「聖と真理」

及川 信

ヨハネによる福音書 17章 6節〜19節

 

世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

 二〇一〇年を迎えた、私たちは、逮捕される直前の主イエスの祈りを読んでいます。と言うより、聴いています。耳をそばだてて、主イエスが私たちのために何を祈って下さっているかを聴いているのです。私たちは誰だって、自分が他人にどう見られているかとか、何を期待されているかを気にします。当然です。そうであるなら、尚更、イエス様が私たちをどう思い、何を期待して下さっているかを気にするのは当然のことです。それは、私たち一人ひとりの救いに関することなのですし、さらに言えば世の救いに関することなのですから、一言も聴きもらすまいという思いで耳を傾けねばならないと思います。

 悲しみと喜び

 ヨハネ福音書一七章の祈りは、他の福音書で言えば、ゲツセマネの祈りの場面だと言ってもよいのです。そちらの方では、イエス様は「悲しみのあまり死ぬほどだ」と呻きつつ、必死になって父に祈っておられます。「出来ることなら、この杯を取りのけて下さい。しかし、私の思いではなく、あなたの御心がなりますように」と。この祈りの深さもまた、私たち人間の想像を超えるものであるに違いありません。しかし、十字架の死を目前にした時の主イエスの苦悶という意味では、分かります。誰だって、死刑にされる直前であれば、激しい苦しみに苛まれるはずだからです。その苦しみを神の御子イエス・キリストが味わって下さったということに、私たちは驚きと感謝、また畏怖を覚えます。
 しかし、そのゲツセマネの祈りに比べられるヨハネ福音書一七章の祈りの中に、イエス様の苦悩や悲しみが前面に出ているとは言えないと思います。少なくとも、言葉として、そのことを表す言葉は使われていません。もちろん、そうであってもイエス様に苦しみがないわけではないはずです。しかし、イエス様自身は、ここで「今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」とおっしゃっています。「わたしの喜び」と、主イエスは言われる。この言葉に、私は一七章を読み始めた時から圧倒されています。主イエスはこの時、喜びにあふれて祈っており、その喜びが弟子たちに満ちあふれるように祈っておられる。その弟子たちとは、今ここで、主イエスを礼拝している私たちのことでもあります。
 主イエスは、この祈りの直前の説教において、何度も、弟子たちに対して「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」とか、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」とおっしゃっています。そして、その説教の締め括りの言葉は、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」です。つまり、弟子たちには苦難、悲嘆、悲しみがあるとおっしゃっている。その悲しみの原因は、イエス様がこれから「世を去って、父のもとへ行く」からです。「わたしはみもとに行きます」と主イエスは祈りの中で繰り返されます。しかし、弟子たちは、当面は世に残るのです。そして、世は彼らを憎むのです。

 「みもとに行く」とは

 主イエスにとって、父の御許に行くこととは、ご自身が元々おられた所へ帰ることです。そういう意味では本来いるべき所へ帰ることであり、そのことが嬉しい、喜びである、と言えるでしょう。しかし、イエス様は突然、何の痛みもないままに天に挙げられていくわけではありません。雲に包まれて気が付いたら見えなくなっていたという形で、父のみもとに行くのではない。あの十字架の死を経て行くのです。
 ヨハネ福音書の考え方では、「十字架の死を経て行く」という言い方も正確ではないかもしれません。この福音書では、十字架の木に上げられることは、即、死人から上げられること、つまり復活することであり、それは即、天に上げられること、父のみもとに行くことであり、それは即、聖霊が弟子たちに注がれること、つまり、真理の霊が弟子たちに与えられて、彼らが主イエスを信じ、証しするために世に派遣されることを意味するのです。例をあげて、いちいち説明することはしませんけれど、十字架の死、復活、昇天、聖霊(真理の霊)付与、派遣は、すべて一つの事柄です。そして、それは何のための一つの事柄であるかと言うと、私たち罪人が救われるためです。すべてはそのことのために起こっているのだし、そのことに向っている。

