「わたしは主を見ましたU」

及川 信

       ヨハネによる福音書 20章11節〜18節
 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 先週に引き続き、二〇章一一節から一八節までの御言を読みました。先週は、墓の中にイエス様の遺体を捜していたマグダラのマリアが、墓の外に生きておられるイエス様と出会っていく過程をご一緒に見ました。そこでは、「振り向く」という行為が不可欠なことでした。マリアは二度も「振り向き」、そのことを通して、復活のイエス様と出会っていったのです。それは、それまで見ていた方向の逆を見なければ、人はイエス様と出会えないということを示していると思います。つまり、「振り向く」とは、単に行為として後ろを振り向くことではなく、自己愛に固着していた自分を捨てて、神に向って心を開く、罪を悔い改める。そういうことなのです。そのこと抜きに、私たちの罪のために十字架に磔にされて後に復活された方と出会うことは出来ず、目に見えるイエス様の姿の中に目に見えない「主」の姿を見ることは出来ません。そして、耳に聞こえるイエス様の声の中に、独り子なる神である主の声を聴くことは出来ないのです。
 私たちも、聖霊の導きの中に悔い改めを与えられない限り、聖書に記されている言葉は、理解不能にして荒唐無稽な奇跡物語であり続けるほかありません。今日もまた、ただただ聖霊の照明を求め、心を神様に向けて、聖書の御言をご一緒に読んでまいりたいと思います。そして、この言葉を通して自己愛に固着していた自分が打ち砕かれて、復活の主イエスと共に新たな命に生かされたいと願います。

 父のもとへ上る

 今日は、一七節と一八節に集中します。主イエスは、マグダラのマリアにこう言われます。

 「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」

 この言葉は、肉体をもって生きていた時のイエス様に固着し、そのイエス様をマリアが「我がもの」とすることへの禁止だと思います。イエス様は復活されたのです。それは単なる肉体の蘇生ではありません。新しい体をもたれたのです。そして、これから天に上る。父なる神のもとに上るのです。そのこと抜きに、聖霊において再び地上に降り、世の終わりまで救いの御業を続けるメシア(救い主)、主(キュリオス)となられることはありません。イエス様の十字架の死と復活、それはその出来事で完結することではなく、主イエスが天に上り、聖霊において降ることにおいてその真相が明らかになるのだし、その聖霊の降臨がなければ、二千年も経った今現在、この国で、こうしてイエス・キリストを礼拝する私たちが存在する訳もありません。
 しかし、イエス様は死人の中から甦ったお方だからこの方は神だ、礼拝すべきお方だということで、私たちは礼拝しているのか?イエス様は自然科学的にはあり得ないことを引き起こされたから、神なのだと聖書は言っているのか?ということです。私は違うと思います。この十字架の死と復活は何を語りかけてきているのか。それが問題です。

 独り子を与える愛

 ヨハネ福音書を礼拝で読み始めてもう四年半以上が過ぎました。その中で、何度も繰り返し読んできた言葉がいくつかあります。その内の一つが、三章一六節以下の言葉です。ここにヨハネ福音書の中核的言葉が記されているからです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」

 「独り子をお与えになった」
という言葉の中に込められている第一のことは、独り子であるイエス様を十字架に磔にして裁いたということです。そのことを通して、あるいは、そのようにまでして、神は神に背く私たちの罪を赦し、新たに神の子として生かそうとしてくださったのだ。それが、十字架と復活という出来事の中に込められたことなのです。神の独り子であるイエス様の十字架と復活の出来事、それはただ不思議な歴史的な出来事を告げているのではない。そこには神様の愛がある。信じる者を一人残らず救い、永遠の命に生かしてくださる神様の愛がある。ヨハネ福音書は、そう告げているのです。その愛を抜きに、あるいはその愛を忘れていくら読んでも、ヨハネ福音書の本質は分かりません。そして、実は私たちにとって最も理解し難く、また信じ難いことは、十字架の死から復活という出来事そのものよりも、そこに表れている愛なのだと思います。何故なら、こういう愛は、私たち人間にはないからです。そのことが、次に発せられる主イエスの言葉から明らかになると思います。

