「見よ、この男だ」

及川 信

ヨハネによる福音書 18章38節〜19章16節

 

 ピラトは言った。「真理とは何か。」
 ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。

 ヨハネ福音書もいよいよ大詰めを迎えています。今は受難節ですから、まさに相応しい所を読んでいると言ってよいでしょう。

 王 神の子 過越祭

 この大詰めの場面で、何度も出てくる言葉は、「王」です。また一回しか出てこないけれど、決定的な個所に出てくるのが「神の子」です。そして、前回の個所を含めてこの裁判の場面の背景に「過越祭」があることも明白です。そして、「十字架」が四回、「十字架につける」という言葉が、実に十一回も出てきますけれど、その二つの言葉はヨハネ福音書では一九章にしか使われません。その点で、徹底しています。今日は、これらの言葉が何を語っているのかに集中していきたいと思います。

 ヨハネ福音書の特色

 ヨハネ福音書では、一つの言葉の中に二重の意味が込められていたり、過去のことを語りつつ実は将来のこと、私たち読者にとっては現在のことが語られていたりします。また、目に見える現実の中に目に見えない現実、目に見えるものとは全く裏腹の現実があることを語っていたりする。今日の個所も、そういう暗示とか皮肉とかに満ち満ちています。目で追うだけでも迫力ある展開がここにはあるし、人間の心理の移り変わりが見えてきますけれど、その中に、さらに神様の御業が隠されていると思うのです。そのことを、今日だけでは語り切れませんから、来週も同じ個所を読みたいと思っています。

 初めと終わり

 四つの福音書はそれぞれの仕方で、イエス様について証言しています。しかし、いずれの福音書もそれぞれの仕方で首尾一貫していると思います。マルコは「神の子イエス・キリストの福音」という言葉から書き始めますが、十字架の主イエスを見上げたローマの兵士が、「本当にこの人は神の子だった」と告白することになります。十字架において、「神の子」とは何であるかが明確にされるのです。マタイは、イエス様の誕生をインマヌエル(我らと共にいます神)の誕生と告げますけれど、その最後は「わたしはあなたがたといつも共にいる」というイエス様の言葉です。エルサレム神殿の場面から始まるルカは、神殿における弟子たちの讃美で終わる。
 ヨハネ福音書も、一章に出てくる言葉が最後の方に出てきます。先週は、「真理」という言葉が一章に出ていることを言いました。しかし、一章にはそれだけでなく非常に重要な言葉がいくつも出てきます。

 見よ 神の小羊 神の子 王

 最初に挙げておきたいのが、イエス様の先駆者である洗礼者ヨハネの言葉です。彼は、イエス様が歩いて来るのを見た時に、こう言った、いやこう告白したのです。

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

 「見よ」
という言葉は、ピラトが何度も言います。
 「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
 「見よ、この男だ。」
 「見よ、あなたたちの王だ。」

 この福音書の初めと終わりに何度も「見よ」「見る」という言葉が出てきます。そのことを通して、私たちの見るべき方は誰なのか、を明らかにしているのです。
 そして、「神の小羊」という言葉の背景にあるのは、過越の祭りであることは言うまでもありません。救いは、小羊が身代わりに死ぬこと、肉を裂かれ、血を流されることによってもたらされるのです。洗礼者ヨハネは、“この方こそ、この世の権力者による冷酷な支配からの解放者ではなく、ご自分の死を通して世の罪を取り除く救い主である”、そういう意味で「神の小羊だ」と言っているのです。そして、彼がここで語ったことが、ピラトによる裁判と処刑の場面で明らかになってきます。
 また、一章の後半には、ナタナエルというヨハネ福音書にしか出てこない弟子が登場します。彼は既に弟子になっていたフィリポに「来て、見よ」と言われて、イエス様の方に歩いて行きます。しかし、その前に既にイエス様は彼のことを見ていて、近づいて来るナタナエルのことを、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われます。そのナタナエルが、イエス様に向ってこう言う、いやこう告白するのです。

