「実現する聖書の言葉」
そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。 ヨハネの書き方 先週は、二四節あたりまでを読みました。今日は、その先に行きますけれども、一八節の言葉を読むことから始めたいと思います。 「そこで彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中に両側に、十字架につけた。」 ある出来事を書く場合、その出来事に関する何を書き、何を書かないかの判断と、どのように書くかは等しく大切なことです。ヨハネ福音書は、ここで「彼ら」と書いている。「ユダヤ人」ともローマの「兵士たち」とも書きません。敢えて、「彼ら」と書いているのです。具体的にイエス様を十字架に磔にしたのは誰かを問題とするのではなく、すべての人間がイエス様を十字架につけたという出来事の本質を描きたいからだと思います。さらに、「イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中に両側に十字架につけた」とあります。この人たちが犯罪者であることは間違いありませんが、他の福音書のように「強盗」とか「犯罪者」とも書きません。ただ「二人の人」とだけ書きます。そこには、人間は例外なく十字架に磔にされるべき罪人なのだという本質に関する暗示があるのだろうと思う。そして、ヨハネは、イエス様の身代わりに十字架を背負わされたクレネ人シモンや、十字架の下で嘲る祭司長たちや群衆の姿は描きません。ただ、三つの言葉で「ナザレのイエス・ユダヤ人の王」と書かれた札がつけられている十字架にイエス様が磔にされている様を描くのです。その十字架は三本の十字架の真ん中に立っている。その真ん中の十字架、そこに磔にされているイエス様と「ユダヤ人の王」という罪状書き、つまり、称号に焦点が合わされているのです。ヨハネ福音書においては、そういう書き方がなされています。 言葉の実現 その上で、ヨハネ福音書はさらに丁寧に、ここで何が起きているかを、私たちに説明してくれます。それは、四人の兵士がイエス様の服をくじ引きで分けた場面に対する言葉です。そこには、こうあります。 「聖書の言葉が実現するためであった。」 既に、一八章三二節で、「御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」という説明がありました。ここではローマの処刑方法である十字架にイエス様が上げられることが暗示されているのです。そしてそれは、一二章の段階でイエス様が言われた言葉の実現であると言うのです。イエス様は、そこでこう言われました。 「今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 イエス様に十字架刑を求めたり、判決を下したりするのは、「この世の支配者たち」です。しかし、ヨハネ福音書の書き方では、イエス様を十字架につけるのは、不特定多数の「彼ら」であり、イエス様の十字架の両側に磔にされている人々は「犯罪者」とは書かれません。つまり、すべての人がイエス様を十字架につけているのだし、そのことにおいて、実はすべての人が十字架に磔にされるべき罪人なのだ、とヨハネは語っていると思います。そして、これまで見てきましたように、主イエスはすべての人に引き渡され、引き取られつつ十字架に磔にされます。しかし、それはすべての人を引き取り、すべての人の罪を取り除いた上で神様に引き渡すために、十字架を自ら負われたということなのです。 主イエスの十字架の死、十字架に上げられること、それは「すべての人を引き寄せるため」です。支配者と民衆、まともな市民と犯罪者、ユダヤ人と異邦人、そして、今日の課題ですけれど、ユダヤ教会とキリスト教会。互いに分裂し、決裂し、憎み合い、一つになれないものがこの世にはあります。しかし、そういう世の中の真ん中に、主イエスの十字架が立っている。その事実にヨハネは目を向けさせるのだし、その十字架において、人間の罪の行為を通しても神の言葉、その御心が実現していることに注目させているのだと思います。そして、その御心とは、あらゆる立場の相違を超えて、すべての人間を御子イエス・キリストの十字架を通してご自身のもとに引き寄せることだと思います。 