「成し遂げられる神の業V」

及川 信

       ヨハネによる福音書 19章28節〜37節
 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
 これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。

 終わった


 先週は二八節から三〇節までを読みました。そこでは、原語では違う言葉が使われていますけれど、「成し遂げられた」という言葉が枠になっています。主イエスの最後の言葉、「成し遂げられた」は、他の言葉で言えば「終わった」という言葉であることを先週言いました。ヨハネ福音書の言葉の多くは二重三重の意味を持っていることが多いのですけれども、この言葉もまた、そうです。すべてのことが実現し、そして終わったのです。
 人の命は生から死に至り、そこで終わるのです。完結する。主イエスの人生も、十字架の上で終わった。そう言って間違いないことです。しかし、主イエスの場合、そうであるが故に、まさにそこから始まるのでもあります。

 準備の日

 今日は、あまり長く読むのもどうかと思って、三七節までを読みました。次週、四二節までを読みます。物語の単元としては、二八節から三〇節までがひとつの単元であり、三一節から四二節までがそれに続く単元です。前者の主題はイエス様の死であり、後者の主題はイエス様の埋葬です。そして、後者の単元を括っている言葉が、「その日は準備の日であった」です。何の「準備の日」であるかと言うと、過越しの祭りを迎える準備の日です。ユダヤ人は夕方から一日の初めを数えます。ヨハネ福音書では、その準備の日、つまり過越しの小羊が屠られる日、その時刻に、イエス様が十字架の上で死んだのです。それは、多くの人の目には隠されたことですけれど、主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」として死んだということです。神様から遣わされた神の独り子が、世の罪をその一身に背負って神の裁きを受け、そのことを通して、すべての罪人の罪を贖い、信じる者すべてに永遠の命を与えるという御業を成し遂げられたのです。先週は、そのことを語りました。
 そして、その日の夕刻、つまり、金曜日の夜から安息日が始まります。特に、主イエスが十字架に磔にされた翌日の安息日は、過越しの祭りの初日と重なる特別な安息日でした。そして、過越しの祭りの初日を、ユダヤ人は新年、新しい年の最初の日とすることを神様から命じられていました。そういう特別な準備の日に、イエス様は十字架に磔にされたのです。つまり、ここにも「終わり」がある。一年の終わりの日の夕刻前に、主イエスはすべてのことを成し遂げられ、地上の命の終わりを迎えられたということです。もうあと数時間で、新しい年が始まり、出エジプトという神様の救済の業を讃美する祭りが始まるのです。しかし、実はそれと同時に、神様の新たな救済の御業が始まる。それはユダヤ人には全く分からないことでした。
 日本人も、かつては大晦日には家中で大掃除をして、風呂にも入って、身も心も清くして新年を迎えたものです。ユダヤ人も同じです。彼らは、新年の過越しの祭りが始まる前に、イエス様の死体をさっさと葬りたいのです。何故なら、彼らが大切にしている律法、申命記にこう記されているからです。

 「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」

   彼らにとって、イエス様は死刑に当たる罪を犯した罪人であり、神に呪われた者です。そういう者の死体は、その日のうちに埋めなければならない。そうでなければ、自分たちにまで呪いが及び、汚れてしまうからです。ですから、さっさと止めの一撃を加えて殺し、その死体を取り下ろすことをピラトに願い出ました。
 しかし、イエス様は既に、すべてを成し遂げて死んでおられました。御自身の息を神様に引き渡しておられたのです。イエス様は、自分で自分の命を捨てた、終わらせたのです。

 出来事とその意味

 しかし、その死を確認しようとしたのか、死体に対してさらなる侮辱を与えようとしたのか、それは分かりませんが、「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水が流れ出た」とあります。今日の個所に記されている目に見える出来事は、これで終わりです。
 三五節は、ヨハネ福音書特有の言葉で、十字架の出来事の目撃者による証言がここに記されていることを告げ、その証言は、読者を信仰に導くための真実な証言であることが告げられています。この証言者に関しては、ヨハネ福音書の説教が終わる時に、もう一度出てくるので、その時に触れようと思います。今は、出来事は証言によって伝えられ、それは、信仰を生み出すための証言であることを言うに留めておきます。
 三六節以下の言葉は、旧約聖書の引用です。マタイ福音書にも、これは旧約聖書が実現するためであった、という言葉がよく出てきますけれど、ヨハネ福音書の特に受難物語では頻出します。福音書記者のヨハネが、聖霊を注がれることを通して、旧約聖書に記されている神様の言葉を全く新たな目で見ることが出来るようになり、その目で現実を見た時に、そこに何が起こっているのかが分かったのです。その感激、驚き、讃美に満たされて、彼は旧約聖書を引用します。

