「成し遂げられる神の業U」

及川 信

       ヨハネによる福音書 19章28節〜37節
 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。      (以下、省略)

 今月の第一日曜日はイースター礼拝であり、先週は青学短大のシオン寮の学生さんを迎えての礼拝でしたので、二週続けて主題説教をしました。そこで一貫して語っていることは、神の業は主イエスによって成し遂げられたし、これからも聖霊の働きの中で成し遂げられていく。違う言葉で言えば、聖書の言葉は必ず実現するということです。また、聖書の中核、教会の基礎、また私たちの信仰の中心は、主イエスの十字架の死と復活にあるということです。今日も、そのことを御言から示され、信仰を新たにされて、新たな命に生かされたいと願います。

 翻訳上の問題

 初めに、聖書の翻訳に少し触れなければなりません。私たちが礼拝で用いている『新共同訳聖書』は、カトリックとプロテスタントの学者たちが共同で訳したもので、色々と優れた面があります。しかし、もう少し注意深く訳し分けて欲しい言葉もあります。
 今日は、イースター礼拝の時とは、少し異なる視点や方法で三〇節までを読みますけれど、その僅か三節の中に、「成し遂げられた」「実現した」「成し遂げられた」という言葉が出てきます。でも、厄介なことに二八節の「成し遂げられた」と三〇節の「成し遂げられた」は原文では違う言葉なのです。二八節の「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り」の原語は、テレイオオウで、「完成させる」「完全にやり終える」という意味の言葉です。しかし、三〇節のイエス様の十字架上の言葉「成し遂げられた」は、よく似た言葉ではあるのですけれど、テレオウという言葉なのです。これは、「終える」「目的を達成する」という意味です。究極の目標を達成するという感じだと思います。そして、実は二八節後半の「こうして聖書の言葉が実現した」の「実現した」が同じテレオウで、ヨハネ福音書ではこの二個所にしか出てきません。それは、明らかに意図的なことですから、重要です。
 さらに言っておくと、三六節の「これらのことが起こったのは、『その骨が一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった」の「実現する」はテレオウではくプレーロウで「満たされる」「成就する」という意味です。これまでに何度も出てきました。このように訳語は違うけれど原語は同じ、原語が違うのに訳語が同じというところがいくつもあるのです。

