「引き渡す罪、引き渡す贖い」

及川 信

ヨハネによる福音書 18章38節〜19章16節

 

 ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。



 ピラトによる取り調べと裁判の記事を読み続けています。それは、一八章の二八節から始まります。「明け方」に始まり「正午頃」まで続くこの場面を、ヨハネ福音書は約二ページに纏めているのですが、読めば読むほど、引き込まれていきます。ここには人間の心、その心と心のせめぎ合い、激しい敵意、憎しみ、惨めな打算と堕落、そして、そういう人間模様の中で、実は密かに神様の救いのご計画が進展している様が描かれています。その展開について、これまで二度語ってきました。しかし、時間の関係上、触れることが出来ずに来たいくつかの言葉があります。それは「罪」「引き渡す」「引き取る」という言葉です。今日は、この三つの言葉に注目することを通して、ここで何が起こっているのか、そして、それは私たちとどのような関わりを持つことなのかを知らされたいと思います。

 罪(1)

 今、「罪」と言いました。この取り調べの場面に合計五回出てきます。新共同訳聖書では、全部「罪」と訳されていますけれど、実は三つの異なる言葉が使われているのです。(一九章の七節には、「律法によれば、この男は死罪にあたります」とあります。しかし、直訳すれば「律法によれば死に値する」で、「罪」という言葉は使われていません。)
 最初に「罪」と出てくるのは、一八章二九節です。明け方にいきなり縄で縛られた男を連れて来られたピラトが、連れて来た者たち、つまり、主にユダヤ人の祭司長や下役たちに向って、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と問うたのです。ここで「罪」と訳された言葉は、カテーゴリアで、告訴の内容は何かという法廷用語です。ピラトは、裁判官として、訴えられている内容が裁判に相応しいかどうかを確かめている。しかし、その問いに対して、ユダヤ人たちは「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と答えるのみで、「悪いこと」の内容を明確には言えません。だから、ピラトは、そんなことならわざわざ私のところに連れてくるなと思い、こう言いました。

 「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け。」

 この問答の中に既に、「罪」「引き渡す」「引き取る」という言葉が出てきます。それらの関連は後に語ることにして、今は先に進みたいと思います。

 罪(2)

 次に「罪」と出てくるのは、ピラトがイエス様との問答を通して「真理とは何か」と尋ねた直後です。彼は、イエス様の前に立ち続けて真理を追究することなく、「ユダヤ人たちの前に出て来て言った」のです。

 「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」

 彼は、この後にも二度、つまり合計三度も、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言います。しかし、最後に、「十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡す」のです。ここで「罪」と訳されている言葉は、アイティアです。これは、訴える理由ではなく、有罪とすべき理由です。これも純粋に法廷用語として使われています。ローマの法に照らして、有罪とすべき理由はどこにもないと言っている。
 彼は、最初から、イエス様が「ユダヤ人の王」なのかどうかを問題としています。そしてそれは、ローマ帝国の皇帝に背いて、ユダヤ人国家の建設を企てる輩であるかどうかを問題としているということです。もし、そうであれば、それは密かに反乱を企てる首謀者なのですから、ローマ側にしてみれば立派な犯罪者ということになります。しかし、イエスという男を尋問する限り、その男は、「わたしの国はこの世に属していない」とか「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た」とか、自分の出世や地位保全を第一のこととしている俗人のピラトにしてみると、訳の分からぬ戯言を言っているおかしな人間なのです。しかし、前から言っていますように、彼はそのおかしな人間が漂わせる不思議な佇まいに恐れを感じてもいます。
 そして、人間はそういう恐れを感じれば感じるほど、虚勢を張ったりするものです。彼がここで、「あのユダヤ人の王を釈放して欲しいか」と言っている時、そこにはユダヤ人に対する侮蔑があり、イエス様に対する嘲りがあることは明らかです。つまり、自分を一段も二段も上の存在と思っており、イエス様にもユダヤ人にもそう思わせようとしています。一人の夢想家に過ぎない男に恐れを抱いて寄ってたかって捕まえ、縄で縛り、夜通し尋問した上で、明け方にローマの総督官邸に連れてくるなんて大げさなことをするユダヤ人を嘲笑っているのです。しかし、同時に、裁くべき理由もないこの男を、釈放したい。不思議な雰囲気をもったこの男との関わりを、さっさと断ち切りたい。つまり、優位な立場を保持したまま釈放したいのです。
 そこで、彼は、そのように仕向けるのですけれど、なんとユダヤ人たちは「その男ではない。バラバを」と叫ぶ。「バラバは強盗であった」とあります。しかし、彼は単なる物盗りとしての強盗ではありません。それだけのことであれば、ローマの総督が管理する牢獄に入っているわけもなく、また群衆が名前を知っているはずもありません。ルカ福音書によれば、「バラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」のだし、マタイ福音書によれば、彼は「評判の囚人だった」のです。つまり、ローマの支配を憎むユダヤ人にとっては一種の英雄です。暴動を起こし、殺人を犯す人物です。殺した相手は、同胞ではない。ローマ人あるいはローマに雇われている傭兵でしょう。つまり、バラバこそ、純粋に政治犯なのです。ローマ帝国の支配に対してテロ行為をもって抵抗する人物です。現代の言い方で言えば、ユダヤ原理主義者、過激派でありテロリストです。ピラトにとっては、有罪と断ずべき人物です。しかし、彼は、罰すべき人間を釈放し、罪を見いだせない人間を処刑するように、本来は支配しているはずのユダヤ人から、次第に追い詰められていくのです。
 彼は、官邸の中で、兵士たちに命じてイエス様を鞭打たせました。私を含めて、皆さんの中で鞭打ちの刑など受けた方はいないと思います。この刑は、非常に苛酷なものです。もちろん、鞭は動物の皮で出来ています。それだけだって、人間の肌を打てば肌は破れて、血が噴き出します。しかし、ローマの刑罰で使われた鞭は、その先端部に鉛の破片だとか、動物の骨の破片を埋め込ませていたようなのです。その鞭で打ち続けると、肌だけではなく肉も裂けていき、気絶するのは当然で、時には、それだけで死に至ることもあったというのです。イエス様が、この後、十字架に磔にされてから数時間で死んでしまうのは、通常の場合よりも早いようなのですけれど、それは徹夜の尋問を経ての鞭打ち、正午までの裁判というあまりに過酷な時を過ごされたからでもあります。ピラトは、そのような刑罰を、自ら罪を見いだせない男に与えます。それは違法なこと、犯罪です。しかし、それは彼にしてみれば、イエスという無実の男を処刑したくないからでもあります。
 兵士たちは、上官ピラトの意を受けてイエス様に鞭を打ちました。そして、血だらけになり、フラフラになったイエス様を無理やり立たせ、茨で作った冠を編んでかぶせました。額からも血が流れ落ちたでしょう。その上で、王のしるしの紫の衣、多分、ぼろ切れのようなマントを羽織らせて、「ユダヤ人の王、万歳」と言いつつ、平手で打った。ここまで惨めに痛めつけられた男の姿を見せれば、ユダヤ人だって、"もう十分だ、これだけ痛めつければ、この男も二度と人々の前で語ったり、妙な業をしたりしないだろう"と思うに違いない。ピラトは、そう思った。そして、イエス様を連れ出し、「見よ、この男だ」と言ったのです。
 しかし、あにはからんや、祭司長や下役たちはイエス様を見るとますます興奮して、「十字架につけろ。十字架につけろ」叫んだのです。慌てたピラトは、再び、こう言います。