 神の愛を信じる

 主イエスはマリアにこう言われるのです。

 「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

 これまでも、主イエスは弟子たちに「わたしは去っていく」と何度も言い、「去っていくが戻ってくる」とも言ってこられました。つまり、聖霊において戻ってくる。だから、「去っていくことが、あなたがたのためになる」とおっしゃってきたのです。どこに去るのかと言えば、それは父の許に去るのです。ここで二度も「上る」とおっしゃっていることも基本的には同じことです。「上る」のは「下る」ためです。聖霊において戻って来るために、父のもとに上るのです。そして、弟子たちを初めすべて信じる者たちを父の家に招き入れるために上るのです。つまり、十字架の死からの復活、そして昇天と聖霊付与は、すべて罪人たちを父の家族として迎え入れるための救いの業なのです。
 だからこそ、主イエスはここで、「わたしの兄弟たち」とおっしゃっているのでしょう。しかし、この言葉は、その後の「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方」という言葉と共に私には俄かには信じ難い言葉です。しかし、私たちキリスト者の信仰とは、この主イエスの言葉を信じる、そこに表されている神様の愛を信じることに他なりません。今日の問題は、そこにあります。

 わたしの兄弟たち

 「わたしの兄弟たち」
とは誰か。それは主イエスの弟子たちのことです。しかし、その弟子の筆頭であるペトロは、主イエスが逮捕され、裁きを受けている最中、「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と言われたのに、「違う(わたしではない)」と言ったのです。それも三度も。そして、逃げた上に隠れたのです。その後、マリアから墓の石が取り去られていることを知らされ、その墓の中にイエス様の遺体がないことを見ても、イエス様が復活されたことを信じることもなく、空しく家に帰っていってしまったのです。そして、一九節以下を見れば明らかなように、彼はイエス様の弟子であることが知られてしまえば、自分たちも十字架に磔にされてしまうかもしれないという恐れに捕らわれて、他の弟子たちと共に隠れ家の鍵を締め切って隠れているのです。もちろん、窓も閉め切り、真っ暗な部屋でしょう。まるで墓の中のような部屋の中に隠れている。生ける屍とは、このことです。自分の命を守るために、彼らはイエス様の弟子であることを否定し、生き延びた。しかし、その彼らが今、日曜日の朝の光が射し始めている時に、真っ暗な墓のような部屋の中にうずくまっている。自力では外に出ることが出来ない。
 しかし、その一方で、弟子たちに裏切られ、見捨てられ、同胞であるユダヤ人や異邦人に宗教的な罪人、あるいは政治的な犯罪者として殺され、墓の中に葬られたイエス様は復活して、朝陽が射し始める頃、マリアに出会い、墓の外から語りかけているのです。そして、御自分を裏切り、見捨てた揚句、真っ暗な部屋に隠れている弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼びつつ、マリアを通して復活の真相を告げようとしておられる。その落差は何なのか?!「あの人のことは知らない」と言って逃げた人々のことを、主イエスは「知らないどころではない。今でも兄弟だ、家族だ」とおっしゃっている。これは一体どういうことなのか?
 敢えてこんな例を出すまでもないことだと思いますけれど、妻を裏切った夫、夫を裏切った妻を、まだ相手がそのことを心から謝罪もしていないのに赦し、前と変わらず「夫」だとか「妻」だとか呼ぶことは、私たちには出来ません。また、そんなことをしてはならないでしょう。子どもを裏切り見捨てた親、虐待した上に捨てた親を、子どもは「お父さん」「お母さん」とは呼べません。心についた傷が、そのことをさせないのだし、それはあまりに当然のことでしょう。一旦激しく傷つき、破綻した愛は、ちょっとやそっとでは回復しません。