 「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある。」

 たった四行の言葉です。でも、この言葉が何を語っているのかを探求していけば、そこにはまさに汲めども尽きない泉があるのです。

 御言の実現としての十字架
  @ 過越しの小羊


 先週から言ってきていることは、主イエスは過越しの小羊として十字架に磔にされたということです。ヨハネ福音書は、最初から主イエスのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と告白しています。過越しの小羊は、一家で丸ごと食べるものであり、その肉を家の外にもちだしてはならず、そのために、「その骨は折ってはならない」と神様に命ぜられているのです。その命令が、新たな過越しの小羊として屠られる主イエスに対しても結果として守られた。ユダヤ人が表面的な意味で神様が定めた律法の字句を守ろうと必死になっている裏で、実は神様ご自身が、ご自身の言葉を実現させている。御自身の独り子を裁くことを通して、人間の罪を赦すという信じ難い救いの御業を実現させているのだ。ヨハネは、そう証しをしているのだと思います。

  A 神の救い

 しかし、ここにはそれだけではないものもあると思います。よく指摘されることなのですが、この「骨は一つも砕かれない」という言葉の背景には詩編三四編の言葉があります。詩編三四編とは、「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」という言葉から始まる信仰の詩(うた)ですが、後半にこういう言葉があるのです。

「主に従う人には災いが重なるが
 主はそのすべてから救い出し
 骨の一本も損なわれることのないように
 彼を守ってくださる。」

 「主に従う人には災いが重なる」
。なんとも恐ろしく、なんともリアルな言葉です。普通は、神様を信じる人は災いを受けない、と言われるはずです。聖書に、そういう言葉だっていくつもあります。でも、聖書が一貫して問題にしているのは、「救い」なのです。災いを受けない人生であることに越したことはありませんが、そのことが究極的に求められているわけではありません。主に従うが故の災いは重なるものだ、しかし、主は必ず信仰に生きる者を災いから救い出してくださる。また全身を守ってくださる。そのことを信じる。それが信仰であり、その信仰のある所に救いがある。聖書は、至る所でそう告げていると思います。そして、詩編三四編の「骨の一本も損なわれることのないように、守ってくださる」という言葉が、まさに主イエスにおいて実現している、とヨハネは言っているのでしょう。
 たしかに、目に見える現実として、主イエスは足の骨が折られることはありませんでした。けれども、イエス様は殺されたのであり、災いが重なるというレベルを超える災い、最終的な災いとして死んだのです。だから、文字通りの意味では災いから救い出されなかったのだし、守られもしなかったのです。だから、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばざるを得ない面があります。
 でも、旧約聖書の中に既に、萌芽が見えつつあることだとも思いますけれど、神様の救い、また守りは、やはり「死を越えたもの」なのです。
 実は、この死体となったイエス様、十字架に磔にされているイエス様は、まさに死の災いから救い出されているお方である。神様がそのお体の骨の一本までお守りくださっているお方である。何故なら、この方は、神様に従い、その御業を成し遂げられたお方であり、今、その方の体を通して、神様は新たな救いの業を始めておられるからだ。そういうメッセージが、この詩編の引用には隠されていると思います。そしてそれは、並んで出てくる「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」というゼカリア書の引用を見ることを通して、次第に明らかになって来ます。

 血と水 霊

 そのゼカリアの預言の言葉を見る前に、今一度、主イエスの体、十字架上で死んだ体に槍が刺された時に、血と水が流れ出たということを確認しておきたいと思います。
 この「血と水」とは何か。古来、様々な解釈があります。しかし、この言葉を読む時に、必ず参考にしなければならない言葉がヨハネの手紙一の五章五節以下の言葉だと思います。そこには、こうあります。

