべての人を」ご自分のもとへ引き寄せる。その「時が来た」ということを、主イエスだけが知ったのです。
 そして、一三章はこういう書き出しです。
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
 そして、何をされたかと言えば、食事の席で、イエス様ご自身がたらいに水を汲んで、弟子たちの足の汚れを洗い始めたのです。

 死 栄光 愛

 今お読みした一二章と一三章の言葉を繋ぐとこうなります。イエス様の死、それは栄光が現れること、その栄光の死に向かう時、主イエスの弟子たちに対する愛が告げられる。その愛は、汚れを洗い清める行為となって現われるのです。それは言うまでもなく、主イエスが十字架の上で流される血潮を通して、人間の罪の汚れを洗い清めることの暗示です。また、裂かれる体を通して弟子たちを新しい体に造り替えるということなのです。死、栄光、愛、罪の赦し、そして新しい体。そういう流れが鮮明に出てきているのです。弟子たちが、そのことを分かっていようといまいと、時が来たことを知った主イエスは、弟子たちに今は分からなくても、主イエスの十字架の死と復活の後、聖霊が与えられた時に初めて分かる言葉を語り始め、また行為をし始めておられるのです。
 そして、一四章から長い説教を語り始める。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

 こうやって、これまでご一緒に読んできた所を読み直してみると、イエス様の濃やかにして熱い心遣いを知って、心が熱くなります。なんて丁寧に、心をこめて、私たちを愛して下さっているのだろうか。イエス様の姿を見ることがなくなる弟子たちに対する心遣いと、最初からイエス様を見ないで信じるようになった私たちに対して、主イエスは本当に熟慮されてその一つ一つの行為と言葉を残して下さっていることがよく分かるからです。
 親が死んだ後に、親が残してくれた具体的な品々や遺言の言葉を通して、生きている時は分からなかった深い愛をはじめて知って感謝するということをよく聞きます。私も、これまで何カ月もかかって読んできたイエス様の言葉を読み返してみると、「ああ、こんな時に既に、イエス様はご自身の死の時が迫っていることを知って、弟子たちに向ってこんなことをし、こんなことを遺言として語っておられたのだ。そこには、こんな深い思いがあり、配慮があったんだ。イエス様の心はこの時こういう思いで満たされていたんだ。どんなに悲しかったか、どんなに熱かったか、どんなに嬉しかったか・・・」そういうことを感じて胸が熱くなるのです。皆さんも、今日を機会に、ご一緒に読んできた個所をじっくりと読み返して御覧になるとよいと思います。その場所を読んだその時は、その時なりに、私も分かったことを語ったつもりですけれど、一七章にまで至って読み返してみると、その時には分からなかったイエス様の心の奥にある思いがよく分かります。そして、心が喜びで満たされたり、悲しみで覆われたりします。
 主イエスは、こう言われました。

「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。・・・ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」
「あなたがたには、世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 ヨハネ福音書のイエス


 こうおっしゃってから、主イエスは「天を仰いで言われた」のです。目を天に向けて、天におられる父の御顔を見つつ言われた。祈られたのです。

「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたから委ねられた人すべてに、永遠の命を与えることが出来るのです。」

 これまでも再三言って来たことですが、ヨハネ福音書におけるイエス様は、十字架に磔にされて死んでしまう前のイエス様であると同時に、復活して天に挙げられ、聖霊において戻って来て、弟子たちと再び会い、教会の中に生きておられるイエス・キリストである場合があります。また、三節の言葉がそうですけれど、イエス様の言葉の中に、この福音書を書いたヨハネ、あるいはその教会の信仰告白の言葉も混ざり合っているのです。それは一見すると荒唐無稽な話のようですけれど、実は、紀元二〇一〇年を迎えた日本でイエス様を信じている私たちにとっては、極めてリアルなイエス様なのです。私たちはこの礼拝において、過去に地上を生きたイエス様が語られた言葉を聴くだけではなく、今生きておられるイエス・キリストの言葉を聴くのだし、また説教とは、そのイエス・キリストに対する信仰告白であり、イエス・キリストが語る言葉の取り次ぎでもあるのです。だから、私たちの毎週の礼拝において起こっている事態が、ヨハネ福音書の中ではいつも起こっている。そういうことがよく分かって来ると、ヨハネ福音書は非常に親しみやすい現実感に満ちたものとなってきます。