 一一章との対比

 この個所を読みつつ、私の脳裏に浮かんだのは、一一章です。一一章は、ヨハネ福音書のちょうど真ん中に位置しています。そして、内容的にも、イエス様が既に墓に葬られているラザロを復活させるという究極的な出来事が記されています。また、その復活が起こる前に、ラザロの姉妹であるマルタが、イエス様に向って、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と信仰告白をしているという意味でも、一つの頂点であることは明らかだと思います。何故なら、彼女の信仰告白はヨハネ福音書の結末に出て来る言葉と同じだからです。
 一一章は、イエス様がかねてから愛しておられた姉妹マルタとマリアの兄弟ラザロが病気であるとの知らせが来たことから始まります。そこに「兄弟」という言葉が出てきます。そして、それに付随して、その「兄弟」であるラザロをイエス様が「愛しておられた」という言葉も二度出てくる。また、イエス様は「わたしたちの友、ラザロが眠っている」とおっしゃり、その直後に「ラザロは死んだのだ」ともおっしゃっています。「兄弟」とは文脈上は、マルタとマリアの兄弟という意味ですけれど、二一章で「兄弟たち」とは、イエス様の弟子たち、さらには教会に集うキリスト者たちのことです。教会では、信徒のことを「兄弟姉妹」と呼ぶのです。
 また、イエス様は弟子のことを「友」とも呼びます。そして、「友のため自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」とおっしゃる。この福音書では、「兄弟」「友」という言葉が「愛」という言葉を中心にして分かち難いものとして使われているのです。そして、「病気」「眠り」「死」もまた、互いにその境界線を越えるようにして使われます。イエス様にとっては、病気による死もまた眠りである一方、生きていても死んでいるという場合があるからです。キルケゴールという人が、「死に至る病、それは絶望である」という言葉を残しましたけれど、絶望の中に落ちた者は、既に生ける屍として死んでいる。そういう現実もあるのです。最近の説教で語っている「命」とは、単に肉体が生きている命のことではないし、「永遠の命」はなおさら私たちが通常考える「命」ではありません。
 一一章には、肉体という意味で死んで、既に墓に納められているラザロを、イエス様が復活させに行きます。そのラザロとは、マルタとマリアの「兄弟」であると同時にかねてからイエス様が「愛しておられた兄弟」です。そして、そのラザロを復活させることを通して、イエス様は当時のユダヤ教の当局者から死刑判決を受けることになります。まさにラザロを復活させることは、イエス様にとっては、「友のために命を捨てる」ことに他なりませんでした。そして、そのラザロの復活のためには、マルタの信仰告白が不可欠なものでした。この一一章においては、マルタに真の信仰を与えることと、ラザロを復活させること、墓から呼び出すことが緊密な関係にあるのです。

