「わたしは主を見ました」

及川 信

       ヨハネによる福音書 20章11節〜18節
 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

   先週は特別伝道礼拝でしたが、今日は聖霊降臨を記念するペンテコステ礼拝です。先週の礼拝において、「永遠の命」に関してイエス様の語りかけを聞いたのですが、そこでは目に見える肉体の命と共に目には見えない命があるということが語られていました。今日の個所においても、その問題があります。そして、目に見えない命を生きるか否かは、目に見える文字の中に目に見えない声を聞きとることが出来るか否かに掛かっているとも言えます。それはまた、鼓膜を通して聞こえる私の声の中に、イエス様の声を聞きとることが出来るか否かという問題でもあるのです。見るべきものを見、聞くべきことを聴くために必要なのは、以前も語りましたように、聖霊の照明、イルミネーションです。今日もこのペンテコステ礼拝において、その照明を求めつつ、ご一緒に聖書を読んでまいりたいと思います。

 復習

 今日の個所は、二〇章の一節から始まる場面の後半ですから、前半とは切っても切れない関係にあるので、少し振り返っておきます。日曜日の早朝、イエス様が葬られた墓に行ったマグダラのマリアによって、イエス様の遺体が納められた墓の石が取りのけてあるのを知らされたペトロとイエス様に愛されていた弟子が、慌てて墓までやって来ました。でも、愛弟子の方が早く着いた。しかし、彼は、「身をかがめて中を覗いた」だけで、ペトロが来るのを待ち、ペトロが先に入りました。彼は、墓の中に、イエス様の遺体を包んでいた亜麻布が置いてあるのを見ました。その後、愛弟子も入って来て、「見て、信じた」とあります。しかし、その後にこういう文章が続くのです。

 「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰っていった。」

 ペトロが「見た」のは、亜麻布が置いてある様、あるいは置いてある亜麻布です。そして、「見た」という言葉はセオウレオウが使われています。それに対して、愛弟子が「見て、信じた」という場合は、ホラオウという言葉が使われており、その言葉は、「分かる」とも訳される言葉です。「真相を見る」という意味がある。つまり、彼はイエス様が復活したことが分かった、そして「信じた」ということでしょう。でも、ペトロのみならず、愛弟子もまた「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、理解していなかった」のです。となると、イエス様が死人の中から復活したことを信じるというレベルと、その復活が何を意味しているのかを理解するレベルがあって、そのレベルには愛弟子すらも達していなかったということでしょう。その結果、彼らはそれぞれの場所に帰ってしまったのです。その時は、イエス様との出会いは起こりません。

 母(女)の愛

 先週の説教の中で、お腹を痛めて子を産む母の愛について語りました。しばしば「母の愛は海よりも深い」とも言われます。それはやはり子を産むわけではない父よりも肉感的な愛であり、理性では計り知れない愛なのだと思います。
 私の年代よりも上の方はご存知でしょうが「岸壁の母」という歌があります。その歌は、こういう歌詞で始まります。
「母は来ました 今日も来た
 この岸壁に 今日も来た
 とどかぬ願いと 知りながら
 もしやもしやに もしやもしやに
 ひかされて」
 私などは、読んでいるだけで、体がちょっとむずむずする感じなのですけれど、敗戦後、シベリアに抑留されたまま一〇年も帰って来ない息子、もう駄目だと分かってはいても、引き上げ船が到着するかもしれない港に今日も来てしまう母の愛が歌われています。

 マグダラのマリアの愛

 マグダラのマリア、彼女は一節にあるように、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに」墓に行きました。何をしに行ったかはヨハネ福音書は書いていないのです。とにかく、彼女は行ったのです。イエス様が十字架上で死に、アリマタヤのヨセフやニコデモという身分の高い男性によって葬られたのは金曜日の夕方です。彼女は、その十字架の下にイエス様の母マリアたちと、また愛弟子と共にいた女性です。イエス様の遺体が十字架から取り降ろされ、墓に葬られるまでを、少し離れた所からじっと見つめていたのでしょう。そして、安息日が明けた日曜日のまだ暗い内に墓に行った。墓には大きな石の蓋があるわけで、彼女が行ったところで、その石の蓋に立ち塞がれて、何も出来ないことは分かっています。でも、彼女は家にいることなど出来なかった。そこで、夜が明けるのもそこそこに一目散で墓に行った。すると、薄暗い中で、石が取りのけてあるのが見えた。それだけで、彼女は、イエス様の遺体が墓から取り去られたと思い、大急ぎでペトロと愛弟子にそのことを知らせに帰りました。しかし、そこで彼女はこう言っています。