 「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」

 それを聞いて、祭司長や下役たちは、初めて、「神の子」と自称した奴は死に値するのだ、と彼らとしての訴えの理由を言います。しかし、それはユダヤ人の律法では意味があっても、ローマの法では意味がないことです。「罪」ではないのです。

 罪(3)

 しかし、「神の子」という言葉を聞いたピラトはますます恐れます。そして、「お前はどこから来たのか」と尋ねる。これはイエス様の出自を問う問いですから、「お前は誰なのか」と問うている。しかし、イエス様は、その問い、彼なりに真剣に訊いてはいても、所詮は自分の地位を第一と考える者の問いには答えません。ピラトは苛立ち、権力を振りかざしてイエス様を恫喝します。それに対して、イエス様は断固としてこうおっしゃいました。

 「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」

 ここにも「引き渡す」「罪」という言葉が出てきます。イエス様が「罪」とおっしゃる時、それはこれまでピラトが使ってきたカテーゴリアともアイティアとも違います。ハマルティアという言葉です。これは古代社会の法廷で使われる言葉ではありません。つまり、権力者が作った法律に違反するという意味での「罪」ではなく、神に背いているという意味での「罪」です。ですから、その罪に対する裁きを下すのも、人間ではなく神です。その「罪」が、ピラトにある。しかし、ピラトの罪よりも、イエス様をピラトに引き渡した者の罪の方が重い、と主イエスは言われる。それは、それだけ深く神に罰せられることになる、ということでもあります。
 目に見える形では、ここでイエス様の罪がユダヤ人やピラトに問題とされ、イエス様が裁かれています。しかし、実は、イエス様を裁いている者たちの罪が問題とされ、その罪に対する裁きが下されようとしているのです。
 ヨハネ福音書において、この意味での「罪」は、全部で一七回出てきます。その中で、二回を除いた十五回は、イエス様の言葉として出てくるのです。つまり、基本的に、イエス様だけが口にすることが出来る言葉なのです。イエス様だけが、「あなたには罪がある」、「罪を見出すことが出来る」と言えるのです。
 他の二か所のうちの一つは、洗礼者ヨハネが、イエス様を見た時に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言った場面であり、もう一つは九章の盲人の癒しの場面で、ユダヤ人たちが、癒された盲人に向って、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようと言うのか」と責める場面です。この両方を見ても、「罪」ハマルティアが、この世の法律とは全く無関係であることが分かります。それは、もっと根源的なもの、神との関係におけるものなのです。

 信じない=罪

 そのことを示す代表的な個所を、一か所だけ挙げておきます。それは、八章二一節以下のユダヤ人との議論の場面です。少し、飛ばしながら読みます。

 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」 ・・・・・『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。」