 愛の喜び

 イエス様が、十字架に磔にされる前に鞭を打たれ、茨の冠をかぶせられ、既にぼろ雑巾のような体にされた上に、肉を裂かれ、血を流し、恥辱にまみれて死んでいく。殺されていく。それを思えば、まさに「悲しみのあまり死ぬほど」と呻かざるを得ないのだし、その十字架の死とは、出来れば、避けて通りたい道であることは言うまでもありません。しかし、主イエスは、まさにこの死、十字架の死のためにこの世に来られたのです。この死を通して世の罪を取り除くという、ただ神のみがなし得る栄光の業をなすために来られた。その業をなすとは、多くの実を結ばせるために一粒の麦となって死ぬことです。自分の死が、滅びゆく罪人の救いをもたらす死となるのであれば、それが「わたしの喜び」なのだと、主イエスはおっしゃっている。そういう喜び、罪人のために犠牲となることが「わたしの喜び」である、と。先週も言いましたように、この喜びとは、苦しみのない所にある喜びではなく、苦しみの只中にある喜びです。
 それは、私たちの現実とかけ離れたことです。私たちの喜びは、様々な意味でイエス様のものとは違います。たとえば、災害や事故、事件などで誰かが死んでしまったという報道を私たちは毎日目にし、心が痛みます。でもやはり、「ああ、私でなくてよかった」と思っています。そう思うことが悪いことだとか、そんなことではありません。しかし、そういうことに象徴されるように、私たちはどこまでも自分のために生きているのであり、自分が中心であるのです。自分にとって良いことであるかどうかが価値判断の基準なのです。しかし、そういう私たちでも、たとえば、愛する我が子が重病に罹って死んでしまうという時、親の内臓が必要であれば、それが心臓であっても差し出したいと願う。そういうこともある。腎臓や肝臓ではなく、心臓となると、それはその親の命と引き換えに子を生かすことですから、どれほど望んでも、現実には不可能なことです。しかし、愛することは、突き詰めて行くと、自分が死んでも、そのことで相手が生きるのであれば、それが嬉しい、喜びであるということになるのではないでしょうか。愛の喜び、その究極の姿は、命を捧げて愛することだからです。
 主イエスが、今、苦難を受ける直前に味わっている「喜び」とは、そういう究極の愛の喜びなのだと思います。年末から一七章を読み始めて、最初はなんのことかさっぱり分かりませんでしたが、三週間かかって、ようやく「そうなんだな」と思ってきました。ご自分が十字架に向かうことで、弟子たちを初め、すべての罪人に救いの道が開けて行くことを喜んでおられる。
 主イエスの価値判断の基準は、自己愛ではない。神様への愛です。そして、父なる神様が罪人を愛しておられる、ご自身の独り子をさえ惜しまずに与えてしまうという信じ難い愛で愛しておられる。だから、その愛は子である主イエスの愛となり、主イエスはご自身を十字架に捧げることを喜びとしておられる。まさに茫然とする以外にない愛の喜びの世界がここにはあります。
 しかし、私たちはその世界を眺めて感動したり、茫然としたりしていればよい観客ではありません。主イエスは、ご自身が味わっておられるその喜びが、弟子たちの内に満ちあふれるようになるために、祈っておられるのですから。
 先週も言いましたように、正直言って「こういう喜びは要りません」と言いたくもなります。「苦しみのない喜び、悲しみのない喜びなら満ちあふれるのは嬉しいけれど、苦しみの極みの中にある喜びなんていりません」と言いたい。でも、イエス様が味わう喜びの何十分の一でも、何百分の一でも、とにかく、この世の価値基準に従って生きている自分である限り決して味わうことがない喜び、神様のものとなった自分、キリストのもの、キリスト者とされているが故に味わう喜びは、味わってみたい。そうでなければ、信仰を与えられた意味がないとも思います。