 「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

 前回は、この言葉を巡って随分語りました。彼女は、ここで「主が」と言います。この言葉は、旧約聖書では、神様を表す言葉でもあります。しかし、いわゆる目上の人全般を指す言葉でもある。そういう二重性があります。一五節の「あなたがあの方を運び去ったのでしたら」というマリアの言葉の前に、翻訳では省かれてしまっていますが、原文では「主よ」という言葉が書かれてもいるのです。それはつまり、墓がある園の管理人、園丁に対する呼びかけです。でも、実は、この時、彼女が語りかけているのは、復活されたイエス様であって、そのことを彼女は分からぬままに「主よ」と言っているということでもある。ヨハネ福音書全般にこういう二重性があります。つまり、目に見える現実、耳に聞こえる言葉の中に、それとは違うレベルの言葉が隠されているのです。そして、ここで「どこに置かれているのか」とありますけれど、この「置かれている」は、前回も語りましたように、イエス様が「よい羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃった時の「捨てる」と同じ言葉です。そして、「どこ」という言葉は、イエス様の居場所、イエス様の位置、イエス様の本質を表す時に使われます。ですから、「どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」とは、「イエス様の死の意味がわたしたちには分かりません」という意味にもなり、それはとりもなおさず「イエス様が誰なのか分からない」ということなのです。マリアだけでなく、ペトロにも愛弟子にも分からない。まだ朝は明けきっていない。まだ暗いのです。暗い中では真相は見えてはきません。

 問題の核心

 そういう所から二〇章は始まります。ですから、どこに「置かれている」とか「見る」、そして、「理解する」(分かる)という言葉が、この場面でのキーワードになります。前回、語ったように、「見る」という言葉も原語では三つの異なる言葉が使われていますし、愛弟子やマリアが墓の中を「身をかがめて見る」を合わせると四つの言葉が使い分けられています。そして、「置く」は、今言ったように、「命を捨てる」で使われるティセーミと共に、普通の意味で「置く」を表すケイマイという言葉が出てきます。五節の「亜麻布が置いてあった」がそうですし、今日の個所の一二節では、「イエスの遺体の置いてあった所」がそうです。
 目に見える現実としては、今現在イエス様の遺体がどこに置かれているのかが問題になっている。墓の中に置かれていたはずの遺体が今はない。それではどこに置かれているのか。その遺体の所在をマリアは捜している。しかし、その目に見える現実の中で本当の問題は、イエス様は誰なのか?なのです。だから、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」というイエス様の言葉こそ核心をついた言葉なのです。「あなたはイエスの遺体を捜しているのか、それとも主であるイエスを捜しているのか」。それが問題です。

 マグダラのマリア

 マグダラのマリア、彼女はヨハネ福音書では、十字架の場面でいきなり登場します。十字架の下にはイエス様の母とその姉妹、そして、クロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていたことになっています。その中でもマグダラのマリアは、多くの人々の想像力をかきたてる存在です。ルカによる福音書では、七つの悪霊をイエス様によって追い出された女性として登場します。そのこともあって、その直前に登場する「罪ある女」、つまり売春婦も実はマグダラのマリアではないかと推測されるようにもなりました。そのマリアが、すべての福音書の十字架と復活の場面に登場するのです。初代教会に於いて、このマリアの存在がいかに大きかったかを、その事実は示しています。

