「わたしである」

及川 信

ヨハネによる福音書 18章 1節〜11節

 

こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

 エルサレムの部屋の中で


 私たちは何か月間も、イエス様の説教と祈りの言葉を聞いて来ました。それは一三章に始まります。エルサレムのある家のひと部屋の中で、イエス様は弟子たちと最後の晩餐をとり、その食事の席で彼らの足を洗いました。そして、そこでユダの裏切りを暗示し、こう言われた。
「事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。」
 さらに、サタンが入ったユダに向って、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と命じて、彼を部屋から追放しました。「ユダはパンを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」とあります。その直後に、イエス様は、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と弟子たちにおっしゃり、不思議なことを語り始めるのです。
「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることが出来ない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」。
 ここで、弟子たちが主イエスを捜すだろうと言われていることを覚えておいて下さい。
 そうおっしゃってから、「新しい掟」として、主イエスが弟子たちを愛したように互いに愛し合いなさい、と命ぜられるのです。それから、主イエスはずっとこの部屋の中で語り続け、そして祈り続けられました。

 外に出ると

 そうして、部屋を出た。もちろん、真っ暗な夜です。エルサレムは丘の上の街です。そこから東側の急な坂道を下るとキドロンの谷があり、そこは鬱蒼とした杉林で昼なお暗い谷であったと言われます。そこに出てくる「園」とは、他の福音書ではゲツセマネの園と呼ばれるオリーブの木が生い茂る園です。そこは主イエスと弟子たちのひそかな礼拝の場所であったのです。ユダヤ人の礼拝所をシナゴーグと言いますが、その言葉はここに出てくる「集まる」、シナゴーという言葉から来ています。主イエスは、しばしばそこで弟子たちに神の言葉を語り、また神に祈り、共に讃美を捧げたのです。今、その礼拝の場所が、ユダによる裏切りの場になります。しかし、実はそこにおいて、イエス様は真実に礼拝されるべき方であることが示されるのです。今日の説教は、そこを目指して進んでいくことになるはずです。
 ユダは、どこに行けば、イエス様がいるかを知っており、その場所に、一隊の兵士と祭司長やファリサイ派が遣わした下役たちを引き連れてやってきました。イエス様の弟子しか、イエス様を裏切ることは出来ません。ユダに率いられた兵士や下役たちは、松明やともし火、また武器を持って真っ暗な夜道をやってきます。その光は、夜の闇の中で煌々と輝いているのですから、はるか遠くからでも、一団がやって来ることは分かったでしょう。その気があるなら、夜陰に乗じて逃げることは出来たはずです。しかし、イエス様はまったく逆の対応をされます。

イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。

 イエス様は、ユダを部屋から追い出した時から、数時間後にはこうなることを既にご存知であり、だからこそ、「人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と宣言されたのです。ですから、逃げる理由は全くなく、むしろ、逆に、イエス様は前に進み出られる。神の栄光を現すために。そして、イエス様にとっては、分かり切ったことを敢えてお尋ねになる。

「だれを捜しているのか。」

   この言葉を、イエス様は二度繰り返し、さらに、「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」と言われました。「捜す」という言葉が三度も出てきます。そして、また「わたしである」という言葉も三度出てくる。この二つの言葉が、この個所のキーワードであることは明らかです。