 「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

 ここに「神の子」とか「王」が出てきます。ここでの「王」は、一八章一九章に何度も出てくる「ユダヤ人の王」ではなく「イスラエルの王」です。しかし、ここで覚えておかねばならぬ第一のことは、イエス様は最初から「神の子」「王」として告白されているということです。
 この場合の「神の子」とは、神と本質を同じくする者、神と一体の交わりをしている独り子としての神という意味です。ローマの皇帝が「神の子」を自称する場合は、それはこの世における絶対的な権力者であることを言っています。イエス様の場合は、この世を超えた神の支配を実現する子、そのために神から遣わされた「神の子」という意味です。しかし、それは信仰を持って初めて分かることで、ピラトのように信仰を持たない者が「神の子」と聞けば、それはローマの皇帝と同じ政治的な支配者の意味を持つことになります。
 それは「ユダヤ人の王」においても同じことです。元来、「ユダヤ人の王」とは、マタイ福音書に登場する三人の占星術者の姿を見れば分かるとおり、異邦人もひれ伏し、献身の信仰を捧げて礼拝する対象です。つまり、神が選んだ神の民「ユダヤ人の王」は、世界中の人々が待ち望むメシア、救い主のことなのです。しかし、「神を信じている」と言いつつ権力欲に従って生きているユダヤの大祭司を初めとする人々が「ユダヤ人の王」と言う場合、それは権力を奮う政治的な王の意味になってしまうのです。そこに、「王」という言葉に込められた二重性があると言ってよいと思います。
 今も言いましたように、ヨハネ福音書は、その最初に「神の小羊」「神の子」「イスラエルの王」と告白されています。「イスラエルの王」とは、偽りのない真のイスラエル人ナタナエルによって告白された言葉ですから、民族的政治的な王ではなく、世界の救済者という意味で使われていると思います。そして、この「神の小羊」「神の子」「イスラエルの王」としての本当の姿が、アンナスによる尋問場面やピラトの裁判を通して、そして、十字架を通して明らかにされていく。そういう構造を、この福音書は持っているのだと思います。

 王の即位式

 ある注解書に、古代オリエント社会において、王がどのようなプロセスで即位するかについて記されていました。それによると、「まず神殿において王となるべき人物に聖別の油が塗られる。王を意味するメシア(キリスト)とは、何よりも「油塗られた者」という意味です。そして、その神殿の中で王としての宣言がなされる。次に、宮殿の中で冠や王の衣装を着させられ、部下たちによって忠誠の誓いが捧げられる。そこでも王としての宣言がなされる。最後に民の前に王が現れ、民は「王様、万歳」という歓呼で迎える。そこで王は王座に就き、王の職務と権限を受ける、ということのようです。
 すべてがこの通りであったとかどうかは別にして、大体、こういう経過であることは、私たちにも分かることです。そして、ヨハネ福音書を振り返って見てみると、ここには、独特な仕方で、あるいは全く皮肉な仕方で、さらに不思議な仕方で、イエス様が王として即位する様が描かれていることが分かります。
 最初に来るべき塗油、油注ぎの儀式は、一体いつどこでなされたのでしょうか?それは、イエス様が、このことをすれば自分が殺されることを承知の上でした御業の後です。そう、ラザロを復活させた後です。その時、祭司長たちは最高法院を開いて、イエス様を殺すことを決定したのでした。大祭司カイアファは、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と言ったのです。ここで既にイエス様を死刑にすることは決まっていました。そして、カイアファの言葉は、彼が考えていることとは別に、最も深い意味で、後に実現する救いの御業を告げているのです。正にイエス様は民の身代わりに死ぬからです。今日の個所のピラトの言葉も、ユダヤ人たちの言葉も、皆、彼らの意図とは裏腹に、イエスの様の本当の姿を語っているのです。その点については後ほど語ります。
 その後、ヨハネ福音書では、過越しの祭りまでのカウントダウンが始まります。祭りの六日前、ベタニアの村で、イエス様の一行は復活させられたラザロやマルタ、マリアたちと食事をしていました。これは礼拝の情景です。その時、マリアは非常に高価なナルドの香油をイエス様の足に塗って、髪の毛で拭うということをしました。その時、ユダは怒りました。しかし、イエス様はこうおっしゃった。

