「十字架につけられた王」

及川 信

ヨハネによる福音書 19章16節〜27節

 

 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。


 先週は一六節まで読みました。少し振り返った上で、今日の個所に入っていく必要があるだろうと思います。イエス様は、権力を振りかざして脅すピラトに対して、こうおっしゃいました。

 引き渡す 罪 裏切り

 「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」


 この「罪」は、ピラトが口にする「罪」とは本質的に違います。彼が言う「罪」とは、ローマの法律に違反する罪科ですが、イエス様がおっしゃる罪とは、神に背く罪です。私たち人間は、神様の被造物であるが故に、神様との愛と信頼の交わりの中に生きて初めて、その本来の人間性を生きることが出来るのです。それは神を愛し、信じ、同じく神の被造物である隣人を愛し、信頼することです。そういう神と人との交わりの中でこそ、私たちは真実な意味で生きるのです。しかし、私たちは、自らを神の位につけたがります。神に似せて造られたが故に、そのような思いを持つとも言えるでしょう。動物は、そんなことは思いもしません。神に似せて造られたことの一つの側面が歪められ、自らを神とする時、そこに何が起こるかと言うと、神を抹殺する、殺すということが起こるのです。「神は死んだ、神などいない、神を信じるなど愚かな迷信だ」と嘯くことが、その一つです。しかし、私たちのようなキリスト者にしても、気がつけば、自分の願望、欲望に従って生きていることは否定できません。「神を信じている」と言いながら、実際には神とは無関係な思い、いや神に背く思いに従って生きていることがある。とすれば、私たちの「罪」は、神を知らぬ者の罪よりも重いということになります。
 主イエスは「わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」とおっしゃいました。イエス様をピラトに引き渡したのは神の民ユダヤ人であり、特にその民を信仰によって導くはずの大祭司とか祭司長たちです。神の民の指導者たちが、神から遣わされたメシアを異邦人に引き渡すのです。さらに遡ってみれば、大祭司たちにイエス様を引き渡したのは、イエス様の弟子、最後まで残った十二人の弟子のひとり、イスカリオテのユダです。イエス様の側近です。大祭司とか祭司長が、教会で言えば牧師に当たるとすれば、ユダは長老の一人だと言ってよいでしょう。新しい神の民の中心的存在です。そういう者が、イエス様を引き渡す。その事実を軽視してはならないと思います。
 この「引き渡す」という言葉は、ギリシア語ではパラディドーミという言葉ですが、ユダに関して使われる場合はもっぱら「イエスを裏切ったユダ」と出てきます。つまり、「裏切り」なのです。イエス様を裏切ることはキリスト者にしか出来ません。イエス様を信じているわけでも、愛しているわけでもない者は、イエス様を裏切ることは出来ない。ピラトのように、「引き渡す」ことが出来るだけです。

 「ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。」

 これは、イエス様を殺すために引き渡したということです。裏切ったわけではない。しかし、彼はそこにおいて、無実の者を処刑するという、やってはならないことをしたことに変わりはありません。

 引き取る

 「引き取る」
、という言葉も、実に象徴的な言葉です。今お読みした最後、二七節にも出てきますが、それは来週にします。
 ユダヤ人たちは、自分たちの手でイエス様を裁くために「引き取る」ことは二度も拒絶しました。ローマに支配されている自分たちには、人を死刑にする権限がないというのが表向きの理由です。しかし、既に語ったように、自分たちの手を汚したくない、自分たちの地位を危うくさせたくはない、そういう思いが彼らにはありました。その彼らは、ピラトから、「十字架につけるために引き渡される」イエス様は喜んで「引き取る」のです。つまり、ピラトの手によって判決が下されたイエス様を十字架に引き渡すためなら引き取るのです。