 信仰と復活

 二〇章も、よくよく見てみると、マグダラのマリアに真の信仰を与えることと、弟子たちに新しい命を与えて墓のような部屋から外に出すことが切っても切れない関係にあることが分かります。二一章で、墓に入っているのは弟子たちです。彼らは、イエス様を裏切り逃げてしまった自分たちに絶望し、さらにイエス様が十字架に磔にされて死んでしまったことに絶望してしまった人間です。彼らは、最早自力ではその部屋から出ることが出来ない屍なのです。しかし、その弟子たちを、イエス様はなお愛しておられる。そして、「わたしの兄弟たち」と呼ばれるのです。なお愛しておられるというよりは、彼らを愛しておられたから彼らのために命を捨て、そして愛し続けておられるから、彼らが永遠の命を生きることが出来るように復活されたのです。マリアが知ったことは、その事実です。
 これまでの二度の説教で、二〇章には、三度もイエス様の遺体が「どこに置かれているか分からない」という言葉がでている。その「置かれている」は、「よい羊飼いは羊のために命を捨てる」「捨てる」とギリシア語では同じ言葉が使われていると言いました。それはもちろん、「友のために命を捨てる」「捨てる」とも同じです。マリアは、イエス様の遺体の置かれた場所を捜し続けつつ、実は、イエス様の愛、命を捨てる愛とは一体どういうことか分からぬ思いの中で、泣きながらイエス様を捜す、その愛を捜し求める、そういうことをしてきたのだと思います。そして、彼女のすがりつく愛を断ち切られることを通して、イエス様の彼女への、また弟子たちへの愛を知らされていく、まことに人を生かす愛を知らされていく。それが、ここで起こっていることなのではないかと思います。
 マリアは聴きました。イエス様が、あの弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ぶ声を。そして、それはつまり、イエス様の「父」と、弟子たちの「父」が同じであるということです。親が同じでなければ、兄弟ではないのですから。つまり、イエス様は弟子たちを同じ父のもとに暮らす家族としているのです。
 家族というのは、良くも悪くも最も親密な愛で愛し合う交わりです。そうであるが故に、そこに愛がない時、あるいは裏切りがある時、その家族が味わう悲しみや怒りや憎しみは、赤の他人との間よりもはるかに深いものとなるしかないのです。伴侶から愛されないことは、他人から愛されないこととは比較にならない悲しみです。そして、親から愛されない、否定される、排除されるという経験をした子は、その心に生涯消えることのない傷を負うことになります。そして、子から愛されない親、これは人間の場合は、親が子を愛している限り基本的にはあり得ないことです。しかし、聖書の中で神様は父なる神として描かれます。それも子から愛されない父です。子を愛しているのに子から愛されない父です。その父の悲しみ、怒りを、聖書は語り続けていると、私は思います。

 ホセア書

 私は神学校時代に、旧約聖書のホセアという預言者を卒業論文のテーマにしました。その理由はいくつかありますけれど、その一つは、ホセアの体験やその体験を通して彼が語る神様のイメージが、私の身に迫って来たということがあります。そして、その当時の私は私として、神様に立ち返らなければどうにもならない。ヨハネ二〇章の言葉で言えば、それまで見ていた方向から逆の方に振り向いて、そこに立ち、呼びかけてくださるイエス様と出会わねば、一歩も先に進めない。そういう現実が内外にあったからです。ホセア書の一つの問題は、神に立ち返ることなのです。
 ホセアは妻との間に子どもが三人いる一人の夫でしたけれど、その妻は愛人の許に走っていきました。そういう悲しみ、失意のどん底を経験したのです。そのホセアに向って、神様はこうおっしゃる。

 「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」

 ここで、主なる神様もまた、妻に裏切られた夫の悲しみを味わっている。決して赦せぬ憎しみにもだえ苦しむ夫の苦しみを味わっているのです。その上で、ホセアに妻を愛せ。もはや妻と呼ぶことが出来ないその女を愛し、迎えに行け、と命じる。それは、御自分を裏切り、他の神々に顔を向け、その神々を愛しているイスラエルの民を、神様がなお愛し、ご自身の民として新たに迎え入れようとする信じ難い愛から出てくる命令です。そして、神様は、いつの日か、イスラエルの人々が、神様の許に帰って来ることを待つのです。こんな屈辱的なことはありません。しかし、神様はその屈辱にまみれた愛を生きようとし、またそのことを預言者に求めるのです。これは辛いことです。しかし、神に立てられるとは、そういうことなのだと思います。
 さらにホセア書一一章には、こういう言葉があります。

 「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
  エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
  わたしが彼らを呼び出したのに
  彼らはわたしから去って行き
  バアルに犠牲をささげ
  偶像に香をたいた。
  エフライムの腕を支えて
  歩くことを教えたのは、わたしだ。
  しかし、わたしが彼らをいやしたことを
  彼らは知らなかった。
  わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
  彼らの顎から軛を取り去り
  身をかがめて食べさせた。」


