「私たちのために祈る主イエス」

及川 信

ヨハネによる福音書 17章 6節〜19節

 

世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

   主イエスの喜び


 先週、私たちは、主イエスが私たちのために祈って下さっているということが、どれほど大きな現実であり慰めであるかを知らされました。しかし、私たちがその現実とそこにある慰めを知り尽くすことはあり得ないと思います。イエス様は、「今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」とおっしゃっています。「喜びが満ち溢れていく」とは今だけのことではなく、私たちがこの世にある限り終わりがないことです。より正確に言えば、イエス・キリストを憎み、またイエス・キリストを信じて生きる者を憎むこの世を、私たちキリスト者がイエス・キリストを信じて生きる限りにおいて、その喜びは次第に満ちてくる。そして、その喜びとは、悲しみや苦難の中で満ちてくるものであり、悲しみや苦難がない所にある喜びではありません。
 主イエスが「今、わたしはみもとに参ります」とおっしゃっている「今」とは、まさに十字架で処刑される直前の「今」です。あの悲惨にして無残な十字架の死を目前にしている「今」、主イエスには「わたしの喜び」と言えるものがある。それだけでも十分驚きですけれど、その喜びが、目の前にいる弟子たちの内に満ち溢れていくことを主イエスは願い、十字架の死を通して父のみもとに行こうとされているのです。この現実の中に込められている慰め、それを知ることを通して味わう喜び、それはまさに私たちの信仰生活のすべてをかけて知っていくこと、知らされていくことなのだと思います。しかし、今日は今日として、主イエスが与えてくださっている現実を深く知っていきたいと願います。

 私たちは神のもの

 主イエスは祈られます。
「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。」
 この言葉を読みつつ、また新たに恵みを知らされます。私たちは、まず何よりも神のものであり、同時に神からイエス・キリストに与えられたもの、つまり、イエス・キリストのものである。原文では「選び」という言葉はなく、神様が「世からわたしに与えたものたち」と記されています。いずれにしろ、私たちが神のもの、キリストのもの、キリスト者であるということは、神様が決定し、神様がなして下さった業だと、主イエスは言われます。このことが決定的なことです。
 私がキリスト者であること、また牧師であること、それは私が決めたことではなく、神様が決めてくださったことなのだし、イエス様が受け止めてくださったことです。そして、私が牧師としてキリスト者であり続けていることもまた、イエス様の祈りに応えて、神様が守って下さっているからなのです。そうでなければ、私が今もこうして皆さんと共に神様を礼拝することが出来るはずもありません。私は、そのことの有難さ、忝さ、安心、喜びを感じます。皆さんが、今もキリスト者であり、礼拝を捧げることが出来ることの背後にも、イエス様の祈りと神様の守りがある。それは確実なことです。そのことを私たちは片時も忘れてはならないと思います。

 「わたしが選んだ」

 先日、二〇〇一年にNHKで放映された「心の時代」が収録されているビデオをお借りして観ました。ある方へのインタヴューを通して、その方が歩んできた人生が言葉と映像で綴られていくものでした。その方は、結婚した当初、夫人と共に教会で洗礼を受けられました。しかし、その後長い間、この世の仕事の忙しさにかまけて礼拝生活をしてこなかったそうです。その間に身体的な障害を負うようになり、やってきた仕事も変えざるを得ない事情がおきたりと、思いもかけない様々な変遷があった。そんなある時、買い物ついでに鎌倉の街を歩いていると、その通り道に教会があった。二十年以上も教会生活から離れていたのですが、その時は行ってみようかと思った。しかし、長い空白を経て再び教会の門をくぐるには勇気がいります。何週間も、今日こそは今日こそは行ってみようと逡巡した揚句に、漸く行くことが出来たそうです。そういう生活の中で、ヨハネ福音書のイエス様の言葉に出会って衝撃を受けた。それは、一五章の言葉です。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 この言葉との出会いを語りつつ、その方は、こうおっしゃいました。
 「私はずっと自己中心で生きて来た。仕事の面でも生活の面でもそうだった。また、私が自分の意志で教会の礼拝に行くのだと思っていた。しかし、実はそうではないことが分かった。そのことの前に、まず私たちが神様に選ばれていて、神様の憐れみと恵みの中に置かれ、礼拝へと招かれている。だから、礼拝に行くことが出来る。お恥ずかしいことに、長い間、そのことを全く知らぬままに過ごしてしまった。」
 私は、その証しを聞きつつ、一七章のイエス様の祈りを思っていました。イエス様が、祈って下さっている。神様からイエス様に与えられた者たちが、その信仰を守って生きることが出来るように祈って下さっている。そして、離れてしまった者が帰って来るようにと、魂を注ぎ出すようにして祈っている。その祈りなくして、私が教会の群れの中に今もいれるはずもないし、その方が再び教会の群れの中に帰って来ることも出来なかった。私が自分の意志でいるのではない、その方が自分の意志で帰って来たのでもない。主イエスが祈って下さっている。そのお陰で、私がいることが出来る、その方も帰って来ることが出来た。それが本当の現実、目に見えない所で起こっている真実なのだと思います。そこに、信仰を与えられた者すべてに当てはまる神の選び、まさに神の秘密としての神秘があるのです。