 彼ら

 しかし、これまでも再三言って来ていますように、十字架刑はローマの刑罰です。つまり、死刑執行人もユダヤ人ではあり得ません。二三節に明記されているように、ローマの兵士です。しかし、一八節では、「彼らはイエスを十字架につけた」と書かれています。その場合の「彼ら」は、素直に読めば、ユダヤ人であり、その祭司長たちです。しかし、その「彼ら」が、具体的な意味で、イエス様を十字架につけるわけもないのです。イエス様を釘で打ちつけるのは、ローマの兵士です。
 こういう所で出てくる「彼ら」とは、ユダヤ人もローマ人もない、すべての罪人を含むのだと思います。そして、「十字架につける」とは具体的には、掌や足の甲に釘を打って十字の木に磔にすることですが、ここでは、そういう行為を言っているようでありつつ、実は、私たち人間が自分を王の位につけるために神を殺す、抹殺する罪の行為を表現しているのです。私たちが王として即位するために、私たちは神から遣わされた王を殺すのです。それが「彼らはイエスを十字架につけた」という言葉で言われていることです。
 私たちが、その「彼ら」の中に、自分を見い出すことが出来るか否かにすべてが掛かっていると言って少しもおかしくないと思います。私たちにとって、「彼ら」があくまでも「彼ら」である限り、ここに記されていることは、一つの昔話であり、自分とは無関係な他人事なのですから。

 十字架で起こっていること

 三〇節には、こうあります。

 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 原語では、「頭を垂れて息を引き渡された」です。パラディドーミです。ユダに始まって、次から次へと人々の手に引き渡されてきたイエス様は、ついに十字架に引き渡されました。しかし、その時、すべての罪人、民族人種階級の違いなど関係ない、すべての罪人を、主イエスはその身に引き取って下さったのです。そして、そのすべての罪人の罪に対する裁きを自ら受けて、すべての人間を神に引き渡して下さった。それが、主イエスがこの世に来て、成し遂げなければならない業、救いの御業だったのです。信じる者は神の家に迎え入れられます。信じない者は、滅びゆくこの世を我が家とし続けるだけです。

 自ら十字架を負い

 そういう意味で、一九章一七節の言葉は極めて重要です。そこでは、丁寧にも「自ら十字架を背負い」と書かれています。「イエスは十字架を背負い」だって目に見える行為としては同じことです。しかし、「イエス自らが背負う」となれば、そこにはもっと意志的なものがあるということです。
 この「十字架」とは目に見える形としては、十字架の横木だと言われます。受刑者は、その横木、自分が釘で打ちつけられる横木を背負わされて、都のすぐ近くにある処刑場まで歩かされます。しかし、その本質において、実は、主イエス自ら十字架を背負って、自分でゴルゴダの丘まで向かわれたのだ。ヨハネ福音書はそう断言します。そして、他の福音書に出てくるクレネ人シモンが無理やり十字架を背負わされたということも書きません。嘲笑する祭司長や群衆の姿も書かない。ただただイエス様の姿だけを見つめて、それを中心に据えていきます。それは、「イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた」という書き方にも現れています。中心はイエス様なのです。
 私たちが見るべきはイエス様、その十字架なのです。しかし、その十字架、イエス様が自ら背負った十字架とは何なのでしょうか。それは、単なる十字架の横木でしょうか。そんなことではありません。イエス様は、まるで物のように引き渡され、引き取られていきます。縛られたまま裁きを受け、そして、刑場に連れられて行く。しかし、実は、イエス様を十字架につけるすべての人が、つまり、私たち一人一人が、イエス様によって引き取られているのだし、イエス様によって背負われて刑場に連れて行かれ、神様に引き渡されていくのです。そういう意味で言うと、ここでイエス様が背負っている十字架とは、私たち一人一人、私たちのすべてであり、私たちすべての人間の罪なのです。イエス様は、神様を抹殺しようとする私たちを、イエス様を殺す私たちの罪を、自ら背負って処刑場に向ってくださったのです。私たちすべての罪を引き取って、十字架において身代わりに裁きを受けて、神に背く罪を取り除き、私たちを神様に引き渡すためです。
 世の罪を取り除く十字架


 それは、イエス様が十字架に引き渡された日時を見れば分かります。イエス様に死刑の判決が出たのは、「過越祭の準備の日の昼ごろ」のことでした。それは、イスラエルの罪を贖うための小羊が神殿で屠られる時刻です。人々が「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と叫んだ時刻は、その昼なのです。そして、「殺せ」とは「取り除け」という言葉と同じであり、それは、あの洗礼者ヨハネの言葉に出てきます。彼は、初めて主イエスを見た時にこう言いました。

