「真理とは何か」

及川 信

ヨハネによる福音書 18章28節〜38節

 

 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。

 「人々」


 いよいよローマの総督ピラトによる裁判が始まります。今日も一九章の言葉を読みますし、来週は一八章の言葉を読みますから、一八章、一九章はよく読んで礼拝に備えて頂きたいと思います。
 「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った」とあります。
 ギリシア語では、主語を明記しなくても、動詞の形で行為の主体が男か女か、単数か複数かが分かりますから、強調をしない場合は、主語が書かれません。この個所もそういう書き方なので、複数の人間であることは分かりますが、それが「誰なのか」がはっきりしないのです。この先を読んでいくと、イエス様を連れて行った「人々」とは「ユダヤ人」です。しかし、その場合の「ユダヤ人」とは、民族としてのユダヤ人ではなく、一九章六節にありますように、むしろ「祭司長や下役たち」です。つまり、ユダヤ教の権威ある者たちです。しかし、ヨハネ福音書では、イエス様を逮捕した人々の中にローマの兵士である千人隊長も入っています。そういう意味で、「人々」とは、即座にユダヤ人、それも支配階級の人々と限定して理解するわけにはいかないだろうと思います。これまでに何度か言ってきましたように、ユダヤ人もローマ人も、神の民も異邦人も、主イエスを裁き、抹殺しようとしている。そういう消息を「人々」という匿名性は表しているようにも思います。

 「時」を示す言葉

 また、ここにわざわざ「明け方であった」と記されています。こういう「時」を示す言葉は、重要です。イエス様が弟子たちと最後の晩餐をとり、ユダが裏切るためにその家から出て行った時、それは「夜であった」と記されています。それは単に「夜であった」だけでなく、ユダの心、その行為が闇であったことをも暗示しているでしょう。そういう意味では、この「明け方であった」は、いよいよ闇の世界に光が輝き出すことを暗示しているとも言えます。
 この夜が明けた時に、主イエスはユダヤ人を支配しているローマ帝国の総督ピラトの所に連れて行かれたのです。そして、一九章一四節まで読むと分かることですが、その日は「過越祭の準備の日」です。「過越祭」とは、ユダヤ人にとって決して忘れ得ない出エジプトという救済の御業を覚え、神様を讃美する祭りです。エジプトの王のもとで奴隷であったイスラエルの民が、神に立てられたモーセを通して、エジプトから脱出し、シナイ山で律法に基づく契約を結んで神の民とされた。そのことを記念し続ける祭りです。彼らは、この祭りを継続することによって、自分たちが何者であるかを覚え続けたのです。その過越の祭りの「準備の日の正午ごろ」、主イエスは十字架につけられるために、ピラトから人々に「引き渡される」ことになります。その時刻とは、過越祭において食べる小羊が屠られる時刻、肉が裂かれ、血が流される時刻です。イスラエルの民は、この小羊の犠牲を通して救われていったのです。
 こういうヨハネ福音書の「時」に関する記述を通して、何が語られているのかと言うと、イエス様の十字架への道行きは、人々がどう思おうと、また何をしようと、神様の救済のご計画に基づく救いの御業なのだということです。人間が恐怖に縛られ、その欲望に従ってすべてのことを進めているように見えても、実は神の御業が着々と進行している。第二の出エジプト、罪の奴隷状態であった者たちを解放し、新しい神の民を創造し、その者たちを神の国、永遠の命に招き入れるための救済の御業が進んでいる。その事実、人間の目には見えない深みにおける事実を語っているのです。そういう意味で、「時」を示す記述を見逃してはなりません。

 イエスの言葉の実現

 その関連で言うと、三二節の言葉も注目しなければなりません。そこには、この福音書を書いたヨハネの注釈が記されています。

 「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。」

 俄かには、意味が分からない言葉です。前々回読んだ一八章九節にも、弟子が一人も捕えられないことに関して「イエスの言葉が実現するためであった」とあります。ここでも、人がどう思おうが、また何をしようが、神様が定めた時に従って、神の独り子、イエス・キリストの言葉が着々と実現していることが伝えられていました。
 しかし、「御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして」とは一体どういうことなのか。この個所は、ピラトがイエス様をユダヤ人に引き取らせ、彼らの律法に従って裁かせようとすることに対して、ユダヤ人が、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言ったことに対するヨハネの注釈ですから、よく意味が分からないのです。

