「違う、わたしではない」

及川 信

ヨハネによる福音書 18章12節〜27節

 

 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。


 前回に引き続き、一八章一二節以下の御言を読みました。前回は、ユダヤ教の代表者であるアンナスやカイアファについて見ました。今日は、ペトロに注目したいと思います。しかし、前回も言いましたように、ヨハネ福音書は一方で登場人物の個性や特色を実に鋭く描き出していますけれど、他方で、すべての人間が同じであること、その本質において惨めな罪人であることを描いてもいます。ペトロとアンナスではあらゆる点で正反対なのですが、実は同じものに捕らわれている。そういう側面がある。今日は、その辺りから入って行きたいと思います。

 縛る

 この個所を読んでいて、少し気になる言葉は、「縛る」という言葉です。他の福音書には、ありません。マタイやマルコは、ただ「捕えて連行した」と書かれています。後にピラトに引き渡す時には「縛る」とありますけれど、ヨハネでは、「ユダヤ人たちの下役たちは、イエスを捕えて縛り、まず、アンナスの所に連れて行った」とあり、「アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った」とあります。どう見ても、「縛る」ことが強調されています。逃げる心配もない一人の男を、武装した大集団で捕えに来て、その場で縛り、尋問する間もずっと縛ったまま尋問し、そして、そのまま別の場所に移す。何故、こんなことをするのか?それは、圧倒的な権力を持っている人々の中に、イエス様に対する言い知れぬ恐怖があるからです。アンナスたちは、恐怖に捕らわれているのです。まさに束縛されている。縛られているのです。そういう意味では、実は、彼らこそが不自由なのです。尋問の場面でも、アンナスは不安と恐れをもってイエス様に尋ねていますし、イエス様は何も恐れることなく語っている。その様が、あまりに自由であり、自分を死刑にする権威を持った人物を前にしての恐怖も何もないものだから、下役の一人は腹が立ってしまい、思わず平手打ちを喰らわせる。これもまた、言い知れぬ恐怖に縛られた人間の、自分でも思いがけない行動でしょう。その行動を、被告人であるイエス様が、問い質される。こうなると、どちらが被告人なのか、どちらがその正しさを問われているのか分かりません。アンナスは、ますます恐怖に捕らわれ、有罪の宣告も何もせず、ただ「イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送る」ほかありません。彼は、恐怖に縛られたままなのです。

 恐怖心

 今、冬季オリンピックが開催中ですけれど、それに先だって、色々な競技をする選手の肉体に関する番組があり、スキーの滑降や回転に関するものを見ました。そこで非常に印象に残ったことは、人間の動作を支配しているのは、本人も自覚していない恐怖心だということです。時速百キロ以上で滑る滑降において、転倒することは時に生命の危険すらもたらす大事故です。そういう事故を経験しつつ、再び競技に復帰した人間が闘わねばならぬ相手は、他の選手であるよりも前に事故の記憶であり、そこから生じる恐怖心なのです。回転競技でも同じでした。自分ではコースを果敢に攻めているつもりでも、実は脳のある部分に恐怖心が残っており、その恐怖心が筋肉を動かして安全策に走らせる。靭帯を切るという大怪我をしたある選手は、「結局、自分を支配しているのは恐怖心なんだと思う」と言っていました。
 これは、そういう危険を伴うスポーツに限らず言えることだと思います。自分の立場や地位が奪われそうな時、生命の危機を感じる時、私たちは咄嗟に嘘を言ってしまうことがあります。たとえば、イジメというのは、ほんのちょっとしたことで始まると思います。そして、始まったら、誰もが自分が標的にならないように振舞います。「あなたも、あの人と親しかったんじゃないの?」と言われれば、たとえ親しかったとしても、咄嗟に「いや全然」とか言ってしまうのです。これは嘘と言えば嘘ですけれど、恐怖心に支配されている心にしてみれば、本当のことです。自己防衛本能で口は動くし、体も動くのですから。そういう恐怖心に縛られている人間が、ここに登場しているのだと思います。ローマの千人隊長、アンナス、カイアファ、下役、そして、ペトロです。

