「愛において一つ」

及川 信

ヨハネによる福音書 17章20節〜26節

 

また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

 希望


 「私たち人間が生きるために必要なものは何か」と問われたら、皆さんは何と答えるのだろうか?と思います。人の数だけ答えがあるのかもしれません。しかし、突き詰めていけば、そんなに多くの答えがあるわけではないだろうとも思います。
 若い頃に読んだ本の中に、アウシュビッツの収容所から奇跡的に生還した精神科医が書いた『夜と霧』という本があります。その中に、収容所内に流れる様々な噂に一喜一憂する人々の姿が描かれています。ある人は、あと数カ月後の何月何日に連合軍がここまで攻めてきて、自分たちは解放されるという噂を信じ込み、その日が来ることだけを希望として生きた。その日が来るまでは、実に活き活きとしていた。しかし、その日が来ても、連合軍の姿は見えず、収容所の生活は何も変わらなかった。すると、その人は、その日を境にみるみる気力を失って行き、ついに死んでしまったと書かれていました。希望がなくなると、人は生きていけないのです。
 これはもちろん極限状況の人間の姿です。しかし、そういうところに私たち人間の本質が現れるのだとも思います。年が明けた頃、しばしばテレビの街頭インタヴューなどで、「今年の願いは何ですか?」と尋ねられた人々が、「景気の回復だね」と答える場面を見ました。これはごく普通の日常的光景ですが、今年の願いを「景気回復だね」と言える人、つまり、そういう希望とか願いを持っている人は、たとえ現状が苦しくても、顔はどこか笑っています。何時かよくなる、楽になると希望が持てるからです。また、その希望を共にしている家族とか仲間がいるからでしょう。
 しかし、つい先日見たある番組では、就職氷河期にやっとの思いで就職したものの、激烈なノルマを課せられる中で病気になったり、景気の後退で解雇をされて、三〇代にしてホームレスになってしまった人たちについて報道されていました。その世代の人たちの若い頃から、「自己責任」という言葉が社会の中で広く使われるようになりました。ですから、ホームレスになってしまった人たちも、社会に対する怒りを持つというよりも、「こうなったのはどう考えても自分が悪い。自分が悪いのだから、人に向って助けてなどと言えない」と思っている場合が多いのだそうです。そういう自責の念に苛まれる中で、家族や友人にも苦しい現実を隠しつつ、孤独に生きている。そういう人たちが増えている。そこには、希望がありません。自分を責め続け、閉じ籠っていくしかない。そして、ますます孤独と悲しみを深めて行くしかないのです。
 そういう人々を救援している牧師さんが番組で紹介されていました。その方は、「"自己責任"という言葉が、現代の社会ではお前の面倒は見ないよという責任放棄の意味で横行してしまっている。落ちる人間は独りで勝手に落ちて行けばいい。それはその人間の責任だから誰も助けないでよいという意味になってしまっている」と言っていました。そして、「人には希望が必要だが、その希望は自分の中を見ても見えては来ない。他者から、あなたには希望があると見てもらい、また言ってもらえないと、人間は希望を持つことは出来ない」と言っていました。確かにそうだな、とも思います。希望が、人が生きる源だとすれば、その希望は人の中にあるのではなく、外からやって来る。それは、私なりに実感することでもあります。