 「わたしである」「わたしはある」

 「わたしである」
という言葉は、この文脈の中では、このように訳されるべきですけれど、原文では、エゴ エイミ、つまり「わたしはある」(英語では Iam)と訳される言葉です。これまでに何度も決定的な場所で、イエス様の言葉として出てきた言葉です。
 細かい説明をする時間はありませんが、神様は、紀元前一三世紀に、エジプトの奴隷になっているイスラエルの民を神の民として誕生させるべくモーセを遣わそうとされました。その時、モーセが神様の名前を尋ねたのです。「神が言われた」と言ったって、どの神か分からなければ、誰も納得しないからです。その問いに対して、神様は、「わたしはあってあるもの」「わたしはある、というものだ」とお答えになった。それは、「私はあなたと共に生きる神だ、生き続ける神だ」という意味だと思います。この言葉が、ヤハウェ「主」という名前のもとになったのですが、神様が名を告げることでご自身を現すことを、神の自己顕現と言います。
 ですから、イエス様が、「『わたしはある』という者だ」とおっしゃる時、それは「わたしは神だ」とおっしゃっていることになるわけです。そのことが、神は目に見えないということが大前提のユダヤ人には許し難きことであり、彼らはイエス様を捕え、殺そうとしているのです。それは一面から言えば余りに当然のことです。そして、イエス様も、その当然の成り行きをご存知の上で、これまでも「わたしはある」と宣言して来られたのだし、今ここでも宣言しておられるのです。

 捜す

 「捜す」
という言葉も簡単に振り返っておきたいと思います。この言葉が最初に出てくるのは一章です。イエス様の先駆者である洗礼者ヨハネが、イエス様を見ていきなり「見よ、神の小羊だ」という信仰告白をしました。「神の小羊」とは、もう少し丁寧に言えば、「世の罪を取り除く神の小羊」ということです。これも洗礼者ヨハネの言葉です。その言葉を聞いて、ヨハネの二人の弟子たちがイエス様に従いました。後についていった。その姿を見て、イエス様がこう問いかけます。

「何を求めているのか。」

 これは、「誰を捜しているのか」と基本的には同じ言葉です。その後、彼らはイエス様の招きに応えて、イエス様と一緒に泊まります。その結果、彼らは、「わたしたちはメシアに出会った」と信仰告白をする人間になる。そういうことが一章に記されています。
 そのことと全く逆の展開で「捜す」という言葉が何度も出てくるのが、七章から八章にかけてです。それは仮庵の祭りを祝うために、イエス様がひそかにエルサレム神殿に上った場面です。そこでは、エルサレムのユダヤ人、つまり、ユダヤ教の当局者が、イエス様を捕えようとして捜す、つまり犯罪者を見つけ出して処罰するためにイエス様を必死に捜すのです。しかし、その実、彼らは心の内奥においてはメシア、救い主を捜してもいる。しかし、イエス様は、その彼らに向って「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることができない」とおっしゃり、さらに「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われるのです。ユダヤ人は動揺して「あなたは、いったい、どなたですか」と尋ねます。イエス様の招待を捜しているのです。そこでイエス様はこう答えられます。
「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ・・が分かるだろう。」
 この言葉を聞いて、多くの人々が信じました。しかし、彼らは、主イエスの言葉の意味を全く理解していないのです。「人の子を上げる」とは、主イエスを十字架に磔にするということです。犯罪者として処刑することです。しかし、実はその時、主イエスが神であること、神の栄光を現すお方であることが明らかにされるのです。
 彼らのこの時の信仰は、そんなこととは何の関係もない、自分の栄光を求めているものであることが、イエス様によって暴かれていくことになります。そして、イエス様を信じた彼らは激しくイエス様を憎むようになるのです。そして、イエス様が最後に「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と言われると、人々は石を取り上げて、イエス様に投げつけようとする。その時、イエス様は身を隠して神殿の境内から出て行かれました。もはや、ユダヤ人の目には、イエス様の本質は見えなくなった。捜しても、見つけられなくなったのです。
 一章の弟子たちと七章八章のユダヤ人たち、イエス様をメシア、救い主であると信じ告白する者たちと、憎み殺そうとする者たちがここにはいます。その両方とも、イエス様を捜す、イエス様が誰であるかを知りたがることにおいては、共通しています。つまり、「捜す」という言葉と「わたしはある」という神顕現の言葉は、切っても切れない関係にある。それは、先週も言いましたように、人間はすべて神によって造られたが故に、その本性において神を求めるからです。この世に命を与えられた赤ん坊は、見えない目で、必死になって自分を抱きしめてくれる親を捜します。泣き声をもって捜すのです。「わたしがあなたの親だよ。安心しなさい。わたしがずっとあなたと一緒に生きるから」と言って抱きしめてくれる存在を本能的に捜すのです。それが人間です。