 世の憎しみ

 主イエスは、九節で「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです」とおっしゃっています。彼らとは弟子たち、つまり、私たちキリスト者のことです。「与える」と訳された言葉は「伝える」とか「ゆだねる」とかも訳されますけれど、一七章だけで実に十六回も出てきます。そして、「世」はそれを上回る十八回です。私たち、キリスト者とは、神様が世から選び出してキリストに与えられた者であり、キリストを通して神の名を知らされ、その言葉を与えられ、その言葉を守っている者である。つまり、神とキリストを知っている、キリストが神様のもとから遣わされた方であると信じている者たちである。それが、九節までに記されている、イエス様によるキリスト者の定義です。
 そのキリスト者のために、イエス様は祈って下さる。「守ってください」と。イエス様は、世にいなくなるけれど、弟子たちは世に残るからです。そして、世は弟子たち、キリスト者を憎むからです。何故、世は彼らを憎むのか?それは、弟子たち、キリスト者もかつては同じく世に属していた仲間だったのに、根本的にはそこから抜けたからです。たとえば、学校をサボって街で遊んでいる不良グループがいて、その中から、真面目に学校に通い出す人間が出てくると、グループにいた人間は、からかったり嫌がらせをしたりするし、ひどい時はリンチをしたりする。逆に真面目一本やりのグループから一人抜け出すと、軽蔑され見捨てられる。それも憎むということです。そういうことが、大人であれ子どもであれ人間の世にはあります。仲間から抜ける時には、それ相当の覚悟をしなければなりません。
 私たちが洗礼を受けたとは、基本的に国籍を天に移したということです。世に属して世のために生きるのではなく、神に属して神のために生きる。そのことこそ真理であり命であると信じているということです。それは裏を返せば、世の価値観に従って生きることは空しいことであり、罪であると言っているのと同じことです。だから、それまで仲間だと思っていた人、同じ穴のむじなだと思っていた人にしてみれば、それは面白くないことだし、腹立たしいことであり、ちょっと痛めつけてやろうかと思う場合だってあるのは当然のことです。
 新共同訳聖書では、「わたしは彼らに御言を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです」となっています。でも、直訳すれば、「わたしは彼らにあなたの言葉を与えました。そして(だから)、世は彼らを憎みました」です。神様の言葉を与えられたからこそ、弟子たちは、また私たちは世から憎まれるのです。イエス様が世から憎まれて排除されるのと同じことが、キリスト者には起こるからです。だからこそ、イエス様は世に残る彼ら、世に遣わされる彼ら、つまり私たちのために祈って下さる。「守ってください」と。この祈りなくして、私たちが信仰をもって世を生きることが出来ません。そして、信仰をもって世を生きるとは、後に語ることですけれど、世には属さないのに、最も深い意味で世のために生きることです。こんなことは、私たち人間がその力でよくなし得ることではありません。

 悪い者から守ってほしい

 イエス様は、悪い者から守って欲しい、と祈って下さいます。「悪い者」とは、一見すると、世間に存在する悪者のことのように見えます。そして、世の支配者が、この福音書においてはしばしば悪者として登場します。しかし、事はそれほど単純なものではないと思います。
 イエス様は七章七節でこう言っておられるのです。

「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」

   この段階では、主イエスと弟子たちには、まだ距離がありました。しかし、今は弟子たちも主イエスを信じているのです。その時、弟子たちもまた世から憎まれる者となります。その理由は、世の業はすべからく「悪い」と証しをするからです。ここで「悪い」とは、いわゆる犯罪とか悪意に基づく行為とか、そういうことだけを言っているのではなく、神の愛を信じず、自分の思いのままに生きているそのすべてのことです。光が来たのに、救いが到来したのに、信じない、悔い改めない、そのことが「悪い」と言われます。闇の行為だと。イエス様にとって、世は悪いのです。闇なのです。だから、イエス様は命の光として世に来られた。でも、世はイエス様を受け入れない、その言葉を拒絶する、神の名を拒絶する。そのようにして、罪の赦し、永遠の命を自ら拒絶してしまう。それが悪、悪い者と呼ばれるものであって、特定の人々とか特定の行為のことではありません。神の愛を拒絶し、信仰に生きることを拒否することです。世にある限り、キリスト者を含めて、誰でもいつでも何をしていても、その悪い者に支配される可能性はある。だからこそ、主イエスは、私たちがその悪から守られるように祈って下さるのだし、私たちもまたいつも主の祈りを捧げることによって、「悪より救い出したまえ」と祈るのです。

