「あなたがたに平和があるように」

及川 信

       ヨハネによる福音書 20章19節〜23節
 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 週の初めの日


 一週間の歩みを終えて、私たちはまたこうして日曜日を迎えました。私たちキリスト者にとって日曜日は、安息の日です。読んで字の如く、安心して息をする、平安の内に息をする日です。そして、私たちキリスト者にとって、この日は「週の初めの日」なのです。週の初めに、神様と息を合わせる礼拝をして、一週間の歩みを始める。それが私たちキリスト者の生活です。
 私たちは、もう一ヶ月もかけて二〇章を読んでいます。この二〇章は、すべて日曜日に起こった出来事が記されている章です。一節には、「週の初めの日、朝早く」、マグダラのマリアが、イエス様の遺体が納められた墓の蓋が取り除けられているのを「見た」ということから二〇章は始まります。この「見る」という言葉が重要であることは再三語って来ました。今日の個所でも、それは重要な言葉の一つです。
 今日の個所は、「その日、すなわち週の初めの日の夕方」の出来事です。ここで弟子たちも、マリアと同じく「主を見る」ことになります。
 次回読む所も「八日の後」、つまり、一週間後の日曜日の出来事です。その日、弟子たちはまたもや戸の鍵を締め切っている。そして、八日前にいなかった弟子の一人トマスが、信じない者から信じる者に生まれ変わるという出来事が記されています。そこでも、「見る」という言葉がキーワードであることは明らかです。

 何故、喜んだのか?!

 今日の個所は、私には深い思い入れがある所です。それは一つの思い出とも結びついています。先週、神学校時代のことを少し語りましたけれど、神学校の卒業年度には、学長による説教演習があります。その中で、学長が選んだ個所で各自が説教を造るという課題がありました。その時の学長が選んだ個所の一つが、今日の個所でした。私は、かねてからこの個所の不可思議さに心惹かれると同時に、ある種のひっかかりを感じていたので、私なりに一生懸命取り組んで説教を提出しました。たまたま学長が、それを面白いと思ったのでしょう。次の授業の開始と同時に、「及川君、君の説教を読みたまえ」と言ったのです。細かい内容を今は覚えていませんが、私が拘ったのは、「なぜ、弟子たちは主イエスを見て喜んだのか」という問題です。
 弟子たちは、主イエスを裏切ったのです。裏切った上で、ユダヤ人を恐れて隠れているのです。ユダヤ人に見つかるのも怖かったでしょう。でも、何よりも怖いのは、裏切った相手と出会うことだと思います。夫に裏切られて死んだお岩さんが、恐ろしい顔でウラメシヤと出てきた時に、夫の伊右衛門は恐怖のどん底に叩き落とされました。弟子たちに裏切られて死んだイエス様が、突然幽霊のように出てきて、十字架の傷痕も生々しい手やわき腹を見せた。それなのに、なぜ、弟子たちは喜んだのか?!「そこには赦しがあったからだ」というのが、説教で語るべきことでしょうし、神学的にも正しいことは分かります。でも、なんだか、それを言っちゃおしまいよ、みたいな感じもして、ずっともやもやしていたのです。
 私は私として、当時も裏切ったり、裏切られたりする人生を生きており、そのいずれの立場においても、傷は深いわけで、そう簡単に赦されるわけもなく、赦せるわけでもない。そういう現実というか、感覚を色濃く持っていました。だから、そういう現実感覚を忘れ去って、あるいは葬り去って、神学的に正しい教理を語ることには強い抵抗感があったことを覚えています。そして、そういう抵抗感の中で、それでも私なりに一生懸命にここを読んで、何かを語ったのでしょう。その内容は覚えていません。
 それ以後、牧師になって、何度もこの個所を引用して説教することはありました。でも、この個所そのものを日曜日の説教で取り上げるのは、今日が初めてだと思います。より正確に言うと、この個所に至るまでのヨハネ福音書を私なりに読み通した上で、この個所を説教することは、今日が初めてです。そして、今に至るまで、私はこの個所の魅力に捕えられて生きてきたようにも思います。それは、この時の弟子の喜びの内容を知りたい、この時の弟子の喜びを味わいたいという強い衝動に捕らわれて生きてきたということだと思います。この時の弟子の喜びさえ知ることが出来れば、生きていける。変な言い方かもしれませんが、ちゃんと喜びをもって生きていける。身につけてしまった斜に構えた、ひねくれた生き方ではなく、正々堂々と、何も恐れることなく生きていける。そのように生きたい。そういう願いをもって、でも全く願いとは裏腹に生きてきたことを思います。