 求めているのに拒絶する人間

 神様は、「光あれ」という言葉から世界を創造されました。この光が命の源だからです。生物はすべて太陽の光がなければ生きてはいけません。しかし、年がら年中光だけが輝いていると生きてはいけない。闇もなければなりません。しかし、光あっての闇なのであり、闇だけでは命は存在しません。そういう光と闇の関係が、ヨハネ福音書を貫く一つの主題です。イエス様は命の光としてこの闇の世に来られたのです。それは誰もが必要としている光です。だから誰もがその本性において求めているものなのです。しかし、アダムとエバが、そうであったように、人は誰もが、自分が神のようになりたがるものでもあります。つまり、自分の光、自分の栄光を求めるのであり、神の栄光を求めることをしない。自分が讃えられることを求め、神が讃えられることを求めない。それが、光を求めつつ、光を拒絶するという矛盾した行為となって現れてくる原因です。光が来たのに、闇を好んで光の方に来ない。それが既に裁きとなっていると、主イエスは三章の段階でおっしゃっています。
 主イエスが「わたしはある」と言える唯一のお方であることを信じること、それが光の子となる唯一の道であり、その信仰を拒絶する時に、人は「自分の罪のうちに死ぬことになる」のです。しかし、こんなことを言われて気分がよい人はいません。気分を害するのは当然のことです。そこで、人々は、主イエスを抹殺しようとする。これは、私たちにおいてもよく分かることです。私たちは絶えず、自分の栄光を求め、自分の主人は自分であることに固執することによって、主イエスを抹殺しているからです。一八章以降に登場する人々、躍起になって主イエスを殺そうとするすべての人々は、私たちのことでもある。それは明らかなことだと思います。しかし、これまでずっと言って来たように、私たちキリスト者は、主イエスの弟子でもある。主イエスに守られ、光である主イエスの許に集められ、主イエスを礼拝している者たちでもある。信仰を与えられる以前には、弟子ではなく、闇の世に属する者でしたが、今は、主イエスをメシア、「わたしはある」と言える唯一のお方であることを信じている者たちでもある。それもまた明らかなことなのです。
 しかし、その弟子である者の一人が、主イエスを裏切るユダなのです。また、ペトロなのです。イエス様のことを正しく理解せぬまま剣を振り回したかと思えば、その直後には「あの人のことは知らない」と言う人間です。私たちは、実に複雑な存在です。真実な光を求めつつ、自らが光になろうとして闇を深め、救いを求めつつ救い主を拒絶して自ら滅びを選んでしまう。そういうどうしようもない矛盾や乖離を内に秘めた存在です。まさに「自分のしていることが分からない」惨めな罪人なのです。

 問答の意味

 そして、今、夜の闇の中で、主イエスはその罪人に捕えられ、処刑されようとしている。そのすべてを主イエスはご存知であり、そこにおいて「栄光を受けた」とおっしゃっている。その主イエスが、二度も「だれを捜しているのか」と問いかけ、「ナザレのイエスだ」という返答に対して「わたしである」とお答えになっている。その問答の意味を考えなければなりません。
 この問答は、表面的には、イエス様の顔が分からない人々に「私がイエスだ、あなたがたが捕えたいと願っている者だ」と教えているということになるでしょう。だからこそ、「私以外のものは去らせろ」ともおっしゃっている。弟子たちは、この主イエスの言葉、命令によって、捕えられないで済んだのです。
 しかし、そういう表面的な意味だけがここにあるわけではありません。主イエスはここで根源的な問いを発しているのです。「あなたがたは、誰を捜しているのか?あなたがたは神を冒涜し、この世の秩序を破壊する罪人を捕えんがために捜していると思っている。しかし、本当にそうなのか?あなたがたは、実は真の神を捜しているのではないか。どうしようもない矛盾と乖離を抱えたままの惨めな罪人である自分を救ってくれるメシアを捜しているのではないか?それは、わたしである。」
 主イエスは、二度も、そのことを問い、答えるのです。人々に自分自身の内奥と向き合うことを求め、そして、主イエスに向きあうことを求めるのです。そこには、ユダも共にいました。