 権能

 イエス様は、この祈りの最初にも「時が来た」という言葉をお使いになっています。そして、すべての人を支配する「権能」を父から与えられた、とおっしゃっています。
 先月、マタイによる福音書を三回続けて読んだ時に、復活の主イエスが弟子たちにお語りになった言葉を読みました。それは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という言葉でした。
 そこに出てくる「権能」という言葉が、ここに出てきます。この権能は、十字架の死から甦ったイエス様、つまり、罪と死の支配を打ち破り、永遠の命に生きるイエス様、イエス様が神、インマヌエル(我らと共にいます神)であることが明らかになった時に持つ権能なのです。そういう権能が、既に父から子に与えられているとお語りになっている。ヨハネ福音書においては、この場面のイエス様が、「既に世に勝っている」お方なのです。罪と死の支配を打ち破っているお方なのです。
 「すべての人を支配する権能」とは、言うまでもなく世を支配する王の「栄光」に満ちたものです。しかし、既に読んだ言葉から分かりますように、イエス様の「栄光」とは、何よりもイエス様が一粒の麦として地に落ちる、命を捨てることにおいて現れる栄光です。主イエスは、ご自身の命を十字架の死に引き渡すことを通して王となり、「すべての人を自分に引き寄せよう」とされたのだし、今もされているからです。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」とは、十字架の上に上げられることだし、同時に復活して天に挙げられることです。そのことを通して、すべての人、つまりすべての罪人の罪を赦し、死を打ち破り、ご自身のもとへ、つまり父の住まいへ、天と地を貫き、肉体の生と死を貫いたご自身の教会へ、永遠の命へ引き寄せようとして下さっている。そこに独り子なる神様の栄光が現れるのです。そこにこそ権能が現れているのです。ですから、この権能は何よりも愛において現れる、それもご自身の独り子をさえ惜しまず与える神様の愛、また自分の命を一粒の麦として捨てる御子の愛において現れるのです。

 愛 知る

 今日は、この祈り全体の構造とか言葉の特色などを説明する時間はありません。是非、皆さんもこれから毎週の礼拝に備えて繰り返し一七章をお読みになって下さるとよいと思います。そして、どういう言葉がどこでどのように使われているかを、ご自分で見つけていくと、説教を聴いていてもより深く分かると思うのです。
 今は、一つのことを言います。主イエスの祈りの最後には、「愛」という言葉と「知る」「知らせる」という言葉が何度も出てきます。神様からイエス様への愛を弟子たちが知ることで、弟子たちが神様の愛の内にあり、イエス様も彼らの内に生きることが出来るようにと、イエス様が祈って下さるのです。
(「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」)

   私が何故、祈りの最後の言葉をここで引用したかと言えば、三節にこうあるからです。

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」

 これはイエス様の言葉でもあるけれど、イエス様の言葉を聴いて信じた人々の言葉でもある。イエス様が神様から遣わされた方であり、神様に愛されていることを、その愛の栄光を十字架において見せて下さったことを知っている人々でもあるのです。つまり、自分たちが唯一のまことの神様と神様がお遣わしになったイエス・キリストによって愛されていることを知っている人々の言葉なのです。そしてそれは、神様とイエス様との間にある愛が、自分たちの内にあり、イエス様が自分たちの内に生きて下さっていることを知っている人々の言葉、つまりキリスト者の言葉でもあるのです。 キリストと愛において一体の交わりをする人間が信仰をもって発する言葉は、時にキリストの言葉そのものなのです。キリストが、その人間の内で語っている言葉が口から出てきているからです。「知る」とは、そういうことなのです。「イエス・キリストを知る」とは、そういうこと。事典に出てくるような知識を持つなどということとは何の関係もない言葉です。
 「イエス・キリスト、今から二千年前に、ユダヤ人の王としてベツレヘムで生まれたとされる人物。神への愛と人への愛を説いたが、およそ三十歳の頃、ユダヤ人に訴えられ、ローマ人の手によって十字架刑で処刑された。弟子たちによると三日目に復活したと言われる。そのことがキリスト教発生の起源となっている。」
 日本人の中で、イエス・キリストについて、これくらいのことを言えれば、「あんたよく知っているね。たいしたもんだ」と言われるでしょう。その延長線上で知識をどんどん積み重ねていけば、さらによく知っているということになる。しかし、その知識と、ここで「イエス・キリストを知る」と言われていることは全く違います。似てさえもいません。
 ここで「知る」とは、「愛する」ということです。また「信じる」ということです。イエス・キリストが、私のために一粒の麦となって死んで下さったことを知って、その命を捧げて下さる愛に打たれて、イエス様を信じる、イエス様に命を捧げて愛する。イエス様を自分の中に迎え入れる。イエス様の中に自分の身を投げ出す。そういう愛の交わりに生きる。それが、神と神がお遣わしになったイエス・キリストを知ることなのです。そして、その愛の交わりの中にこそ、永遠の命があると主イエスは言われ、また教会は信じ、そのように告白してきたのです。

 永遠の命

 「永遠の命」
と聞けば、私たち日本人はすぐに霊魂不滅とか、いわゆる「天国」で生きる命とか考えます。いずれにしろ肉体が死んで後の命のことです。もちろん、聖書における永遠の命だって、そのことを含みます。しかし、「命」というものの理解が通常の理解と全く違うので、同じ言葉を使って話していても全然かみ合わないことになるのです。それは仕方のないことです。イエス・キリストを知らなければ、分かりようのないことなのですから。
 イエス様は、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」と祈っておられます。この言葉の背景には、ヨハネ福音書冒頭の言葉があります。「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という言葉です。イエス様はここで、イエス様が実は世が造られる前から神であることの栄光を現して欲しいと願われます。しかし、その栄光は、一粒の麦として地に落ちて、多くの実を結ばせること、すべての人の罪を贖って、ご自身のもとに引き寄せること、ご自身の愛の交わりの内に招き入れることにおいて現れるのです。だから、イエス様は、「あなたがた与えてくださった業を成し遂げた」と言われるのです。
 そして、この言葉が最後に出てくるのは、十字架の場面です。