 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」


 イエス様が「わたしはある」と言えるお方であると、信じない。神様から遣わされた独り子なる神であると、信じない。それが罪なのです。そして、その罪は既に死なのです。罪の奴隷とは死の奴隷であり、そこに自由はありません。死の恐怖に束縛されているからです。もっと卑近なことで言えば、自分の地位とか身分とか生活、そういったものが奪われてしまわないか、そのことが第一の問題である人間は、いつも心の奥底に恐怖を抱え持っています。恐れに捕らわれている。自由ではないのです。この福音書に登場する祭司長や下役たち、つまり、ユダヤ人も、ピラトや兵士たち、つまり異邦人(ローマ人)も、すべての人が罪の奴隷として、恐怖に捕らわれているのです。しかし、その惨めな姿が自分では見えていないのです。

 罪の現実

 イエス様が神であると信じる。それは、自分のすべてをイエス様に明け渡すことです。自分の主人を自分ではなくイエス様にすること。自分で自分を守るのではなく、イエス様に全存在を守って頂くことです。本来なら、そこにこそ真の安心、平和があり、そして自由があるのです。しかし、罪の奴隷になっている私たちは、自分を明け渡すなんてことは恐ろしくて出来ません。私たちは、自分の主人は自分でありたいと思っています。さらに人の主人ともなりたい。人を意のままに動かしたい。世界を自分の手中に収めたいと思っています。「世界」などというと大袈裟に聞こえますが、自分の周りの世界でも同じことです。しかし、その思いこそ、実は倒錯した思いであり、荒唐無稽な思いであり、憐れなほど傲慢な思いなのです。私たちは、誰も生まれたいと意志して生まれたわけでもないし、死にたいと意志して死ぬわけでもない。自分の命すら自分のものでないことは明らかなことです。それなのに、蛇の唆しに乗って善悪の知識の木の実を食べて、中途半端な知恵がつき始めると、自分の命は自分のものと思い始める。つまり、神が与えてくださった命を、神から盗み取って、自分のものにしてしまう。さらに知恵をつけると、人の命も自分のものだと思うようになる。罪は、巧妙に私たちを支配し、振り回し、それが死に至る罪だとも分からぬように取りついて来ます。罪はいつも、目に美しく、食べるに好ましいものとして、私たちの目の前に存在し、それを食べさえすれば全能になれるような錯覚を抱かせるものなのです。そして、人間は例外なく、その罪の実を食べています。そして、豪華な服をまとったつもりになる。王になったつもりになる。しかし、実は、それは惨めな見せかけにすぎず、本当は嘲笑の的にならざるを得ないものです。その惨めな道化師としての姿を、あるいは裸の王様としての姿を、真実に見つめ、心の底が震えるような憐れみをもって警告し、救いへと招いて下さっている方、それが主イエスです。
 主イエスは今、惨めにして滑稽な姿をさせられています。茨の冠をかぶせられ、紫のマントを羽織らされ、背中は血だらけになっている。そして、嘲笑されている。しかし、その惨めさ、その滑稽さ、それは神に背く罪人に対する裁きを身代わりに受けている姿なのです。人間の倒錯、誤解、傲慢、そのすべてに対する神様の怒りの裁きをその身に受けている姿なのです。本来は、罪を犯している私たちが曝さなければならない惨めな姿なのです。しかし、私たち人間は、そのイエス様の姿を見ながら嘲笑し、侮蔑し、嫌悪感を抱き、憎しみをたぎらせ、よってたかって殺そうとしているのです。自分が王でありたいために、真の王を殺す。その滑稽さ、そのおぞましさを先週は語りました。今日は「引き渡す」「引き取る」という言葉を通して、さらにその先に行きます。

 「彼ら」

 ピラトは、この後、イエス様をなんとかして釈放しようと努力しますが、結局、「十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡し」ました。自分の地位や身分を守るためには手段を選ばないユダヤ人の恫喝に負けたのです。彼もまた、自分の地位や身分が第一のものだったからです。そして、「彼らはイエスを引き取った。」
 ここで「彼ら」と出てくることも、重要です。ユダヤ人であるとか、祭司長や下役たちとか、ローマの兵士とかいう限定がない。そういう限定をすることで、読者が、「わたしはユダヤ人ではないから」とか「祭司長でも下役でもない」「ローマの兵士でもない」という誤解に満ちた言い訳が出来ないようにしているのだと思います。ここで起こっていることは、たしかに二千年前のある時点、ある場所で起こった一つの出来事であり、だからこそピラトだとかカイアファだとかアンナスとかいう固有名詞も出てくるし、当時の役職である祭司長だとか下役とか兵士とかも出てくる。しかし、ここで起こっていることは普遍的な出来事なのだということ。登場人物は、いつの時代のどこにでもいる人々なのだということ、そのことを「彼ら」は表していると思います。

 引き渡す

 「引き渡す」
という言葉は、「引き取る」とセットの言葉と言ってよいかもしれません。「引き渡す」は、ヨハネ福音書で十五回出てきます。その半数近くが、イスカリオテのユダに関して出てくるのです。つまり、「裏切る」という意味です。ユダが祭司長たちにイエス様を引き渡す、それがイエス様の弟子の行為となれば、それは裏切りです。まず、そういう意味で出てきます。そして、その言葉が、この取り調べと裁判の場面で決定的な場面で使われます。

 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。
 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。