 何故、マリアなのか

 前回、私は「ヨハネ福音書では、復活の主イエスに最初に出会ったのはペトロではなく、愛弟子でもなく、一人の女です。その意味は、次回、考えます」と言いました。今日は、そのことを考えていかねばなりません。何故、マリアなのか。あるいは女性なのか?彼女に何が起こったのか?
 彼女は、二人の男の弟子の後について再び墓までやって来ました。そして、彼らがそれぞれの思いを持ちつつも、それぞれの居場所に帰って行ってしまった後も、彼女だけは墓の外に残り、泣いていました。これは声を出して泣く、叫ぶと訳される場合もあるし、涙をこらえて嗚咽するような感じで訳される場合もある言葉ですけれど、二度も「泣いていた」「泣きながら身をかがめて墓の中を見る」と書かれています。愛するイエス様との死別の悲しみが彼女を覆っているのです。しかし、それだけでなく、その主イエスの遺体をなんとしても見たい、また自分では出来なかった処置をしてあげたい。そういう思いもあったでしょう。だからこそ、彼女は叶わぬ願いとは知りつつも墓までやって来たのだし、その後もその場に立ち尽くしているのです。そして、彼女は、愛弟子がしたように、「身をかがめて墓の中を見」ました。すると、遺体が置いてあった場所に遺体はなく、「白い衣を着た二人の天使が見えた」のです。
 天使たちは、言います。
 「婦人よ、なぜ泣いているのか。」
 答えは分かり切った質問です。でも、この質問の中には、「泣く理由があるのか?イエスは甦ったのに」という問いかけが含まれているでしょう。
 マリアは答えます。
 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
 今度は「わたしの主が」と彼女は言い、「わたしたち」ではなく、「わたしには分かりません」と言う。これもまた、イエス様への彼女の愛の表れだと思います。彼女の「主」が、取り去られてしまった。その悲しみが満ちています。しかし、それは彼女にとっての「主」とは、誰かによって取り去られてしまうものであるということでもあります。彼女は、そのように理解している。それは、それが主イエスだとも分からぬまま言った、「主よ、あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」という言葉にも表れています。ここで「引き取る」とは、「取り去る」と同じ言葉です。意味は、遺体を引き取るということです。墓泥棒など決して入らぬ、自分だけが知っている秘密の場所に「わたしの主」の遺体を移したい。そう願って、こう言っているのだろうと思う。
 そういう彼女、イエス様の死を悲しみ、せめて遺体に対して敬弔の誠を尽くしたい。そう願っているマリアがここにはいます。彼女は墓の中を見て、そこに天使を見ました。そして、天使の問いかけに先ほど言ったように答えた。その時、彼女は後ろを「振り向いた」のです。墓の入り口から中を見て、中にいる天使と語りあっていた彼女が「振り向いた」。つまり、墓の外を見たということでしょう。すると、そこに「イエスの立っておられるのが見えた。」しかし、これはヨハネの記述なのであって、マリアは「それがイエスだとは分からなかった」のです。二人の弟子が、「聖書の言葉を理解しなかった」と同じ言葉です。その後、既に読んだように、今度はイエス様との問答があります。もちろん、マリアはそれがイエス様だとは分からぬままの問答です。彼女は、ますますイエス様の遺体に対する固執を深めていくのです。

 振り向く

 そのマリアに、イエス様はこう声をかける。
 「マリア」
 すると、彼女は再び「振り向いて」「ラボニ」(先生)と言った。「ラボニ」は、彼女に限らず、弟子たちがイエス様を呼ぶ時の呼び名だと言われます。しかし、ここで彼女が「振り向いた」とは、一体どういうことでしょうか?彼女はもともと墓の中を見ており、そこにいる天使と話していました。墓の中にはイエス様の遺体はない。それは、イエス様がいない、ということでもあります。イエス様は、墓の外にいる。死の世界の中ではなく、その世界を打ち破って新しい命の世界におられる。そういうことを表しているでしょう。マリアはそのイエス様を、振り向くことを通して見たのです。けれども、その時はまだ、それがかつて自分たちがラボニ、先生と呼んで愛してきたお方であることは分からなかった。しかし、今、自分の名を呼んでくださるイエス様の声を聞いた時、彼女は、目の前にいるお方が、イエス様であることが分かったのです。でも、なぜそこで「振り向く」のか?今、イエス様は墓の外に「振り向いた」マリアの目の前にいるのです。そして、そのお方から「マリア」と呼びかけられているのに、何故彼女は「振り向いて」「ラボニ」と呼びかるのでしょうか。これではまるで、イエス様にそっぽを向いて、「ラボニ」と呼んでいることになります。
 ここで「振り向く」とは何を意味しているのか、聖書そのものに聴いていきたいと思います。この言葉がヨハネ福音書の最初に出てくるのは、前回も読んだ一章三八節です。洗礼者ヨハネの弟子であった二人の男がついて来るのを、イエス様が「振り向いて」「何を求めているのか」と問う、あの場面です。この場合の「何を求めているのか」は、そのまま今日の個所に出てくる「誰を捜しているのか」と同じ意味です。「求める」「捜す」も同じゼーテオウという言葉です。つまり、洗礼者ヨハネが言う如く、イエス様は本当に世の罪を取り除く神の小羊なのかどうかを知りたくてついて来る者たちを、イエス様は「振り向いて」見て下さり、招いて下さる。そういう場面に出てきます。
 次は、一二章四〇節です。そこには旧約聖書の預言者イザヤの言葉が引用されています。イザヤは、こう言いました。
 「神は彼らの目を見えなくし、
  その心をかたくなにされた。
  こうして、彼らは目で見ることなく、
  心で悟らず、立ち帰らない。
  わたしは彼らをいやさない。」

