「成し遂げられる神の業」

及川 信

ヨハネによる福音書 19章28節〜42節

 

 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
(以下省略)

 ヨハネ福音書を読み続けてきて、いよいよ主イエスが息を引き取られる場面となりました。今日はイースターですから、主イエスの復活の場面をヨハネ以外から選ぼうかとも一瞬考えました。しかし、ヨハネ福音書においては、十字架の死は復活であり、復活は十字架の死を知らせることなのです。それは、今後明らかになっていきます。そこで、今日は、先週の続きをそのまま読むことにします。
 しかし、今日は真に喜ばしいことに洗礼式があり、これから受洗者と共に祝う聖餐式がありますから、四〇分を必要とする講解説教は出来ません。今日はポイントを絞っていきます。来週は、青学短大のシオン寮の学生さんが十数名来られるので、ヨハネではない個所での主題説教とします。一八日に、再び今日の個所に最初から取り組んでいきたいと思っています。

 肉体と水

 主イエスは、十字架上で「渇く」とおっしゃいました。丁寧に主語を入れれば「わたしは渇く」とおっしゃった。
 「死に水をとる」という言葉があります。元来は釈迦が死に際に水を求めたことに由来する仏教用語で、死者の復活を願って水を含ませるということのようです。今は、"最期まで介護する"という意味でも使われます。いずれにしろ、死の間際に人間が喉の渇きを覚える。それは事実です。人間は、やはり水がなければ生きてはいけないのです。洗礼式でも水が使われますけれど、聖書において水は、実に様々な意味を持っています。
 主イエスは、「渇く」と言われた。そこにおいて、「聖書の言葉が実現した」とヨハネ福音書は語ります。その「聖書の言葉」とは何かを初めとする事柄については、次回に語りますけれど、私は、「渇く」とは、主イエスが本当の意味で人間として死んだことを表していると思います。
 いわゆる「畳の上で死ぬ」という安らかな臨終においても、人間はその最期に渇きを覚えるものです。しかし、主イエスの死は、十字架の死です。鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、手や足にぶっとい釘をうたれ、裸で磔にされているのです。想像を絶する苦しみがそこにはあります。鼻から息を吸って口から吐くなどということは出来ません。口をあけてぜーぜーと息をするほかにありませんから、どんどん渇きが増すでしょう。それに加えて、自分の身体の重みを釘で打たれた左右の腕では支えきれず、次第に胴体が下がっていき、肺が圧迫されて来る息苦しさがある。さらに、釘を打たれた手や足から滴る血潮によっても、体の水分は失われていく。そういう二重三重の激しい渇きを味わわれたのです。主イエスは、人間だからです。人間の肉体が味わう苦痛のすべてを味わわれた。

 心と水

 しかし、人間は肉体だけではありません。心がある。心がどこにあるのか見せてみろ、と言われても困りますけれど、肉体があるのと同じようなリアリティをもって心がある。その心が渇くということがある。主イエスの「渇く」「わたしは渇く」という言葉は、肉体の渇きだけではなく、心の渇きを表現した言葉でしょう。どういう時に、私たちの心は渇くのか?それは独りの時です。その独りとは、一人で部屋にいるとか、そういう意味での独りではありません。孤独であるという意味での独りです。誰とも交わりがない、心の交流がないという意味での独りです。私は、一人でいることが好きで、一日の大半をこの建物の中で一人でいることが多いし、それは自分にとっては快適なことです。しかし、それは自分が独りではないことを知っているから快適なのです。
 多くの人々と表面的には笑いながら過ごしている時に、自分は独りだと感じていることは、誰にでも経験があることだと思います。ここにいる誰も自分のことを知っているわけではないし、自分も誰のことも本当には知らない。ただ空間的に一緒にいるだけ。仲間のように振舞っているだけ。そういう孤独があります。名前を知っているとか、仕事が何であるかを知っているとか、性格を知っているとか、そんなことは心とは何の関係もありません。愛しているかどうか、愛されているかどうか、ただそのことだけが心にとっては問題なのです。知るとは愛することであり、知られているとは愛されていることです。誰のことも愛していない、誰からも愛されていない、その時、人は孤独になります。そして、孤独は絶望をもたらします。そして、絶望は死に至る病なのです。そして、その死に至る時、心は激しい渇きに苦しむのです。