 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。」

 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」

 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。 こうして、彼らはイエスを引き取った。


 ユダからイエス様を引き渡された大祭司を初めとするユダヤ人は、今度はイエス様をピラトに引き渡します。ピラトは、ユダヤ人にイエス様を引き取るようにと願います。しかし、拒まれる。そして、ついに彼は、イエス様を人々に引き渡し、人々はイエス様を引き取ります。その後、イエス様は自ら十字架を背負ってゴルゴダの丘に向うのです。
 イエス様はユダ・大祭司・ピラト・「彼ら」と引き渡されていき、その行き着く先は十字架です。イエス様は、結局、十字架に引き渡されていくのです。そして、人々はそのイエス様をピラトから引き取って十字架につけます。しかし、ヨハネ福音書はわざわざ「イエスは自ら十字架を背負い」と書きます。負わされているようでありつつ自ら負っているのです。そして、人から裁かれているようでありつつ、実は人が受けるべき神の裁きを自ら受けてくださっているのです。
 それは、この「引き渡す」パラディドーミという言葉が、最後に出てくる場面を見れば分かります。それは、十字架の場面です。先週も言いましたように、そこでイエス様は「渇く」と呻かれました。そして、海綿に浸されたぶどう酒を受け取ると、「成し遂げられた」と言って、「頭を垂れて息を引き取られた」とあります。紛らわしいのですが、この「息を引き取る」の「引き取る」がパラディドーミ、「引き渡す」なのです。
 ということは、どういうことでしょうか。それは、主イエスを十字架に引き渡した罪人すべてを、主イエスは神に引き渡したということなのではないでしょうか。すべての人間のすべての罪を、主イエスは自らその身に負って、死という裁きを受け、その上で、すべての罪人を神に引き渡されたのではないでしょうか。「わたしが裁きを受けた故に、彼らをお赦しください」との祈りをもって。ここに神が主イエスを遣わした目的、神がイエス様を通して成し遂げたいと願われた業が完全に「成し遂げられた」のです。
 十字架の死にイエス様を引き渡している者たちが、実はイエス様によって引き渡されている。神を冒涜する者としてイエス様を裁き、死に追いやった者たちが、実はイエス様によって神様に引き渡されている。殺したくないと願いつつも、自分の地位を守るためにイエス様を十字架に引き渡した者も、イエス様に引き渡されている。イエス様の十字架の血による贖いを受けつつです。その事実を信じるかどうか、すべてはそこに掛かっているのです。

 引き取る

 釈放されたイエス様を「引き取る」ことを拒んだ人々は、十字架につけるためには「引き取り」ました。実は、原語では、ピラトが「引き取れ」と言った時の言葉と、最後の「引き取った」という言葉は少しだけ違います。十字架につけるために「引き取った」という場合は、「傍らに引き取った」「そば近くに引き取った」という意味です。「引き取る」は、ランバノウという言葉ですけれど、十字架につけるために「引き取った」という場合は、それに「傍ら」を表すパラという接頭辞がついたパラランバノウという言葉が使われているのです。目に見える形では、イエス様を絶対に放すまいとして、ぴったりくっついて連行した、ということでしょう。
 でも、この言葉は、多くの人々が愛しているイエス様の言葉、しばしば葬儀の時に読まれる言葉の中にも出てくるのです。ヨハネ福音書一四章の言葉です。そこで主イエスは、弟子たちに向って、こうおっしゃいました。

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

 ここで「迎える」とあります。これがパラランバノウ「引き取る」です。イエス様は、ご自分の十字架の死、罪人の身代わりに受ける裁きを通して、私たちを父なる神様に引き渡して下さるのです。「父よ」などと呼ぶ資格のない私たちを、子として引き渡して下さる。そして、その父のもとで、私たちを引き取って下さるのです。迎えて下さるのです。これは単に、死後の現実ではありません。信仰を生きる今の現実なのです。
 神を信じるということ、イエス様を「わたしはある」というお方であると信じること、それは、こういうことです。イエス様によって罪を赦され、イエス様によって父なる神に引き渡され、そして、父の家でイエス様に引き取られることです。そして、いつも主イエスのいるところにいることになるのです。ここに救いがある、ここに自由があり、真理があり、命があるのです。ここに私たちの生きる道があるのです。
 イエス様を十字架に引き渡した人間の罪は、また釈放されるイエス様の引き取りを拒み、十字架につけるためには引き取った人間の罪は、このようにしてイエス様の十字架によって贖われるのです。その神様の不思議な救いのご計画を知った時、私たちはどうして神を信じ、イエス様を信じないでいられるでしょうか。どうして、感謝と賛美を捧げないでいられるでしょうか。
 私は、信じます。この惨めな罪人である私を、イエス様は神様に引き渡してくださり、そして、父の家に迎え入れてくださったことを。これはもう事実としてあることですから、信じる他にありません。皆さんも信じてください。まだ洗礼を受けておられない方は、信じて、洗礼を受けてください。
 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。