 恐怖心に縛られているペトロ

 一八章に入ってからの叙述は、まさに劇的なものですが、特にこの個所はその特色が著しいと思います。皆さんは今、講壇に向って座っていらっしゃるわけですが、私の右側にアンナスの屋敷があるとすれば、左側にはその中庭があると考えてよいでしょう。そして、左側の階段に中庭に入るための門があり、そこには門番がいるのです。現代でも、政府関係者の家の門前には警察官が立っています。それと同じです。その門番の許可がなければ中には入れませんし、怪しげな行動をとっていれば尋問されます。
 アンナスの屋敷の中で、イエス様はアンナスの尋問を受けている。しかし、そこで本当に自由なのは縄で縛られているイエス様です。イエス様には些かの恐怖もありません。尋問している方が恐怖心に縛られ、平手で打ったり、縛ったまま追い払ったりしている。その屋敷の壁一枚外の中庭で、弟子の筆頭であるペトロがやはり非公式な尋問を受けているのです。その時、彼を縛りつけているのは恐怖心です。そのことを、少しずつ遡って振り返っておきたいと思います。
 エルサレムの城壁の外、キデロンの谷底にある園でイエス様は捕えられました。真っ暗な闇の中を、手に手に松明や灯を持った武装集団が迫って来たのです。弟子たちは、その時既に恐怖のどん底に叩き落とされたはずです。しかし、イエス様は夜陰に乗じて逃げることもしない。黙って待ち受けている。そして、ユダに導かれた一団が周囲を取り囲んだ時、主イエスは前に進み出て「だれを捜しているのか」と問われました。彼らが、「ナザレのイエスだ」と答えると、イエス様は「わたしである」(わたしはある・エゴ エイミ)とおっしゃった。すると、その場にいた者たちは皆、その権威に圧倒されて、「後ずさりして地に倒れた。」イエス様の言葉だけで、ひっくり返ったのです。それはもう、心底驚き、脅えたということでしょう。
 その後、主イエスは、「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」とおっしゃった。それは「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」とのイエス様の言葉が実現するためです。しかし、その言葉を聞きながらも、恐怖のどん底に叩き落とされているペトロは、聞こえていないのです。パニックに陥った人というのは、何を言われても聞こえていない、聞いていないものです。だから、とんでもないことをやる。
 彼は剣を抜いて、大祭司の手下に斬りかかり、その右の耳を切り落とすということをしました。一見、勇敢な行動に見えますが、そんなことはありません。無謀なことだし、余計なことです。冷静に状況を判断し、また主イエスの言葉をちゃんと聞いていれば、こんな愚かなことはしなかったでしょう。彼は、他の弟子たちと共に、その場を去ればよいのです。主イエスは、そのことを願ったのですから。主イエスは、数時間前にも、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることができないが、後でついて来ることになる」とおっしゃっていたのですから。その言葉の前半が、こういう形で実現したことや、「後でついて来ることになる」とはどういうことであるかを心の中で考えつつ去って行く、あるいは、連行される主イエスを黙って見送ればよかったのだと思います。
 しかし、一三章の段階で、主イエスが弟子たちとの一時の別離についてお語りになったその時も、ペトロは心に恐怖を覚えつつ、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と言ったのでした。これも勇敢な言葉のようでありつつ、主イエスの言葉を何も理解していない人間の言葉であり、また自分という者を何も分かっていない人間の言葉なのです。主イエスは、言われます。
「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
 「わたしのことを知らないと言う」
は、「わたしを否む」が直訳で、今日の個所で二度出てくる「打ち消す」と同じ言葉です。とにかく、主イエスは何もかも分かっておられるのです。主イエスを取り巻く状況も、人間が恐怖心に縛られた時に、何を言い、何をするかも。すべて分かっておられる。その上で、またそうだからこそ、主イエスは人間を愛し、その極みまで愛されるのです。その愛は、この世の何ものにも捕らわれない、何ものにも拘束されず、縛られない、主イエスの自由から出てくるものです。そして、その自由は、父なる神様との一体性、分かち難く結びついた一体性によってもたらされます。主イエスは、弟子たちとの決別説教の最後に、「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が共にいて下さるからだ」とはっきりおっしゃいました。この父との一体性が、堅く結ばれた一体性が、人となった主イエスを一切の恐怖心から自由にさせる原動力なのです。そして、主イエスはいつも父の命じられたことをし、それ以外のことはなさらない。
 しかし、ペトロは「剣で斬りかかれ」と言われたわけでもないのに斬りかかり、「ついて来い」と言われたわけでもないのについて行く。斬りかかることも、ついて行くことも、すべて勝手にやっていることであり、また中途半端なのです。そして、そのすべてのことで、彼は自ら窮地を招くことになります。