 ヨハネ福音書の構造から分かること
 @ 二章、一七章の実現


 そのことを確認した上で、ヨハネ福音書の構造に入っていきたいと思います。聖研祈祷会を含めれば、もう六年以上、ヨハネ福音書を読み続けてきて、漸く福音書全体の構造が見え始めてきました。そして、この福音書が実に緻密な構成によって出来上がっており、構造全体を通して、イエス様が何のためにこの世に遣わされたのか、そしてイエス様は何者であるかを明らかにしていることが分かり始めてきました。今日は、その構造から見えてくることを語ります。
 イエス様が、「すべてが成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」とおっしゃった直前の場面はこういうものです。
 十字架の下で、ローマの兵士たちが、イエス様の服をくじ引きで取り合っているのです。彼らは上司である総督ピラトの命令に従い、また自分の欲望に従って、イエス様を十字架に磔にし、その衣服をくじ引きで取り合っている。しかし、その行為は、彼らの全く与り知らぬ形で、詩編二二編の言葉通りなのです。人間のあさましい行為もまた、神様のご計画、その言葉の実現のために用いられる。そういう現実を、主イエスは十字架の上から見ておられたのです。御自分を十字架に磔にして殺す異邦人も、神の救いのご計画の中に入れられている。一二章の段階で、イエス様は「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」とおっしゃった、その御自身の預言が実現しつつあることを、十字架の上からご覧になっていたのです。
 また、イエス様は、ローマの兵士たちとは反対側に、御自身の母を初めとする四人の女と愛弟子が立っているのをご覧になりました。そして、母に向って、「婦人よ、見なさい。あなたの子です」と言い、愛弟子に向っては「見なさい。あなたの母です」とおっしゃった。その言葉を受けて、愛弟子がイエス様の母を自分の家に「引き取った」とあります。
 ここで「婦人」と呼ばれる母は、主イエスがカナという町で最初のしるしを行われた時に登場した人物です。そこで、ユダヤ人が体の清めに使う水をぶどう酒に変えるというしるしを行われる時、イエス様は、母の要請に対して、「婦人よ、わたしと何の関わりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」と突っぱねられました。しかし、主イエスの時、十字架の死において神の栄光を表し、ご自身も栄光を受けるその時、主イエスは、その母を御自身の家に引き取るのです。愛弟子の家とは、主イエスの家であり、その家に引き取るとは、母を新たに神の家族として迎え入れるということです。そのために必要なのは、体の汚れを清める水ではなく、罪の汚れを清める贖いの血です。ぶどう酒が象徴しているのは十字架の血であり、教会で祝う聖餐の杯だからです。
 つまり、この十字架の下でのみ、敵対するユダヤ教会とキリスト教会が、また敵対する異邦人とユダヤ人、ローマ帝国とキリスト教会が、また権力者と庶民、男と女、犯罪者と市民・・。時に一方的に、また時に互いに傷つけ合って、お互いに一つになることなど出来ない人々が、主イエスの十字架の下で一つになっていく。罪の贖いの血を受け入れることを通して一つになっていく。主イエスを信じる信仰において一つになっていく。そのことのために、主イエスは、この世に来られたのです。主イエスは、その事実を十字架の上から確認しておられるのです。
 それは、主イエスの祈りの言葉だけが記されている一七章を読めば明らかだと思います。その四節と二三節に、「今や成し遂げられた」と訳されたテレイオオウという言葉が出てきます。この祈りは十字架に架かる以前の主イエスの祈りであると同時に、今も聖霊において私たちの只中に生きておられる主イエスの祈りの言葉ですけれども、主イエスは、こう祈られました。
 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」
 イエス・キリストを知るとは、イエス・キリストを信じることであり、そのことにおいてイエス・キリストと一つの交わりに生きることです。その信仰を与えるために、主イエスはこの世に派遣され、十字架の死において、その栄光を現されたのです。
 さらに主イエスは、主イエスを信じた人々の伝道によって信仰に至る人々についてこう祈られます。
 「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」
 ここに、独り子イエス・キリストに対する神の愛と、弟子の伝道によって信仰に至った人々に対する神の愛は同じであり、それはさらに、イエス様に敵対し、キリスト教会に敵対する「世」、つまり、すべての人々への愛に繋がることが示されています。そして、すべての人がその愛を信じる信仰において完全に一つになることこそが、イエス様が神様に遣わされて世に来られた目的であることが告げられています。ここで「完全に一つになる」と訳されている言葉の中に、成し遂げられる、テレイオオウという言葉が使われています。
 つまり、主イエスを知らない者、敵対する者、そして互いに分裂している者、そういう者たちが神様の愛のしるしである主イエスの十字架の下に立つ時、罪に対する贖いの血を通して、神と和解し、そして互いに和解する道が開けてくるのです。そこに神の栄光が現され、主イエスの栄光が現されるのです。その栄光をイエス様が現す時、それが十字架の時です。その時に、異邦人と共にイエス様の母が登場し、愛弟子の家に引き取られたことが記される意味は大きいと思います。

 A 詩編の実現

 兵士が服をくじ引きで分ける場面には、「我が神、我が神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」から始まる詩編二二編の言葉が引用されていました。しかし、その他に、この十字架の場面には詩編六九編の言葉が出てきます。二二編や六九編は、迫害する者たちにとことん苦しめられる信仰者の叫びや歎きから始まり、最後は讃美で終わる詩です。その詩編六九編の中に、「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」という言葉があります。渇く喉にさらに酸っぱいものを飲ませることは、渇きを倍加させることだと言われます。苦しみに苦しみを増し加える行為なのです。しかし、ここで主イエスが「渇く」とおっしゃったことが、そのような苦しみ、喉が焼けつくような苦しみを自ら呼び込んだとも言えるのではないでしょうか。その酸いぶどう酒を主イエスは受けられます。苦しみを完全に受ける、それは死に至る苦しみです。その苦しみを受けること、死を受け入れること、それが聖書の実現であり、主イエスが成し遂げなければならないことなのです。そして、それは水をぶどう酒に変える最初のしるしにおいて既に暗示されていたことですけれど、そのしるしの直後に記される出来事において、さらに鮮明にされることです。
 カナの婚礼のしるしの後に出てくる出来事は、主イエスがエルサレム神殿の境内から商売人や両替商を追い出すという過激な行為です。これは、神殿に責任をもっている大祭司を頂点とする祭司たちの在り方を真っ向から否定することであり、ユダヤ人社会の支配体制の否定です。その行為を記す時、ヨハネは、弟子たちが思い出したという形で詩編六九編の言葉を引用しますが、それはこういう言葉です。