 ここで神様は、幼い子どもに歩くことを教え、自らかがんで食べ物を食べさせる父親です。「エジプトの奴隷になって苦しんでいるイスラエル(エフライム)を救い出し、愛の絆を結んで荒野を導き、豊かに農作物が実るカナンの地に導き返したのは、父である私だ。私が愛し、私がいつもその名を呼んで育てて来たのだ」と、苦しみの中から絞り出すような声で、叫んでおられる。何故か。こんなにも父親から愛されたのに、イスラエルの民は目先の富を求めて、現世利益を与える神々に礼拝を捧げるようになってしまったからです。父なる神様との愛の交わりに生きる命ではなく、今でいうなら高価なビフテキだとかマグロのトロだとかを食べながら生きる命の方が貴いと思い込み、父の愛を捨てた。父を捨てたのです。他の父に乗り換えたのです。その子の姿を見て、嘆き、怒り、ついに裁く父なる神が次に出てきます。

 「彼らはエジプトの地に帰ることもできず
  アッシリアが彼らの王になる。
  彼らが立ち返ることを拒んだからだ。」


 つまり、このままでは、イスラエルはエジプトに帰ることもできず、外国に攻め滅ぼされてしまう。滅亡する。裏切り、背きの罪に対しては断固とした態度で臨む父の顔がここにはあります。「たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることはない」とホセアは語ります。今更、助けを求めて叫んだところで時既に遅い。夫婦であれば離婚しかないし、親子で言えば勘当しかない。後は野垂れ死にでも何でもしろということです。
 しかし、その後に、私にとっては当時も今も、まさに信じ難い言葉が出て来るのです。ホセア書一一章八節からを読みます。

 ああ、エフライムよ
 お前を見捨てることができようか。
 イスラエルよ
 お前を引き渡すことができようか。
 アドマのようにお前を見捨て
 ツェボイムのようにすることができようか。
 わたしは激しく心を動かされ
 憐れみに胸を焼かれる。
 わたしは、もはや怒りに燃えることなく
 エフライムを再び滅ぼすことはしない。
 わたしは神であり、人間ではない。
 お前たちのうちにあって聖なる者。
 怒りをもって臨みはしない。


 わたしは神だから、怒る権利がある。誰よりも強くあなたがたを愛してきた父だから怒る権利がある。そして裁く権利がある。一一章で、神様はずっとそういうことを言って来られたのです。しかし、ここでいきなり、神様は、御自分を見捨てた子を、どうして見捨てることが出来ようか、どうして滅亡に引き渡すことが出来ようかとおっしゃる。そして、その「心が激しく動かされる」と、おっしゃるのです。これは「ひっくり返る」「転覆する」ということです。そしてそれは、他の個所ではアドマやツェボイムと並んで出て来るソドムとゴモラという町に対して使われる「滅ぼす」という意味の言葉なのです。何もかもひっくり返してしまう。滅茶苦茶にしてしまう。そういう言葉。そのことが、今、神様の心の中で起こっている。ホセアはそう語る。いや、神様がホセアにそのようにご自身の心の内をお語りになっている。そして、そのようにご自身を滅ぼすことを通してでなければ、裏切り、背き去ったイスラエルを再び自分の子として迎え入れることは出来ない。彼らから再び「父よ」と呼ばれ、彼らを再び「我が子よ」と呼ぶためには、神様の心がひっくり返る、滅ぶ、そのことが必要なのです。そのようなことまでして、神様はイスラエルを愛している。「憐れみに胸が焼かれ」ているのです。この愛を信じる。それが聖書の信仰です。この信じ難い愛を信じることが、私たちの信仰なのです。そして、その愛を信じる時、人はそれまでの自分ではいられなくなるのです。この愛を受け入れる容量は、肉に生きる私たちにはないからです。