 私たちの信仰の現実

 私は、先週、イエス様の心が以前よりも少しわかるようになったと言いました。しかし、その心はあまりに深いものですから、これもまた知り尽くすことはあり得ないと思います。
 この祈りは、イエス様が弟子たちだけに語った告別説教に続く祈りです。その説教を聞いた後に、弟子たちは「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と信仰告白をしています。私たちも説教の後に「使徒信条」によって信仰告白をします。しかし、イエス様は弟子たちにこうおっしゃるのです。

「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ。」

 この主イエスの言葉は、祈りが終わった直後に実現していくのです。「信じます」と告白した弟子たちが、イエス様を残して自分の家に、つまりこの世に帰って行ってしまう。そして、イエス様のことを「知らない」と言ってしまう。イエス様との関係を断ち切って、無関係な生活をする。それは、ともすれば私たちの毎週の生活パターンでしょう。礼拝で信仰を告白した上で、月曜日から信仰とは無関係に生きている。日常の仕事でも、信仰を持ってすることは出来ます。特にプロテスタント・キリスト教においては、自分の仕事を通して神の栄光を現すことを重んじます。しかし、職場や家族から信仰的な仕事や生活を求められているわけではないでしょう。神の栄光ではなく、会社の利益、家庭の繁栄を求められる。だから、その求めに応える。しかし、イエス様はいつでもどこでも何をしていても、信仰に生きるように求めておられます。そういうイエス様は、私たちにとっても鬱陶しくまた疎ましい存在であり、時に切り捨てたい方ですし、現実にいとも簡単に切り捨てている。この建物を出てしまえば、夜になってしまえば、そこには自分の家、住み慣れたこの世があって、そこに帰っていく。そこまで主イエスについて来られるのは困る。それが私たちの現実です。
 イエス様はここで、弟子たちがイエス様のことを「信じていない」とはおっしゃってはいません。「今ようやく、信じるようになった」ことはお認めになっている。しかし、そのように信じている者が、この世の憎しみに触れる時、いともあっけなく「あの人のことは知らない」と言ってしまう人間になることもよくご存知なのです。

 だからこそ祈る主イエス

 でも、だからこそイエス様は祈って下さるのです。

「わたしは御名を現しました。・・・彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」

 私たちは何よりも、イエス様を通して神様の名を現された者たちなのです。このことだけでも優に一回の説教を必要とする大問題ですけれど、神の名とは、神様の本質を表しますし、名は体を表すとあるようにその働きを現します。
 私たち人間は、その本質において神の被造物ですから、自分の神を知らないということは、親の愛を知らない子と同じく、自覚していなくても、心に大きな空白、不安、悲しみを抱えているのです。生きている実感、生きていて良いのだという確信が持てないのです。その心の空白を埋めるために、人間は様々な宗教を作り出します。自分で自分の神を作り出し、それを拝むことで、少しでも不安を解消しようとするのです。金だって権力だって、そういう神々である場合が幾らでもあります。ある人は、そのことを「拝金教」と言っています。しかし、自分で作った神が、自分のことを選んだり、永遠に愛したりしてくれるわけではありません。ただ黙っているだけです。そして、神に造られたが故に愛を本能的に求める私たち人間は、自分で作った神、偶像、アイドルに振り回されていくという惨めな状態に陥っていくほかなくなるのです。
 しかし、御子イエス・キリストを通して私たちに現された神様は、言葉として私たちに語りかけ、その言葉はそのまま業、つまり愛の業、救いの業なのです。イエス・キリストを知ること、それが神を知ることです。知るためには出会わなければなりません。しかし、その出会いは、私たちの予期せぬ時に、想像とか期待をはるかに超えた形で与えられます。私たちが出会おうとして出会ったのではなく、神様が私たちに出会って下さった、御子イエス・キリストを通してご自身がどういう神であるかを現して下さったものだからです。それは、独り子をさえ惜しまずに与え給うほどに私たちを愛して下さっている神です。そして、この独り子を信じる者は、神を知ることが出来る。知ったから信じるのではありません。信じるから知るのです。その信仰において、神様との愛の交わりを破壊している罪が破壊される。赦されるのです。そして、神様との愛の交わりに迎え入れられる。神様を自分の中に迎え入れることが出来、神様の中に自分が迎え入れられていることを知る。その交わりに生きることこそが信仰であり、神を知っているということであり、先週示されているように、そこに永遠の命、救いがあるのです。