 「人々」


 いよいよローマの総督ピラトによる裁判が始まります。今日も一九章の言葉を読みますし、来週は一八章の言葉を読みますから、一八章、一九章はよく読んで礼拝に備えて頂きたいと思います。
 「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った」とあります。
 ギリシア語では、主語を明記しなくても、動詞の形で行為の主体が男か女か、単数か複数かが分かりますから、強調をしない場合は、主語が書かれません。この個所もそういう書き方なので、複数の人間であることは分かりますが、それが「誰なのか」がはっきりしないのです。この先を読んでいくと、イエス様を連れて行った「人々」とは「ユダヤ人」です。しかし、その場合の「ユダヤ人」とは、民族としてのユダヤ人ではなく、一九章六節にありますように、むしろ「祭司長や下役たち」です。つまり、ユダヤ教の権威ある者たちです。しかし、ヨハネ福音書では、イエス様を逮捕した人々の中にローマの兵士である千人隊長も入っています。そういう意味で、「人々」とは、即座にユダヤ人、それも支配階級の人々と限定して理解するわけにはいかないだろうと思います。これまでに何度か言ってきましたように、ユダヤ人もローマ人も、神の民も異邦人も、主イエスを裁き、抹殺しようとしている。そういう消息を「人々」という匿名性は表しているようにも思います。

 「時」を示す言葉

 また、ここにわざわざ「明け方であった」と記されています。こういう「時」を示す言葉は、重要です。イエス様が弟子たちと最後の晩餐をとり、ユダが裏切るためにその家から出て行った時、それは「夜であった」と記されています。それは単に「夜であった」だけでなく、ユダの心、その行為が闇であったことをも暗示しているでしょう。そういう意味では、この「明け方であった」は、いよいよ闇の世界に光が輝き出すことを暗示しているとも言えます。
 この夜が明けた時に、主イエスはユダヤ人を支配しているローマ帝国の総督ピラトの所に連れて行かれたのです。そして、一九章一四節まで読むと分かることですが、その日は「過越祭の準備の日」です。「過越祭」とは、ユダヤ人にとって決して忘れ得ない出エジプトという救済の御業を覚え、神様を讃美する祭りです。エジプトの王のもとで奴隷であったイスラエルの民が、神に立てられたモーセを通して、エジプトから脱出し、シナイ山で律法に基づく契約を結んで神の民とされた。そのことを記念し続ける祭りです。彼らは、この祭りを継続することによって、自分たちが何者であるかを覚え続けたのです。その過越の祭りの「準備の日の正午ごろ」、主イエスは十字架につけられるために、ピラトから人々に「引き渡される」ことになります。その時刻とは、過越祭において食べる小羊が屠られる時刻、肉が裂かれ、血が流される時刻です。イスラエルの民は、この小羊の犠牲を通して救われていったのです。
 こういうヨハネ福音書の「時」に関する記述を通して、何が語られているのかと言うと、イエス様の十字架への道行きは、人々がどう思おうと、また何をしようと、神様の救済のご計画に基づく救いの御業なのだということです。人間が恐怖に縛られ、その欲望に従ってすべてのことを進めているように見えても、実は神の御業が着々と進行している。第二の出エジプト、罪の奴隷状態であった者たちを解放し、新しい神の民を創造し、その者たちを神の国、永遠の命に招き入れるための救済の御業が進んでいる。その事実、人間の目には見えない深みにおける事実を語っているのです。そういう意味で、「時」を示す記述を見逃してはなりません。

 イエスの言葉の実現

 その関連で言うと、三二節の言葉も注目しなければなりません。そこには、この福音書を書いたヨハネの注釈が記されています。

 「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。」

 俄かには、意味が分からない言葉です。前々回読んだ一八章九節にも、弟子が一人も捕えられないことに関して「イエスの言葉が実現するためであった」とあります。ここでも、人がどう思おうが、また何をしようが、神様が定めた時に従って、神の独り子、イエス・キリストの言葉が着々と実現していることが伝えられていました。
 しかし、「御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして」とは一体どういうことなのか。この個所は、ピラトがイエス様をユダヤ人に引き取らせ、彼らの律法に従って裁かせようとすることに対して、ユダヤ人が、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言ったことに対するヨハネの注釈ですから、よく意味が分からないのです。

 死刑に関して

 少しその問題を考えてみたいと思います。歴史的に、この時、ユダヤ人は人を死刑にする権限があったかなかったについては見解が分かれるようです。しかし、聖書に限って言うと、たとえば使徒言行録の七章には、初代のキリスト者であるステファノが、ユダヤ人の最高法院の裁判にかけられ、石打ちの刑で処刑されたことが記されています。有罪宣告や、死刑に処するという正式な宣言がなされたわけではありませんが、リンチや暗殺とは全く違う形ですし、「石打ちの刑」は宗教的な罪に対する処罰の方法です。そのことに対して、ローマ側からクレームが来たということは記されていません。
 また、同じ使徒言行録の一二章では、十二弟子の一人であるヤコブが、ヘロデ大王の孫にあたるヘロデ・アグリッパ一世(聖書では「ヘロデ王」として出てきますが)に剣で殺されたことが記されています。それは、ヘロデが、キリスト教会を憎むユダヤ人の歓心を買うための行為でした。そのことに対して、ローマの側が文句を言うことはなかったのです。つまり、相手がユダヤ人であれば、死刑にする、あるいは権力に物を言わせて殺すことは出来たのです。しかし、同じユダヤ人でも、パウロのようにローマの市民権を持っている者については、ユダヤ人だけの裁きで処刑することは出来ませんでした。
 そういう点から言うと、イエス様はガリラヤのナザレという田舎町出身のユダヤ人であり、この当時、ローマに対する抵抗運動を組織した訳でもなく、ローマにとっては危険な人物ではありませんでした。ローマの市民権を持っていたわけでもない。だから、ピラトは、そんな男を、ローマの法に従って裁く謂われはないと言っている。当然のことです。しかし、ユダヤ人の権力者たちは、何としてでもローマ人に処刑させたいと願っているのです。それは、何故か?