 地に倒れる

イエスが、「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。


 大勢の者たちが武器を持って、たった一人の男を捕えるためにやって来たのです。イエス様は空手です。逃げもしません。しかし、そのイエス様が「わたしである」「わたしはある」と宣言した時に、大勢の男たちが一斉に後ずさりして地面に倒れてしまった。驚くべき光景です。これは、神の現臨に触れた時の人間の反応です。神が目の前にいますことが分かった時、人は平然と立っていることなど出来るものではありません。
 「地に倒れる」とは、「ひれ伏す」とも訳される言葉です。あのラザロの姉妹であるマリアが、イエス様の足元にひれ伏して、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った、あの場面に出てくる言葉でもあります。死の力にも勝利するお方が目の前に現れた時の畏怖の姿、礼拝の姿がここにはあります。しかし、その同じ言葉が、ここでは畏怖ではなく、恐怖を表す言葉となっています。彼らは、神の現臨に触れて圧倒されたのです。しかし、そこから礼拝に至ったわけではありません。主イエスは、再び「だれを捜しているのか」と問われました。けれども、彼らは、前と同じ意味で、「ナザレのイエスだ」と答えるのみです。「後ずさりする」とは、六章では、多くの弟子たちが、イエス様から「離れ去る」という言葉として出て来ていました。彼らは、「わたしである」に込められた真の意味を理解することができなかった、信じることができなかった。そして、拒絶したのです。その時、人間はイエス様を抹殺することになります。そして、自分の救いの道を閉ざすことになる。そんなことを自分がしているとは知らぬままに。
 今まで語って来たことからも分かりますように、ヨハネ福音書において示されるものは常に表層的なことと深層的なことが重なっており、相反する二つのことが重ねられていることもしばしばです。だから、そこにリアリティがあるのです。
 イエス様は神なのに人です。ナザレのイエスでありつつ「わたしはある」というお方なのです。イエス様は光ですが、その光は闇の中に輝き、闇を際立たせる光です。人は光を求めつつも光を拒絶します。礼拝するために地にひれ伏すこともしますが、地に倒れつつも拒絶することもします。剣で戦うのですが、「あの人のことは知らない」と言って逃げもする。礼拝する場所が裏切りの場所でもある。救いを捜しながら救いを拒絶する。そして、主イエスの栄光は、その死の中に現れ、神の力は人に捕えられる無力の中に現れるのです。

 地に落ちる

 興味深いことに、「地に倒れる」は「地にひれ伏す」、つまり、礼拝することを意味することは既に言いました。同時にこの福音書では、一粒の麦が「地に落ちる」という個所でも使われるのです。その三か所だけに出てくる言葉です。主イエスは、ご自身の十字架の死が間近に迫っていることを悟られた時、こう言われました。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

 この「地に落ちる」という言葉、これが「地にひれ伏す」「地に倒れる」と同じです。主イエスが地に落ちる、それは十字架に上げられて死ぬことです。しかし、その死は人の子の栄光であり、神の栄光を現す死なのです。何故なら、多くの実を結ぶことになるからです。これは一体どういう意味でしょうか。