 イエス様から見た私たち

 イエス様は、ここで周りにいる弟子たち、つまり今ここに集まっている私たちのことを、信仰によって救われた者として神様に伝えておられるのです。私たちの信仰がどれほど弱く、はかないものであったとしても、その信仰をイエス様は認めてくださっているのです。「彼らは、御言葉を守りました。今、彼らは知っています。彼らは受け入れて、本当に知り、信じたからです」と。私たちが自分自身の信仰をどれほど疑おうと、恥じようと、イエス様は、今、ご自分の周りにいる弟子たちのことを、このような者として受け止め、神様に報告しておられるのです。
 さらに、「わたしは彼らによって栄光を受けました」とまで、言って下さっています。先週も言いましたように、この言葉は、この時のイエス様の言葉であると同時に、今、その体は天にあり、霊においてこの礼拝に臨んでおられる主イエスの言葉ですから、ここに出てくる「彼ら」とは、今ここにいる私たち、神とイエス・キリストを礼拝している私たちのことでもあります。私たちは今、その礼拝において、イエス様の栄光を讃えている、イエス様に栄光を帰している存在なのです。「彼らによって栄光を受けた」は、直訳すれば、「彼らの中で讃えられている」です。
 私たちは自分自身を深く鋭く見つめなければいけないと思いますけれど、その時気をつけなければならないことは、自分のことは自分が一番よく知っていると思い込まないことです。人よりは知っているかもしれませんが、イエス様よりも深く知っているわけがありません。私たちのことを本当によく知っているのは、私たち自身ではなく、私たちを神様から受け取り、ご自分のものとし、愛して下さっているイエス様なのです。そのイエス様こそ、私たちの信仰の弱さを誰よりもよくご存知でありつつ、神の選びによって私たちに与えられている身分が何であるかをご存知なのです。私たちがどれほど奢り高ぶろうとも、イエス様から見れば、私たちは実に弱い存在です。逆に、私たちがどれほど自分を卑下しようと、私たちは今や神のもの、イエス・キリストのものであり、礼拝を通してイエス・キリストの栄光を讃美している者なのです。今、この渋谷の街で、イエス様を讃美している人間がどれだけいるのでしょうか。何万人もの人々が街を行き交っていますけれど、その中で、渋谷に建てられている諸教会に集っている恐らく数百人、一パーセントにも満たない人間だけが、神の言葉に耳を傾け、その名を告げ知らされ、讃美しているのです。その数が少ないことは残念なことですが、私たちが礼拝をしているという事実は少しも変わることはないし、その事実は些かも卑下するようなことではないでしょう。これは神様の愛において起こっている事実なのですから。そして一六章の最後で、この時の弟子たちが知らない彼らの弱さを指摘されたイエス様が、今ここでは弟子たちが知らない彼らの身分、神様を知り、讃美しているという光栄なる身分を指摘して下さっているのです。その指摘は、そのまま私たちに当てはまります。

 聖霊を求める祈り

 イエス様は、祈って下さいます。
「彼らのためにお願いします。・・わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。」