 「ユダヤ人」(人々)の恐怖

 いろいろ理由は考えられます。その一つは、彼らの恐怖だと思います。前回も語ったように、主イエスが「わたしはある」とおっしゃった時に、武装して主イエスを捕まえに来た人々が皆、その権威に圧倒されて「後ずさりして地に倒れた」のです。イエス様は、彼らにとって、そういう存在。「神がそこにいます」と感得させるような存在であったことは間違いありません。そういう存在だからこそ、抹殺したいし、しなければならないのだけれど、自分の手ではそれをしたくない。そんな恐ろしいことはない。ユダヤ人が信じる神など知らない異邦人に処刑はやらせよう。そう思ったでしょう。
 また、当時、多くの群衆はイエス様を歓迎していたのです。過越祭の五日前に、イエス様がエルサレムに入城される時、人々は、イエス様がベタニアでラザロを復活させたことを聞いていました。そして、祭司長たちがイエス様を殺そうとしていることも知っていた。しかし、そのイエス様が弟子たちと共に、過越しの祭りに合わせてエルサレムにやって来られた時、多くの人々は、今こそ来るべきメシア、「イスラエルの王」が来たのだと思って、大歓迎したことが一二章に記されています。
 それから僅か数日しか経っていません。また、ヨハネ福音書ではカイアファの裁判の時に、祭司長らが群衆を扇動したという記事もない。つまり、群衆の支持はイエス様に向いている。そういう状況の中で、自分たちの手でイエス様を宗教的な罪人として処刑することは、自分たちの地位を危うくすることでしかありません。だから、彼らはピラトに裁かせようとした。そういうこともあったでしょう。
 彼らは、どういう理由づけをしてでも、イエス様をピラトの手によって処刑したかったのです。その思いが、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」という言葉になって出てきていると思います。

 「ユダヤ人」(人々)の打算

 彼らがピラトの下にイエス様を連れて来た時、ピラトは、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言いました。ここで「罪」と訳された言葉は、法廷用語(カテーゴリア)ですけれど「訴えの内容は何か」という意味の言葉です。それに対して、彼らは「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言うだけです。明確な悪事、死刑にしなければならない悪事を言えないのです。しかし、その後の展開の中で、ピラトにとっての問題は、イエス様が「ユダヤ人の王」であるかどうかであることが明確になっていきます。その場合、それは純粋に政治的な意味です。イエス様がローマ帝国の皇帝に対抗する、あるいは反抗するような存在なのかという問題です。ユダヤ人たちは、誰もが大なり小なり、ローマ帝国の支配には大いなる反発を感じていましたし、ローマの宗教に基づく意味でも「神の子を自称する」皇帝など、反吐が出るような存在です。ピラトは、そういう反ローマ意識がユダヤ人の中に強くあることは承知していました。しかし、そのユダヤ人が、イエス様のことを、「王と自称する者」として訴え始め、「この男に罪を見いだせない」と言って釈放させようとするピラトに向って、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と言い募り、挙句の果てには「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」とまで言うのです。命がけで異教の民の支配に抵抗してきたユダヤ人が、この時ばかりは、異教の「神の子」であるローマ皇帝を王として戴くことに邁進する。人間とは、こういうものです。そういう文脈の中で、彼らは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言っているのです。
 しかし、それが何故、「御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」ということになるのか?それが問題となります。

 どのような死を遂げるか

 その問題を考えるために、イエス様が、ご自分の死に関してお語りになった言葉を二つだけ挙げます。
 一つは三章一四節の言葉です。その時既にイエス様はこう言われていました。

 「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

 ここでのキーワードは「上げられる」です。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」とは、旧約聖書の民数記に記されていることです。イスラエルの民は、出エジプトという救いを経験したにも拘わらず、他の神々に心を寄せるという罪を犯しました。その民に向って神は激しい裁きを下し、多くの者が死にました。しかし、神はモーセに青銅の蛇を作って旗竿の上に掲げるように命じるのです。その蛇を見上げた者は、罪を赦されて死の裁きを免れたと民数記には記されています。
 その蛇のように、人の子、つまり、神から遣わされたイエス様も上げられねばならない。それは、イエス様が十字架に上げられて死に、さらに復活して天に上げられることで、人を罪の支配から救い出し、永遠の命を与えるという救いの御業の暗示なのです。
 もう一つは、先ほど引用した一二章に記されていることです。エルサレム入城の際に、イスラエルの王、メシアとしてユダヤ人から大歓迎された後、イエス様はギリシア人(異邦人)がイエス様に会いたいと言っていると聞かされます。その時、「人の子が栄光を受ける時が来た。」「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とおっしゃり、さらにこう言われました。