 ここでも「目で見る」ことが問題とされています。でも、その「目」とは肉眼のことではありません。何故なら、「見る」対象は神様なのであり、神様は目には見えないからです。このイザヤの言葉に「心で悟らず、立ち返らない」とあります。その「立ち返る」という言葉が、「振り向く」と原語では同じです。ここでは完全に人間の心の動きを表現している言葉です。もちろん、心の動きは体の動きになって現れてくるものでもありますが。
 マリアが、二度も「振り向く」と書かれていることの根底にも、心で悟り、立ち返るということが言われているのではないだろうか、と私は思います。マリアは、振り向くことを通して、次第にイエス様の姿、肉眼で見える姿だけでなく、その真相が見え始めていく。裏を返せば、振り向くことなしには、彼女は生きているイエス様の姿を見ることが出来ないのです。それまで見ていた方向に固執して、いくら墓の中を見つめていても、そこにはイエス様はおられないのだし、振り向いた上で、イエス様の声を聞くことを通して初めて、それがイエス様であることが分かるのです。彼女は、二度振り向くことを通して、つまり、心で立ち返ることを通して、次第にイエス様の姿、真相が見えつつある。そういうことを、この場面は語っているのではないか。そう思います。そして、「立ち返る」とは、罪から立ち返る、悔い改めることを意味する言葉です。

 すがりつくのはよしなさい

 そして、そういう立ち返りの経験を最初にするのは、イエス様を愛していた女です。愚かに見えようが無意味に見えようが、まだ暗いうちに、墓までやって来て、男の弟子の代表者たちが帰ってしまった後も、墓の前に立ち続け、泣き続け、なんとしてもイエス様の遺体を見たいと願い続けた女。そして、その心の最も奥底ではイエス様とお会いしたい、イエス様が誰であるかを知りたい、そういう激しく強い思いを持った人間なのではないか、とも思います。
 彼女の言葉を聞いて、すぐにイエス様は、こう言われました。
 「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
 この言葉に関しては、次週、男の弟子たちとの関わりを含めてご一緒に読んでいきたいと願っています。ただ、ここで「すがりつくのはよしなさい」と訳された言葉は、今日、注目すべきでしょう。
 この言葉は、ヨハネ福音書では、ここにだけ出てくるハプトウという言葉です。手で触るという感じではない。くっつくとかひっつくとかいう固着する感じの言葉のようです。
 ここでマリアが「ラボニ」と言った後に、思わず、イエス様を抱きしめようとしたのかどうかは分かりません。マタイによる福音書には、そういう叙述がありますけれど、少なくともヨハネはそういうことは書いてはいない。マリアが「ラボニ」と言った。直ぐにイエス様が「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言った。そういう書き方です。
 ここでも問題は、まず目に見える行動よりも心の在り様ではないかと思います。マリアがイエス様を愛していることは分かります。ルカが言っているように、彼女はかつて七つの悪霊の支配の中で苦しみ、人々からの軽蔑や非難の眼差しにさらされる苦しみをも経験した女です。また、多くの人が想像するように彼女が売春婦であったとすれば、そういう自分を真の愛をもって愛して下さり、新たな人間に造り替えて下さり、他の男や女の弟子と共に、いつもそば近くでお仕えすることを許して下さったイエス様に対する愛は、男女を問わず、他のすべての弟子たちの誰よりも深かっただろうと思います。そういう彼女の愛を、イエス様も喜んで受けられた。「多く赦された者は、多く愛するものだ」と。しかし、その愛が、肉体をもって生きているイエス様に対するものである時、そのイエス様が死んだ後は、イエス様の遺体に対する愛、あるいは遺体への固着となって現れてきます。彼女にとっての「わたしの主」は、「わたしの愛するイエス様の遺体」だったのです。しかし、イエス様の声、自分を呼んでくださる声を聞いた時、彼女はイエス様が甦ったことを知りました。けれどもそれは、この時の彼女にとっては、かつてのイエス様、「ラボニ」としてのイエス様の甦り、言ってみれば、肉体の蘇生のようなものだったと思います。しかし、それは間違いなのです。イエス様は甦られましたけれど、それはイエス様の肉体が蘇生した訳ではありません。蘇生しただけならば、そのイエス様はまた何年かすれば死ぬイエス様です。イエス様は復活されたのです。そして、その復活とは神のところへ上ることです。そして、それは実は聖霊において世に降り、マリアや他の弟子たちの罪を赦し、新たな命を与え、共に生きることです。そして、その「主」は世界中の人々の罪を取り除き、新たな命を与える世界の主であって、マリアだけの主ではないのです。
 「海より深い母の愛」は、時に、子どもをいつまでも我がものとして放さない愛です。固執し固着し、いつまでも自分の子であり続けさせようとする。そういう愛は断ち切られなければならないでしょう。それは、エゴイスティックな自己愛に他ならないのです。