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

 イエス様は、「世の罪」、つまり、ユダヤ人だとかローマ人だとか、そんなものは関係ない、「すべての人の罪」を取り除くために、あるいは殺すために神から遣わされた小羊、新しい過越しの小羊なのです。罪に支配された惨めな奴隷である私たちを、罪から自由の身にするために、イエス様は縛られ、引き渡され、肉を裂かれ、血を流す小羊なのです。
 ピラトは、そんなこととは知らず、洗礼者ヨハネと同じく「見よ」と言いました。「見よ、あなたたちの王だ」と。彼はイエス様を釈放したかったのです。しかし、本来、ただ神のみを王とすべき民ユダヤ人が、なんと"ローマの皇帝だけが自分たちの王だ"と叫ぶことによって、イエス様を死刑にすることが異邦人であるピラトによって決定されます。こうして、すべての人間の罪、「世の罪」が確定される。世のすべての人間が、神によって死刑にされるべき罪人であることが決定されるのです。
 ここで、そのことが起こっているとは誰も知りません。主イエスだけが知っているのです。その厳粛な事実を受けて、主イエスは、「自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴダという所へ向かわれた」のです。それは、すべての罪人を自ら背負って、すべての罪人に対する神様の裁きを受けるために、自分が殺されることによって世の罪を殺すために、ゴルゴダの丘に向われたということです。(ゴルゴダは、ラテン語ではカルヴァリですから、しばしばカルヴァリの丘とも言われます。)イエス様は、人間によって裁かれているのではありません。

 キリスト・イエスに結ばれる

 昨日、イースターに洗礼を受けることが決まった小野淳子さんと受洗準備会をしました。その中で、洗礼を受けることに関するパウロの言葉を読みました。そこには、こうあります。

 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

 洗礼を受けるとは、なによりも、自分が、イエス様によって背負われた十字架であることを認めるということです。本来は、自分が裁きを受けて死ぬ存在であること、罪人であることを認めることなのです。そのこと抜きに、「神様の愛を信じる」と言ったところで、それは単なる情緒的な告白に過ぎません。私たちは、洗礼を受けることを通して、イエス様と共に死ぬ。イエス様の死を自分の罪のためであると受け入れるのです。ただその時にのみ、私たちはイエス様と共に新しい命に生まれ変わることが出来るのです。それが、水と霊とによって新たに生まれるということです。
 そのようにして誕生したキリスト者である私たちもまた、先ほども言いましたように、日々新たにイエス様を抹殺し、自らを王とする歩みをしてしまいます。だからこそ、宗教改革者のルターは、「キリスト者の歩みは生涯悔い改めなのだ」と言ったのです。生きている限り、罪を悔い改めてイエス様に立ち返り、イエス様に背負われ、新たに信じることを通して新たにされ、イエス様によって生かされる。それがキリスト者です。イエス様が必要なくなるなどということはあり得ない。イエス様を礼拝しないでもちゃんと生きていけるなんてことは本来あり得ないのです。しかし、現実にはしばしばある。教会から離れていく人は多い。それは、この世的には幸せな人生かもしれませんが、まことに不幸なことです。だから、心が痛むことです。

