「ひそかに話したことは何もない」

及川 信

ヨハネによる福音書 18章12節〜27節

 

そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。


 今お読みした個所は、二度に分けて読んでいきたいと思います。今日は、主に逮捕と尋問の場面に集中し、ペトロの否認に関しては次回に致します。

 ヨハネ福音書の独特さ

 ヨハネ福音書は、四つの福音書の中で独特なものです。他の三つの福音書で書かれていないことが沢山書かれ、その逆のこともたくさんあります。しかし、イエス様が逮捕され、ユダヤ人とローマ人の裁判にかけられ、十字架で処刑され、復活されて弟子に現れ、弟子たちをこの世に派遣する。その出来事だけは、四つの福音書すべてが書き遺しています。けれども、他の三つの福音書では、ユダが引き連れて来た人々は、祭司長や民の長老、また群衆です。つまり、すべてユダヤ人なのです。そして、まずユダヤ人社会の中での裁判、大祭司カイアファが議長を務める最高法院による裁判がなされ、ユダヤ教の信仰に照らして、イエス様の罪を確定し、死刑を確定するのです。つまり、ユダヤ人の信仰の中心であり、権力の中枢でもある「神殿を破壊し、三日で建てると本当に言ったのか」とか、「神の子であると自称したのか」と問い詰め、偽証人を立てて、神への冒涜者という罪を確定する。その上で、ローマの総督ピラトの所へ連れていき、ローマの法によって処刑させようとするのです。
 しかし、ヨハネ福音書では、ユダに連れられて来たのは、「一隊の兵士たち」であり、祭司長やファリサイ派から遣わされた下役たちです。この兵士たち、今日の個所では千人隊長までいますけれど、これはローマ帝国の兵隊です。ユダヤ人を支配するために常駐しているローマの兵士なのです。千人隊長だから千人の兵士を引き連れて来たと考える必要はないでしょうが、それなりの大物です。そういうローマ側の人間とユダヤ側の人間が同時にやって来てイエス様を逮捕した。そこにヨハネの特色があります。
 そして、その後のアンナスによる尋問に関しては、「弟子のことや教えについて尋ねた」とあるだけだし、この時の大祭司であったカイアファによる最高法院における裁判の場面は、ここでは省略されています。そして、この時、アンナスは明確な形でイエス様に罪を見出すことはしていないというか出来ていませんし、カイアファによる裁判の場面もなく、人々はイエス様をローマの総督ピラトの所に連れていくのです。ピラトが、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と尋ねても、彼らは、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言うだけで、何を根拠にイエス様を捕え、処刑しようとしているのかを、明確には言えません。そして、ピラトもまた、イエス様に処刑に値するような罪を見出すことができない。それなのに、主イエスはユダヤ人とローマ人の手に掛かって殺されていく。宗教的な罪人、政治的な犯罪者として処刑されていく。そのグロテスクなまでの滑稽さが、浮き彫りになっていく。
 ヨハネ福音書は、そういう人間の姿、ユダヤ人だとかローマ人だとか区別ができない、「人々」と記されるべき人間、あるいは、この福音書で多用される言葉で言えば「世」の罪の深さを描き出していると思います。それはつまり、私たちの姿なのです。昔の人々、昔のユダヤ人、昔のローマ人の姿ではなく、昔も今も変わることのない私たち人間の姿を、こういう形で描き出していく。それがヨハネ福音書の一つの特色だと思います。

 アンナス カイアファ

 さて、何故アンナスなのか。時の大祭司はカイアファなのに、まず舅のアンナスの所にイエス様を連れて行くのは何故か?また、その後、「大祭司」とだけ出てくる場合、それがカイアファなのかアンナスなのかよく分からない。そういう問題があります。その問題に今日は立ち入りません。しかし、アンナスとは後のユダヤ人にも非常に評判の悪い人物でした。大祭司を引退後も、自分の五人の息子を次々と大祭司の座につけ、また婿のカイアファもつけ、さらに孫の一人も大祭司に座らせるということをしたようです。つまり、引退後もキングメーカーであり続け、実は総理大臣よりも権力をもっている。そういう人物は世の東西を問わず時々出てきます。そういう人物だったから、兵士や下役たちはアンナスのもとにまずイエスを連れて行ったという面があるでしょう。
 また、一四節に、「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった」とあります。それは一一章に出てくる言葉です。イエス様がラザロを復活させるという決定的なしるしを行われ、多くのユダヤ人がイエス様を信じるようになりました。それはユダヤ教の当局者たち、つまり、当時の政治的な権力者でもある彼らにとって非常に危機的な事態です。そこで、彼らは最高法院を招集して議論しました。その時の様子が一一章四五節以下にあります。

そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

 彼らは、人々が神殿を中心とした信仰ではなく、イエス様を信じる信仰に変わってしまえば、自分たちの存在価値がなくなることを恐れているのです。また、そういう混乱に乗じて、ローマの支配権が今以上に強化されれば、かろうじて与えられている自治権も失い、何もかも失われてしまうことを恐れている。無理もない話です。そうやって滅びて行った国々や民族はたくさんあるのですから。
 そのように動揺する人々の中で、カイアファは冷徹な目をもっていました。彼はこう言ったのです。

「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」

 彼は、ユダヤ教のトップです。つまり、民全体の罪の赦しを神に祈り求め、そのための犠牲祭儀を捧げる立場であり、また民に神の御言を語り聞かせ、民が信仰によって生きることができるように導く立場なのです。しかし、現実の彼は、商売人であり、政治家なのです。
 既に二章に記されていることですけれど、イエス様が最初にエルサレム神殿に上った時に、境内で犠牲に捧げる動物を売っている商人や、お賽銭用に金を両替する商人を鞭で追い払うという過激なことをなさいました。当時として決して違法なことではないことに対して、イエス様が激しく怒られたのです。その怒りの理由の一つは、神殿の祭司たちが、そういう商売人から金を受け取ることで利益を得ていることにあります。つまり、祭司たちが神殿で商売をしている。自分たちの手は汚さないけれど、裏で金をせしめているのです。その元締めが大祭司なのです。アンナスは、引退してからも身内を大祭司に立て続けて。その元締めの地位を手放さなかったのです。そして、カイアファは、もはや大祭司でも何でもありません。形だけの祭儀を執行して献金を集め、裏で商売をして金を集め、宗教を利用して自分たちに有利な政治体制を維持しているだけの俗物です。つまり、自分たちに好都合なことは何かという観点だけで生きているのです。祭司として、神の御心は何か、なんてことは微塵も考えていません。

 私たちの現実

 これもまた悲しいかなよく分かる話です。実は、次回取り上げるペトロもそうなんです。人間は誰でも、自分にとって好都合なことだけを求めて生きているものです。日本の政治の世界でも、与党と野党が入れ替わっただけで、お互いに金に汚いと言い合いながら、「あんたにだけは言われたくない」と言っている。しかし、そんなことは、普通の家庭の中でもよくあることだと思います。私たちは誰も、カイアファのことを「堕落した宗教家」と言って断罪して済ませることは出来ないと思います。その裁きの基準で自分が裁かれることは明らかですから。

 人の思惑と神の計画

 しかし、ここでヨハネは、カイアファの言葉の後に不思議な説明を付け加えています。

これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

 この時既に、最高法院の決定は下されていた。それは、イエス様もご存知でした。そういうこともあって、ヨハネ福音書一八章では、カイアファの審問は省かれているのだろうと思います・それはともかくとして、イエス一人が死んで、自分たちが生き残る方が好都合ではないかという、カイアファのあの言葉が、皮肉なことに大祭司としての預言、いつか実現すべき神の言葉にもなっている。ヨハネはそう言うのです。そして、イエス様の死は、ユダヤ人に限らず、全世界に散らされている神の子たちを一つに集めるためのものなのだ、と言うのです。「神の子」とは、民族人種国籍性別の違いを超えた「信じる者たち」のことです。イエス様の死とは、カイアファが考えるようなものではない。そんなものを遥かに超えたスケールの出来事である、ということです。
 そして、その出来事が今、兵士と千人隊長、それに下役たちが、イエス様を捕えて、アンナスの所に連れて行ったことによってまさに実現し始めている。そのことを、ヨハネは私たちに告げているのです。

 権力者の恐れ

 アンナスは、「弟子のことや教えについて尋ねた」とあります。内容は書いていないので、確定的なことを言えませんが、危険な宗教の教祖を権力側の人間が捕まえた時、気になるのは、やはりその勢力です。弟子たちがどれくらいの数いるのか、それは狂信的な弟子なのか、教祖奪還のためなら死をも恐れぬ者たちなのか、街中でテロ活動などをするのか、今どこにいるのか、そういうことです。そういうことを屋敷の中で、アンナスがイエス様に尋ねているまさにその時、庭では弟子の筆頭であるペトロが、「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と詰問され、否定している。そのことについては、次回注目します。
 また、アンナスはイエス様の教えについて尋ねました。宗教の教義の中のどういう所が反体制的で危険なのか、何が人を惹きつけるのか?そういうことが気になるのです。
 しかし、イエス様はこうお答えになります。