 「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」

 ユダヤ人は、死体に匂い消しの油を塗ります。その油が、しかし、実は、イエス様が王であることを示す油なのです。ここでイエス様は、イエス様にしか分からない形で、王になるための聖別の油を塗られている。
 その翌日、イエス様はろばの子に乗ってエルサレムに入城されます。その時、大勢の群衆がこう叫んでイエス様を迎えるのです。
 「ホサナ(主よ、救い給え)。
 主の名によって来られる方に、祝福があるように、
 イスラエルの王に。」

 ここで、イエス様は、「イスラエルの王」として都エルサレムに迎えられます。正式に都で即位するためにです。
 この直後に、異邦人がイエス様に会いたいと言って来る。その時、イエス様は、ご自分が「一粒の麦として地に落ちる」、また、「地上から上げられることを通して、すべての人を引き寄せることになる」と、ご自身の死に方について語るようになりました。イエス様が着く王座は、宮殿の中にあるのではなく十字架にあり、「王様、万歳」であるべき人々の歓声は、「殺せ、殺せ、十字架につけろ」というものであることを、主イエスだけはこの時既によくご存知だったからです。

 イエス様とピラトの問答

 それから四日ほど経った「過越祭の準備の日」、その正午から小羊が屠られる日の明け方、主イエスは、ユダヤ人の大祭司のもとからローマの総督ピラトのもとに連れて来られました。正式な裁判を通して、十字架刑にすべき犯罪者として連れて来られたのです。そこでの問題は、イエス様がローマの皇帝に対抗するような王であるかどうかです。ユダヤ人の権力者たちの本心は、人々がイエス様を信じるようになると、自分たちの権威が失墜し、地位が脅かされるので、なんとしてでも抹殺したいというものです。そのための口実を必死になって捜そうとしている。しかし、そんなことがばれてしまえば、群集に相手にされませんから、「この男は、神の子と自称した。それは見えざる神を冒涜することだ」という宗教的な理由をつけるのです。彼らの律法、レビ記によれば、「神を冒涜する罪は死刑に値する罪だから訴えているのだ」と言う。
 しかし、そういう宗教的な問題は、ユダヤ人にとっては意味あるものでも、ローマ人であるピラトにとってはどうでもよいことであり、そんな理由であれば、ユダヤ人自身が裁けばよいのです。ピラトは、ユダヤ人が自分たちで勝手に裁け!と思っている。面倒なことに関わり合いたくはないのです。そして、ピラトにしてみると、このイエスという男は、会ってみると、ただならぬ雰囲気を持っているし、不気味な存在なのです。尋問している内に自分の方が尋問され、思わず「真理とは何か」なんて自ら尋ねてしまうようなこともしてしまいました。彼は、恐ろしいのです。その上に、ユダヤ人から「神の子と自称していた」などと聞かされたものだから、「ますます恐れ」、その恐怖に脅えた姿をユダヤ人に見られたくはない。そこで、イエス様と共に官邸の中に入っていき、ひそかに尋ねた。

 「お前はどこから来たのか。」

 これは「真理とは何か」よりも、さらに一歩進んだ問いです。ヨハネ福音書の中核に迫る問いなのです。ヨハネ福音書は、終始一貫、イエス様がどこから来て、どこへ行くかを語っている福音書だからです。しかし、そういう本質的な問いをもったピラトに対して、イエス様はお答えになりません。すべてを捨てて、新たに生まれ変わる気のない者に、何を言っても無駄だからです。私たちも単なる興味本位で信仰について尋ねる人に答える必要はありません。
 ピラトは苛立ちます。そして、恐れをかき消すようにして、この世の王であるローマの皇帝から自分に委ねられている権力にすがって、主イエスを恫喝するのです。

 「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」

 このように、釈放をちらつかせて揺さぶりをかけたつもりのピラトに向って、イエス様は平然とお答えになる。

 「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」

 ピラトとユダヤ人の問答


 その言葉を聞いて、ピラトはまた恐れに捕らわれました。そして、なんとか釈放しようと、再び外に出てユダヤ人を説得したのでしょう。しかし、ユダヤ人は、先ほどとは言葉を換えて、元来は自分たちの支配者であり、時に弾圧者でもあるピラトを追い詰めていきます。