 もう一人の弟子

 私は何年も聖書を読んできながら、これまで気づくことなく来てしまったのですけれど、ヨハネ福音書では、アンナスの屋敷の中庭に入ったのはペトロだけではありません。もう一人の弟子がいるのです。他の三つの福音書には、こんな人は登場しません。
 彼は一体誰なのか。その点については、学者たちも解釈が分かれます。ヨハネ福音書には、匿名の弟子、「イエスに愛されている弟子」(愛弟子)と呼ばれる弟子がでてきます。たとえば、最後の晩餐の席で、主イエスがユダの裏切りを暗示された時、ペトロはイエス様のすぐ隣で食事をしている愛弟子に合図して、誰のことを言っているのか尋ねるように合図をしたと書かれています。また、十字架の下に、イエスの愛する弟子と母マリアが立っていて、イエス様は、母に向って「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と語りかける場面があり、主イエスの墓に遺体がないことを知らされた時も、ペトロと、愛弟子が共に走って行く場面もある。さらに、後で語ることですが、復活の主イエスに「わたしに従って来なさい」と命ぜられたペトロが振り向くと、「イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた」とも記されている。しばしば、弟子の筆頭であるペトロと並んで登場し、時にペトロよりも優位な立場のようにも見受けられるこの弟子が具体的な個人なのか、それとも弟子の理想形なのか、十二弟子の一人なのか、違うのか、そういったことも実は不明です。そして、今日の個所に登場する大祭司の知り合いでもある「もう一人の弟子」とは、この愛弟子のことなのか。「そうだ」と言う人もいれば、「違う」という人もいます。私は、大体の場合は、私なりの理由をつけてどちらかに決断するのですけれど、ここに関しては、断定的なことは言えません。
 そもそもヨハネ福音書では、ひとりひとりの名が分かる形で「十二人」が選ばれ、使徒とされたという記述はありません。「十二人」という言い方はありますけれど、実際にはほとんど出てこないのです。最後の晩餐の時にもヨハネ福音書では、実際に何人の弟子がいたかは分かりません。この弟子もその部屋にいて、イエス様が逮捕される時も園にいたのかどうか、それも分からない。ただ文脈を素直に読めば逮捕の場面にはいたようにも見えます。でも、彼は「大祭司の知り合い」ですから、イエス様が逮捕されることは分かっており、アンナスの屋敷の外で待っていたのかもしれません。
 こういう所も、前回から言っていますように、実にヨハネ福音書的なのです。人間を立場で分けないのです。主イエスを死刑にする権力側の人間の中にも、主イエスの弟子がいる。イエス様の遺体を引き取るのもアリマタヤ出身のヨセフという人物ですが、彼はユダヤ人を恐れて主イエスの弟子であることを隠していた人です。また、そこにはかつてひそかにイエス様に会いに来た最高法院の議員であるニコデモもいました。こういう人々も、広い意味で「弟子」と考えられていると思います。ですから、ここに登場する弟子が、イエス様に愛されたあの弟子なのか、それとも違うのかはよく分からないのです。しかし、この弟子のお陰でペトロは庭に入れた、あるいは入ってしまった。それは確実です。そして、ここでも面白い書き方がなされています。
 他の福音書では、ペトロは「遠くから従って」中庭に入ったとなっています。それこそ夜陰に乗じてひそかに一人で入ったのです。でもヨハネ福音書では、「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った」とある。これは弟子が師に「従う」という言葉と同じです。
「この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは外に立っていた。」
 この弟子は、縛られて連行されるイエス様に従い、イエス様と一緒に堂々と中庭に入ったのです。でも、振り返るとペトロがいない。多分、ペトロが大祭司の知り合いの弟子に「私と一緒にいてくれ。そうでないと門番がいる中庭には入れないから」と頼んだのだと思います。しかし、いざ門番の顔を見ると怖気づいたのでしょう。彼は闇にまぎれて入ってこようとしなかった。いかにも中途半端です。これがペトロ、パウロとは違うペトロです。