   一二節に出てくる「滅びの子」とは、最後の晩餐の席で部屋から出て行ったユダのことだと思います。彼については、既に一三章の段階で語っているので今は触れません。
 祈りの中でイエス様が繰り返す言葉は、ご自身が父の御許に行くということと、守ってくださいと願うことです。主イエスは既にキリスト者としての身分を与えられた者たちのために祈って下さっている。それは、主イエスが「もはや世にいない」からです。八章の終わりや一二章で、主イエスはユダヤ人の前から「身を隠された」と記されており、一三章以降はもっぱら弟子たちにだけ語りかけておられます。そういう意味で、主イエスは「もはや世にいない」と言えるでしょう。十字架の死が確定しているこの時、その死を通して神の栄光を称えることが確定しているこの時、主イエスはもはや世にはいない。しかしそれだけでなく、この言葉は天上におられる主イエスの祈りでもあります。天におられる主イエスとは、肉体を持ってこの世に存在しておられたようにおられるわけではありません。その時、周りにいる弟子たちを守られたようには、私たちをお守り下さるわけではない。その主イエスが、父に弟子たちを守って下さいと願うとはどういうことか。
 その点については、一四章一五節の言葉を思い起こす必要があります。そこで主イエスは、弟子たちにこうおっしゃっています。

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」

 「真理の霊」
、聖霊を私たちの弁護者として、つまり私たちのために永遠に生きて下さるお方として遣わすように、主イエスは父に願って下さるのです。しかし、その聖霊は、主イエスが十字架の死を通して父のもとに行く時に初めて送られるものなのです。十字架の血によって私たち罪人の罪を贖い、復活を通して新しい命を創造し、その命を生かす息として、聖霊は弟子たちに、そして私たちに注がれるようになるのです。その霊によって、この世に残る者たちが守られるようにと、主イエスは祈って下さいます。

 守る 愛する 願う

 今お読みした個所に、「掟を守る」「愛する」「願う」という言葉が出てきます。すべて一七章の祈りにも出てくる大事な言葉です。特に祈りの前半で「守る」という言葉が四回で出てきます。弟子たちが主語のものが一回で、あとは弟子たちを「守って下さい」とイエス様が願う形で出てきます。
 最初に、弟子たちが何を守るのかと言うと、「彼らは御言葉を守りました」とあります。この「御言葉」とは、一四章に出てくる「掟」と同じことです。その「掟」とは主イエスが弟子たちに与えた「新しい掟」のことであり、それは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」です。彼らが主イエスに愛されたように互いに愛し合うことで、彼らが主イエスの弟子であることを皆が知るようになり、主イエスの栄光が讃えられるようになるのです。
 その後も、主イエスは繰り返し「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父は、その人を愛され、父とわたしとはその人のところへ行き、一緒に住む」と弟子たちに語ってこられました。この約束、私たち罪人を救い出すという究極的な約束を実現するために、主イエスは、ご自身の十字架の死と復活以後に、弟子たちに聖霊を注いで下さるように願っておられるのです。彼らが、つまり私たちが主イエスの掟を守り、主イエスを愛し、父から愛され、父を愛し、主イエスに愛されたように互いに愛し合い、主イエスの栄光を讃美することが出来るようにと祈って下さる。

 一つである喜び

「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。・・しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」