 死刑に関して

 少しその問題を考えてみたいと思います。歴史的に、この時、ユダヤ人は人を死刑にする権限があったかなかったについては見解が分かれるようです。しかし、聖書に限って言うと、たとえば使徒言行録の七章には、初代のキリスト者であるステファノが、ユダヤ人の最高法院の裁判にかけられ、石打ちの刑で処刑されたことが記されています。有罪宣告や、死刑に処するという正式な宣言がなされたわけではありませんが、リンチや暗殺とは全く違う形ですし、「石打ちの刑」は宗教的な罪に対する処罰の方法です。そのことに対して、ローマ側からクレームが来たということは記されていません。
 また、同じ使徒言行録の一二章では、十二弟子の一人であるヤコブが、ヘロデ大王の孫にあたるヘロデ・アグリッパ一世(聖書では「ヘロデ王」として出てきますが)に剣で殺されたことが記されています。それは、ヘロデが、キリスト教会を憎むユダヤ人の歓心を買うための行為でした。そのことに対して、ローマの側が文句を言うことはなかったのです。つまり、相手がユダヤ人であれば、死刑にする、あるいは権力に物を言わせて殺すことは出来たのです。しかし、同じユダヤ人でも、パウロのようにローマの市民権を持っている者については、ユダヤ人だけの裁きで処刑することは出来ませんでした。
 そういう点から言うと、イエス様はガリラヤのナザレという田舎町出身のユダヤ人であり、この当時、ローマに対する抵抗運動を組織した訳でもなく、ローマにとっては危険な人物ではありませんでした。ローマの市民権を持っていたわけでもない。だから、ピラトは、そんな男を、ローマの法に従って裁く謂われはないと言っている。当然のことです。しかし、ユダヤ人の権力者たちは、何としてでもローマ人に処刑させたいと願っているのです。それは、何故か?

 「ユダヤ人」(人々)の恐怖

 いろいろ理由は考えられます。その一つは、彼らの恐怖だと思います。前回も語ったように、主イエスが「わたしはある」とおっしゃった時に、武装して主イエスを捕まえに来た人々が皆、その権威に圧倒されて「後ずさりして地に倒れた」のです。イエス様は、彼らにとって、そういう存在。「神がそこにいます」と感得させるような存在であったことは間違いありません。そういう存在だからこそ、抹殺したいし、しなければならないのだけれど、自分の手ではそれをしたくない。そんな恐ろしいことはない。ユダヤ人が信じる神など知らない異邦人に処刑はやらせよう。そう思ったでしょう。
 また、当時、多くの群衆はイエス様を歓迎していたのです。過越祭の五日前に、イエス様がエルサレムに入城される時、人々は、イエス様がベタニアでラザロを復活させたことを聞いていました。そして、祭司長たちがイエス様を殺そうとしていることも知っていた。しかし、そのイエス様が弟子たちと共に、過越しの祭りに合わせてエルサレムにやって来られた時、多くの人々は、今こそ来るべきメシア、「イスラエルの王」が来たのだと思って、大歓迎したことが一二章に記されています。
 それから僅か数日しか経っていません。また、ヨハネ福音書ではカイアファの裁判の時に、祭司長らが群衆を扇動したという記事もない。つまり、群衆の支持はイエス様に向いている。そういう状況の中で、自分たちの手でイエス様を宗教的な罪人として処刑することは、自分たちの地位を危うくすることでしかありません。だから、彼らはピラトに裁かせようとした。そういうこともあったでしょう。
 彼らは、どういう理由づけをしてでも、イエス様をピラトの手によって処刑したかったのです。その思いが、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」という言葉になって出てきていると思います。