 皮肉な展開

 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。


 ここも実に意味深な叙述です。ピラトは、これまでも「見よ」と言ってきました。「見よ、この男だ。」「見よ、あなたたちの王だ。」この叫びには蔑みがあります。こんな惨めな男を恐れて訴えるユダヤ人を蔑み、「ユダヤ人の王」に仕立て上げられた男を蔑む。そういう思いがある。しかし、彼の意図とは裏腹に、彼は何度もイエス様だけを見るように、と言ってきたのです。洗礼者ヨハネが言っていることと意図は全く逆なのだけれど、皮肉なことに、すべての人の目を、鞭打たれ、蔑まれ、茨の冠を被せられている一人の男に集中させ、こんな男が王であるはずがないだろう!と訴えるのです。その彼が最終的にやったこと、それは、イエス様を「ユダヤ人の王」として十字架に磔にすることです。そのことによって、ユダヤ人を決定的に侮辱する、敗北させたかったのでしょう。
 祭司長たちは、そのことに耐え難い思いを抱き、"いや、この男は私たちの王なんかではない。ただ王と自称していただけだ。だから、その罪状書きを書き直して欲しい"と訴える。実に醜い姿です。ピラトにとっては、「王を自称した」というだけでは、死刑にする理由になどならないのです。そのピラトの手でイエス様を死刑にするように追い詰めたのはユダヤ人です。彼らは、口が裂けても、イエス様を自分たちの王とは言いたくはなかったし、実際口では言いませんでした。しかし、イエス様のことを「ユダヤ人の王」としてローマの皇帝に対抗する人物としなければ、ピラトの手によってイエス様を処刑出来ないのです。そこで彼らは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と、本来絶対に口にしてはならないことを言った。そのようにして、イエス様を「ユダヤ人の王」として殺させたのです。その彼らが、ここに至って、「『ユダヤ人の王』とは書かず、『この男は「ユダヤ人の王」を自称した』と書いてください」と言っている。しかし、これまでユダヤ人に脅されてきたピラトによって、きっぱりと断られてしまいます。ピラトにしてみれば、ナザレのイエスが「ユダヤ人の王」でないのならば、処刑する理由はないのであり、正式に決定されたものを、今更変えることなど出来ないし、そこまでユダヤ人の言いなりにはなれない。神の民ユダヤ人は、ここでまさに「策士、策に溺れる」と言われる通り、自分たちの計略によって自分たちを貶めてしまいました。そして、こういうことは、私たちも嫌というほど経験してきているのではないでしょうか。

 罪状書き、称号

 しかし、彼らがここで、書き直しを求める理由も分からないでもありません。ここで「罪状書き」と記されていますし、それはまさに状況にあった翻訳ですけれど、この言葉は、ティトゥロスという言葉で、英語のタイトルの語源にもなっています。つまり、「肩書き」とか「称号」の意味でもある。その「ユダヤ人の王」という称号を、ピラトはご丁寧に三つの言葉で書く。「イエスが十字架につけられた場所は、都に近かったので、多くのユダヤ人が、その罪状書きを読んだ」とあります。つまり、公衆の面前で、ピラトは、すべての人が読めるように三つの言葉でイエス様が王であることを宣言したのです。ヘブライ語はユダヤ人の言語。ギリシア語は当時の地中海世界の公用語です。そして、ラテン語はローマ人の言葉です。つまり、全世界に向けて、ナザレ出身のイエスという男が、ユダヤ人の王であることを宣言したのです。こんなことが出来るのは、皮肉なことにローマの総督ピラトだけです。彼だけが、イエス様を処刑することが出来、彼だけが全世界に向けてイエス様が「ユダヤ人の王」であることを宣言できるのです。
 「ユダヤ人の王」、それは以前語りましたように、究極的な意味では全世界の王です。イエス様が生まれた時、占星術者がはるばる東の国から「ユダヤ人の王」を捜し求めてやって来て、礼拝を捧げたことからもそれは分かります。結果として、ピラトは、イエス様がそういう王であることを宣言してしまったのです。その王の前にひれ伏し、礼拝を捧げることもしないで、です。