 「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、”霊“はこのことを証しする方です。”霊“は真理だからです。証しするのは三者で、”霊“と水と血です。この三者は一致しています。」

 手紙の著者と福音書の著者が同じかどうかは別として、この手紙の言葉にも二重性や象徴性があることも明らかです。
 人間の体には水と血があることは古代人も知っていました。ですから、「水と血を通って来られた」とは、他の所で言われているように、「イエス・キリストが肉となって来られた」(四章二節)ということです。私たちと全く同じ肉体をもって来られた。独り子なる神であるイエス様は人間となられたということです。
 しかし、ヨハネ福音書において「水」「霊」と切っても切れません。サマリアの女が切実に求めた「生ける水」は、命の泉としてのイエス様から湧き出てくる聖霊のことでした。また、水の祭典でもある仮庵の祭りが最高潮に達した時に、イエス様は、こう叫ばれました。
 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れでる。」
 この「生きた水」もまた聖霊のことだと、ヨハネはちゃんと注釈を書いています。
 主イエス・キリストは、肉となって来られた。そして、人間として死んだ、その人生は終わった。そのことを「血と水が流れ出た」という言葉は明らかに示しています。しかし、それと同時に、この方の体から流れる血は、すべての人間の罪を贖うための血であり、この方の体から流れる水とは、信じる者を新たに生かす聖霊なのです。だから、キリスト教会は、次第にこの血を聖餐の血と受け止め、水を洗礼の水として受け止めるようにもなったのです。

 新たな神殿建設

 ここで決定的なことは信じるということです。この「信じる」とは、どのようにして起こることなのか。また、何を信じるのか。そのことをゼカリアの預言が暗示しているのだと思います。このゼカリアという預言者のいくつかの言葉は、新約聖書に度々引用されており、初代教会においては極めて重要な預言者だと思います。
 預言者とは、一般には未来を予言する人というイメージがあり、たしかにそういう面があります。しかし、その未来は、現在の状況認識抜きに語られることはありません。一二章は、神の都エルサレムに関する預言です。エルサレムとは「神の平和」を意味します。神様を礼拝する神殿があり、その神殿を通して、神様はその御心をご自身の選びの民であるユダヤ人に告げ知らせ、そのことを通して全世界にその救いの業を広めていく。そのために神様によって選び立てられた都がエルサレムです。エルサレムとは、そこに建つ神殿や神の選びの民の象徴でもあります。
 しかし、私たちは、主イエスがエルサレムに関して預言された言葉を知っています。マタイ福音書には、主イエスのこういう言葉が記されています。

 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ。お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」

 そうおっしゃってから、エルサレム神殿の崩壊を預言されました。
 また、ヨハネ福音書では、エルサレムにおけるイエス様の最初の業は、腐りきった神殿礼拝を清めることであり、新たな神殿を三日で建て直すという預言でした。そして、その新たな神殿とは、イエス様の体のことだったのです。それは十字架に磔にされた体であり、復活された体のことです。その預言が、今、実現しているのです。今、新たな神殿が建てられつつあるのです。その神殿から、血と水が流れ出している。それは一体どういうことか?

 突き刺された神

 ゼカリアは、その点について、このように神の言葉を伝えます。心底驚くべき言葉です。

 「その日、わたしはエルサレムに攻めて来るあらゆる国を必ず滅ぼす。わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」

 「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめる。」
この「わたし」とは、言うまでもなく神様ご自身のことです。「彼ら」とは、エルサレムの住民、神に選ばれ、愛されているユダヤ人です。ここで、神様は、ご自身を刺し貫く者たちを攻めてくる国を滅ぼすと言っているのです。御自分を殺す者たちを攻める者を滅ぼす、と。つまり、御自分に敵対する者を守るために戦い、勝利するとおっしゃっているのです。とんでもないことです。
 さらに、御自分を刺し貫く者たちに「憐れみと祈りの霊を注ぐ」とおっしゃっている。様々な意味で、私などの理解を越える言葉です。神様の心は理解を越えます。恐らく、こういうことをおっしゃっている。神様は、御自分を刺し貫く者たちを憐れむ、そして、彼らのために祈る。そして、そのことが分かるように霊を注ぐ、と。
その時、エルサレムの住民にどういうことが起こるのか?