 悲しみと喜び

 私たちは、もう何年もかけてヨハネ福音書を読んでいます。今は、一七章の主イエスの祈りの場面を読んでいるのです。これまでに再三言ってきていますように、この祈りはイエス様の説教の後に出てくる祈りです。私が、説教の後に祈る祈りもそうですけれど、説教と祈りは密接不可分です。説教は祈りで完結すると言ってよい。しかしまた、その祈りによって実質的に始まっていくのです。語ってしまえば終わり、聴いてしまえば終わりなのではなく、語り、聴いた言葉を生きていくことによって、説教は説教となっていくのであり、それは祈りなくしては全く不可能なことだからです。
 説教で使われた言葉は、祈りの中にも自然に出てくるものです。 主イエスの最後の説教に何度も出て来た言葉の一つは、「悲しみ」でした。主イエスがこの世を去って父のみもとに行ってしまう悲しみが弟子たちにはあります。またその時、世の人々(ヨハネ福音書においては、当時のユダヤ教徒)が、神への奉仕としてキリスト者を迫害し始めるのです。その迫害に遭う悲しみ。そのキリスト者の悲しみを見て世は喜ぶのです。世が生み出したわけではない信仰を持ってこの世を生きるとは、一面から言うと、そういう孤独や悲しみを経験することです。それは、当時のユダヤ人社会に生きる、あるいはローマ皇帝の支配の中を生きるキリスト者に限らない話です。目に見えない神、主イエス・キリストを信じ、その導きに従って生きることは、いつの世においても、孤独であり、悲しみがあるものだし、あるはずのものです。
 しかし、主イエスは、その悲しみは心からの喜びに変わる、とおっしゃる。それは、弟子たちは、聖霊において、主イエスと再び会い、もう二度と別れることはないからです。彼らは孤独ではなくなるからです。その日が来ることを、イエス様が弟子たちに約束しつつ、こう語りかけておられます。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。・・・願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。・・・父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

 「願い」と「愛」


 ここに「願い」「愛」という言葉が出てきます。そして、その言葉は、一七章の祈りにおいても決定的な言葉です。そもそも祈りとは、基本的に願いなのであり、主イエスの祈りは最初から最後まで神様に対する願いです。
 そして、その願いの根底にあるのは愛です。主イエスに対する神の愛、主イエスを通して人間に与えられる神の愛、主イエスの神への愛、主イエスの私たち人間への愛、その深く豊かで尽きることのない愛が、願いとして、祈りとして、ほとばしり出てきているのです。子を持つ親は、その子の幸を願って祈るものです。愛しているからです。愛が祈りの源泉なのです。
 主イエスの祈りは、世界が造られる前に神の御許で持っていた栄光が与えられるようにとの願いから始まります。そして、次に目の前にいる弟子たちが世の迫害の中で、主イエスによって知らされた神の名、その言葉を守ることが出来るように守って下さいという願いが続く。そして、主イエスによって世に派遣された弟子たちが、主イエスと同じく自分を神様に捧げることが出来るようにという願いが捧げられてきたのです。

 キリストの祈りによって生かされるキリスト者

 今日は、二〇節以下の御言を聴きます。ここで主イエスは、弟子たちのためだけでなく、「彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」と祈られる。それはつまり、歴史的に言えば、この時目の前にいる弟子たちの伝道によって信仰を与えられ、後にキリスト者になっていくすべての人々、つまり、私たちのための祈りです。この祈りを聴き始めた最初の時から言っていることですけれど、私たちは、このようなイエス様の祈りに支えられていることを忘れてはならないと思います。私たちは、自分の力で信仰を生きているのではない。イエス様の祈り、愛に基づく祈りに支えられて、初めて信仰に生きることが出来る。私たちは主イエスに愛されているから、信仰をもって生きることが出来る。そのことを忘れてはならないと思います。
 そして、それは私たちが愛の祈りの中で生かされているということです。私たちキリスト者とは、その根本において、自己責任で生きるとか、孤独に耐えて生きているわけではありません。主イエスに愛されることで生きているのだし、その主イエスとの交わり、また主イエスを仲介とした信徒の交わりの中に生かされているのです。