  「大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番に話し、ペトロを中に入れた。」

 彼は、少なくともこの時、自分がイエス様の弟子の一人であることを隠してはいないのだと思います。弟子であっても、そのことが即座に身の危険を意味するものではないことを、主イエスの言葉を通して知っていたのかもしれません。理由はよく分からないけれど、彼は恐怖心に縛られてはいない。その彼が、「自分の友人だ」とか言ってペトロを中に入れるように交渉したのでしょう。門番の女性は、了承した。しかし、庭の外は暗がりですが、中では炭火がたかれていて明るく、その光に照らされてペトロの顔がはっきりと見えたのです。その時、門番の女性は、「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と言った。「あなたも」と確かに言っているのですから、先に入った男が大祭司の知り合いでありつつ弟子の一人であることを知っていたということだと思います。しかし、ペトロは、そのことを知られてはまずいと思っていた。それだけは知られては困ると思っていた。彼はここで「弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」と同じ人間になっていたのです。そういう恐怖に縛られている時、「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と言われた。彼は思わず、「違う」と言いました。

 違う わたしではない

 直訳すれば、「わたしではない」です。主イエスは、一団に取り囲まれた時、「わたしである」(わたしはある。エゴ・エイミ、I am.)と言われました。ペトロは、その否定形のウーク エイミと言った。Iam not.です。主イエスも二度、「わたしである」と言い、ペトロも二度言うのです。そして、三度目は、多分、違う言葉で自分がイエス様の弟子であることを否認した、打ち消したのです。
 まさにその時、屋敷の中でイエス様が尋問を受けており、「わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている」とおっしゃっているのです。その時、誰よりも長く主イエスと共に過ごし、その話を聞いてきた弟子の筆頭であるペトロが、そして、主イエスのためなら「命を捨てます」と言っていたペトロが、「わたしではない。わたしは何も知らない。あの人の話を聞いたこともない」と言って、主イエスを否認し、そして何をしたか。自分自身を否認したのです。主イエスの弟子である自分を打ち消した、抹殺したのです。恐怖に縛られていたからです。
 ペトロは、その恐怖に縛られつつ、その場に留まりました。慌てて逃げれば、もっと怪しまれると思ったのかもしれません。すると今度は複数の人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と尋問する。彼はまたもや、「違う」「わたしではない」と打ち消しました。「打ち消す」とは、単なる心の動きではなく、公の証言として否認することです。さらに、まずいことに、イエス様が捕まる場にもいて、ペトロに耳を切り落とされたマルコスという男の身内の者が、この場にいたのです。ペトロにとっては、全くの想定外のことです。彼は、自分がやった浅はかな行動を悔い、また恥じたでしょう。マルコスの身内の男は、「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」と断言しました。これは直前の事件の目撃証言ですから、もうどうしようもありません。
 しかし、ペトロは、そこでも否認したのです。完全に打ち消した。主イエスとの交わりに生きた事実を捨てた。弟子である自分を拒絶し、ある意味自分の記憶からも抹殺しようとした。しかし、そうすることによって、彼は、自分の存在そのものを否認してしまったのです。神に属している自分を捨て、その命を捨て、この世に属している自分に帰り、肉の命を拾おうとした。それが、人間の罪とその結果としての死なのです。私たちは、自分の命を救おうとして、実は捨てる。この世に縛られ、恐怖に縛られ、自己防衛と自己保存のために言葉を使い、行動することで、自分としては安全策を取っているつもりで、実は目指しているゴールとは反対の方向に滑り落ちて行くのです。罪の支配の中にいる限り、その束縛の中にいる限り、そういうことになっている。それは偶然ではなく、必然なのです。