 悪の世を生きる

 しかし、悪が満ちているこの世から私たちが取り去られることを、主イエスは祈られません。それは、この世に生を与えられたことは神様の恵みの業だからです。しかし、より根源的には、私たちが世に属さぬまま信仰をもって世を生きることが、世の救いのためになるからなのです。「世のためではなく弟子たちのために祈る」と言われた主イエスは、最終的には、弟子たちの言葉を聞いて信じる人々のために祈られます。そしてそれは、二三節にありますように、神様がイエス様をお遣わしになり、イエス様を愛しているように世を愛していることを世が知るためなのです。そのためにこそ、イエス様は弟子たちのために祈る。つまり、世が信仰によって救われるために主イエスは祈っておられるのです。
 現代に生きる私たちキリスト者は、例外なく、この弟子たちが語る言葉を聞いて信じるに至った者たちです。つまり、かつては世に属していたのに、今は弟子たちを通して語られた神の言葉、聖書と説教、証しの言葉を聞いて信じ、キリスト者にされた者たちです。この時の弟子たちが父と子の一体の交わりに生きているように、私たちも信仰を与えられることを通して、神様の愛の交わりの中に一つにされている。そして今や、この時の弟子たちのように、主イエスに祈られつつ、この世に残り、また派遣される者とされているのです。これはすべて、私たちの願ったこととか、予想していたことではないし、私たちの力で出来ることでもない。ただただ主イエスの祈りに支えられつつ、聖霊によって与えられた身分だし、なすことが出来る業でしょう。

 派遣

真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。


 ヨハネ福音書の文脈で言えば、言うまでもなく、弟子たちが世に派遣をされるのは、主イエスの復活後に聖霊を与えられて後のことです。だから、この言葉もまた、既に天に上げられた主イエスの言葉とも受け取れます。しかし、主イエスを信じている弟子たちが世に残ること、そのこと自体が派遣であるとも言えます。私たちも同じです。信仰をもってこの世を生きていること自体が派遣なのです。口を開けば「キリスト」と言うことだけが伝道ではありません。私のような伝道者に召された人間は、誰かれ構わず、機会を与えられれば喜んで、与えられなくても機会を作ってキリストを宣べ伝えることが生きることだと思います。そのために世に残り、そのために世に派遣されている。しかし、皆さんはそういう意味での伝道を毎日するわけではない。礼拝を重んじ、信仰をもって生活をする。信仰をもって仕事をする、信仰をもって人と交わる、いつもキリストに属する者としての自覚をもって生きること、そのことを通してキリストの香りが漂い、塩で味付けされた言葉が出てき、苦しみの中に尚喜びに生きる姿が現れてくる。そういう信仰生活が、そのまま派遣された者としての伝道だと思います。もちろん、機会があれば、その言葉によってキリストを証しすることが出来れば、大きな喜びを経験すると思います。もちろん、証しをすれば、受け入れられない苦しみや悲しみも経験するでしょうが。喜びは苦しみや悲しみを抜きには与えられません。

 真理

 「真理」
とあり「聖」とあります。私は二つとも名詞のようにして説教題に並べてしまいました。しかし、「真理」は名詞ですけれども、「聖」の方は、「聖なる者としてください」という動詞の形で出てきます。聖別する、聖なる神に属する聖なる者として他のものと分ける、神の使命に生きる者として分離する、という意味です。そして、その言葉は実は、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」「ささげる」と同じ言葉です。
 私としては、こうやって主イエスの祈りの言葉を丁寧に聴いていくと、次第に追い詰められていく感じがして怖いです。何故かと言うと、ここで主イエスが祈っておられることは、私たちが主イエスに似た者となるようにということだからです。同じ苦しみ、そして同じ喜びを知ることが出来るように、つまり同じ使命を生きることが出来るようにということです。私たちは、救って頂くことは大歓迎、赦して頂くことは大歓迎です。でも人を救うこと、赦すことは勘弁してほしいと思っています。それは大変なことです。それは、本気でやるなら、自分を捧げること、犠牲として捧げることですから。それは勘弁してほしいと思う。
 「真理」という言葉は、ヨハネ福音書に何度も出てきた言葉ですけれど、二か所だけ読みます。主イエスは、主イエスの言葉を信じたユダヤ人たちにこうおっしゃいました。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。
 そして、残った弟子たちには、こうおっしゃった。
 「わたしを信じなさい。・・わたしは道であり、真理であり、命である。」
 これらの言葉は、しかし、聞かされたその時には誰も意味が分からなかったし、真理が人を自由にすることもなかったのです。けれども、主イエスの十字架の死と復活を通して「真理の霊」が弟子たちに注がれた時、この霊が、主イエスが語られたことが何であるかを教え、彼らの信仰を確かなものとし、彼らが世から自由にされていったのです。つまり、世から選ばれてキリストに与えられた者、キリストに属することで世から自由にされた者となっていった。神とキリストとの一体の交わりの中に迎え入れられ、一つになっていったのです。だから、主イエスは弟子たちがご自身と同じことをすることが出来るようにと、祈られる。