 伝道としての愛の交わり

 主イエスは、ここで「世が信じるようになります」「世が知るようになります」と繰り返されます。そのことが、主イエスの願いなのです。弟子たちの伝道の言葉を聴いて信じる者たちが、父と子の愛の交わりの中に入って一つになる。そのことを通して、イエス様こそ神様から遣わされた救い主であること、またそこに世の人々を愛する神の愛が現れていることを世の人々が知る。そのことを、主イエスは願っておられます。しかし、この世の人々とは、具体的にはこれからイエス様を十字架に磔にする人々のことなのだし、主イエスが父のみもとに行った後に、キリスト者を迫害し、ユダヤ人社会から追放し、まさにホームレスの状態に追いやる人々のことなのです。神様に対する責任として、「神が人となった」などという邪教を流布する輩を根絶しようとする人々のことです。ユダヤ教の信仰という点では極めて熱心であるが故に、キリスト者に対して、そして彼ら自身は気づいていなくとも、実は自分たちが信じていると思っている神に対して、敵意と憎しみを抱いている人々が、いつかキリストの愛に基づく伝道の言葉に触れて、イエス様をメシア、救い主と知り、信じることが出来るように、とイエス様は願っておられるのです。
 先ほども言いましたように、ここで言われる「世」とは、形を変えて世界中に存在し続けています。「世」の本質とは、己自身を神として、真の神を拒絶する人間の状態のことであり、罪なのです。ですから、主イエスはここで、その罪人が、いつの日か信仰を与えられて救われるようにと祈っておられるのです。そして、その救いの御業が、主イエスを信じる人を通してなされていくようにと願っておられる。

 人間を通して進展する救いの御業

 最後にその言葉を引用するパウロのような人は、一見すると、ちょっと別格で、いきなり復活の主イエスと出会って回心し、キリスト者になったかのように見えます。しかし、彼の場合も、そのキリストとの出会いの前にステファノの処刑に立ち会ったことが大きなことだと思います。ステファノはキリストへの信仰とその証しの故に人々に石を打たれて処刑されるのですが、イエス様と同じように、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈りつつ死にました。また、その直前には、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と証しをしたのです。このステファノは、この時のパウロにとっては赦し難き異教徒でしたが、恐るべき異教徒でもあったでしょう。ステファノを通して、パウロは神の栄光、キリスト者の栄光を見させられたのです。その時は全く理解出来ませんでしたが、忘れ得ない衝撃を受けたはずです。その後も彼は、キリスト者への迫害を続けました。しかし、キリストと出会った直後、キリストに命令されて彼のもとに来たアナニアに「兄弟」と呼びかけられて、洗礼を授けられます。つまり、それまで彼がキリスト者に対して犯してきた恐るべき罪が赦されるのです。そして、それまで迫害をしていた教会に迎え入れられていくのです。彼は、このアナニアという人を通して、キリストによる罪の赦しが具体的にはどういうものであるかを知らされていったのです。彼は、キリストに赦され、キリスト者に赦され、そしてキリストの赦しを、その愛を人々に伝えるキリスト者に造り替えられていきました。その人々とは、彼を裏切り者として憎み、迫害する人々を含みます。
 救いの御業、それはイエス・キリストによって始められます。しかし、それを引き継ぐのは、信仰と愛においてキリストと一体とされたキリスト者なのです。イエス・キリストの祈りに支えられながら、その御業はこれまでも、そしてこれからも継続されていきます。
 私たちもまた、教会と出会い、そこでキリスト者と出会い、その礼拝と交わりを通して、キリストと出会ってきた者たちです。これは本当に驚くべきことだと思います。私たちのような罪人が、主イエスの栄光を現す者たちとなるのですから。しかし、「あなたが下さった栄光を、わたしは彼らに与えました」という主イエスの言葉は、基本的にそういう意味なのです。そして、その栄光とは、父と子が一つであるように、私たちキリスト者と神の子であるイエス・キリストが一つにされることにおいて現れるものです。そこに、罪の赦しという、主イエスの命が捧げられた愛があることは言うまでもありません。