 「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」

 彼らは、完全に居直って、イエス様を政治犯に仕立て上げていきます。イエス様は、かつて「父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして、『神を冒涜している』と言うのか」とおっしゃり、ユダヤ人の殺意を買いました。しかし、「この世の王である」とおっしゃったことは一度もありません。しかし、そんなことは、最早、彼らにとってはどうでもよいことです。イエス様を死刑にすることだけが目的なのですから。そのために、ピラトが最も恐れている皇帝の権力、この世の権力に訴えるぞと脅しているのです。
 このようにして、ピラトはユダヤ人よりも優位な立場でイエス様を裁いているようでありつつ、実は脅され、そして、裁判官としては裁かれていくのです。彼は法的に罪を見いだせない男を死刑にするために引き渡すのですから。そして、ユダヤ人は、神の側に立つ人間として、イエス様を死罪に当たる冒涜者と裁いているのですが、実は神の民としての現実を自ら捨て、この世の王を自らの王とするという罪の道を選び取っていくのです。

 裁判における即位


 ピラトは、主イエスの前に立ち続け、主イエスがどこから来た方であるかを知ることを拒絶しました。そして、この世のユダヤ人の前に立ち、説得しようなどという愚かな手段に出た。その途端、恐怖にさらされて、法の番人としての権威を投げ打ち、ひたすら地位保全のために邁進することになります。しかし、体裁だけは繕う。
 彼は、イエス様を外に連れ出しました。そして、正式な裁判の席に着いたのです。新共同訳聖書では、「裁判の席に着かせた」とあります。そういう翻訳も可能なのです。そこで、ある人たちは、ピラトがイエス様を裁判の席に着かせたと解釈し、ここでも実は裁かれているのはピラトであることを読みとろうとします。最も深い意味では、そうだと思います。しかし、私はやはり裁判官の席に着いたのはピラトで、その裁判の場にイエス様が被告人として立たされたと受け止めます。何故、ヨハネだけが、ここでわざわざ「ヘブライ語でガバダ、すなわち、『敷石』という場所で、裁判の席に着かせた」と書くのかを考えると、この裁判が正式なものだと強調したいからです。そして、イエス様の王としての即位が正式な手続きで行われたことを強調したいからだと思います。
 「明け方」から始まったピラトの尋問は昼まで続き、ついに「過越祭の準備の日の、正午頃」になりました。過越しの小羊が神殿の境内で祭司たちによって肉を裂かれ、血が流されて、屠られる時刻です。また太陽の光が最も高い所から輝く時刻でもある。ユダの裏切りが実行に移されたのは夜の闇の中でしたが、今、燦々と太陽が輝く時、贖いの小羊が屠られる時、イエス様が「見よ、あなたたちの王だ」と、この世の権力者によって公に宣言されるのです。そして、その時、神の民であるべきユダヤ人たちは「殺せ、殺せ。十字架につけろ」と叫ぶ。これが実は「王様、万歳」という歓呼なのです。あるいは、「ホサナ、主よ、救い給え」という叫びなのです。

 ピラトとユダヤ人の問答 2

 ピラトは、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と叫びました。彼は、ここでも「王と自称した者だ」とユダヤ人が繰り返し訴えることを期待したでしょう。そうであるなら、十字架につける必要などないからです。自称しただけなら、勝手に言わせておけばいいことです。現実に武装集団を作っているわけでも何でもない男が、夢想して、「わたしは王だ」と言っているだけのことです。鞭で打たれ、体はボロボロになり、茨の冠をかぶせられ、王のしるしである紫色のぼろきれを纏わされている惨めこの上ないこの男を、まさかユダヤ人だって、「自分たちの王だ」と思っているわけはありません。こんな男を、王として認めることは、彼らにとっては屈辱以外の何ものでもないのです。だから、「見よ、あなたたちの王だ」と言えば、「いや違う、こんな男は私たちの王ではない。ただ、王と自称しただけだ」と言うはずだ。ピラトには、そういう期待があっただろうと思う。そうなれば、自分もユダヤ人の脅しに屈して、この不思議な男、恐ろしい男を十字架につけないで済む。そう思ったでしょう。ローマ皇帝の支配を嫌い、ローマの文化にも同化せず、いつの日か、「ユダヤ人の王」としてメシアが到来することを信じ、待ち望んでいるユダヤ人が、まさかこんなことを言うなどとは思ってもみなかったのです。しかし、彼らはピラトの予想に反して、大声でこう言いました。