 聖書の言葉が実現するために

 そういう意味では、次に登場する兵士たちも同じです。処刑に携わる兵士は四人だったようです。そして、いつの時代も処刑人というのは、誰もがやりたがらない仕事です。ですから、役得というものがついていた。
 日本にはまだ死刑がありますけれど、その死刑執行人に関する映画を見たことがあります。その人たちは、死刑を執行した後、やはり激しく精神を痛める。食事が出来ない、肉など食べることが出来ない、人と楽しく話すことが出来ない。そういう仕事の担当者とされる時、一週間の休暇を与える。そういうことがあるそうです。なんともやり切れない思いのする映画でした。
 当時の死刑執行人の兵士は、自分たちが殺す者が身に着けていたものを自分の所有とすることが出来たそうです。上着、ベルト、サンダル、頭に巻く帯、そして下着が、イエス様が身に着けていたもののようです。それを全部奪うのです。つまり、裸にするのです。
 死刑の方法は色々ありますけれど、十字架刑というのは公衆の面前で行う死刑であり、それだけでも屈辱の極みです。その上で、公衆の面前で裸にされるという、これ以上ない屈辱が加わり、さらに、自分の目の前で、死刑執行人が自分の衣服を取りあう様を見なければならないという屈辱も加わります。イエス様が身に着けていた下着は縫い目のない一枚織りなので、四つに分けるのを止めてくじ引きで決めることになった。こういう時、人間は興奮するものです。じゃんけんだって同じことですが、誰が当たるかハラハラドキドキしながらくじを引く。そして、当たった人間は喜んで大笑いするだろうし、外れた人間は、"チェ、今度は俺が当ててやる"なんて言うでしょう。自分が激しい痛みと屈辱に塗れているその真下で、自分の衣服を分けることに興じている人々がいる。それが十字架です。その十字架に主イエスが磔にされている。
 それはしかし、主イエスを挟んで十字架に磔にされている者たちの十字架とは全く違います。彼らの場合、それは法律を犯す犯罪の結果として人に裁かれて十字架に掛かっているのです。しかし、主イエスは、主イエスを引き渡したすべての者たちの罪を背負って、神様に裁かれて十字架に掛かっている。目に見える現実は同じでも、そこで起こっていることは全く違います。
 その現実を示すために、ヨハネはここで聖書を引用した上で、こう言うのです。

 「彼らはわたしの服を分け合い、
 わたしの衣服のことでくじを引いた」
 という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。


 この言葉は、詩編二二編の言葉です。詩編二二編、それはこういう言葉で始まる詩です。

 「わたしの神よ、わたしの神よ
 なぜわたしをお見捨てになるのか。」


 これは、マタイやマルコでは、イエス様が十字架上で呻かれた言葉です。その詩編二二編一七節以下にこういう言葉があります。

 犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。
 骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め
 わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。


 ヨハネは、ここでも見つめるのです。そして、私たちに見つめさせるのです。この十字架で何が起こっているかを。この十字架で起こっていること、それは自らを王とする罪の結果、自分でも分からぬままに犬や獅子という動物にまで身を落とした者たちが、つまり、神に背く罪人が、よってたかって神が遣わした王を殺しているのだ、と。そのようにして、神を殺しているのだ、と。しかし、見よ、それは神の言葉の実現なのだ。神にとって思いもよらぬことではないし、まして、神が無残に殺されているのではない。そうではなくて、神が、その独り子を見捨てることを通して、犬や獅子に身を落とした人間を、新たに神の像に似せた人間に造りかえようとしておられるのだ。神の子をさいなむ者を、讃美する者に造り替えるといういにしえの約束を実現しておられるのだ。今、ここで行われていることは、そういうことなのだ。ヨハネは、そう語りかけているのだと思います。

 神の死?

 イエス様が、このような形で死ぬということ、それは一体どういうことなのか。そのことを私は牧師になって二五年間考え続け、語り続けて来ているように思います。そして、今もよく分かりません。皆さんも、私のように語ることはないでしょうけれど、読み続け、聞き続け、考え続けておられると思います。今日も、イエス様の十字架の死について、ほんの一部分、それも薄っぺらなことしか、私には分からないし、そのようなことしか語れないことを思います。でも、今日は今日として、示されたことを語ります。
 イエス様は「真に神であり真に人だ」と言われます。それは、私たちにとって大切な信仰です。「ナザレのイエス」という言い方は、イエス様は人だという意味です。人だから死ぬのです。しかし、ナザレのイエスは「ユダヤ人の王」なのです。それはこの場合、「救い主」「メシア」という意味であり、「神の子」という意味であり、ヨハネ福音書独特の言い方で言えば「独り子なる神」です。だとすると、その神も十字架で死んだのか。神は死ぬのか、という問題になります。ある人たちは、この十字架の時、神としてのイエス様は既にイエス様の肉体から離れて天に帰っているのだと言います。十字架に磔にされているイエス様は、そういう意味では抜け殻なのです。しかし、そうなのだろうか?私は、違うと思う。
 先ほど名を挙げたルターは、こう言っています。これは神学生の時に聞いてびっくりし、以後、心にずっと留まっている言葉です。