 十字架の愛を伝える教会

 主イエスは、「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」と祈られます。ここに「愛」という言葉と共に「完全に一つになる」とあります。これは「一つにおいて完成される」とも訳される言葉です。「完成する」とは、四節では、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」「成し遂げる」と同じ言葉です。この言葉は、イエス様の十字架の場面で出てきます。イエス様が、世の罪を取り除く神の小羊として十字架で死ぬ、それはまさに神の救済の御業が成し遂げられた、完成された業です。この業を通して神の栄光が現され、その十字架の死による救いを信じる者たちに与えられるのです。何故なら、信じるとは知ることであり、そして愛することなのですから。その知ること、信じること、愛することにおいて、つまり、自分自身をキリストに捧げることにおいて、私たち信仰者はキリストとの一つの交わりの中に生かされるのです。そのキリストは、神様との交わりの中に生かされているのですから、私たちキリスト者も神の愛の中に生かされていることになります。そして、その愛で互いに愛し合うその交わりを通して、イエス・キリストがこの世に遣わされたメシア、救い主であることを知らせていく。神様が、私たちを愛して下さっていることを知らせていく。この二千年間、教会は、また教会に属するキリスト者は、まさに罪にまみれた歩みをしてきたと言わざるを得ないにも拘わらず、主イエスの祈りに支えられ、また清められて、神様の愛を、その現れであるイエス・キリストを伝え続けてきた。これは、否定しようもない事実なのです。皆さんも、今、そのことを意識しておられるわけではないでしょうけれど、こうしてイエス・キリストに対する一つの信仰をもって礼拝をしている姿を通して伝道しているのです。

 私たちの希望

 そういう私たちには確かな希望があります。それは、私たちの内にあるものを根拠とした希望でもないし、世の中の移り変わりに依存した希望でもありません。そういうものではなくて、主イエス・キリストを根拠とした希望です。
 主イエスは、こう祈って下さいます。

父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。

 「共におらせて下さい」
と主イエスは願われる。原文では、そのことを私は望みます、私は意志します、という言葉が使われています。明確に、主イエスの意志として、望みとして、主イエスと私たちが共に生きることを願って下さるのです。主イエスは、これまでひたすらに神様の意志を体現して来られたのだし、まさにこれからその意志を十字架の死において完全な形で成し遂げられるのです。そのイエス様が今、弟子たちをこれからもずっと共におらせることを望まれる。その願い、その希望は、神様によって必ず叶えられるものです。だから、私たちには希望があるのです。私たちのことをイエス様が願い、祈って下さっている。その願い、祈りは必ず聞き届けられると信じることが出来るから、私たちには希望がある。
 私たちは、どんな時も独りではないし、罪に堕ちることがあり、そこに裁きの苦しみがあっても、その究極的な裁きを既にその身に受けてくださったイエス様が、私たちを見捨てない。まさに責任を持って守って下さる。共に生きて下さるのです。そこに私たちの希望の根拠があります。
 そして、そればかりではありません。共に生きる私たちにご自身の栄光を見せて下さるのです。五節でも「世界が造られる前に、御許で持っていた栄光を与えてください」と主イエスは祈られます。「天地」も「世界」もコスモスという同じ言葉です。天地が造られる前から主イエスが神の御許で持っていた栄光、つまり、イエス様は神と共に生きておられた神であるということ、父・子・聖霊なる三位一体の独り子なる神としての栄光を見せる。そのことを、主イエスは強く望まれます。
 なぜなら、「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によってなった。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」という言葉で始まるこの福音書は、最初からこの栄光を見ることを罪人の究極の救いとして語り続けているからです。そして、イエス様の栄光を見るとは、信仰によって初めて可能なことですけれど、その栄光を見ることは栄光を与えられること、つまり体が贖われて復活の命が与えられることを意味します。信仰によって、新たに神の子とされた私たちの究極の希望は、そこにあるのです。

 祈り続けて下さる主イエス

 イエス様は、その救いに私たちを導き続けるために、「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が、彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようにするためです」と祈って下さるのです。
 神の御名とは、「わたしはある」という名であり、それは「わたしはあなたと共に生き続ける神である」ということであり、それはとりもなおさず、「わたしはあなたを愛し続け、あなたの罪を赦し続け、あなたを神の子として受け入れ続ける」という意味です。主イエスは、その名を、これからも私たちに知らせ続けて下さる。そのことを通して、私たちを信仰から信仰へと、希望から希望へと、愛から愛へと導いて下さるのです。そして、さらに、その私たちの遅々とした歩みを通して、今は神の御名を知らぬこの世の人々が、かつての私たちのように、いつの日か御名を知ることが出来るようにと祈って下さっているのです。