 「ユダヤ人」(人々)の打算

 彼らがピラトの下にイエス様を連れて来た時、ピラトは、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言いました。ここで「罪」と訳された言葉は、法廷用語(カテーゴリア)ですけれど「訴えの内容は何か」という意味の言葉です。それに対して、彼らは「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言うだけです。明確な悪事、死刑にしなければならない悪事を言えないのです。しかし、その後の展開の中で、ピラトにとっての問題は、イエス様が「ユダヤ人の王」であるかどうかであることが明確になっていきます。その場合、それは純粋に政治的な意味です。イエス様がローマ帝国の皇帝に対抗する、あるいは反抗するような存在なのかという問題です。ユダヤ人たちは、誰もが大なり小なり、ローマ帝国の支配には大いなる反発を感じていましたし、ローマの宗教に基づく意味でも「神の子を自称する」皇帝など、反吐が出るような存在です。ピラトは、そういう反ローマ意識がユダヤ人の中に強くあることは承知していました。しかし、そのユダヤ人が、イエス様のことを、「王と自称する者」として訴え始め、「この男に罪を見いだせない」と言って釈放させようとするピラトに向って、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と言い募り、挙句の果てには「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」とまで言うのです。命がけで異教の民の支配に抵抗してきたユダヤ人が、この時ばかりは、異教の「神の子」であるローマ皇帝を王として戴くことに邁進する。人間とは、こういうものです。そういう文脈の中で、彼らは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言っているのです。
 しかし、それが何故、「御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」ということになるのか?それが問題となります。

 どのような死を遂げるか

 その問題を考えるために、イエス様が、ご自分の死に関してお語りになった言葉を二つだけ挙げます。
 一つは三章一四節の言葉です。その時既にイエス様はこう言われていました。

 「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

 ここでのキーワードは「上げられる」です。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」とは、旧約聖書の民数記に記されていることです。イスラエルの民は、出エジプトという救いを経験したにも拘わらず、他の神々に心を寄せるという罪を犯しました。その民に向って神は激しい裁きを下し、多くの者が死にました。しかし、神はモーセに青銅の蛇を作って旗竿の上に掲げるように命じるのです。その蛇を見上げた者は、罪を赦されて死の裁きを免れたと民数記には記されています。
 その蛇のように、人の子、つまり、神から遣わされたイエス様も上げられねばならない。それは、イエス様が十字架に上げられて死に、さらに復活して天に上げられることで、人を罪の支配から救い出し、永遠の命を与えるという救いの御業の暗示なのです。
 もう一つは、先ほど引用した一二章に記されていることです。エルサレム入城の際に、イスラエルの王、メシアとしてユダヤ人から大歓迎された後、イエス様はギリシア人(異邦人)がイエス様に会いたいと言っていると聞かされます。その時、「人の子が栄光を受ける時が来た。」「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とおっしゃり、さらにこう言われました。

 「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

 ヨハネは、ここでも注釈をつけます。

 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

 ここでのキーワードも「上げられる」です。主イエスが、十字架に上げられることによって、神の民ユダヤ人だけでなく、「すべての人」が、主イエスのもとに引き寄せられる。そういう救いの御業がなされる。
 先ほど、ユダヤ人がステファノを「石打ちの刑」で殺し、ヘロデはヤコブを「剣」で殺したと言いました。いずれも「上げる」わけではない。しかし、イエス様は、ユダヤ人によって罪人と断罪され、異邦人であるローマ人によって処刑の宣告がなされ、ローマの処刑方法、つまり十字架に上げられて殺されることになっている。そこで肉が裂かれ、血が流される。そのようにして、神の民ユダヤ人の救い主ではなく、この世のすべての人間の罪を取り除く神の小羊となる。そのようにして神の国の王となる。そのためにこそ、イエス様は人となった、肉をとったのです。そして、十字架に上げられ、死人の中から上げられ、天に上げられていく。そこにすべての人間のための救いの道があり、真理があり、命がある。ヨハネは、「御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」と注釈を付けることによって、ここでも人間が何を思い、何をしようが、神様の救いのご計画は実現に向かって進展していることを示しているのです。
 ユダヤ人も、ピラトもそのことを知りません。しかし、彼らはその意図とは裏腹に全人類に対する神の救いの御業の実現のために働かされているのだし、またその救いへと招かれてもいる。しかし、見れども見ず、聞けども聞かず、心を頑なにしているのです。自己保身から出てくる恐怖に縛られているからです。自由になれないのです。そして、それが人間、それが罪人です。私たちにも、よく分かる現実です。

 官邸の中と外

 前回も、アンナスの屋敷の中と外という対比がありました。今日の個所でも、そうです。しかし、違う所もある。ユダヤ人たちの律法では、異邦人に触れると汚れるとなっていたので、彼らはピラトの官邸には入りません。過越の食事を汚れなき身で食べるためです。しかし、今、神様は、実は、新しい過越しの羊を備えようとしておられるのです。それはともかくとして、ピラトはアンナスとは対照的に、何度も官邸の外に出たり、中に入ったりします。象徴的に言えば、神の世界と人の世界、聖なる世界と俗なる世界に出たり入ったりして右往左往しているのです。そして、中では神の声を聞き、外では人の声を聞いている。そして、両者の間で迷い、煩悶し、苦しみ、結局、俗世界の声に聞き従うことになります。
 彼は、問います。