 「彼らは、彼ら自身が刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」

   神様の憐れみと祈りの中に置かれた時、そして、聖霊を注がれた時、神を殺す者たちは、初めて自分が何をしてしまったかが、分かるのです。
 「親孝行したい時に親はなし」とか「後悔先に立たず」とか言われます。親がどれだけ自分を愛してくれたかは、親が死んだ後に分かる。そういうことはあるでしょう。もちろん、愛してくれなかった親もいるし、愛されなかった子もいる。そういう意味では、「愛したいと思った時に子はいない」ということもあるし、それは恋人同士でも夫婦同士でもあることです。私たちは、愛を求めつつ、愛を拒絶する性格をもっています。愛されたいのに、愛を拒絶する。愛したいのに、愛することを拒絶する。人は愛によって生きる存在ですから、愛さないことは殺すことです。愛されないことは殺されることです。
 愛し合うべき関係の中で、一方が他方を完全に無視するということがあるとします。それは、その人の存在を抹殺することです。目を合わせないどころか、目でも見ないとすれば、最早、そこにはその人はいないものとしていることです。もし、その人が、私の愛を求めていたとすれば、私の無視の態度は、鋭い棘となってその人を刺し貫くでしょう。それは、憎しみから罵詈雑言を浴びせるよりも鋭い傷をつけて抹殺することである場合もあります。大袈裟に聞こえるかもしれないし、繊細すぎると思われるかもしれませんが、ゼカリアが知らされた神の心は、そのように繊細にしてこまやかなものです。私たちは自ら殺伐とした世界を作り出し、その世界を生きる中で心が摩耗し、鈍感になっているだけです。それは、恐ろしいことです。
 神様が本当にいたとして、私たちは本当に神様に造られ、愛されているとした場合、私たちが「神様などいない」と思って生きていることは、神様にとっては愛が無視され、存在が無視されることに違いありません。それは、神様の心を突き刺すことです。また、神様は私一人を愛しているわけではなく、私の目の前にいる人もいない人も、すべての人を愛しているとすれば、そういう人間同士が無視し合い、存在を抹殺し合っていることは、神様を無視し、抹殺することです。そして、それはどれだけ悲しんでも悲しみ切れないことであるに違いありません。愛しているのに無視される。愛している人間同士が互いに無視し合っている。あるいは敵視し合っている。その様を見る。私たちを決して無視せず、どこまでも愛してくださる神様にとって、私たちのあり様は、まさに槍で突き刺してくるようなことなのです。まさに胸が裂かれる様な悲しみを神様は味わっておられるということです。
 でも、私たちは普段は、全くそんなことを想像すらしないで、ただ目先のことに追われ、目先の自分の利益や心地好さだけを求めて生きています。さっさと死体を取り下ろして、さっぱりして明日を迎えよう。あの人のことは無視して、あるいは葬り去って、気の合う仲間だけで生きていこうと思い、その思いに従って生きているのです。自分を造り、自分を愛し、あの人のこともこの人のことも造り、愛して止まない神様が喜ぶことは何だろうなんてことは考えないし、少し考えても、その愛の御心に従うことのしんどさを思って従わないのです。そうやって、私たちは神を殺し、人を殺し、そして、実は自分自身を殺している。自分を生かそうとして、殺しているのです。だから、神様は悲しいのです。でも、だから神様は憐れんでくださる。だから、神様は祈ってくださる。そして、聖霊を下してくださる。神様は、人ではなく神様だからです。