「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。」

 これは本当のことです。十三章から十七章まで、イエス様は弟子たちだけに語って来られたと何度も言ってきましたが、それは信じて従って来る者たちに語らなければならないことがあったからです。つまり、世から憎まれ、迫害を受けても信仰に生きることができるように、語らなければならないことがあったのです。「教え」そのものは、それ以前に既にあらゆる機会に語って来られたし、ヨハネ福音書におけるイエス様の業はすべて公開の場で行われたものです。三人の弟子たちだけに見せるとか、そういうことはありません。

 公然とひそか

 「公然と話す」
「ひそかに話す」がキーワードになっています。そのことが最も顕著に出てくるのは七章です。そこは、仮庵の祭りを祝うために、イエス様がエルサレム神殿に上った場面です。その時既に、イエス様を逮捕しようとする動きはあったので、イエス様は人々の目には隠れて、つまりひそかに上ります。しかし、すぐに神殿の境内で公然と語り始めるのです。その姿を見て、エルサレムの人々が「これは、人々が殺そうと狙っている者ではないか。あんなに公然と話しているのに何も言われない。議員たちは、この人がメシアだと認めたのではなかろうか」と訝しがるほどでした。
 その祭りの中で、イエス様は「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とお語りになり、また、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と宣言され、「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とまで言われました。
 ある意味では、これでイエス様の「教え」のすべてを言い切ったとも言えるのです。そして、イエス様は、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきり(公然と)そう言いなさい」と迫るユダヤ人に対して、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える」と言われるのです。

 キリスト教を信じる?キリストを信じる?

 お分かりになるでしょうか。世に宗教という言葉があり、キリスト教という言葉もあります。私たちキリスト者は、そのキリスト教を信じていると一般には思われています。あるいはキリスト教の「教え」を信じていると思われている。皆さんもひょっとしたら、そんな風に思っておられるかもしれません。しかし、イエス様が公然とお語りになっていることは、結局のところ、イエス様が神から遣わされた神であるということであり、それはいわゆる「教え」でも何でもないのです。現実なのです。イエス様が神である、命の水である、闇に輝く光である、「わたしはある」と言える方である。この方を信じる、ただその時にのみ、人は神との交わりの中に生きる者とされる、つまり、肉体の死を超えた永遠の命に生きる者とされる。永遠の愛の交わりに今既に生きる者とされるのです。愛なくして命はないし、愛の交わりの中にない命など、地獄のようなものです。生きるだけ辛いものです。
 イエス様と出会ってしまう、イエス様の声が迫ってくる、目には見えなくとも、今ここで私に語りかけてくる。その言葉は決してこの世の人間が語れるものではありません。それはまさに魂の渇きをいやしてくれるものであり、真っ暗な闇の中で自分がどこにいるのかも、どこへ向かって行ったらよいのかも分からず、沈み込んでいる時の命の光です。そういうものとして聞こえてくる。そういう主イエスの言葉との出会いにおいてしか、イエス様をキリストと信じるということは起こり得ません。ですから、私たちはキリスト教という教え、教義とか教理とか戒律とか愛の勧めとか、そういうものを学んで、理解し、納得して信仰の道に入ったのではないし、もしそうならそんなにつまらないものもないのです。私たちの信仰とは、いつも新たに眼前で語り給う主イエス・キリストへの応答なのです。宗教を信じているのではありません。たとえそれがキリスト教と呼ばれるものであっても、私たちは宗教を信じているのではない。宗教を愛しているわけでもない。キリスト教が私たちを愛しているわけではないでしょう。キリストが、私たちを愛して下さっているのです。だから、私たちはキリストを信じ、愛しているのです。そこから生じるすべてのことを、外から見て定義づけようとする時、それを宗教と呼んでいるのであって、宗教が先にあって、私たちはその宗教に帰依しているわけではありません。キリストを信じて生きているのです。