 「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

 ヨハネは、ここでも注釈をつけます。

 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

 ここでのキーワードも「上げられる」です。主イエスが、十字架に上げられることによって、神の民ユダヤ人だけでなく、「すべての人」が、主イエスのもとに引き寄せられる。そういう救いの御業がなされる。
 先ほど、ユダヤ人がステファノを「石打ちの刑」で殺し、ヘロデはヤコブを「剣」で殺したと言いました。いずれも「上げる」わけではない。しかし、イエス様は、ユダヤ人によって罪人と断罪され、異邦人であるローマ人によって処刑の宣告がなされ、ローマの処刑方法、つまり十字架に上げられて殺されることになっている。そこで肉が裂かれ、血が流される。そのようにして、神の民ユダヤ人の救い主ではなく、この世のすべての人間の罪を取り除く神の小羊となる。そのようにして神の国の王となる。そのためにこそ、イエス様は人となった、肉をとったのです。そして、十字架に上げられ、死人の中から上げられ、天に上げられていく。そこにすべての人間のための救いの道があり、真理があり、命がある。ヨハネは、「御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」と注釈を付けることによって、ここでも人間が何を思い、何をしようが、神様の救いのご計画は実現に向かって進展していることを示しているのです。
 ユダヤ人も、ピラトもそのことを知りません。しかし、彼らはその意図とは裏腹に全人類に対する神の救いの御業の実現のために働かされているのだし、またその救いへと招かれてもいる。しかし、見れども見ず、聞けども聞かず、心を頑なにしているのです。自己保身から出てくる恐怖に縛られているからです。自由になれないのです。そして、それが人間、それが罪人です。私たちにも、よく分かる現実です。

 官邸の中と外

 前回も、アンナスの屋敷の中と外という対比がありました。今日の個所でも、そうです。しかし、違う所もある。ユダヤ人たちの律法では、異邦人に触れると汚れるとなっていたので、彼らはピラトの官邸には入りません。過越の食事を汚れなき身で食べるためです。しかし、今、神様は、実は、新しい過越しの羊を備えようとしておられるのです。それはともかくとして、ピラトはアンナスとは対照的に、何度も官邸の外に出たり、中に入ったりします。象徴的に言えば、神の世界と人の世界、聖なる世界と俗なる世界に出たり入ったりして右往左往しているのです。そして、中では神の声を聞き、外では人の声を聞いている。そして、両者の間で迷い、煩悶し、苦しみ、結局、俗世界の声に聞き従うことになります。
 彼は、問います。

 「お前がユダヤ人の王なのか。」

   彼は、既に、情報を得ていました。ユダヤ人が、イエスという男を王にしたがっていると。また、大祭司や祭司長らはそのことを恐れていると。しかし、目の前に連れて来られたのは、縄で縛られたただの男なのです。彼は、意外だったでしょう。そして、生かすも殺すも、その権限を握っている自分に対して、反抗的な態度をとるでも、敵意に満ちた目で見るわけでもなく、静かに、しかし、あまりに堂々と立っている男を見て、なにか空恐ろしいものも感じただろうと思います。しかし、もしこの男が「ユダヤ人の王」となりたがっており、それがローマの支配に対する抵抗運動に繋がるのだとすれば、それは総督として断じて許すことができないことですから、いきなり本題に入ったのです。
 しかし、イエス様は逆に問うのです。「それは、あなた自身の言葉なのか、ユダヤ人から聞いた言葉なのか?」その違いは、やはりそれなりに大きいからです。ピラトは苛立ちます。何の恐れもなく、自分を尋問するこの男に対して苛立ちを覚える。そして、「お前の同胞が、お前を訳も分からぬことで訴え、わたしに引き渡したので、仕方なく、こんな朝早くから、つきあってやっているんだ。いったい何をしたって言うんだ!」と言います。
 イエス様は、ピラトの気持ちを理解します。でも、彼がイエス様の言うことを理解できないであろうことを承知の上で、最初の質問、つまりイエス様が王であるか否かについてお答えになる。

 「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

 最初の「この世に属していない」とは、「この世からのものではない」が正確な訳です、そして、最後の「この世に属していない」は、「ここからのものではない」が直訳です。問題は「出自」、どこから来たか、出身はどこか、土台は何か、が問題なのです。

 「王」を巡って

 日本語では、「王」「国」は関係があっても違う言葉に響きますが、ギリシア語では、「王」はバシレウスで「国」はバシレイアですから、根は同じ言葉で、「支配」を意味します。イエス様はここで、たしかに自分の王国、自分が支配する領域があることをお認めになっている。そういう意味では、イエス様はたしかに王なのです。キリストという言葉の持つ一つの意味は王ですから。しかし、その王であるイエス様の支配は、地上の王たちの支配のように、この世の中にある、少なくともこの世だけにあるものではない。それをはるかに超えている。そういう意味では、ピラトが考えるような王ではない、と言っていることになります。もし、彼が考えるような王であるとすれば、それはローマの皇帝と支配権を巡って競合することになりますから、イエス様も武装し、部下たちが戦うはずです。しかし、イエス様はそんなことはなさりません。
 ピラトは、イエス様の言っていることがさっぱり分からない。当然です。だから、「それでは、やはり王なのか」と結論を急ぐ。それに対して、イエス様はこうおっしゃいます。

 「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」

 「今やユダヤ人の考えではなく、あなた自身が、わたしが王としての自覚を抱いていると考たことは分かる。そして、たしかに、わたしは王だ。しかし、私はあなたが考えるような意味で王なのではない。」そういう意味でしょう。