 神様の憐れみ、祈り、霊

 神様のその憐れみ、その祈り、その霊の注ぎの中に置かれる時、私たちの目は初めて開かれます。そして、分かるのです。私たちは、産みの親、命の源、愛そのものである神様を突き刺して殺しているのだ、と。神様の血を流しているのだ、と。そして、その時初めて、刺し貫かれる神様の悲しみがどれほどのものかを知るのです。
 それは、まさに独り子を殺される悲しみです。自分のたった独りの子が、殺されてしまう。そういう悲しみです。親なら、想像するだけだって体が震えるようなことではないでしょうか。しかし、これは想像の世界で起こる出来事ではなく、現実に起こったことなのです。
 後悔は先に立ちません。私たちは愚かな人間です。誰もが、神様を殺してから気づくのです。しかし、神様は神様です。死が終わりではない。死が始まりなのです。ただそこにのみ救いがある。ただそこにのみ希望があります。
 ゼカリア書では、「わたし」と出てくるのが、ヨハネでは出てきません。人間によって突き刺された「わたし」は、十字架のイエス・キリストだからです。私たちは、イエス・キリストを突き刺して殺しています。その体に釘を打ちつけ、死体を突き刺して殺しているのです。でも、神様から憐れみを受け、祈られ、聖霊を注がれる時に、自分たちが突き刺した方の姿を見るのです。その体を見ることが出来る時、その体から血と水がほとばしり出ているのを見ることが出来る時、そして、その血を浴び、その水を浴びることが出来る時、ただその時にのみ、「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」ことを知るのです。そして、この方こそ、私の罪を取り除いて下さった神の小羊であることを知るのです。そして、神様の悲しみ、痛みに満ちた愛とそこにある赦しに打ちのめされ、主イエスを信じることが出来、その信仰の故に新しい命に与ることが出来るのです。私たちに突き刺された主イエスが、私たちを憐れみ、祈り、そして血を流し、生ける水としての聖霊を注いで下さるからです。その霊を受ける時にのみ、私たちは後悔ではなく、悔い改めることが出来、真実な意味で、罪に死に信仰に生きることが出来るのです。それまでの人生が転換するのです。
 すべてが終わらなければ、すべては始まりません。それまでの神様の業は終わったから新たに始まったのです。イエス様は死んだから、復活されるのです。渇き切ったから、その体から泉となって水がわき出てくるのです。信じるとは、その死と復活に与ることだし、渇き切ることにおいて飲むことなのです。罪に死ななければ、新たに信仰に生きることは出来ません。

 ただ一つの日が来る

 ゼカリア書の言葉をもう一か所だけ、挙げておきたいと思います。ゼカリアは、何度も「その日」と言って、来るべき裁きと救済の日を預言しますが、最後の一四章で、こう言うのです。

 しかし、ただひとつの日が来る。
 その日は、主にのみ知られている。
 そのときは昼もなければ、夜もなく
 夕べになっても光がある。
 その日、エルサレムから命の水が湧き出で
 半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい
 夏も冬も流れ続ける。
 主は地上をすべて治める王となられる。
 その日には、主は唯一の主となられ
 その御名は唯一の御名となる。


   主イエスが槍で突き刺された時刻は、夕闇が迫る時刻です。しかし、その夕闇の中になお光がある。そういう「ただ一つの日が来る」とゼカリアは語ります。そして、「その日、エルサレムから命の水が湧き出で、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい、夏も冬も流れ続ける」とあります。ヨハネは、「その日が来た」ことを、今日の個所で告げているのでしょう。エルサレムにおいて、主イエスの体という新しい神殿が建てられた。その神殿は命の泉であり、その神殿から贖いの血と共に信仰に生きる命を生かす水としての聖霊が流れ始めた。その血と霊を注がれながら十字架を見上げる時、私たちは己が罪を知り、嘆き悲しみ、そして、その罪の赦しを知り、喜び感謝する。そして、この方だけが唯一の主であることを知り、讃美する。そういう礼拝が引き起こされるのです。
 エルサレムから流れ出た血と水は、証言者の言葉と共に世界中に広がっていき、そして、千九百年を経て渋谷の地にもこうして主の体なる教会が建てられました。それは、この教会の礼拝と証言を通して、血と水とが、この地に生きる人々にも流れ出るためです。私たちの礼拝と証しの生活を通して、罪なき神の独り子の十字架の体から流れ出る神の愛が、その新たな命が溢れていくためなのです。
 先週から、本格的に特別伝道礼拝の備えが始まりました。皆さんお一人びとりが、今日の礼拝を通して、真実な証し人とされて派遣されるのです。十字架の主イエスを仰ぎ見つつ、贖いの血と命の水を注がれるこの教会の礼拝に、愛する人を招くことが出来ますように。
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