 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。

 「あなたの家」
とは神の家のことであり神殿を意味します。しかし、その神殿が今、祭司たちの商売道具にされている。そのことに対する激しい怒りが主イエスにはあります。その熱意とも言うべき怒りを具体的行為として現す時、それは主イエスご自身を食い尽くすことになる。つまり、滅ぼすことになるのです。主イエスは、直接的には大祭司によって死刑宣告をされるからです。しかし、そのことを承知の上で、むしろ御自身の死の苦しみを自ら招くようにして、主イエスは神殿を清めるのです。
 この時、「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と詰め寄る人々(祭司たちだと思います)に対して、主イエスはこうお答えになります。

 「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」

 この言葉の後に、例によってヨハネは注釈を入れます。

 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

 つまり、十字架の死と三日目の復活を通して、人々の罪によって食い尽くされた主イエスの体が新しい神の家、神殿になるのです。そのことが、同じ詩編六九編が引用される十字架の場面で実現している。エルサレムにおける最初の業と最後の業において、詩編六九編の言葉が実現しているのです。そして、最後の業である十字架の死こそ、イエス様が何者であるかを明らかに示すしるしなのです。何故なら、復活は十字架の中に既にあるからです。ヨハネ福音書において、十字架に上げられるとは死人の中から上げられることであり、それは天に上げられることであり、同時に聖霊によって地上に教会が建てられることだからです。その時、ユダヤ人のみならず、世のすべての民が、神の家で霊と真をもって礼拝するという救いの道が開かれるのです。世界はその時から救いの完成に向けて歩んでいるのです。残酷にして浅ましい行為を繰り返しながらもです。聖書に記される神の業は必ず成し遂げられるからです。

 B 出エジプト記一二章の実現

 そのことは、ここでヒソプという植物が出てきていることから分かります。ヒソプとは、葦のように細長い丈夫な茎をもった植物ではありません。酸いぶどう酒を浸した海綿などつければ、たわんでしまう箒のような植物です。他の福音書では、地面から数メートルの高さにはりつけられているイエス様に杯を飲ませるためには槍が使われたりします。それが歴史的には正しい叙述でしょう。でも、ヨハネは敢えてヒソプと書いている。それは何故か?
 ヨハネ福音書において、最初にイエス様に対する信仰告白をしたのは、イエス様の先駆者である洗礼者ヨハネです。彼はイエス様を見るなり、こう言ったことを覚えておられると思います。

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

 この「小羊」とは、明らかに過越しの食事で屠られる小羊のことです。イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放される前の晩、イスラエルの民は神様の命令に従って家族ごとに小羊を屠って、その肉を食べました。そして、動物を屠った時に血抜きをしますけれど、その血を家の鴨居に塗るように命ぜられました。その血が塗られた家の前を、神から遣わされた死の使いは過越す。でも、血が塗られていない家の初子は神の裁きに遭って死ぬのです。そういう生と死を分ける血を塗るために用いられるのがヒソプなのです。
 そのヒソプが、ここで登場する。それは、主イエスが十字架の上で流している血こそが、罪人に対する裁きを身代わりに受ける神の小羊の血であり、その血が、自分の罪を贖う血であると信じる者は、滅びとしての死を免れ、新たな命に生かされることを表しているのです。そして、それは具体的には、十字架の死と三日目の復活によって新たに建てられる神殿で神を礼拝する者として生きるということです。

 究極の愛としての十字架

 主イエスは、そのヒソプによって差し出された杯を飲み干して、「成し遂げられた」とおっしゃり、「頭を垂れて息を引き取られ」ました。この「成し遂げられた」が、二八節の「実現した」と同じテレオウという言葉であることは、既に言ってきたことですが、この言葉は、テロスという言葉が元になっています。テロスとは「終わり」「究極」「最終ゴール」という意味です。そして、ヨハネ福音書では、一回だけ出てきます。それは一三章一節です。そこにも、過越しの祭りへの言及があります。

 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

 十字架の死が目前に迫ったことを知った主イエスは、世にいる弟子たちを「この上なく愛し抜かれた」とあります。この後、弟子たちの足を洗う場面が続き、ユダの裏切りが現実のものとなり、愛の戒めが語られることになります。その時の愛、それがテロスに至る愛、究極的な愛なのです。そしてそれは、人間の罪を自らの血によって洗い清める愛なのであり、友のために自分の命を捨てる愛です。そして、その愛は、神がその独り子を世に与え給う愛の現れであり、それは独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るための愛です。その愛が、十字架の上で、ついに成し遂げられていく。そのことを、主イエスはここで深い満足というか、喜びをもって確認されたのです。