 「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません。」

 落ちるところまで落ちたとは、こういうことです。彼らは、ここに至ってついに、神を王として服従する神の民の地位を自ら捨てたのです。神の民イスラエルとは、“主なる神のみを、心をつくし、精神を尽くし、力を尽くして愛して生きる民”です。ですから、その神によって油注がれて即位する「ユダヤ人の王」は、神の御心に従わねば神によって厳しく裁かれるのです。イスラエルの歴史はそのことをはっきりと示しています。しかし、その神の民の代表者たちが、今、異教徒であり、「神の子」を自称するローマの皇帝だけを自らの王とすると言った。これは、真の王である神を捨てるという告白ですから、まさに落ちるところまで落ちたと言う以外の何ものでもありません。
 ここで、ピラトは行政官としては完全に勝ちました。ローマに反抗的なユダヤ人を、皇帝の支配下に生きる民とさせたからです。皇帝への服従を自ら誓わせたからです。しかし、裁判官としては、罪を見いだせない男を死刑にするという犯罪を犯すのですから、完全に負けた。ユダヤ人の恫喝に負けたのです。神への恐れよりも、この世の恐怖の方が彼には強かったのです。
 そして、ユダヤ人はユダヤ人で、ピラトに勝ちつつ、結局、負けたのです。神の民であるという栄誉を自ら捨てたのですから。そして、ローマ皇帝に服従すると誓ってしまったのですから。こちらの方が、より根源的、決定的な敗北です。こちらの方が、やはり罪が重い。
 そういう人間たちが、神から送られた神の子である主イエスのことを裁きながら「罪を見いだせない」とか「律法に照らせば死罪だ」とか言っているのです。なんというおぞましさ、なんという滑稽かと思わざるを得ません。そして、私たちは皆、こういう悲しいことをしているものです。

 滑稽にしておぞましい道化師

 説教準備のために色々と読んだものの中に、ルオーという画家の言葉が紹介されていました。キリストの顔をたくさん描いた画家ですが、道化師の顔もたくさん描いています。その彼が、こんな言葉を残しているそうです。
 「道化師、それは自分だ、我々だ、ほとんど我々すべてだ。我々はみな、”金箔つきの着物“を着ているのだ。しかし、誰かが我々の本当の姿を見たら、計り知れない憐憫の情に魂の底まで揺り動かされないと誰が言えるだろうか。」
 道化師とは、人に笑われるものです。滑稽なことをする。時にどぎついこともする。惨めなことをする。その姿を見て人は笑う。でも、その道化師の心の中には深い悲しみがあるのです。自分でも意識していないような悲しみがある。
 私は、このピラトによる裁判の場面を読みながら、ピラトの滑稽さ、おぞましさ、惨めさを思いましたし、ユダヤ人にはさらに深い悲惨を感じました。嘲笑いたいとも思いました。でも、次第に、その彼らの心の中に、その奥底には、何とも言えない悲しみ、惨めな思いがあると思えてきました。何で自分がこんなことをやっているのか、言っているのか、いつからこんな人間になってしまったのか。それが分からぬままに、恐怖に捕らわれて、この世の自分の地位、この世の自分の命を、自分で守ることに必死になっている。そして、何の抵抗もしない一人の男を殺すことに躍起なっている。神の律法まで持ち出して殺そうとしている。あるいは、殺したくもないし、処刑してはいけないと分かっている男を、法の正義の名の下で殺さねばならぬ羽目に陥っている。彼らは、訳も分からぬものに捕えられ、振り回され、おぞましく、そして滑稽に、その役を演じさせられている。そこに彼らの惨めさがあります。そして、悲しみがある。そのように彼らを捕えているもの、それは罪なのだ、と思いました。そして、それは私も嫌というほど身に覚えのあることです。