 肉に従って見る(知る)

 私たちのイエス様への愛も、目に見えるイエス様に固着する時に同じことが起こります。もちろん、私たちはマグダラのマリアのように、肉体をもって生きていたイエス様を肉眼で見た経験はないのですから、彼女のように自己愛によってイエス様にすがりつくことはないと言うことは出来るでしょう。しかし、本質的には同じことがままあります。
 日本の教会の多くは、良くも悪くも牧師を中心とした家族的交わりを大事にします。中渋谷教会でも「神の家族としての教会」という言葉を使います。でも、それは神様を中心とした家族であり、その頭はイエス・キリストです。牧師ではありません。一人の牧師の開拓伝道で建った教会で、その牧師が隠退するまで長く牧師であり続けたとか、開拓伝道でなくても、二十年三十年と長く牧師をして信徒からも深い愛と信頼を寄せられているという場合、下手をすると、その教会の信徒は、その牧師以外の人の説教を聞く耳をもたない場合があります。あの先生でなければどうも物足りない。そういうことを感じ、口にする場合もある。あるいは、あの先生を通してでないとイエス様の姿が見えてこない、という場合もある。
 たしかに、何を言っているのか全く分からぬ説教というものも、様々な意味であるでしょう。また、早く牧師を辞めた方が良い人も実際にいると思います。でも、牧師が、聖書を一生懸命に読み、聖霊の導きを与えられて、神様、イエス様の語りかけを聴きとり、その言葉を語る説教をしている限り、それはどんなに拙いものであれ、神の言を語る説教なのです。聖霊を求めつつ聴けば、それは分かるはずです。しかし、私たち人間は、目に見えるものに心を奪われがちなものです。学歴だとか年齢だとか、知識の量だとか、肩書だとか、雄弁だとか、見た目とか、そういうものに影響されるものです。そして、性別にも影響される。それは、霊に従ってキリストを見ることではなく、肉に従って見ることなのです。

 パウロの闘い

 前回、私は、ヨハネ福音書のこの場面の書き方の背後に、当時のキリスト教会の一種の力関係があることを言いました。つまり、弟子の筆頭はペトロであり、復活のイエス様に最初に出会ったのもペトロであり、ペトロこそ最初の使徒であり、ペトロを筆頭とする十二弟子が十二使徒として教会の土台を作っている。そういう理解とその理解に基づく現実が、当時の教会には出来上がりつつありました。ペトロに首位権をもたせるカトリック教会を見れば、それは分かります。
 聖書の中にいくつもの書簡が残っているパウロは、そういう意味では十二弟子でも十二使徒でもない。だから、彼は使徒としてペトロよりも劣っているという当時の人々の見方があり、彼は絶えずそのことと戦わねばなりませんでした。ガラテヤの信徒への手紙の冒頭で彼は「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」という自己紹介を書きました。ここに出てくる「人」とか「人々」とは、エルサレム教会のペトロを初めとする重鎮たちのことです。そういう人間によって、自分は使徒として立てられたのではない、と彼は宣言しているのです。また、コリントの信徒に書き送った、「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はそのように知ろうとはしません」という言葉も、イエス様を肉に従ってもよく知っていたペトロを中心とした教会の背景をもって読む時に、その意味がよく分かるのです。イエス・キリストは復活して、霊において生きておられるのであり、霊によってしか知り得ないのですから。