 頭を垂れる 息を引き取る

 それは、「頭を垂れる」という言葉からも分かります。これは、たとえば、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがない」という所に出てくる言葉です。つまり、安眠することなのです。主イエスは、ついに神の御心を成し遂げられて十字架を枕とされた。
 そして、息を「引き取られた」。これは、日本語としては、そう訳すほかないかもしれませんが、「息を引き渡された」が直訳です。御自身から、神様に命を渡されたのです。泣く泣く殺されてしまったのではありません。無念の涙の内に息絶えたのでもない。自ら息を引き渡されたのです。主イエスご自身が、「だれもわたしから命を奪い取ることは出来ない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」とおっしゃっていました。
 そして、私は以前、この「引き渡す」に関して、別の見方を語ったことを覚えていらっしゃるかと思います。「引き渡す」は、非常に大事な言葉です。受難物語の中では、ユダがイエス様をユダヤ人に引き渡し、ユダヤ人がイエス様をピラトに引き渡し、そして、ピラトがイエス様を十字架につけるために人々に引き渡した。そういう形で使われてきました。主イエスを十字架に引き渡したのは、結局、すべての人間なのです。すべての人間が、主イエスを十字架に上げたのです。しかし、その時、その十字架の上で、主イエスはすべての人間に対するこの上ない愛をもって死んでいる。すべての人間のすべての罪をその身に負って血を流している、渇きに苦しんでいる。しかし、その死の苦しみを通して、すべての人間の罪を贖い、すべての人間を神に引き渡して下さっている。そこに、主イエスの喜び、愛の究極における喜びがあり、満足があるのではないか。私は、そう思います。

 愛の勝利

 詩編二二編にしろ六九編にしろ、最後は神の勝利に対する確信に満ちた讃美で終わります。しかし、その勝利とは、罪人が滅ぼされることにおいて現される勝利です。そこに旧約聖書の一つの特色、あるいは到達点があります。たとえば、六九編二八節以下にはこういう言葉があります。

 彼らの悪には悪をもって報い
 恵みの御業に
 彼らを決してあずからせないでください。
 命の書から彼らを抹殺してください。
 あなたに従う人々に並べて
 そこに書き記さないでください。
 わたしは卑しめられ、苦痛の中にあります。
 神よ、わたしを高く上げ、救ってください。


   ここにあるのは、自分を迫害する者たちを神が罰して下さるようにという願いです。しかし、主イエスは、神に従う自分だけが高く上げられ、救われることを願っておられるのではないのです。自分を十字架に上げる者すべてが救われることを願い、神は必ずその救いの御業を成し遂げられることを確信しておられるのです。御自分を殺す者たちが、命の書から抹殺されることを願っているのではなく、御自身の十字架の死を通して、すべての罪人の罪が赦されて、命の書にその名が記されることを願っておられるのです。主イエスは、「世の罪を取り除く神の小羊」として、世に来られたからです。
 全く信じ難い愛がここにはあります。愛というものは、やはりその究極において信じ難いもの、理解できないものではないかと思います。

 愛される理由?