 孤独

 主イエスは、ご自身の民の所に来た方です。そして、その民を愛されました。特に、ヨハネ福音書一三章にありますように、世にいる弟子たちを、この上なく愛し抜かれた。極限まで愛されたのです。しかし、その愛は、少なくともこの時、彼らには通じていませんでした。最後の晩餐の席で、主イエスが弟子たちの足を洗っている時も、やはり深い意味で孤独であったのです。主イエスは、こうおっしゃっています。

 「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」

 そういう孤独。共に一つ屋根の下に暮らしていても、自分は独りだと感じる孤独。そういう孤独を、私たちも互いに感じている、そういう場合があります。愛し合っているはずなのに、実は、愛し合っているわけではない。ただ空間を共にしているだけ。そういう場合がある。その時、私たちの心は渇いている。主イエスの渇きにも、そういう人間としての渇きがあると思います。
 しかし、それだけか?というと、そうではないだろうし、主イエスには、私たち人間とは全く違う渇きがあるのだと思います。
 私は、「聖書の言葉が実現した」という言葉の一つの意味として、主イエスは私たちと全く同じ人間として死んだのだと言ってきました。それは確かにそうなのです。しかし、主イエスは私たちと同じ人間であっただけなのか?と言えば、それは全く違います。

 交わり

 主イエスは、先ほどの言葉に続いて、こうおっしゃっているからです。

 「しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 「わたしはひとりではない。」
主イエスは、そうおっしゃいます。「父が共にいてくださるからだ」と。つまり、父は私を知っていてくださるということです。愛していてくださるということだし、主イエスも父を愛している。父なる神と主イエスは、そういう一体の交わりの中に生きているのです。その事実は、十字架の時も些かも変わることがありません。この十字架においても、主イエスは父のふところの中におり、主イエスの中に父なる神が生きておられる。
 繰り返しますが、主イエスは、たしかに愛の交わりを持てない孤独な人間として、つまり、罪人として死んでいるのです。そういう罪人としての渇き、人間が味わう極限の渇きを味わっておられる。しかし、その一方で、何ものも壊すことが出来ない父なる神と子なる神の愛の交わりを生きているのです。そうなると、子なる神としての主イエスは、些かも渇きを感じる必要がないということになります。人間としては渇いていても、神としては渇いていない。そういうことになる。だとすると、ここでの「渇く」という言葉は、人間としてのイエス様の言葉であって、神としての言葉ではないことになります。
 しかし、そうなのだろうか。この言葉は、より根源的言えば、父なる神と一体の交わりを生きている子なる神としての主イエスの言葉なのではないでしょうか。