 「お前がユダヤ人の王なのか。」

   彼は、既に、情報を得ていました。ユダヤ人が、イエスという男を王にしたがっていると。また、大祭司や祭司長らはそのことを恐れていると。しかし、目の前に連れて来られたのは、縄で縛られたただの男なのです。彼は、意外だったでしょう。そして、生かすも殺すも、その権限を握っている自分に対して、反抗的な態度をとるでも、敵意に満ちた目で見るわけでもなく、静かに、しかし、あまりに堂々と立っている男を見て、なにか空恐ろしいものも感じただろうと思います。しかし、もしこの男が「ユダヤ人の王」となりたがっており、それがローマの支配に対する抵抗運動に繋がるのだとすれば、それは総督として断じて許すことができないことですから、いきなり本題に入ったのです。
 しかし、イエス様は逆に問うのです。「それは、あなた自身の言葉なのか、ユダヤ人から聞いた言葉なのか?」その違いは、やはりそれなりに大きいからです。ピラトは苛立ちます。何の恐れもなく、自分を尋問するこの男に対して苛立ちを覚える。そして、「お前の同胞が、お前を訳も分からぬことで訴え、わたしに引き渡したので、仕方なく、こんな朝早くから、つきあってやっているんだ。いったい何をしたって言うんだ!」と言います。
 イエス様は、ピラトの気持ちを理解します。でも、彼がイエス様の言うことを理解できないであろうことを承知の上で、最初の質問、つまりイエス様が王であるか否かについてお答えになる。

 「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

 最初の「この世に属していない」とは、「この世からのものではない」が正確な訳です、そして、最後の「この世に属していない」は、「ここからのものではない」が直訳です。問題は「出自」、どこから来たか、出身はどこか、土台は何か、が問題なのです。

 「王」を巡って

 日本語では、「王」「国」は関係があっても違う言葉に響きますが、ギリシア語では、「王」はバシレウスで「国」はバシレイアですから、根は同じ言葉で、「支配」を意味します。イエス様はここで、たしかに自分の王国、自分が支配する領域があることをお認めになっている。そういう意味では、イエス様はたしかに王なのです。キリストという言葉の持つ一つの意味は王ですから。しかし、その王であるイエス様の支配は、地上の王たちの支配のように、この世の中にある、少なくともこの世だけにあるものではない。それをはるかに超えている。そういう意味では、ピラトが考えるような王ではない、と言っていることになります。もし、彼が考えるような王であるとすれば、それはローマの皇帝と支配権を巡って競合することになりますから、イエス様も武装し、部下たちが戦うはずです。しかし、イエス様はそんなことはなさりません。
 ピラトは、イエス様の言っていることがさっぱり分からない。当然です。だから、「それでは、やはり王なのか」と結論を急ぐ。それに対して、イエス様はこうおっしゃいます。

 「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」

 「今やユダヤ人の考えではなく、あなた自身が、わたしが王としての自覚を抱いていると考たことは分かる。そして、たしかに、わたしは王だ。しかし、私はあなたが考えるような意味で王なのではない。」そういう意味でしょう。

 真理を巡って

 そして、続けてこう言われるのです。

 「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 ここでも、「真理に属する人は皆」とは「真理からの人は皆」が直訳です。
 先週、イエスを捕えたり尋問したりする方の人間の方が恐怖に縛られている、自由ではないと言いました。そして、縄で縛られているイエス様の方が自由だ、と。それは実は真理と関係あることなのです。
 「真理」という言葉は、他の福音書にはほとんど出てきませんが、ヨハネ福音書には一章から出てきますし、合計二五回も出てきます。
 中でも八章に集中的に出てきます。そこでイエス様はこうおっしゃっています。