 「キリストは神である。したがって神は死んだ。それは人類から身を引いた神ではなく、人類と一体化を遂げた神である。」

 私も、そう思う。イエス様は、ここで私たち死すべき罪人と一体化して下さったのです。パウロは、「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」と言っています。神であるキリスト(王)と私たちは、死においても結ばれているのです。
 私たちにとっての最大の問題は死です。罪の裁きとしての死です。自然の死などないのです。肉体は死ぬものだ、それは自然なことだというのは、当たり前のことです。しかし、その死が滅びに向かうための死なのか、義の栄冠を受けるための死なのか、それが問題です。私たちは、目先のこと、この世の栄誉ばかり求めて、まさにかまけているとしか言いようがありません。私たちにとっての本当の問題は、救いか滅びかです。多くの場合、その問題を考えることが怖いから他のことにかまけているだけです。本当の問題は、死の問題です。その死を、イエス・キリストが共にして下さるか、その死をイエス・キリストが背負って下さるか、私たちの罪をイエス・キリストがその身に引き取って下さるか、そして、私たちを贖い、神様に引き渡して下さるか。実は、そのことだけが本当の問題であり、そのことが究極的な問題なのです。
 イエス様は、神様の約束通り、骨と皮の裸体を晒しつつ、犬や獅子に身を落とした罪人を、口からは神をさいなむ言葉しか出てこない罪人を、神様との愛と信頼の交わりに生きる人間に造り替えるために死んで下さった神です。私たちを自ら背負い、ゴルゴダの丘に向って下さった神なのです。そして、私たちと共に、私たちのために死んで下さったのです。その死を通して、私たちを父に引き渡してくださった神なのです。そのような死を死なれたからこそ、復活されたのです。そして、神の右の座に就かれた。だから、私たちの王なのです。全幅の信頼を持って従うことが出来る王です。自ら十字架を背負って神の裁きを受けることを通して、罪と死にも勝利をし、支配下においた王、キリストとなられた方なのです。私たちは、恵みによって、その方を信じる信仰を与えられた幸いな者たちです。その信仰によって、私たちは生きる時も死ぬ時も、イエス・キリストに結ばれているのです。

 この人を見よ

 先週の火曜日の夕方に、教会員のSTさんがご自宅で天に召されました。生前から、若き日にキリストを知らされたことを心から感謝し、讃美し、いつも平安な顔をしておられました。二年ほど前に、私に人生の歩みを話し、「もうこれで安心して死ねます」とおっしゃり、葬儀の時に歌うべき讃美歌の一つに一二一番を指定されました。

 「すべてのものを 与えしすえ
 死のほか何も  むくいられで
 十字架の上に  あげられつつ
 敵をゆるしし  この人を見よ

 この人を見よ  この人こそ
 人となりたる  活ける神なれ」

 私たちは生きる時も、死ぬ時も、「この人を見よ」と、私たちの王、救い主を証し出来るのです。こんな幸いなことはありません。
 七時過ぎに、私がご自宅に着いた時、STさんは、本当に静かな笑みを湛えておられました。
 私は、そのお顔を見て、前夜式の際に読むべき言葉が分かりました。それはテモテへの手紙二の言葉です。

 わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。

 茨の冠を被せられ、十字架を王座とされるイエス・キリストを信じ、王として崇めて、自分自身を捧げて従う者は、自分が世を去る時が近づいても、正しい審判を経て、義の冠を受けることを確信しつつ生き、そして死ぬことが出来る。「正しい審判」とは、罪なき神の独り子がすべての人間の罪を背負って自ら十字架に掛かって死ぬという審判です。その審判を受けて下さった方を、神は王とされたのです。その方を信じる者は義とされる、義の冠を授けていただける。その幸いは、この世の幸いとは全く異なるものです。しかし、この幸いを与えるために、独り子なる神は、私たちを背負い、十字架に掛かり、私たちを神に引き渡してくださったのです。そして、今も私たちの王、キリストとして支配し、守り導いて下さっています。この方を信じ、この方に従い、この方を声を合わせて讃美しつつ、御国の完成を目指して歩む者とならせて頂きたいと願います。
ヨハネ説教目次へ
礼拝案内へ