先週は、二四節までを読みました。そこでは四人の兵士たちが、イエス様が身に着けていた衣服やサンダルなどをそれぞれ自分のものにしました。しかし、下着は一枚織りだし、四等分すればただの布切れになり無価値です。そこで彼らは、その下着を巡ってくじ引きをした。それは、はるか昔に詩編二二編で歌われていた言葉が実現したことであり、兵士たちは何も知らずに、その詩編の言葉通りにしている。そのことの不思議、驚きをヨハネは語ります。人間の罪の行為ですら、神様の救いのご計画の中で用いられ、転換させられていく。その驚くべき御業に対する注意の喚起が、この福音書にはしばしば出てきます。 四人の兵士 四人の女 その上で、今日の個所に入っていきますけれど、一枚織りの下着が象徴、暗示する事柄についても少し触れた上で二五節以下に入りたいと思います。下着とは、体に密着したものです。この一枚織りの下着はイエス様の体に密着したものであり、切っても切れない関係にあるし、下着そのものも切れない、切ったら台無しになるものです。それをこの世に生きる人々に当てはめるとどういうことになるのだろうか?そういう疑問を心に置きつつ二五節以下に入っていきます。 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。 言うまでもなく、この四人の女たちが立っている場所の反対側には四人の兵士たちが立っています。この両者は男と女、権力側の人間と被支配民、ローマ人とユダヤ人、多神教のローマ宗教に属する人々と一神教のユダヤ教に属する人々という風に、ありとあらゆる違いを持った人々です。互いに愛と信頼の関係など持ちようがない人々です。そういう人々が四対四で、イエス様の十字架の両側にいる。あるいは、十字架のもとだからいることが出来る。そういうことかもしれません。こういう場面も、ヨハネにしかありません。そして、イエス様が「愛する弟子」というヨハネ独特の弟子が登場します。この場面は一体何を表しているのか、何を語りかけてきているのか。それが、今日の問題です。 母 イエス様の「母」が、ここに登場します。ヨハネ福音書をずっと一緒に読んできた方なら思い出されると思います。彼女は、イエス様の公生涯の一番最初にも出てきました。ヨハネ福音書では二章が、公生涯の最初ということになります。そこで最初の「しるし」、つまり、イエス様が神の子、キリスト(メシア)であることを示すしるしが行われます。通常、カナの婚礼における奇跡と呼ばれるあの出来事です。 その婚礼の席に、イエス様も弟子たちと共に出席をしました。そこには、イエス様の母親も来ていました。そこでも、母親とか婦人と言われるだけで、決して名前では呼ばれません。今日の個所でも「母と母の姉妹」とあり、他の福音書には出てくる「マリア」という名前は伏せられています。クロパの妻もマグダラの女もマリアという名前だから重複を避けたということではない。意図的に名前が伏せられるのです。ヨハネが、しばしば意図的に「彼ら」と書くのと似ていると思います。「愛する弟子」もまた、名前が書かれません。これも完全に意図的です。 カナの婚礼 カナの婚礼において、母は、イエス様に向って「ぶどう酒がなくなりました」と言って、暗に、なんとかするように求めます。しかし、イエス様は不思議なことをおっしゃる。 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 表面だけ読めば、意味不明の会話です。しかし、この後、イエス様は、「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」の中に、水を一杯入れるように「召し使い」に命じ、さらにユダヤ人の家の「世話役」に水を汲んで持って行くように命じます。すると、水がぶどう酒に変わっていた。世話役は、そのぶどう酒が「どこから来たか」分からなかったが、召し使いは分かっていた、とあります。実に不思議な面白い叙述です。ヨハネ福音書を読み続けていれば、「どこから来たか」という言葉が、決定的に大事なことはお分かりだと思います。こういう出自や由来に関わる言葉は、それが何であるか、それが誰であるかを表すからです。 このぶどう酒は、体の汚れを清めるためにユダヤ人が用いる水の代わりです。