 随分前のことですが、ある芸能人同士が結婚することになって、女性の方が、『愛される理由』という本まで出したことがあります。私はその本は読んでいませんけれど、その女性が本に関するインタヴューを受けている番組をテレビでたまたま観ました。彼女は、家柄もよく、美貌の持ち主であり、また才能も豊かな人です。そして、その一つ一つを、自分が愛される理由として語っていました。こういう自分だから、愛されて当然、愛される理由があると言っていました。私は、その言葉を聞きながら、何か茫然とする思いでした。羨ましいとも思いましたけれど、むしろ心配になりました。愛って、そういうものなのか?と思ったのです。そして、心配は数年後には現実となったのです。彼女は夫から愛されず、また夫を愛することも出来ず、別れて行きました。裏切られたのです。そして、許すことが出来なかったのです。自分の価値の高さを信じている人間は、その価値を否定されれば、許すことは出来ません。そして、許さない人もまた許されることはないのです。それは、事実です。
 主イエスの周りにいる人々、それは私たちです。私たち以外の何者でもない。聖書を読んでいると、つくづくそのことが分かってきます。そして、その私たちとは、結局、許されざる罪人であり、許さざる罪人なのです。自分の価値、自分の権威、自分の欲望を否定されれば、許さない人間、許せない人間なのです。そうやって、私たちは互いに分裂していくしかありません。抹殺するのです。ひどい場合には、本当に殺してしまう。
 昨晩も、親から虐待を受け続け、施設に入っている子どもたちの傷つき、渇き切った心の様を見つめる番組がありました。なにくわぬ顔をしている人間の、その心の中に、我が子ですら虐待してしまう心の渇きや、実の親に虐待されてしまった心の痛みがある場合が、いくらでもあります。そして、私たちは時々、その渇きをさらに倍加させるようなことをする。酸いぶどう酒を飲ませたり、傷に塩をすりこんだりするものです。毎日、毎日、そういう人間の現実を私たちは見させられていますし、大なり小なり経験しているのではないでしょうか。
 主イエスは、そういう人間が作り出している世に来られたのです。神から遣わされて、です。ヨハネ福音書は、最初から最後まで、ただそのことを告げます。それは、闇の中に来た光であり、闇の中に輝く光であり、それは死の中に輝く命の光なのです。この光を見なければ、私たちは生きていけません。少なくとも、神様が与えてくださる命を生きていくことは出来ないのです。
 この命の光、それは愛に飢え渇く主イエスその方です。愛を求めつつ、その罪の故に、愛されることも愛することでも出来ず、結局愛に飢え渇いている私たちを主イエスは愛して止まないのです。そして、私たちの信仰を求めて止まないのです。その主イエスの愛は、愛を裏切る私たち、主イエスを殺す私たちを赦し、尚も愛する究極の愛であり、主イエスはその愛を信じる信仰を求めておられるのです。
 私たちに、そのように愛される理由はありません。私たちは誰もが、自分の命の危険が迫れば、「あの人のことは知らない」と言って逃げる人間だからです。愛を誓った相手だって、傷つけて捨てるし、愛されるために生まれてくる子だって愛さず、傷つけ、虐待してしまうことだってある。私は、そんな人間ではないと断言できる人はいないのです。断言できる人は、まだ自分というものを知らないだけです。そういう愚かで惨めな私たちを、傷つき、傷つけられ、心が渇いている私たちを、主イエスは見ておられるのです。十字架の上から。御自身も激しい渇きに苦しみながら。そして、そのことを通して、私たちのために、神の愛の業を成し遂げてくださったのだし、今も成し遂げてくださっているのです。
 その方を見て信じる。自分には愛される理由などないのに、こんなにも深く愛してくださるお方がいる。その事実を見つめ、信じる時、私たちは最も深い意味で、自分の価値を認めることが出来るし、生きていくことが出来るのです。
 私たちの価値は、私たちの中にあるのではありません。私たちの価値は、主イエスの中にある、主イエスの愛の中にあるのです。私たちは、つまらない人間です。下らない人間です。また、恐ろしい人間です。でも、主イエスが愛して下さっている。命を注ぎ出して愛して下さっている。だから私たちは絶大な価値のある人間なのです。愛すべき人間なのです。主イエスに極みまで愛されているからです。
 この方を信じ、この方を愛し、この方と一つの交わりを生き、この方を通して私たちが一つになる時、そこに神の栄光が現れるのです。何故なら、そこには十字架の主イエスが立っておられるからです。
 この十字架の主イエスこそ復活の主イエスです。その方は二〇章一九節以下にあるように、週の初めの日、日曜日の夕方、家の鍵をしめ切って隠れていた弟子たちの真ん中に立って、「平和があるように」と語りかけ、命の霊を吹きかけてくださいました。愛を裏切り、生ける屍となった弟子たちは、その主イエスを見て、喜びに溢れ、命の霊を受けて、罪の赦しの福音を携えて、家の外に出ていったのです。すべての人を、主イエスの体なる神殿、神の家なる教会に招き入れるためです。私たちもまたその招きを与えられ、その招きに応えてこの神殿、神の家に迎え入れられた人間です。だから、私たちも今日、派遣されます。御言と聖霊によって信仰を新たにされ、新たに命を与えられた私たちは、闇の中で輝く命の光を証しするために派遣されるのです。こんな名誉なこと、こんな価値のあることは他にありません。私たちが、この派遣に応えて生きる時に、まさに主イエス・キリストにおいて成し遂げられた神の愛の業が、この世に証しをされるのですから。

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