 聖別 捧げる

 もちろん、私たちが十字架にかかって死ぬことが求められているわけではないし、たとえ現在もそういう処刑方法があり、キリスト者がその信仰の故に処刑されることがあったとしても、その死がキリストの死と同じものであるはずもありません。この世の罪を取り除くための贖いの死ではないし、死んだ者がキリストと同じように目に見える形で復活して、残された者たちに聖霊を吹きかけるなどということをするはずもありません。
 しかし、他の福音書においても、イエス様は、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とおっしゃっています。またヨハネ福音書一二章では、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」とおっしゃっています。つまり、キリストのように生きることが求められている。
 いずれも、私などは、出来れば聞きたくない言葉です。でも、この言葉は、まさに真理の言葉であり、信じて従うならば、その人は、この世の悪、罪と死から自由にされ、なによりも死を目前にした状況の中でも喜びが満たされていくのです。愛に生きることが出来るからです。イエス様は、そういうイエス様の喜びが弟子たちに、私たちに満ちあふれて行くために語り、祈っておられるのです。

 この世の者ではないキリスト者

 私たちは、肉をもって生きている存在です。この場合の肉とは、肉欲と言ってもよいのですが、もっと広く、この世の価値観と言ってよいでしょう。そういうものに従って、そういう価値観の中で一喜一憂しているのです。それはそれで当然のことで、この世においては何の問題にもならないことです。その価値観の中で上位にランク付けされることをしていれば、この世では成功者と見做され、私たちも喜びを感じるものです。
 でも、私たちキリスト者は、自分が普段そのことを自覚していようがいまいが、既にこの世から選び出されて、キリストに与えられた者なのです。最早、世の者ではなく、キリストのもの、神のものです。イエス・キリストを信じているから、イエス・キリストの言葉を神の言葉として聞いているから、そこに救いとしての道、真理、命があると信じているのですから。だとすれば、私たちは肉をもって生きていたとしても、肉に従って生きる者ではないし、体はこの世を生きていたとしても、この世に属して生きているのでもない。だから、私たちにとっての成功や失敗も、この世の価値基準とは違ったものであるはずだし、私たちが味わう一喜一憂もこの世のものではなく、信仰に生きるが故の一喜一憂であるはずだし、あるべきでしょう。私たちの喜びは、この世で成功した時に一時的に湧きあがるものではなく、キリストの愛を伝える伝道と証しに伴う苦しみの只中、その極みにおいて、湧き上がるものなのです。そして、その苦しみや喜びとは、愛すれども憎まれる苦しみだし、憎まれても愛することが出来る喜びのはずです。その苦しみと喜びへの招き、促し、それが、私たちが最も聞きたくない主イエスの言葉の中に込められた真相だと思います。
 この喜びに生きる、主イエスの喜びに生きる、それは真理の言葉、真理の霊に生かされて自らを捧げることです。それは、神に愛されて生きること、神を愛して生きること、そして、自分を憎む者をさえ愛する自由を生きることです。その自由は、真理の言葉、真理の霊によって聖別された時にのみ与えられるものです。

 聖霊を受けなさい

 復活の主イエスは弟子たちに、息を吹きかけつつこう言われました。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」
 これが、主イエスの業を託されたキリスト者、真理によって聖なる者とされたキリスト者、絶えず主イエスの祈りに支えられているキリスト者が、この世においてなしていく業です。そして、その業の中心には、この礼拝があるのです。キリストが臨在するこの礼拝の中でこそ、罪の赦しは執行されるからです。この礼拝に押し出され、愛と赦しの業に生きる、そして人々を礼拝へと招く、そこに私たちの苦しみがあり、そして喜びがある。そこに主イエスとの生きた交わりがあるからです。
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