ユダヤ教では、汚れたものとの接触による汚れを非常に厳しく嫌い、水で清めます。しかし、イエス様は、その水をぶどう酒に変えました。そのぶどう酒が何であるか、ユダヤ人の家の「世話役」、僕のトップには分からなかった。しかし、他の個所ではキリスト者を表す言葉でもある「召し使い」、つまり奉仕者は、それが何であるか分かったのです。 この出来事をヨハネは、こう言って纏めます。 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。 これは「しるし」です。イエス様が神の子、メシアであることを示すしるし。イエス様は、このしるしを通して、神とご自身の栄光を現されるのです。そして、「栄光」とは、ヨハネ福音書においてはなによりも十字架の死と結びつく言葉です。その十字架において流される血、この血こそが、世の罪を取り除く神の小羊が新しい過越の祭りにおいて流す血です。そして、その新しい過越の祭りとは、新しいイスラエルである教会にとっては、今日からイースターに至る受難週において、私たちが二度祝う聖餐のことです。そこで私たちは、主イエスが私たちのために十字架上で流して下さった血を、ぶどう酒として頂くのです。そこに罪人の罪を取り除き、永遠の命を与えて下さる神の栄光が現れていることを知り、信じ、その栄光を讃美するのです。私たちの罪は、水で体を洗うことでは清められず、罪なき神の小羊の血によって清められ、贖われること、そのことを主イエスは、母に対して、このユダヤ人の家で、暗示されました。まだ、イエス様の時が来ていなかったからです。そのことを信じたのは、弟子たちだけです。 イエス様のこの行為は、キリスト教の母体であるユダヤ教とキリスト教の関係性を暗示するものでもあると思います。キリスト教はユダヤ教を母体としている、これは歴史的にも内実的にも明らかなことです。しかし、キリスト教はユダヤ教とは全く異質なものとして誕生した、あるいはユダヤ教から脱却した、このこともまた歴史的にも内実的にも明らかです。そういう両者の関係性の暗示、それがここにあると思います。だから、イエスの母はイエスの母であり、婦人でなければならない。マリアという固有名詞で呼ばれる一人の人間であってはならないのです。 愛弟子 そういう意味で言うと、イエス様の十字架の死とは、まさに「わたしの時」「イエスの時」が来たことを表しています。つまり、イエス様が神の子・メシアであることが鮮明に現れるのは、この十字架なのです。イエス様の公生涯は、カナの婚礼に始まり十字架で終わる。その十字架は、神の栄光を表します。この十字架の死においてこそ、「すべてのことが成し遂げられた」からです。もちろん、この死の中に既に復活が語られているから、そう言えるのです。 その最初と最後に「イエスの母」が登場する。その意味は深いと言わざるを得ないでしょう。そして、ここには、やはり名前が記されない「愛する弟子」(通称、愛弟子)が出てきます。私はイエスの「母」はユダヤ教団を代表し、暗示しているものと考えます。それに対して、「愛弟子」は、母から生まれ、完全に親離れしたキリスト教会の象徴と考えます。誰か特定の個人を指しているのではないと思うのです。この点については、学者たちの見解は様々であって、私が言っていることは、その中の一つの可能性に過ぎないことですけれど、私はそう考えています。 この愛弟子は、イエス様が弟子の足を洗い、またユダの裏切りを予告されたあの食事の場面に登場します。弟子の誰かがイエス様を裏切るとイエス様がおっしゃった時に、ペトロはびっくりした。そして、イエス様の「すぐ隣」にいて、イエスの胸元によりかかっている愛弟子に、誰のことを言っているのか尋ねるように合図したとあります。つまり、弟子の筆頭と目されるペトロよりも近い存在としてこの愛弟子は登場するのです。この点について、ペトロを筆頭とするエルサレムの教会とヨハネの教会のライバル関係を見るという歴史的な見方もあります。しかし、私はそういう歴史的な見方ではなく、この弟子は理想的なキリスト教会の象徴と見た方が、この後にも登場する愛弟子の姿を鑑みても相応しいと思います。 その一つの理由は、イエスの「すぐ隣」と訳されている言葉は、ここと一章一八節にだけ出てくるのですけれど、そこにはこうあるからです。 