 渇く マザー・テレサ

 この言葉に関して色々と思いめぐらしている中で、私は随分前に見た一つの映画の場面を思い出しました。それは既に世を去ったマザー・テレサの伝記映画です。その映画の冒頭場面は、人々がごった返す駅の構内で、一人の貧民が行き倒れになる場面です。駅を行き交う人々は、その倒れている人に目もくれません。私たちが、路上で眠っているホームレスの人々に目もくれず通り過ぎる、あるいは目をそむけて通り過ぎるのと同じです。しかし、マザー・テレサは、その人を見て、近づき、しゃがんで、抱きかかえます。その時、その行き倒れの人が、苦しみに喘ぎつつ、マザー・テレサを見て、「渇く」というのです。その言葉が、彼女のその後の歩みを決定づけていきます。
 彼女は、死にゆく人が呻いた「渇く」という言葉を、イエス・キリストの言葉として聴くのです。彼女にとっては、誰からも愛されず、誰からも目に止めてもらえず、誰からも耳を傾けてもらえず、独り渇きを覚えて死んでいく人々がイエス・キリストになるのです。そのイエス・キリストが、何を求めて渇いているのか。それは愛です。だから、彼女はイエス様の渇きを癒すために死にゆく人々を愛するのです。イエス・キリストの渇きを癒すのは愛だから。そして、イエス・キリストを愛することによって、実は、自分もイエス様に愛され、渇きを癒されていく。そこに人が生きる道があり、真理があり、命がある、と説いていく。
 アウグスティヌスも、十字架上のイエス様の「渇き」を、神の渇きとして受け止めます。神様が、私たちを求めて渇いている。喘ぐように私たちの愛を求めているのだ、と。

 蛇は生きている

 不思議なことです。私たちは誰でも愛を求めて生きています。愛されること、愛することを求めて生きている。誰も真実な意味での孤独でありたいとは思っていません。私たちは、そもそも「人が独りで生きるのはよくない」という神様の御心によって、共に生きるべき者として創造された人間です。だから、誰もが愛の交わりを求めている。にも拘わらず、私たちは孤独になっていく。孤独の中で、苦しみ、絶望に堕ちていく。それは、エデンの園にいた蛇が今もいるからです。蛇は今も生きており、私たちの踵を噛み砕こうと、いつだって狙っているのです。その蛇が、私たちに囁きかけてくる。"一人で生きていく力を身につけなさい。本当のことを言うと、愛などでは生きてはいけない。金がなければ生きていけないんだ。そのためには、人を蹴落としてでも、自分の地位を求めなければいけないんだ。神など古代人が作りだした幻想なんだよ。そんな幻想から目を覚ましなさい。あなた自身が神のようになればいいんだから。さあ、この実を食べたらいい。子どもじゃないんだから、いつまでも戒めになんて縛られていては駄目だよ"、と。蛇は、実につまらない、そして下らないことを言っているのです。しかし、情けないことに、このつまらない、下らない言葉に一度も騙されたことがないという人はいません。人が目の前で倒れて死にそうになっていても、そんな人と関わってしまったら大変なことになるからやめておこう、という思いだって、蛇に騙されている人間の幻想なのです。手間のかかる人は愛さない方が得だという幻想です。たしかに、一時的には得でしょう。しかし、果たしてそうなのか?自分がその手間のかかる人間になった時、愛してもらえるのか?さらに、神は、この世における得だけを求めて生きている人間を、どのようにご覧になるのか?最終的には、その問題なのです。
 マザー・テレサは、行き倒れて渇いている人がイエス・キリストであると言います。こういう彼女の認識は、彼女の勝手な幻想ではありません。イエス様は、この世の中で困窮に瀕している人を愛し、助けることは、すなわち私を愛し、助けることと同じだとおっしゃいました。そして、そういう手間のかかる愛に生きる者を、天国に迎え入れるとおっしゃった。道路で倒れていなくたって、激しい孤独の渇きの中に呻いている人は、実は身近にいます。そういう人は大体、心を閉ざしているし、また我がままになっていることも多いので、関わることは大変です。しかし、自分が孤独の絶望の中にはまってしまった時、そういう自分と愛をもって関わってくれる人が一人もいなければ、それはまた大変です。どっちも大変なのです。大変だから、関わらない方が得策だ、愛さない方が得策だ、賢い生き方だということになる。そうして、私たちは誰もが愛を求めているのに、孤独になっていく。渇いていく。そこに罪というものの実態があると言わざるを得ないと思います。