「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」

 この十字架の死こそ、イエス様が成し遂げなければならぬ業であり、また成し遂げた業であり、この十字架のイエス様においてこそ独り子なる神の栄光が現れており、神の愛が現れているのです。そのすべてを信じる、それが神とイエス・キリストを知ることであり、それが神とイエス・キリストの間にある永遠の命の交わりに入ることなのです。

 一つとなる

 実は翻訳としては現れては来ないのですけれど、この「成し遂げる」という言葉は一七章でもう一回だけ使われています。それは、二三節です。二二節から読みます。

あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。

 「彼らが完全に一つになるため」
という言葉が「成し遂げる」と同じです。成し遂げるとは、完成させるという意味です。ここで主イエスがおっしゃっていることは、主イエスが父から与えられて成し遂げる業としての十字架の死こそが、主イエスを信じる者たちを完全に一つにする業なのだということです。私たちを完全に一つにするために、主イエスは私たちに栄光を与えてくださった、つまり十字架で死んで下さったのです。罪を赦すという愛を与えてくださったのです。そのことを知る、信じる、その時、私たちは主イエスの愛と赦しにおいて一つになる、一つの交わりに生かされる、神の愛、その永遠の愛の交わりの中に生かされる。それは肉体の生と死を超えた交わりなのであり、その交わりに生きる命を私たちは今既に生きている、その永遠の命を私たちは今既に生きている、生かされているのです。私たちは幸いにも、神様からイエス様に委ねられた人間だからです。その私たちの愛の交わりにおいて神の栄光が現れるのです。なんと素晴らしいことでしょうか。

 聖餐式における一致

 今年の元旦は、西南支区の新年礼拝で説教をさせて頂きました。仲間の牧師からガウンをお借りして、生まれて初めてガウンを着て説教をしました。その姿を見るためではなかったと思いますが、今年は近くにお住まいの方が、お子さん、求道者を含めて二十人以上出席をして下さいました。とても心強かったです。
 西南支区に属する四四教会から、四百人以上の方が出席をされました。そういう大規模な礼拝の時に感じる一つに、讃美歌の声が大きくて気持ちがよいということがあります。しかし、それだけでなく、『日本基督教団信仰告白』を、大きな声で唱和する時の心の高まりもあります。普段はそれぞれの教会で礼拝を守っている者たちが、今、一つの信仰告白のもとに集まり、唯一の真の神と神が遣わされたイエス・キリストを信じて礼拝を捧げている。その一体感を深く感じました。そして、何よりも聖餐式において、その一つの交わりが完成していることを、感じ取ることが出来ました。
 私たちが年二回合同祈祷会を持っている聖ヶ丘教会もそうですけれど、新年礼拝の会場となった東京山手教会における聖餐式でも、パンとぶどう酒が配餐される間、司式者が聖書を読みます。その時その時、司式者に示された御言を自由に読むようです。二〇〇七年の新年礼拝では、ルカによる福音書のエマオ途上の弟子たちに関する御言が読まれました。今年は、ヨハネ福音書六章の言葉でした。二〇〇七年の時も、私はその聖書朗読を聞きつつ胸が震える思いでしたけれど、今年もそうでした。今年は特に、今日の礼拝で語るべき説教の備えをしつつ礼拝に出ていたこともあり、尚更のことでした。
 ヨハネ福音書の六章は、五つのパンを五千人にパンを分け与えるという奇跡を主イエスが行って以後、ユダヤ人たちと永遠の命に至る食べ物について議論が巻き起こったのです。その議論の果てに、主イエスがおっしゃった言葉が、パンが配られる間、力強く読まれました。その一部を読みます。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」

   私たちは、これから聖餐式に与ります。その中で、私はこう言います。
 「キリストのからだと血とにあずかるとき、キリストはわたしたちのうちに親しく臨んでおられます。また、この恵みのしるしは、わたしたちすべてを主において一つにします。いま、聖霊の神に支えられて、この聖餐に与り、ひたすら主に仕え、その戒めを守り、互いに愛し合いながら、主の再び来たりたもう日を待ち望みたいと思います。」
 もう何も語る必要はないでしょう。私たちは、私たちのために裂かれた主イエスの体、私たちのために流された主イエスの血潮を正しい知識としての信仰と愛を持って頂くことにおいて永遠の命に生かされるのだし、主において一つにされるのです。完全に一つになる。主の愛で結ばれるのです。そしてそこに主の栄光が現れているのです。私たちはただただ感謝と讃美を捧げるのみです。

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