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 「父のふところにいる」という言葉が、「すぐ隣にいる」と同じ言葉です。父のふところにいるイエス様だけが、神と本質を同じくする方であるが故に、神を見、その言葉や業を通して神を示すことがお出来になる。ヨハネ福音書は、そう断言します。この方は、独り子なる神である、と。それとの類比で言えば、イエス様のすぐ隣にいる愛弟子だけが、イエス様の心を知り、それを現す存在であるということになります。イエス・キリストと一体の交わりを生きる理想的なキリスト者、あるいはキリスト者たちを、愛弟子は表していると思います。 十字架の下で起こること その愛弟子が、十字架のイエス様の下で、母とその仲間たちのすぐそばに立っている。その様を見て、十字架に磔にされているイエス様が、母に向って、こうおっしゃる。 「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」 そして、愛弟子に向って、こう言われる。 「見なさい。あなたの母です。」 「御覧なさい」も「見なさい」も、一九章でピラトが何度も言ってきた、「見よ」(イデ)という言葉です。母が象徴するユダヤ教団は、自分たちの子でありつつ、独り子なる神であるイエス・キリストを理解できず、信じることも出来ず、ついに神の名、さらにローマ皇帝の名を使って処刑しました。母と子は、ついにそういう関係になっている。しかし、イエス様はご自身と一体の歩みをしている愛弟子を、自分と同じように「子」として見るように「母」に命じます。そして、愛弟子に向っては、イエス様を処刑したユダヤ教団を母として見るように、つまり、身内として受け入れるようにと命じるのです。 「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」とあります。「自分の家」とは、「自分に属する人々」が直訳であり、「自分の民」ということです。これはとても大事な言葉で、一章に出てきます。 「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」 この「自分の民」も、目に見える形ではユダヤ人です。しかし、初めからあった言は万物を造ったのですから、「ご自分の民」とは世界のすべての人のことでもあります。そういう二重性、象徴性がここにもあります。とにかく、イエス・キリストの公生涯は、ご自分の民に受け入れられないというところから始まります。しかし、この「自分の民」は、ヨハネ福音書において、次第に、「言を受け入れた人」、つまり、イエス様を信じて弟子となった人々を表す言葉として使われてきます。今日の個所の場合も、そうです。ここでは、あたかも愛弟子の家という感じになりますけれど、現実には、それはイエス様の家のことを表します。つまり、主人はイエス様なのです。 たとえば、私たちが誰かを教会に誘う時、「わたしの教会に来て下さいよ」と誘います。一向に問題はありません。でも、その「わたしの教会」とは、イエス・キリストが主人である神の家のことです。そこに生きている人々、キリスト者は、言としてのイエス様を受け入れる信仰によって神の子たちです。イエス様の弟子たちです。 子が母の許に帰るのではありません。母が、子に受け入れられる、その家に引き取られるのです。それは、イエス様にしてみれば、自分を殺す者を自分の身内として受け入れるということです。神にしてみれば、自分の独り子を殺した者をご自身の子として引き取るということなのです。そんなことは、この世ではあり得ないことです。ただ、十字架の下でしかあり得ないことだし、それは神様だけが、御子イエス・キリストを通して成し遂げることが出来る愛の業です。その業が、今この時、聖書の言葉の実現として起こっている。聖書は、そのように告げているのです。つまり、このようにして、イエス様は世に勝たれた、勝利されたのだ、と。 人間の現実 ここで語られていること、それは、本来は決して一つになりようのない者同士が、ただイエス・キリストの十字架において一つになる、裂くことのできない一枚織りの下着のようになる。そういうことでしょう。 神と人。本来、人は、神に似せて造られた者として、神との一体の交わりの中で生きるべきものなのです。