 主イエスの言葉の実現

 ペトロが、その必然としての死に滑り落ちた時、主イエスがおっしゃった通り、鶏が鳴きました。主イエスの言葉が実現したのです。主イエスの弟子としての彼は、死んだのです。彼は主イエスのために命を捨てたのではなく、実は自分のために捨ててしまった。主イエスとの交わりの中で縛られている自分を捨てることで、その縛りをなくしてしまうことで、主イエスから与えられる命を捨ててしまったのです。そして、そのことを主イエはご存知であり、預言しておられました。ヨハネだけが、この時、ペトロが激しく泣いたことを書きません。ただ「鶏が鳴いた」ことだけを告げて、ペトロの内面にではなく、主イエスの預言の実現に焦点を当てています。
 しかし、主イエスの預言は、それだけではありませんでした。主イエスは、「主よ、どこへ行かれるのですか」と問うペトロに対して、「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついて来ることになる」とおっしゃったのです。この言葉は、主イエスの予想ではありません。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう(打ち消すだろう)」が、主イエスの単なる予想ではないのと同じように、「後でついて来ることになる」も予想ではありません。これは預言であり、必ず実現することです。そして、主イエスはその言葉の実現のためにこそ、十字架の死と復活に自ら進んで行かれるのです。そういう意味で、「あなたは今ついてくることはできないが、後でついて来ることになる」には、イエス様の明確な意志が込められていると思います。
 そして、その意志を実行に移すのは、主イエスが世の罪を取り除くために十字架の上で肉を裂かれ、血を流され、葬られ、日曜日の朝復活された後のことです。主イエスは、生ける屍のように真っ暗な部屋に閉じこもる弟子たちにご自身を現されました。それはまさに死の闇が支配する墓の中に命の光が入り込み、死臭漂う部屋の中に、命の息吹が入り込んでくるという現実です。弟子たちは、主イエスを見て喜びました。主イエスは、彼らに命の息である聖霊を吹きかけつつ、罪の赦しの福音をこの世に宣べ伝えるべく派遣されます。罪と死の必然を信仰と命の必然に逆転させる使命を、ペトロを初めとする弟子たちに与えられるのです。弟子であることを自ら捨て、否認した彼らを、主イエスは再び、いや新たに弟子として受け入れ、語りかけ、息を吹きかけて下さるのです。今日もそうです。私たちもまた、ペトロを初めとする弟子たちと同じ歩み、恐怖に縛られ、パニックになり、余計なことをし、すべてが中途半端な歩みを繰り返している者たちなのですから。

 三度の尋問、任職

 ヨハネ福音書の二一章は、付録として書き加えられた部分だと思います。この部分が加わったことによって、この福音書はさらに深い書物になったことは間違いありません。最初にティベリアス湖における漁の場面が出てきます。この部分についての話は省略します。しかし、その最後で、主イエスが提供する食事の場面があります。主イエスが命じた通りに漁をすることで大漁に恵まれた後、復活の主イエスご自身がパンと魚を弟子たちに配られました。その時は、弟子たちは皆、目の前にいるのが、主であることを知っていました。つまり、主イエスが復活され「神の子」「メシア」であると信じていたのです。だから、ここは初代キリスト教会の聖餐礼拝を象徴的に表しているのです。
 その食事の後、つまり礼拝の終わりに、主イエスはペトロにこうお尋ねになる。これは一つの尋問と言ってよいと思います。