 ヨハネ福音書の魅力

 ヨハネ福音書の魅力の一つは、時空を超えて生きておられるイエス様に出会えるということです。福音書には伝記的要素がありますから、時間系列の中で物語られるのは当然です。イエス様の活動開始から十字架と復活。そういう時間的な順序がある。他の福音書は、その点が明確です。でも、ヨハネ福音書におけるイエス様の活動やその言葉は、既に十字架の死から復活し聖霊において弟子たちの所に戻って来られたイエス様のものでもある。二〇章で遣われる言葉で言えば、「主」としてご自身を啓示されるイエス様です。ヨハネ福音書では、イエス様は時間と空間の中を自由に移動されるのです。イエス様自身が「風は思いのままに吹く」と言われます。そして、そこで「風」と訳される言葉はヘブライ語やギリシア語では「霊」と同じですし、「息」とも同じです。その捕え所のなさが、不思議と言えばまさに不思議ですけれど、風のように生きる主イエスが実はとてもリアルなのだと思います。
 また、他の福音書を読んでいると、ペトロを筆頭にする十二弟子が前面に出てきて、彼らとイエス様との関わりが記されています。それに対して、この福音書では、十二人には限定されない形で「弟子たち」という言葉がよく出てきます。実際、「多くの弟子がいた」と記されているのです。そして、その「弟子の多くが去って行った」とも書かれている。こういう不特定多数の「弟子たち」という書き方を通して、ヨハネ福音書は、「ここに登場する人々は他でもないこの福音書を読んでいる一人一人のことなのですよ」と語っているのだと思います。そういう書き方は他の所でもいくつも出てきます。

 弟子であるが故の罪

 その「弟子たち」は、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。これは一体、どういうことなのか?何故、何をこれほどまでに、弟子たちは恐れるのか。
 先ほども言いましたように、弟子たちは主イエスを裏切りました。しかし、こんなことは私たちがしょっちゅうやっていることです。私たちの日常生活は、裏切りの連続なのですから。「イエス様を信じます。イエス様に従います」と信仰告白して洗礼を受けていなければ、別段裏切りでも何でもない、ただ罪の闇の中で生きているだけのことを、キリスト者である私たちがすると、それは罪の闇の中でしたことに「裏切り」「否認」という罪が付け加わるのです。礼拝の度ごとに、主イエスから、罪を赦して頂き、平和を頂いて派遣されても、一週間の歩みの中で、どうしたって罪を犯してしまいます。だから、私たちの礼拝の最初の祈りの基本は、罪の悔い改めなのだし、主に赦しを乞うこと以外の何ものでもない。カトリック教会の礼拝では、伝統的に最初にキリエ・エレイソン、「主よ、憐れみたまえ」という讃美をするのは、当然のことです。そのこと抜きに主イエスの前には恐ろしくて立てないからです。あるいは神の前に立てない。裏切った相手の前に何食わぬ顔で立って、「こんにちは、ご機嫌いかが?」なんて訊くことは出来ません。そんな恐ろしいことは出来ません。少なくとも、罪を知る限りは出来ません。知らなければ、何でもできます。