 無縁死

 先日、NHKで、誰にもみとられず、誰にも死に水を取ってもらえず、誰も遺骨を引き取りにも来ない身元不明の無縁死、あるいは孤立死と呼ばれる死に方をする人々が年間に三万人いるということが報道されました。自殺者も三万人、無縁死も三万人。その番組の反響は大きく、昨晩も続編が放映されました。それによると、無縁死を身近に感じる人は独り暮らしの高齢の方だけでなく、むしろ三〇代、四〇代の独り暮らしの人々でした。実に暗澹たる現実が、そこにはありました。年間三万人というと、一日に八十人以上です。自殺者を合わせると一日に百六十人以上であり、それは一時間に六人以上です。私たちがこうして礼拝を捧げている間に、六人以上の人たちが、誰にも見られない所で自ら命を絶ったり、孤独の渇きの中で死んでいる。そういう社会の中を、私たちは生きています。そして、そういう人間社会の只中で、イエス様が渇いている。十字架の上で渇いている。愛を求めてです。何故、人間は、愛を求めないのか。いや、愛を求めつつ、拒絶するのか?と呻きつつではないでしょうか。

 血と水が流れ出た

 主イエスは、人々が思うよりも早く十字架の上で死なれました。ここにもありますように、止めの一撃として足の骨を折る前に、既に死んでしまったのです。しかし、死をさらに確認するためでしょうか、兵士の一人が、主イエスのわき腹を刺した。すると、「血と水が流れ出た」とあります。これを、血液と体液であるとか言うことも出来るでしょう。イエス様は人間の肉体を持っていたことの証明であると捉えることもできる。しかし、ヨハネ福音書は、これまで一貫して、肉体を持って生きておられた主イエスの中に、活ける神がおられることを証ししてきました。それはつまり、死すべき体の中に永遠の神が生きておられるということでもあります。
 ヨハネ福音書の七章には、仮庵の祭りを祝うためにエルサレムに上られたイエス様のことが記されています。仮庵の祭りとは、イスラエルが奴隷であったエジプトを脱出し、約束の地を目指して荒野を四十年に亘って放浪したことを記念する祭りです。荒野とは、なによりもまず水がない所です。イスラエルの民は、その荒れ野の中で絶えず渇きの恐怖にさらされていました。そのイスラエルに対して、神様はいつも不思議な仕方で水を与えてくださった。そのことを記念し、讃美を捧げる祭りなのです。水と光の祭典とも呼ばれています。その祭りが最高潮に達する時、イエス様は立ち上がり、多くの人々に向って大声でこう言われたのです。

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 そして、ヨハネは、例によって、説明を付け加えます。

 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている"霊"について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、"霊"がまだ降っていなかったからである。

 先週も言ったことですが、ヨハネ福音書において、「栄光」は何よりも十字架の時に現れるものです。十字架、それはあらゆる意味で「渇き」の極みです。人間としてのイエス様は、苦しみの限界の中で渇き切っています。罪人が味わう孤独としての渇き、神とも、人とも断裂し、ついに独り滅んでいく人間としての渇きがここにはあります。しかし、父なる神と一体の交わりの中に生きているイエス様も、また別の意味で渇き切っているのです。イエス様を信じる者を求めての渇きです。それは、人間を愛しても愛しても、人間から愛されない神の渇きです。蛇の唆しの中で、神の愛を否定し、潤いを求めつつ渇き、永遠に生きようとしてむしろ滅びとしての死を選び取っている罪人がいます。私たちです。そういう罪人を、それでも愛し、その罪を赦し、新しい命を与えようと招いているのに、その招きに誰も応えてくれない現実の中で、主イエスは渇いている。「わたしは渇く」という叫び、それは「わたしのところに来て、生ける水を飲みなさい」という叫びです。