 主が現れる時

 私は、今日の説教題を先週決めています。もちろん、御言を何度か素読した上で、心に浮かぶ言葉を題にするのです。その時、私は、やはり人々の「前に進み出て」「わたしである」と宣言される主イエスのお姿に圧倒される思いがしました。「わたしである。あなたのために地に落ちて死んだのはわたしである。その、わたしが今、あなたの目に前にいるのだ。」そう語りかけて来られるような気がしたのです。
 話が少し横道にそれるようですが、青山学院の短大の試験答案を読む仕事がありました。試験と言っても、前の週に、「光、愛、赦し、罪、自由、責任、イエス・キリスト」など、四か月間の講義で用いた言葉を巡って考えることを書きなさいと言ってあったのです。学生たちは一週間、毎回提出し毎回コメントを付けて返してきた授業感想レポートを読み返しつつ考えて来たのでしょう。最低千二百字を書くように指示してあったのですが、多くの学生がもっと多く書いてきたので、全部合わせると原稿用紙四五〇枚位を読むことになってしまい、一昨日まで掛かりました。しかし、非常に恵まれました。こんなに考えてくれたのかと感激しつつ読ませてもらったのです。何人もの学生の言葉に心揺さぶられる思いがしたのです。
 今日の御言との関連で心に響いたある学生の文章の一部をご紹介したいと思います。
 彼女は、神の愛と人の愛を比べて考えています。神の像に似せて造られた人間の愛は神の愛と同じなのか?と問題を提出するのです。そして、こう言います。

 神の愛と人間の愛は、私は違うものだと思っている。しかし、似ているところはあると思う。授業でも言っていたように、親子の愛は神の愛と似ている。失敗をしても赦して、迎えてくれる親の愛情は神の愛と似ていると思う。親は私たちを愛しているからこそ、私たちを怒るし、時には悲しむこともある。
 しかし、私たちは他者に対してどうなのだろうか。たとえば、犯罪者に対して、私たちは「愛」を持っているのだろうか。「愛があるから怒る」と言うのなら、犯罪者に対する「怒り」は「愛」なのだろうか。もし、そうなのだとしたら、なぜ死刑があるのだろう。人間が人間を裁いて殺してもよいのだろうか。そこに「赦し」はないのだろうか。
 私たちの他者に対しての「愛」は、神の「愛」とは違うと思う。そこには「赦し」がないと思うからである。イエス・キリストは救い主と言われ、私たちの世に来られた。そして、すべての人の罪を身に受けて十字架にかかり死んで下さったのならば、罪人というのはこの世には存在しないのではないか。仮にいたとしても、それを裁くのは神様なのではないかと思う。
 私は戦争を勉強するために、韓国に行き、焼き滅ぼされた教会を見たことがある。村の男たちを全員呼び、日本兵が和解するからと言って教会に集め、そして焼いたのだった。その教会は、今、新しく建て直されているが、その場所には『主よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているか、わかっていないのです』という聖句が残されていた。韓国の、その教会の人々は、その時のことを恨んでいないと言っていた。そして、私たちのために祈ってくれた。これこそが「神の愛」なのだと思う。
 人を「赦す」ということ、私たちが行うのはとても難しい。韓国の教会で話を聞いた時、「なぜ赦すことが出来るのか」と言う疑問がずっと心の中に残っていた。私ならきっと相手を赦せず、一生憎んで生きていくだろうと思っていた。しかし、今なら分かる。韓国の教会の人々が、日本人の行いを赦してくれていること、そして私たちのために祈ってくれているのは、それは私たちを愛しているからである。
 私たちの中にも、神と同じ愛は存在すると思う。ただ、私たちは目の前にある憎しみの心にばかり気を取られて、その存在を見失ってしまっているだけだと思う。「赦す」ということこそ、私たちが本当に行わなければならないことであると、この授業を受けていて気付くことができた。