 ヨハネの宣言

 そういう当時の教会の現実の中で、ヨハネ福音書は明らかにペトロよりも愛弟子の方を優位に描いています。愛弟子の方が先に墓に着き、愛弟子だけが、深い意味で「見て、信じた」のです。そういう記述を通して、ペトロを頂点とする教会組織を作り上げている「人間」に対する批判をしていると思います。でも、その愛弟子もまた、その時はまだ聖書の意味を「理解していなかった」。そして、無理解のまま墓を立ち去ったのです。そういう記述を通して、ヨハネ福音書は、教会の土台は人間ではなく、ただただ聖霊の働きがあるのだ、聖霊が与えられなければ、誰も聖書を理解することは出来ない、イエス様が誰であるかが分からない。そういうことを言っているでしょう。
そのヨハネ福音書が、丁寧に書き続けたのは、弟子たちが帰った後にも墓に残ったマリアの物語です。彼女こそ、二度も振り向きながら、次第にイエス様を深く見つめていくことが出来たという出来事です。そして、次週見るように、「父なる神のもとに上る」というイエス様の復活の真相を最初に知らされたのは女性だということです。そして、彼女こそが、人類史上、一番最初に「わたしは主を見ました」という証言をするのです。この「見る」「分かる」とも訳されるホラオウという言葉です。

 日本の教会

 先ほど、私は、人間は学歴だとか肩書きだけでなく性別にも影響されると言いました。中渋谷教会は、二〇〇二年まで複数教職制の中で主任ではありませんでしたが女性教職がいましたから、女性が教職であるという経験をしています。今は、私が神学生だったころに比べれば、女性教職は格段に増えました。しかし、かつてはごく少数でした。女性に対する神様の召命がなかったと言えば、たしかにそうかもしれません。しかし、召命を受けた女性が神学校を卒業しても赴任先がない、つまり招聘する教会がない。それも事実なのです。日本の教会には、まだそういう現実があります。
 二千年前のユダヤ人社会にしろ異邦人社会にしろ、女性の地位など無いに等しいものです。裁判において判決を下す場合、二人または三人の証言者が必要でしたが、そこに女や子どもは含まれません。女の証言は証言として認められない。つまり、一人前の人として数えられていないのです。そういう時代に書かれた福音書のすべてが告げているのが、十字架のもとにいたのは女性たちであり、復活の現場である墓にいたのも女性たちだという事実です。そして、その女性たちが、復活の主イエスの最初の目撃者であり、証言者だという事実なのです。特に、サマリアの女とか、姦淫の女とか、マルタとマリアの姉妹、そしてマグダラのマリアが登場するヨハネ福音書において、そのことは顕著です。
 神様は、そういうことをなさるのです。メシア到来を告げる預言の多くに「高いものは低くされ、低いものは高くされる」という言葉があることは皆さんご承知のことだと思います。
 主イエスは、御自分の死を覚悟された時、こうおっしゃったでしょう。
 「今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
 今、主イエスは地上から上げられて、神のもとへ上っていかれる。その時、マグダラのマリア、かつて悪霊の虜になっていた女、体を売っていた女、世の人々から見下され、捨て去られていた女が、主イエスに引き寄せられ、「わたしは主を見ました」と叫んでいるのです。墓の前で泣き叫んでいた女が、復活の主イエスを見ることを通して、そしてすがりつく自己愛が断ち切られることを通して、喜びと感謝をもって「主は復活されたのです」と証言しているのです。ここに復活の真相があるのです。
 私たち一人一人が、今日の御言を通して、それぞれに主イエスを見、その呼びかけの声を聴き、「わたしは主を見ました」と、愛する人々に証言することが出来ますように祈ります。
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