   なんだか茫然としてしまいます。なんのことか分からない思いに捕われます。神様と御子イエス・キリストが一体である。一つ交わりの中に生きている。それは、分かるような気がします。しかし、その一体性とは、これから御子が十字架に磔にされて、その肉が裂かれ、血が流されるという無残な死において現実となっていくことなのです。一四節以下は来週ご一緒に聴くことになりますが、主イエスは、弟子たちのために、「自分自身をささげる」のです。あの十字架の上にです。自分の命を捨てるのです。人々の前で裸にされるままになる。これ以上ない恥辱です。生きたまま、釘を打ちつけられるのです。これ以上のものはない苦痛です。死んだ体を槍で脇腹を刺されるのです。侮辱です。そのすべてのことを受け入れる。それが父なる神の御心だからです。その御心に子は従う。父と子は一つだからです。
 父は父で、罪人らに自分の子どもが目の前でいたぶられて、神への冒涜者だと罪名をつけられて、無残に殺される姿を、黙って見続けるのです。どうして、そんなことが出来るのか、私には分かりません。「神」「神」と口にしつつ、本当は神のことなど何も考えていない、神を排除し、自分のことだけを考え、自己中心に生きているだけの大祭司を初めとする神の民ユダヤ人の現実、法による統治をすべきなのに、暴動を恐れて罪を見出せない人間を十字架に磔にする異邦人ピラトの現実を見つつ、そういう人々に自分の子どもがいたぶられ殺されるままにしておく。そのすべては、「聖書が実現するため」なのです。神の言葉が実現するため、神の名が現されるためです。神様の救いが実現するためです。そのために御子は堪え難き苦しみを味わおうとされ、御父も独り子を殺されるという堪え難い苦しみを味わおうとされる。その苦しみにおいて全く一つになった父なる神と子なる神である主イエスがここにおられ、その一体性において、父と子は喜びの中にいる。
 マザー・テレサという人は、「苦しみは一人で味わうと悲しみになり、共に味わうと喜びになる」という言葉を残していますが、そういう「一つである喜び」が唯一の真の神と神が遣わされたイエス・キリストの間にある。捧げつくす喜び、命までも捧げつくす喜び、それが神様の愛の喜びなのでしょう。それは、私たち罪人にとっては、まさに茫然とすることです。捉えようもないし、受け止めようもないことです。

 一つとなることへの招き

 しかも、それだけではない。この途方もない喜びの中に、この私たちをも招き入れようとして、「守って下さい」と祈っておられるのです。有難いような恐ろしいようなことです。
 先ほど引用した所から明らかなように、弟子たちが主イエスの掟、神の言葉を「守る」ことは、神様を「愛する」ことと不可分です。それは、神様が主語になった時も同じだと思います。主イエスは、「これからも弟子たちを守って下さい」と祈られる。それは、「弟子たちを愛して下さい」ということです。でも、私たちの神様への愛と、神様の私たちへの愛は、同じ愛でも決定的に違います。何故なら、私たちは、しばしば、主イエスを一人残して自分の家に帰ってしまう罪人なのですから。そういう私たちを愛するとは、赦すこと以外の何ものでもありません。私たちが神様を赦すことなどあり得ません。神様が私たちを赦して下さるのです。まず神様が私たちを選んで下さり、神様が私たちを愛して下さり、「あなたはわたしのものだ、わたし以外の誰もあなたをこのように愛してはいない、わたしだけが、わたしの独り子を与えるほどにあなたを愛しているのだ。その愛を信じて欲しい」と叫んでおられるのです。その神様を本当に受け入れるなら、私たちの神様への愛は、「神様、信じます。感謝します。有難うございます。私も私自身をあなたに捧げます」という応答以外のものではないし、それでよいのです。神様は、その信仰の応答を喜んでくださいます。御子を与えた意味、殺されるのを黙って見守っていた意味があると喜んで下さるし、御子もまた、あなたを友とし、その友のために死んだことは意味があった。わたしの死によって、あなたに信仰を与えられたのだから。地に落ちて死んだ麦が実を豊かに結んだのだから、と言って下さいます。
 それもいつも新たにです。私たちがいつも新たに罪を犯してしまうから。でも、いつも新たに、そういう私たちを憐れんで、礼拝する者として招いて下さる神様がおられます。私たちが今ここにいて神の言葉を一生懸命に聴いていることが、また今、私が語る言葉を受話器を通して必死に聴き取り、共に礼拝している人々がいることが、その証明です。私たちをそのような者として下さったのは、御子イエス・キリストを与えて下さった神様であり、私たちを御子に与えた神様なのです。そして、その御子イエス・キリストを信じる、そして自分を捧げて従う。この世へと派遣され、聖霊の守りの中で伝道に生きる苦しみを共にする。そのことにおいて、私たちは主イエスと神様との交わりの中に迎え入れられて一つとなって生きるのだし、そこに喜びが満ち溢れてくるのです。これは理屈ではありません。理屈で納得することではない。信じて生きること、この世に派遣されて伝道に生きることにおいて経験することです。信仰に生き、伝道に生きることは苦しいことです。でも、それに勝る喜びもないのです。主イエスの心、神の心を知ることが出来ることだからです。底知れない愛の深み、あふれ出てくる愛の喜びを知ることだからです。
 今日から始まる一週間、主を「知らない」と言う者ではなく、主を愛し、共に生きるキリスト者として歩めますように、神様の守りを祈ります。
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