 分ける言葉

 私は今日も、聖書の教えを語っているのではなく、神が語りかけてくる言葉を語っている。特に今日の個所の場合は「わたしはある」という方、イエス・キリストの言葉を間近で聞いて、そして語っているのです。そして、その言葉は、主イエスの時代から今に至るまで、聞いたすべての人が聞いた時に信じるわけではなく、絶えず信じる者と信じない者の区別を作り出す言葉でもあります。つまり、イエス様に養われる羊と、そうではない羊がいるのです。イエス様によって永遠の命を与えられる羊と、イエス様を信じないが故に、自分の罪の内に死ぬことになる羊に分かれて行く。
 もちろん、これは確定的、固定的な現実ではありません。いつも新たな現実です。私たちの誰も、礼拝に来たその日にイエス・キリストと出会って信じたわけではないでしょう。聞けども聞かず、見れども見ず、悔い改めることのない時がしばらくは続いたはずです。しかし、だからと言って、イエス様の羊ではないと言われ、永遠に捨てられたわけではありません。ある時、ふっとイエス様の愛が伝わってくる。そして、イエス様を愛している自分がいることが分かる。そういう愛の芽生えを体感する。そうやって信仰の道に入ったはずです。
 しかしまた、これとは逆に、愛の芽生えから恋愛時代を過ごした後に結婚生活をする中で、当初の新鮮な愛は消えてなくなり、マンネリ化し、惰性となっていくということもまたありますし、さらには家庭内別居とか離婚とかに移っていく場合もある。信仰を告白して洗礼を受けたキリスト者がすべていつも新たにキリストの愛に心打たれ、キリストを愛する生活を続けているならば、日本のキリスト者の人口は今のようではありませんし、礼拝出席者の数も今とは比較にならないものであることは明らかなことです。残念なことに、多くのキリスト者が、世間において「あなたは弟子なのか」の問いに「違います」と答えているのです。弟子であることが最も典型的に現れるのは、主の日に礼拝を守ることですから。この世の付き合いや、この世の習わしに従って、礼拝を守らないということは、自分がキリストの弟子であることを否定していることだし、それはキリストの愛を最早必要としないと言っていることと同じです。しかし、それでもキリストがそういう者たちを捨て去ることがないが故に、私たちには希望があるのです。私たち自身の中には希望などありませんが、キリストの愛が尽きないが故に希望があるのです。

 裁かれるべきはどちらか

 話を戻します。先週から言っていますように、イエス様が自分が何者であるかを明言されるたびに、イエス様の身に危険が迫ります。特に「わたしはある」という宣言は、人間による神顕現の言葉ですから、それだけで神への冒涜者として裁かれるべき言葉です。しかし、そういう言葉を、主イエスはこれまで公然と語って来た。恐れることなく語って来たのです。そして、先週の個所を見れば分かりますように、主イエスを捕えに来た大きな一団が、主イエスが前に進み出て「わたしである(わたしはある)」とおっしゃった時に、皆一斉に後ずさりして、地に倒れたのです。圧倒的な権威をもって罪人を裁くべきお方は、主イエスの方なのです。私たち罪人こそ、主イエスを前にして恐れおののくべき者たちなのです。しかし、その主イエスが今、人間の手によって捕えられ、裁かれようとしている。その時、こうおっしゃるのです。

「なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々が、わたしの話したことを知っている。」

 わたしの話したことを知っている


 先週、私が講義に行っている短大の学生が試験の答案として書いた文章を紹介しました。その生徒に限らず、ほとんどすべての学生の答案に私は感動しました。その理由はいくつかあるのですが、その一つは、「まさに私は講義の中でこういうことを話した」と分かったからです。彼らは、私が話したことをちゃんと聞いている。その言葉を正確に書くことができる。そして、その上で、これもまた私が求めたことですが、「私はこう思う」という自分の意見を書いている。そのことを知ることができて、私はとても嬉しかったのです。私と意見が同じとか、考えが同じとか、そういうことを喜んだのではなく、ちゃんと聞いて理解し、その上で、自分の意見を言う学生が多かったことを喜んだのです。だから、私は、皆さんから「先生は短大でどんな話をしているのですか」と尋ねられたら、「この答案を読んでください。これを読めば、私が何を話しているかがよく分かります」と言えます。
 そういう意味で言えば、私が毎週語っている説教も、主イエスがお語りになったことがよく分かるようなものでなければならないのです。イエス様が、私の説教を聞いて、「この人の説教を聞けば、私が何を語ったかがよく分かります」と喜んで言って下さるようなものでなければならないのです。そのことは、いつも意識しています。私の説教の聴き手は、皆さんだけではありません。私は皆さんにだけ向かって語っているのではない。いつも、「これでいいですよね、イエス様。私はあなたが語ったことをちゃんと語っていますよね?」という思いを持って語っています。確信をもって語っているという面と、尋ねながら語っているという面があります。
 また、私の説教が、たしかに主イエス・キリストが語っていることを語った説教であり、それを聞いて皆さんが信仰をもって応答するならば、皆さんの信仰生活のすべてを通して、イエス・キリストが何を語ったかが明らかになっていかねばならないはずです。それが応答、答案というものです。