そして、人と人も愛と信頼の交わりの中で一つとなるべきものです。しかし、その神と人が、罪によって断裂し、決して一つになることが出来なくなっていました。必然的に、人と人も分裂するほかにないのです。しかし、その互いに分裂した人間たちが、神の独り子イエス・キリスト、神の小羊イエス・キリストの体が、裂かれることを通して、血を流すことを通して、その血によって罪を贖って下さることを通して、一つのものとして神に引き渡され、引き取られていくのです。イエス様をキリストと信じるとは、そういうことです。 その信仰を与えられた時から、私たちはイエス様のすぐ隣に生きる、そのふところの中に生きることが求められますし、聖霊の導きに身をゆだねれば、そのように生きることが出来る。それが弟子、愛弟子として生きるということです。その弟子とは、イエス様を迫害したように自分たちのことを迫害する者たちを、イエス様が愛したように愛して生きていくことが求められるし、聖霊の導きに身を委ねるならば、そのことが出来るのです。 歴史的に言えば、イエス様が十字架に架かった時、ユダヤ教団と弟子たち(キリスト教会)は、母と子の関係でありつつ、迫害する者とされる者という関係性の中にありました。ヨハネが福音書を書いている時代は、さらにその傾向が強まっていました。当初、ユダヤ教の一派と見られていたのが、イエス様を神と信じ、告白することによって、決定的に分裂して行ったのです。しかし、次第にキリスト教会の伝道が進展し、ローマ帝国そのものがキリスト教化され、さらにそれがヨーロッパ全土に広がる過程の中で、キリスト教徒がユダヤ人を迫害するようになっていきました。自分たちが住む土地から追い出し、さらに抹殺するようになっていったのです。「キリストを殺したのはユダヤ人だ」と限定することによってです。ヨハネが「彼ら」と書いているのに、その「彼ら」に、自分はいない、これはユダヤ人のことだと決めつけたのです。そのことも一つの原因となって、ユダヤ教団とキリスト教会は、今もって決定的な分裂の中にいます。母と子は、今も、分裂しています。それだけではありません。神と人だって、人と人だって、今も分裂し、敵対している状況は少しも変わりありません。 キリスト者の希望 しかし、にもかかわらず、私たちは、絶望はしません。神様の御言は必ず実現することを知っており、そして、信じているからです。イエス・キリストの十字架の死があっても、世界の現実はこの程度か、とも言えるのでしょう。しかし、あの十字架の死がなかったら、こんなものでは済まなかったとも言えるのではないでしょうか。 私は、ある親しい人に、「イエス・キリストを信じたところで、所詮、人はイエス・キリストのようには生きることは出来ないし、信じているというあなたを見ても、自分とさして変わるわけでもない。そうであるなら、別段信じる気にはなれない」と言われたことがあり、深く納得してしまったことがあります。でも、そう言う人にも分かってもらいたいのは、信じていなかったら、私はどうなっていたか分からないということです。信じている今でも、私は投げやりというか、自暴自棄な面と自己独善の面が強いことは認めますけれど、これでもイエス様のお陰で、希望を持つことが出来るようになったし、反省したり、悔い改めたりすることが出来るようにもなりつつあるのです。もし、イエス様の十字架がなければ、そこで示されている信じ難い愛を信じることが出来なかったら、私個人は自分を愛することも出来ないし、人を愛そうとすることも出来ないことは確実なのです。そして、人生の空しさを紛らわすために刹那的な刺激や快楽を求めて、そのことによってむしろ空しさを深めていく。そういう生き方しか出来ませんでした。 世界の現実も、争いが絶えないし、今も差別がたくさんあります。矛盾に満ちている。その争いも差別も矛盾も、私たちキリスト者が作りだしている面を否むことは出来ません。それでも、いや、そうだからこそ、私たちはイエス様の十字架の許に立たねばならないのです。私たちの中心に立っている十字架、二人の人の中心に立っている十字架、ローマの兵士と女たちの間に立っている十字架の許に立たねばならないのです。それもイエス様に愛される弟子として。