 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

 この「自由」とは、罪の束縛からの自由であり、恐怖からの自由でもあります。主イエスの言葉に留まるとは、主イエスの中に、その愛の中に全身全霊を委ねること、主イエスを信じること、主イエスと結ばれること、主イエスに自分自身を縛りつけてしまうことです。そのように主イエスと一体の交わりを持つ時に、私たちは罪の支配から解放され、神の支配、神の国に属する者になるのです。神から生まれる神の子となるからです。
 だから主イエスは八章四六節では、「わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」と言われるのです。イエス様の言葉は神の言葉なのであり、その言葉は、神に属している者、つまり信仰によって新たに神から生まれた者だけが聞くことができると言われるのです。その信仰を拒絶している限り、ピラトであれ誰であれ、イエス様の言葉を聞くことは出来ない。理解することは出来ないのです。
 いつも言いますように、私たちは理解したから信じるのではないのです。キリストは、信じて初めて理解できるのです。キリストの言葉である聖書は、信じて初めて理解できるのです。そして、それが信仰による理解である時、それは単なる知識ではなく、救いをもたらし、服従を呼び起こし、讃美を呼び起こすものとなる。だから、キリストを信じている私たちは、毎週、キリストを礼拝しているのです。礼拝せざるを得ないのです。
 「真理」に関して、もう一つ絶対に忘れてはならない言葉は、一四章の言葉です。そこで主イエスはこうおっしゃっています。

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことは出来ない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 イエス様が「真理を語る」とおっしゃる場合、それはイエス様自身のことを語っているのです。真理について、あれこれと講釈をしているのではなく、神から遣わされてきたメシア、モーセが上げた蛇のように上げられなければならない人の子、すべての人を引き寄せるために十字架に上げられることで神の栄光を現すご自身のことを語っているのです。そのイエス様を信じる時、私たちは真理そのものであるイエス様に属する者となる、つまり、この世ではなく神に属する者となるのです。神から新たに生まれるからです。三章で主イエスがおっしゃっていたように、水と霊とによって、洗礼を通して新しく生まれるからです。そして、その後、主イエスの言葉に留まり続けるなら、私たちは本当に主イエスの弟子となり、そこに真の自由があるのです。罪を王として罪に従う惨めな罪人でしかなかった私たちが、イエス様を王として崇め、従う神の子、神の民とされ、神の子、神の民として生きることができるようになるのです。そういう新たな神の子、新たな神の民イスラエルを造り出すために、イエス様は人として生まれ、そして独り子なる神としてこの世に来られたお方なのです。

 世に帰るのか、派遣されるのか

 主イエスの言葉を聞いて、自分の知らない世界、見たことも聞いたこともない現実があることを感じたピラトは、主イエスに問いました。
 「真理とは何か。」
 これはすべての人間の問いです。人間が人間である限り、真理を求めて生きているのです。私たちは誰でも、真理を知りたいと思って生きている。しかし、真理はこの世に来ても、この世に属するものではありません。だから、この世に属して生きていきたい者は、真理を求めつつ、真理を避ける。真理から逃げるものです。
 ピラトは、「真理とは何か」と言っただけで、すぐに外に出て行ってしまいました。そして、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と語るのです。しかし、そこに命をかけるわけではありません。彼の言葉は、ただの自己保身と自己防衛に過ぎません。彼はイエス様の中に罪を見いだせなかっただけでなく、真理を見い出すことも出来なかったのです。また、見い出すために、主イエスの前に立ち続けることもしなかった。彼は問うだけ問うて、すぐに外に出て行き、この世の人々の前に立ち、その声を聞き、そして、この世における地位の維持のために、罪を見いだせない男を、真理を証しし、真理へと招いてくれる男を、十字架につけるために、人々に引き渡していくことになります。
 ピラトの官邸の中、それは主イエスがおり、主イエスが真理を証ししている場所です。官邸の外、それは自分の欲望のままに従って生きているこの世です。彼は、何度も内と外の出入りを繰り返し、結局、外に出ました。世に帰って行ったのです。
 今、この礼拝堂、それは主イエスがいまし、主イエスが真理を証ししている場所です。私たちは、その真理の証しの声を聞いているのです。それは、時に辛く、厳しいことです。しかし、信じて聞くことができる人は幸いです。その人は、これから礼拝堂の外に出て行っても、それはこの世に帰ることではありません。真理であるイエス・キリストをこの世に証しするために派遣されるからです。真の王、メシアであるお方が、今、この世に来られたことを証しするために派遣されるのです。聖霊の注ぎを受けて、清められ、力づけられ、神の子、光の子として、恵みと真理に満ちた独り子なる神、イエス・キリスト栄光を讃美しつつ歩めますように祈ります。
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