「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」

 ヨハネの子シモン、これは固有名詞です。彼が登場したのはヨハネ福音書の一章です。彼は、兄弟のアンデレによってイエス様に引き合わされました。その時、イエス様は、彼を見つめて「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(「岩」という意味)と呼ぶことにする。」岩はギリシア語ではペトロなので、彼はギリシア語が公用語の世界ではペトロと呼ばれるようになりました。しかし、そのペトロに向って、主イエスは最初に出会った時の呼び名で呼びかけています。ここで新たに彼を弟子として召し出しているのでしょう。それもキリスト教会の最も大きな責任を担う者として召し出そうとしている。その責任者に求められることは、誰よりも深く、強く、主イエスを愛することなのです。
 しかし、私たちが最も困惑するのは「あなたはわたしを愛しているか」と真正面から問われることではないでしょうか。相手が妻であれ、夫であれ、子どもであれ、親であれ、恋人や友人であっても、また私の場合、教会員の方から、「先生、あなたはわたしを愛していますか」と真正面から訊かれたらやはり困惑し、たじろぎますし、皆さんも私から、「あなたはわたしを愛していますか」と真正面から訊かれたら、どういう反応をされるのでしょうか。しかし、こういうことを尋ねることができるとすれば、それはその尋ねる方の人が心底相手を愛していなければならないと思います。自分も愛していないのに、相手に「あなたはわたしを愛しているか」と尋ねる資格はないでしょう。
 その点で、イエス様ほど、その資格を持っているお方はいません。自分の命を捧げて罪の赦しと新しい命を与えて下さり、自分を否認し、捨てた人間を認め、捨てず、再び弟子として招き、新たな命と使命を与えて下さるお方なのですから。その方に、私たちも、「あなたはわたしを愛しているか」と目を見つめて言われる。その時、ペトロも、私たちも、何度も愛を裏切り、否認した経験を持つ者としてたじろがざるを得ません。今や、「愛していない」とは言えない。愛している。しかし、「愛しています」と自分の愛を自分で確信して告白できるのかと言うと、激しい恐怖に縛られる時、自分の確信など木端微塵に砕かれてしまうことを肌身で知っている者として、なかなかそうも言えない。そういう中途半端な現実の中で、それでもすべてをご存知なのは主イエスご自身であると言う確信をもって、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えます。自分が自分を知る以上に、主イエスが自分のことをよくご存知である。そのことを信じ、その主イエスを愛している彼がここにいます。
 主イエスは、その彼に「わたしの小羊を飼いなさい」と言われる。伝道者となり、牧会者となれということです。こういった問答を、主イエスは三度繰り返されます。三度主イエスを否み、自ら弟子であることを否んだペトロに三度尋問し、そして、三度新たに任職をしている。ペトロが三度捨て去った立場に三度、主イエスはおつけになるのです。この主の憐れみ、愛を与えられずして牧師を続けられる人はいませんし、信徒を続けられる人もいないのです。
 そして、最後にこう言われます。恐ろしい言葉です。

「わたしの羊を飼いなさい。 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。


 つまり、主イエスに「行け」と言われるところに伝道に行き、「なせ」と言われることだけをなし、その結果、死ぬということです。しかし、その死は罪の結果の死、罪が招く必然としての死ではありません。信仰と愛の必然としての死であり、復活の望みが伴う死です。主イエスの十字架の死と復活に与り、その十字架の死と復活を証しする死なのです。それは、主イエスの十字架の死と復活、そこに現れた神の愛、栄光、永遠の命を証しする生にしっかりと結びついた死なのです。

 死んでも生きる命への招き

 主イエスは、ラザロを復活させる前に、死の別離にうちひしがれている姉妹のマルタに向って、こうおっしゃったでしょう。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」

 主イエスが、ペトロに「わたしに従いなさい」と言われたのは、この命への招きなのです。ペトロがなすべきは、アンナスの家に連れて行かれるイエス様にびくびくしながら従うことではなく、イエス様に帯を締められて、引っ張られていくことです。その帯の紐をもう決してほどかないこと。いつもイエス様との一体の交わりをして、ただイエス様の命令だけを行うことです。それがイエス様を愛すること、イエス様を信じること、イエス様の命を生きることです。それが私たちイエス・キリストの弟子に求められ、また与えられている現実なのです。
 私たちもこの世を生きる限り、「あなたはキリスト者の一人なのか」と尋ねられることがあります。このように誰でも分かる言葉によって問われることもたまにはありますけれど、様々な現実の中で、そのことは常に問われているのです。不正な扱いを受けている人を見て見ぬふりをするのは世の常識です。仲間だと思われたら自分も同じ扱いを受けるからです。そういう時も、「あなたはキリスト者なのか」と問われているのです。日曜日に遊びや行事に誘われる時だってそうです。そういう時に、「わたしです。わたしはキリスト者です。Yes I am」と喜んで告白をして歩めますように。この世における肉の欲望に従って歩むのではなく、主イエスに従って歩むことができますように。これが、私たちの最も深い祈りなのではないでしょうか。

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