つまり、いつも主イエスの「すぐ隣」に生きる弟子として、いつもその御心を尋ね求め、告げ知らされ、そしてその御心を生きる弟子として立たねばならない。そのことを、主イエスが望んでおられるからです。そして、そのことを主イエスが望んでおられるから、私たちが主イエスの方に心と体を向けさえすれば、主イエスはご自身の十字架の許に私たちを立たせて下さるし、その御心を告げ知らせ、御心を行う力も与えて下さいます。ただその恵みの事実の中にのみ、私たちの希望があるのです。世の現実を見ても、私たちの現実を見ても、そこには希望は見えてきません。ただ十字架を見て、その十字架の主イエスが見るように世の現実を見ることが出来る時、そこには深い分裂の現実と共に将来の一致への希望を見ることが出来るのです。本当の希望を持っておられ、それを実現して行くことが出来るのは、神と一体の交わりを持っている主イエスその方だけなのですから。 神の道 パウロは、その希望をローマの信徒への手紙一一章二五節以下で熱烈に語っています。ユダヤ人がイエス・キリストを憎み、殺してしまい、神に敵対し、神への不従順に陥っているのは異邦人が憐れみを受けるためだったのだ、と。人の罪をも用いて、すべての人をご自身の許へ引き寄せようとされる神様の不思議な御業を、彼はこう言って讃美します。 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。 だれが主の相談相手であっただろうか。 だれがまず主に与えて、 その報いを受けるであろうか。」 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。 まさにそうなのです。聖書に記されている神様の御心は必ず実現するのです。今は、まだ御国は完成していません。でも、人々が捨てた石が、もう御国のための隅の親石として据えられているのです。その御国、神の家の建設を妨害し、ついに諦めさせることが出来るような存在はありません。神は、御子イエス・キリストを通してこの地上に教会を建設し、今もその教会を形成し続けることを通して世界に御国をもたらし続けておられるのですから。私たちはその御業に与ることが出来るキリストの召し使いであり、弟子であり、神の子なのです。 アメリカの人種差別撤廃運動を非暴力で継続し、一九六〇年代後半に暗殺されたキング牧師は、「私には夢がある」と語り続けた人です。その彼は、いつの日か差別が激しいジョージア州で、奴隷の所有者の子孫と、奴隷の子孫が、共に一つ家の中で神の家族として食卓に着く日を夢として見ます。それは幻想ではないし、単なる個人的な願望ではない。聖書を読んでいる者として、聖書の言葉は必ず実現すると信じる者として、当然見るべき夢なのです。私たちだって同じです。この国で見るべき夢がある。 私は、アンナスやピラトの裁判の記事を語る中で、何度も「真理は人を自由にする」というイエス様の言葉を引用しました。それはキリストを信じる者に与えられる自由です。罪の束縛からの自由です。キング牧師は、演説をこう締め括ります。 「私たちが自由の鐘を鳴らせば、そう、村という村、集落という集落から、また、州という州、町という町から自由の鐘を鳴らせば、その時には、黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人も、プロテスタントもカトリックも、すべての神の子たちが、手に手を取って『ついに自由になった!ついに自由になった!全能の神に感謝すべきかな。私たちはついに自由になった』という、あの古い黒人霊歌を口ずさむことが出来るだろう。」 主イエスの十字架の両側に磔にされている人々も、兵士と女たちも、ピラトや祭司長たちも、すべての者が主イエスの十字架を受け入れる時、手に手を取って自由になった喜びを讃美出来るのです。 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向っているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」 この栄光は主イエスの十字架の栄光です。この十字架においてすべてのものは今も保たれ、神に向っているのです。そのことを信じて、今日も全能の神とその独り子主イエス・キリストに感謝と讃美したいと思います。 |