 彼らが言っていることは、実は

 そういう彼らが叫んでいる。

 「殺せ、殺せ、十字架につけろ。」

 「殺す」と訳された言葉は、元来は「取り除く」「取り去る」という意味です。表面的には、イエス様をこの世から取り除け、と言っているのです。つまり、「殺せ」ということではあります。でも、実は、彼らも知らない形で彼らが言っていること、それは「わたしの罪を取り除け、取り除け、十字架で取り除け」ということなのではないでしょうか。「お前は神の小羊なのだから。私たちのために屠られなければならない。」そう言っていることになるのではないでしょうか。

 ピラトは言いました。
 「見よ、あなたがたの王だ。」

   このピラトの言葉もまた、ピラトの意図とは裏腹に、本当のことなのです。イエス様はユダヤ人の王、イスラエルの王です。そして、実はローマ人の王でもあるのです。十字架に磔にされることで、地上から上げられることで、主イエスはすべての人を引き寄せる王になるからです。十字架に上げられることで、「世の罪を取り除く神の小羊」となるからです。この小羊の王座は、宮殿の椅子ではなく、十字架なのです。その十字架において、主イエスが神から遣わされた神の子としての姿を本当の意味で現すから。ここにおいて、神の子の栄光が現れ、神の子を通して神の栄光が現れるからです。ピラトは知らずして、イエス様が王であることを宣言しているのです。この王を見よ!と。見よ、この王を、と。この方こそ、王なのだ、と。
 ローマ人であるピラトもユダヤ人も、罪に振り回されながら、実は、自分の罪を取り除く神の小羊を王の座に就かせている。救いようのない罪を犯しつつ、自分の罪を取り除くことが出来る唯一のお方を十字架につけているのです。「取り除け、取り除け」と叫びながら。これはおぞましいこと、そして、滑稽なこと。でも、そこに神の救いのご計画が隠されています。

 神の道化師 イエス

 ルオーは、イエス様を道化師としても描きました。神の道化師です。辱められ、嘲笑されつつ、茨の冠と紫のぼろきれを着させられる道化師です。その惨めなイエス様を嘲笑し、「ユダヤ人の王、万歳」と言いながら平手で打つ者たち。「見よ、この男だ」と言って、人々に嘲笑させようとする者。「殺せ、殺せ」と絶叫する者たちの心の奥底に秘められた悲しみを見て、そして罪を見て、「計り知れない憐憫の情に魂の底まで揺り動かされて」いるのは、主イエスです。その魂の底において、揺れる憐憫の情、あわれみの故に、主イエスは黙って十字架につけられる。
 罪なき者が、罪人の身代わりになって、罪人の手によって十字架に磔にされるのです。それはまさに滑稽な姿です。その時、だれも、そのことが、自分たちの赦しのため、救いのためだとは気付かず、喚き散らしている。こんなおぞましいこと、こんな滑稽なことはありません。しかし、このことを通して、たしかに神様の救いの計画、神の子が王に即位するという計画が実現したのです。

 死んで、生きる

 その王座において、主イエスは、「渇く」と言って、息を引き取られました。罪によってカラカラに渇いている人間の心に、命の水、聖霊を注ぎ入れるために、主イエスは十字架に上げられたのです。その姿を見ることが出来る時、そこに自分の救い主、まことの王、神の小羊、神の子の姿を見ることが出来る時、私たちは死にます。十字架に掛かって死ぬのです。そして、ただその時、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」という、パウロの言葉を真実な意味で言うことが出来るようになるのです。そのために、共々に聖霊を求めて祈りたいと思います。そして、聖霊の注ぎの中で、今日、私たちのために裂かれたキリストの体、私たちのために流されたキリストの血を、悔い改めと感謝をもって頂きたいと思います。
 主イエスは、私たちの手によって十字架に磔にされました。そして、その肉と血を、私たちが悔い改めと信仰をもって、その手にとって食べ、また飲むことを通して、私たちの中に生きる王、キリストとなって下さるのです。
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