 わたしは神であり、人間ではない

 復活された主イエスは、裏切り、逃げ去った弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼びます。それは、ここでおっしゃるように、「わたしの父」「あなたがたの父」が同じだということです。神様の独り子である主イエスが、神様を「父よ」と呼ぶのは当たり前です。でも、そのイエス様を裏切り、見捨てて逃げた人間たちが、イエス様の兄弟であるわけはないし、ましてイエス様の父を「父よ」と呼べるはずもありません。でも、イエス様はここで、まるでそれが当たり前かのように、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」とおっしゃっている。それは、神様だけが言える言葉です。

 「わたしは神であり、人間ではない。
  お前たちのうちにあって聖なる者。
  怒りをもって臨みはしない。」


   神様は、独り子を与えるほどに私たちを愛して下さっているのです。愛する独り子を十字架につけて滅ぼされたのです。私たちの罪に対する怒りの裁きを、私たちに向けるのではなく、罪なき独り子に向けて下さったのです。神様の心の中は、もう滅茶苦茶なのです。「何故、この私が、愛して愛して止まないこの独り子を殺さなくてはならないんだ。冗談じゃない・・・」そういう思いがおありだったと思います。しかし、父なる神様は、私たちを愛する憐れみの炎を抑えることをなさらなかった。その炎が、独り子を焼き尽くしていかれました。御子主イエスも、その父の憐れみの炎をもって、自ら十字架の死に向われ、罪に対する裁きをその全身に受け止めて下さったのです。ただその十字架の死の故に、神様は私たちの罪を赦して下さった。イエス様は、その究極の愛と赦し、ただ神様だけがお持ちの愛と赦しをその十字架においてお示しくださり、そのことの故に、復活させられ、今に至るまで聖霊において神の愛と赦しを私たちに与え続けて下さっているのです。そして、今日も御言を通して語り続けて下さっているのです。そこに神の燃えあがる憐れみ、愛があるのです。その愛の故に、主イエスは私たちを「わたしの兄弟たちよ」と呼んで下さり、私たちも主イエスの父を「わが父よ」と呼ぶことが出来る。そこに私たちの救いがあります。

 マリアが知らされたこと

 マグダラのマリアは、そのことを知らされた最初の人です。主イエスに七つの悪霊を追い出して頂き、多くの罪を赦して頂き、そのことの故に誰よりも多く主イエスを愛してきたこの女性が、二度も振り向きつつ出会ったお方、それは神であって人間ではないお方、罪人の中にあってただ独りの聖なるお方、怒りではなく愛をもって臨んでくださる独り子なる神、主イエス・キリストでした。そのお方を信じる、そのお方を愛する、その信仰と愛に生かされる時、彼女もまた最早それまでのマリアではなくなりました。
 だから彼女は、弟子たちに向って、「私たちの先生(ラボニ)が生き返りました」と告げに行ったのではなく、「わたしは主を見ました」と言ったのです。そこで彼女があの裏切り者の弟子たち、墓の中に閉じこもっている弟子たちに言ったこと、それは、「あなたたちは愛されているのです。あなたたちは赦されているのです」ということです。「信じられないかもしれないけれど、あなたたちの罪は赦されているのです。主は、あなたたちを『わたしの兄弟たち』と呼んでくださるのですよ。そして、神様は今でもあなたたちの『父』であり、あなたたちの『神』なのです。主イエスが、私たちのために命を捨ててくださったから。それ故に、主は復活されたから。この方の愛を信じましょう。そして、新しく生き始めましょう。」マリアの「わたしは主を見ました」という言葉に込められていることは、そういうことだと、私は思います。
 主イエス・キリストご自身が、彼女の口を通して、生ける屍、自分に絶望している人間に向って語りかけているのです。「わたしの愛を信じて欲しい。そして、新たに生きて欲しい」と。今日も同じです。今日、読まれたすべての聖書の言葉と、その言葉を説き明かす説教を通して、主イエスは「わたしの愛を信じて欲しい」と語りかけて下さっている。その主イエスを見、その言葉を聴き、そして信じることが出来ますように。そして、新しく神の子として生まれ変わることが出来ますように。祈ります。
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