 見よ

 新共同訳聖書では、しばしば省略されてしまうのですが、「その人々が、わたしの話したことを知っている」とおっしゃるその直前に原文では「イデ」という言葉があります。それは注意を喚起する言葉で、時に「見よ」と訳されます。英訳聖書の中にはbeholdとかindeedという訳語を当てているものもあります。「よく見て下さい」「たしかに」という感じでしょう。悲しいかな、イエス様がそう証言しているちょうどその時、壁一枚外の中庭で、誰よりも多く、またそば近くでイエス様が話したことを聞いて、よく知っているはずのペトロが、イエス様のことを知らないと言っている。イエス様が、「真っ先に弟子のペトロに聞いてくれ、彼なら私が話したことを誰よりもよく知っている男だから」と言いたいはずのペトロが、イエス様の弟子であること、イエス様の話を聞いてきたことを否定しているのです。そのグロテスクな人間の姿、その皮肉(アイロニー)の深さを思わざるを得ません。

 好都合

 最後に、そのグロテスクなアイロニーを逆転させていく、主イエスの御業を見たいと思います。
 先ほど、カイアファの言葉に触れました。彼は主イエス一人が死ぬことが、自分たちにとっては好都合なのだと言いました。たしかにそうです。しかし、ヨハネは、この言葉はイエス様がすべて信じる者の救いのために死ぬことを意図せずして預言しているのだと言いました。それは裏を返せば、ユダヤ教当局者の支配は崩れ去り、全世界にキリストの支配が打ち建てられていくということであり、カイアファは意図せずにして、自分たちの滅亡を預言したということになります。そして、現実に、主イエスの十字架の死から四十年ほどで、ローマの軍勢によってエルサレム神殿は完全に破壊され、以後、その地にユダヤ人の神殿が建つことはなく、今はイスラム教のモスクが建っているのです。
 彼が使った好都合という言葉、その言葉を、実は主イエスも一回だけお使いになっています。それは一六章七節です。そこで、主イエスはご自身が弟子たちから離れて父の許へ去っていくことを語り、そのことの故に、弟子たちの心が悲しみで満たされているとおっしゃいます。

 逆転

 そうおっしゃってから、こう続けられるのです。

「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」

 「あなたがたのためになる」
。これが「あなたがたにとって好都合だ」とも訳せる言葉です。弟子たちの心が悲しみに満たされるようなことが実は弟子たちのためになることなのです。カイアファ達にとって好都合だと思われたことが、実は彼らにとって不都合なことになったのと逆のことが起こるのです。
 カイアファ達が、主イエスを罪人、また犯罪者として殺すこと、それはこれ以上ないほどの恥辱と不名誉を与えて殺すことです。イエス様を徹底的に「堕ちた偶像」にしてしまうことです。私たち人間は、偶像崇拝をしますけれど、その偶像が実は金に汚い、異性にだらしない人間だったと分かれば、掌を返したように扱うものです。そのようにして、ヒーローは一気に抹殺される。カイアファ達が狙ったことはそのことです。そして、それが弟子たちの心を悲しみで満たす一つの原因です。しかし、実はそのことこそが、弟子たちのためになる。弟子たちに好都合だとイエス様はおっしゃる。何故なら、その恥辱にまみれた不名誉な死は、実は栄光の死であり、父の許へ凱旋する死であり、さらに弟子たち、信じる者たちに弁護者としての聖霊を送るための死だからです。その聖霊が与えられる時、私たちはもはや独りではなく、主イエスと愛の交わりで結ばれ、何も恐れることなく、いつでも、どこでも、公然と主イエスへの愛と信仰の証しが出来るようになるのです。
 キリスト教とかキリスト教会とか呼ばれるものが今なお世界中に存在しているのは、主イエスの死と復活、そして昇天と聖霊が与えられることを通して、今もイエス・キリストが生きておられ、語っておられるからです。今日もこの説教を通してキリストが公然と、誰憚ることなく、何も恐れることなく語っている。だから、皆さんは聞き、讃美と祈りをもって献身するのです。その皆さんの中に今もキリストが生きているからです。
「わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
 それは、今のこの礼拝において起こっている出来事だし、私たちが、ここで言われるイエス様が何を話したかを「聞いた人々」なのです。だから、私たちはキリストを語る人々にもなるのです。私たちを通して、生けるキリストは、この世に証しされているのです。
 
ヨハネ説教目次へ
礼拝案内へ