 神の愛と人間の愛は、違う。それを知ることは大事なことです。しかし、「わたしはある」と言われる主イエスは、「わたしが愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という新しい掟を与えて下さった神です。その愛とは、ご自身が一粒の麦となって地に落ちることにおいて現れているのです。十字架に上げられることにおいて現れている。世の罪、つまり、私たち一人ひとりの人間の罪をその身に負って、代わりに父なる神様の裁きを受けて下さり、そのことを通して、私たちに赦しをもたらして下さった愛です。その愛で愛して下さるお方を、私たちは誰だって捜しているのです。捜し求めている。その方が、ある時ふっと、真っ暗な闇の中から前に進み出て来てくださって「わたしである」とその姿を現してくる。そういう瞬間がある。礼拝の時にも、家で聖書を読んでいる時にも、そういう瞬間がある。また、この学生のように、韓国の教会で十字架の言葉と出会い、キリスト者と出会い、学校の授業でキリストが語られるのを聞く時にも、そういうことがあるのです。「わたしだ。あなたの罪を赦したのは。自分が何をしているのかも分からぬままに、救い主を殺し、闇の中に帰ってしまうあなたを赦しているのは、わたしである。」そう、イエス様が語りかけてくる瞬間がある。その時、私たちは、それまでの自分のまま立っていることは出来ません。地に倒れるか、地にひれ伏すか、そのどちらかなのです。

 父よ、彼らをお赦しください

 また、先週の月曜日、私が湯河原に牧師研修会で出かけている時でしたが、会員のS.S.さんが、ご自宅で天に召されました。三月で九八歳になられる男性では最年長の方でした。そのS.さんが、私に提出して下さった書類に愛唱聖句を記して下さっていますが、それは「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたもゆるされる」という主イエスの言葉です。このルカ福音書に記されている言葉は、愛唱聖句としては珍しい言葉だったので、私の心の中にずっと残っていました。葬儀の時には、この言葉で説教をすることになるからです。そして、葬儀説教の中で語ったことですけれど、S.さんがこの言葉に出会ったのは、長い会社勤めの中で最も厳しい体験をしていた時期だと思います。その体験は、S.さん自身の言葉によると、「人間のあさましさ、おぞましさを見せつけられる」という体験です。人間社会の中に時に起こる凄まじい権力闘争があったのかもしれません。足の引っ張り合いがあり、裏切りがあり、騙し合いがある。そういう現実の只中で、自分自身もまた同じ人間として、あさましく、おぞましい罪を犯しつつ生きてしまっている。そういう時に、S.さんは、「人を裁くな。赦しなさい」という御言に出会ったのではないかと思います。
 そして、ルカ福音書において、主イエスは、ご自身を十字架に磔にし、罵倒する人々、「他人を救ったのだ、もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と罵倒する者たちのために、こう祈られるのです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」

 この主イエスに出会う。「わたしである。自分が何をしているかも分からぬままに罪を重ねるあなたのために身代わりに死んだのはわたしである。この十字架で死ぬわたしにおいてこそ、神の栄光が表れているのだ。それはあなたの罪を赦し、あなたに永遠の命の実を結ばせる栄光である。罪を悔い改め、わたしを信じなさい。」こう語りかけて来られる主イエスに出会う、そして地にひれ伏す。その時、ただその時にのみ、「人を裁くな、赦しなさい」という言葉を、その「新しい掟」を、私たちは生き得る者とされるのです。神の愛と人の愛が似る所は、この十字架の主イエスの前にひれ伏す所にしかありません。そして、そこに私たちの救いの場があるのです。十字架に磔にされたイエス・キリスト、そしてその死から復活し、今も「わたしはある」と言って、私たちの前に立って下さるこの方こそ、私たちが生まれた時から捜し求めて来た救い主だからです。
 私たちは、今日、本当に幸いなことですが、この救い主を礼拝するために集められてきました。私たちにとってのシナゴーグに集められてきた。そして、「わたしである」とおっしゃる主イエスの声を聞いています。ただただ御前にひれ伏し、「あなたこそ、私たちの救い主、メシアです。あなたこそ、私たちの罪をお赦し下さったお方です。ただあなただけを崇めます。ただあなただけを愛します。そして、あなたの愛で互いに愛し合います」と信仰と愛を告白することができますように、そして、その信仰と愛を生きることができますように祈ります。
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