 真理を巡って

 そして、続けてこう言われるのです。

 「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 ここでも、「真理に属する人は皆」とは「真理からの人は皆」が直訳です。
 先週、イエスを捕えたり尋問したりする方の人間の方が恐怖に縛られている、自由ではないと言いました。そして、縄で縛られているイエス様の方が自由だ、と。それは実は真理と関係あることなのです。
 「真理」という言葉は、他の福音書にはほとんど出てきませんが、ヨハネ福音書には一章から出てきますし、合計二五回も出てきます。
 中でも八章に集中的に出てきます。そこでイエス様はこうおっしゃっています。

 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

 この「自由」とは、罪の束縛からの自由であり、恐怖からの自由でもあります。主イエスの言葉に留まるとは、主イエスの中に、その愛の中に全身全霊を委ねること、主イエスを信じること、主イエスと結ばれること、主イエスに自分自身を縛りつけてしまうことです。そのように主イエスと一体の交わりを持つ時に、私たちは罪の支配から解放され、神の支配、神の国に属する者になるのです。神から生まれる神の子となるからです。
 だから主イエスは八章四六節では、「わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」と言われるのです。イエス様の言葉は神の言葉なのであり、その言葉は、神に属している者、つまり信仰によって新たに神から生まれた者だけが聞くことができると言われるのです。その信仰を拒絶している限り、ピラトであれ誰であれ、イエス様の言葉を聞くことは出来ない。理解することは出来ないのです。
 いつも言いますように、私たちは理解したから信じるのではないのです。キリストは、信じて初めて理解できるのです。キリストの言葉である聖書は、信じて初めて理解できるのです。そして、それが信仰による理解である時、それは単なる知識ではなく、救いをもたらし、服従を呼び起こし、讃美を呼び起こすものとなる。だから、キリストを信じている私たちは、毎週、キリストを礼拝しているのです。礼拝せざるを得ないのです。
 「真理」に関して、もう一つ絶対に忘れてはならない言葉は、一四章の言葉です。そこで主イエスはこうおっしゃっています。

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことは出来ない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 イエス様が「真理を語る」とおっしゃる場合、それはイエス様自身のことを語っているのです。真理について、あれこれと講釈をしているのではなく、神から遣わされてきたメシア、モーセが上げた蛇のように上げられなければならない人の子、すべての人を引き寄せるために十字架に上げられることで神の栄光を現すご自身のことを語っているのです。そのイエス様を信じる時、私たちは真理そのものであるイエス様に属する者となる、つまり、この世ではなく神に属する者となるのです。神から新たに生まれるからです。三章で主イエスがおっしゃっていたように、水と霊とによって、洗礼を通して新しく生まれるからです。そして、その後、主イエスの言葉に留まり続けるなら、私たちは本当に主イエスの弟子となり、そこに真の自由があるのです。罪を王として罪に従う惨めな罪人でしかなかった私たちが、イエス様を王として崇め、従う神の子、神の民とされ、神の子、神の民として生きることができるようになるのです。そういう新たな神の子、新たな神の民イスラエルを造り出すために、イエス様は人として生まれ、そして独り子なる神としてこの世に来られたお方なのです。

 世に帰るのか、派遣されるのか

 主イエスの言葉を聞いて、自分の知らない世界、見たことも聞いたこともない現実があることを感じたピラトは、主イエスに問いました。
 「真理とは何か。」
 これはすべての人間の問いです。人間が人間である限り、真理を求めて生きているのです。私たちは誰でも、真理を知りたいと思って生きている。しかし、真理はこの世に来ても、この世に属するものではありません。だから、この世に属して生きていきたい者は、真理を求めつつ、真理を避ける。真理から逃げるものです。
 ピラトは、「真理とは何か」と言っただけで、すぐに外に出て行ってしまいました。そして、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と語るのです。しかし、そこに命をかけるわけではありません。彼の言葉は、ただの自己保身と自己防衛に過ぎません。彼はイエス様の中に罪を見いだせなかっただけでなく、真理を見い出すことも出来なかったのです。また、見い出すために、主イエスの前に立ち続けることもしなかった。彼は問うだけ問うて、すぐに外に出て行き、この世の人々の前に立ち、その声を聞き、そして、この世における地位の維持のために、罪を見いだせない男を、真理を証しし、真理へと招いてくれる男を、十字架につけるために、人々に引き渡していくことになります。
 ピラトの官邸の中、それは主イエスがおり、主イエスが真理を証ししている場所です。官邸の外、それは自分の欲望のままに従って生きているこの世です。彼は、何度も内と外の出入りを繰り返し、結局、外に出ました。世に帰って行ったのです。
 今、この礼拝堂、それは主イエスがいまし、主イエスが真理を証ししている場所です。私たちは、その真理の証しの声を聞いているのです。それは、時に辛く、厳しいことです。しかし、信じて聞くことができる人は幸いです。その人は、これから礼拝堂の外に出て行っても、それはこの世に帰ることではありません。真理であるイエス・キリストをこの世に証しするために派遣されるからです。真の王、メシアであるお方が、今、この世に来られたことを証しするために派遣されるのです。聖霊の注ぎを受けて、清められ、力づけられ、神の子、光の子として、恵みと真理に満ちた独り子なる神、イエス・キリスト栄光を讃美しつつ歩めますように祈ります。
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