 罪も咎もあるまま

 今日、受洗された小野淳子さんが学び、また現在勤めておられるのは、中渋谷教会の何人もの方が学ばれた恵泉女学園です。恵泉とは、恵みの泉と書きます。主イエスの十字架の死、その渇き切った心は、実はとめどなく湧き溢れる愛の泉、罪の赦しと永遠の命を与える恵みの泉なのだという意味だと思います。小野さんは、その学園で学び、働きつつ、次第次第に神の導きを与えられ、ついにこの日を迎えられました。そのための一つの切っ掛けになったのは、一月に、私と受洗を巡って話し合った時の、私の言葉にあります。
 多くの人が、自分のような者が洗礼など受けてよいのかと迷うのです。クリスチャンとして生きていけるのだろうか、クリスチャンになる前にもっとちゃんとしなければいけないのではないか、もっと清く正しい人間になってからでなければ洗礼など受けることは出来ないのではないか。そう思うものです。極めて当然な思いだし、健全な思いでもあるでしょう。でも、他面、実に傲慢な思いだし、幻想なのです。蛇の囁きに見事に絡め取られているからです。私たちは、誰も自ら清めることは出来ません。罪や咎を犯すことを止めることなど出来ないのです。そもそも、それが出来るのなら、イエス様が十字架に架かって、渇きの中に死ぬ必要などないのです。
 私は、小野さんのためらう言葉を聞きつつ、思わず、「罪も咎もあるまま来りひれ伏せ、ですよ」と言ったのです。これは讃美歌五一七番に出てくる言葉で、その讃美歌は、若い頃から、私の特愛の讃美歌なのです。

 我に来よと 主は今
 やさしく よびたもう
 などて愛の光を 避けてさまよう
 「帰れや、我が家に
 帰れや」と、主は今呼びたもう

 まよう子らのかえるを
 主は今待ち給う
 つみもとがも あるまま
 きたりひれふせ
 「帰れや、我が家に
 帰れや」と、主は今呼びたもう

 私は、小野さんが、この讃美歌を知っているとは知らず、思わず言っただけです。でも、この五一七番は、小野さんが恵泉の短大で学んでいた頃に出会った時から大好きな讃美歌で、暗唱できるほどのものだったのです。そこに神様の不思議なご計画があると私も小野さんも思ったことですが、私たちは、ありのままの自分で神の家に帰るだけなのです。神の家とは、主イエスの十字架を土台として建てられた教会です。その家の主人はイエス様です。そのイエス様が、「私のところに来なさい。私はあなたを愛し、あなたを求めて渇いている。私の愛を信じ、来て、ひれ伏しなさい。それだけでよい。その時、あなたは私の体から流れ出る水、聖霊を豊かに受けることになる。」主イエスはそのように私たちを招いて下さっています。私たちは、その招きに応えて、罪も咎もあるまま帰るだけなのです。それだけしか出来ないし、それだけでよい。あとは、イエス様が少しずつ私たちを変えていってくださいます。十字架の主イエスから流れ出た罪の赦しのための血を聖餐のぶどう酒として頂き、命の水としての聖霊を注がれ続ける中で、私たちは少しずつではあっても、確実に変えられていきます。

 イエスがしてくれます

 マザー・テレサは、修道女に向って、こう語りかけたそうです。
 「わたしの子どもたち、イエスから愛されるために自分と違ったものになる必要はないのですよ。信じなさい、あなたたちはイエスにとってかけがえのないものなのです。あなたが苦しんでいることをすべてイエスの足元に運びなさい。ありのままでイエスから愛されるためには、ただ心を開くだけでいいのです。残りのことはイエスがしてくれます。」

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 その水は、十字架の死の体から出るのです。イエス様にとって、死は復活だからです。水と聖霊による洗礼を受けるとは、罪の体は死んで新しく生きることです。その私たちの体からすぐに生きた水が流れ出るようになるわけではないでしょう。でも、恵みの泉であるイエス様を信じて、いつも共に生きていけば、いつか必ず、少しずつではあっても、私たちを通して命の水は流れ出ていくようになるのです。その日、その時は、ただ神様だけが知っていることですから、すべてを神に委ねて、与えられた信仰の道を歩んでまいりたいと思います。
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