 神様の希望

 私たちは希望がなくては生きていけません。しかし、その希望は、私たちの中にはないし、この世の中にもないのです。つい先日も、街中の、くじ売り場の前を通りがかったら、「あなたの願いを宝くじに託して夢を買いましょう」とスピーカーから呼びかけられたりもしましたが、そういう願いが私たちの願いではない。そういう願いがあれば、私たちが生きていけるわけではない。私たちは、ヨハネ福音書の冒頭にありますように、言によって造られたものなのです。神によって造られた。そして、キリストに向けて造られたのです。だから、私たちが自覚していようといまいと、私たちの心の奥底では、まさに鹿が谷川を慕い喘ぐがごとくにキリストを求めている、その命の光を求めているのです。世の闇が深まれば深まるほど、私たちのその願い、希望は強まるのです。そういう私たちのために、神は独り子イエス・キリストを肉を持って生まれさせて下さり、独り子はその愛を十字架の死を通して現してくださいました。それは、私たちが自分の救いを願う以上に、神が、また神と一つである御子が、私たち惨めな罪人の救いを願って下さり、意志して下さり、望んでくださっているからです。
 私たちは本当に愚かにして頑なな罪人です。救いを求めつつ、拒絶してしまうのですから。光が来ても、闇を好んで闇の方に行ってしまうのですから。扉を開けて待っていても、いざ救い主が来て入ろうとすると扉を閉ざしてしまうのです。自分を明け渡したくないからです。自分の主人はあくまでも自分でいたいから。まさに、自己責任の殻の中に閉じこもり、自己閉塞状態になっている。多くの場合は、それで自己満足なわけです。だから惨めなのです。
 しかし、そういう惨めな私たちに拒絶され続けても、私たちを愛することをお止めにならない主イエスは、私たちのために祈り、その御業を成し遂げ、今も、神の右にあって執成しの祈りを捧げ続けてくださっている。そして、私たちは本当に幸いにも、この地上を肉を持って生きている今、その主イエスと出会うことが出来、悔い改めることが出来て、礼拝を通してその栄光を見ることが出来るようにされています。これはどんなに感謝してもしきれるものではありません。
 しかし、もちろん、今、私たちは天国の面影を遥かに映し偲んでいるのであり、御子の御顔もおぼろに見ているのです。まだはっきりと顔と顔を合わせて見ているわけではありません。けれども、私たちが信仰を持って礼拝生活を続けるならば、世の終わりの日、御子の再臨の時には、はっきりとその栄光を見ることが出来、復活の栄光に与ることが出来るのです。

 終末の希望

 ヨハネ福音書と極めて密接な関係にあるヨハネの手紙一には、私たちに与えられている希望に関して、こういう言葉があります。

御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。

 また、パウロは、イエス様と共に、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るようにされた神の子の希望に関してこう言っています。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。・・ "霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。・・・
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。


 この復活の御子主イエス・キリストに似た者とされるという栄光に向って、私たちは生きているのです。これこそが、私たちの希望です。そして、この希望をもってこの世を生きるとは、この世においてはホームレスとして生きるということです。天の住まい、父の住まいをホームとするからです。この世の住まいは通過点であって到達点ではありません。私たちの住まいは、今既にイエス・キリストと共に生きる所にあるのです。十字架の死を経て、復活し、今は神の右におられるイエス・キリストに霊において結ばれて、共に生きること、それこそがイエス・キリスト自身の私たちに対する願いであり、意志なのです。その願いと意志に信仰をもって応えるところに、いかなる悲しみをも上回る喜びがあり、いかなる絶望をも上回る希望があるのです。私たちは、その喜びと希望を、喧噪のなかに悲しみと絶望が覆い隠されているこの世に証しすることが出来ますように。特に、まことのホームを探しつつ、この世から捨てられ、自分で自分を見捨てざるを得ない心を抱えている一人でも二人でも、キリストの愛を伝えることが出来ますように、主イエスの名によって祈り願いたいと思います。

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