 恐れ

 ここに「ユダヤ人を恐れる」という言葉が出てきます。これもヨハネ福音書の典型的な言葉の一つです。この場合の「ユダヤ人」とは、世の支配者のことで、それはつまり、人を死刑にする権力をもっている者たちです。そういう者を恐れる。それは、当然のことです。しかし、それは世に属している者たちが抱く恐れです。
 主イエスは、繰り返し、世に属している限り主イエスを信じることは出来ないとお語りになっていました。世ではなく神に属する者、より字義どおりに言えば、信仰によって神から生まれる神の子とならなければならないとおっしゃいました。その神の子となる時、世の支配者、権力者への「恐れ」からは解放されるからです。
 元来、「恐れ」とは、真の支配者である神様に対してこそ抱くものなのです。そこに神がおられる、その神の前に立った時の罪人の状態が「恐れる」ということです。二つだけ例を挙げます。
 六章で、五千人にパンを分け与えるしるしを示された後、イエス様は人々の熱狂を避けて独り山に登り、弟子たちだけでティベリアス湖を舟で渡っていくことがありました。しかし、既に暗くなっても、風と荒波に阻まれて彼らは前進出来ない。そこに、主イエスが湖の上を歩いて近寄って来た。その姿を見て、弟子たちは恐れました。その弟子たちに、主イエスはこうおっしゃった。

 「わたしだ。おそれることはない。」

 この「わたしだ」は、ギリシア語ではエゴ・エイミで、神様がご自身を啓示する時の一つの決まり文句です。弟子たちは、この時、神様を前にした罪人としての恐れを感じたのです。そこまでの自覚を、この時の彼らが持っていたかどうかは分かりませんが。
 次に、世の支配者との関連で一つの例を挙げます。それはローマの総督ピラトによる裁判の席でのことです。ピラトは、イエス様に対して何とはない恐怖を会ったその時から抱いていました。そして、「律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」とユダヤ人が言った途端、ピラトは、「ますます恐れ」、「お前はどこから来たのか」と尋ねたとあります。つまり、「お前は誰だ。神なのか人なのか」と、恐怖のどん底に叩き落とされつつ尋ねたのです。
 罪人は、神の前には平和ではいられない。それは当然です。神は裁き主だからです。罪人が恐れるのは自分を裁く権利を持った存在です。罪人同士への恐れなど、ある意味、大したことはないのです。しかし、世に属して生きている限り、世の支配者を恐れつつ生きるほかありません。しかし、その支配者も、ピラトを見るまでもなく、実は、神を前にすれば、恐れに慄くのです。彼も罪人だからです。
 主イエスの弟子たち、それは、本来、世に属する者たちではなく、神に属する者たちであるはずです。恐るべき神が近付いて来られても、その神から「恐れるな、わたしだ」と語りかけられ、その神と共に歩むことが許された者たちなのです。そのことによって、世に対する恐れからは解放されているはずの人々です。しかし、この時の弟子たちは、「体を殺すことが出来ても、魂を殺すことが出来ない者」を恐れている。さらに、主イエスに出会うことも根源的な意味で恐れている。そういう二重の意味で、神から生まれた神の子としての命を失ってしまった人間です。ドイツ語で罪人のことをゴットローゼン、神を失った人々と表現しますが、正にこの時の彼らは神様との交わりを失った人々です。だから、戸を閉ざし、閉じ籠っている。それはまた心を閉ざし、殻に閉じこもっているということでもあります。
 そして、その根本的原因は、突き詰めて言えば、自分の罪を誰も赦してくれはしないという絶望なのです。諦めというよりは深い絶望だと思います。愛を信じられないのです。赦されぬ罪があると確信し、自分はその罪を犯したと確信した場合、人はその心を閉ざす他にはありません。頑なに閉ざす。自分でその戸を開けることは出来ません。誰にも裁かれたくないからです。赦されないまでも、裁かれたくもない。私たちは、そうやって互いにその心を閉ざすものです。そして、その閉ざされた空間の中で息苦しい思いを抱え続ける。安息出来ないのです。

 心を閉ざす罪人

 弟子たちは、ユダヤ人にも裁かれたくはないし、本当に恐ろしい主イエスにも裁かれたくないのです。誰にも会いたくない。でも、彼らは、この日の早朝にペトロを通して、墓の中に主イエスの遺体がなかったということを知らされています。その知らせは、喜びであるよりは不気味な知らせだったと思います。しかし、その後、彼らはマグダラのマリアから、「わたしは主を見ました」という知らせを受け取りました。それは、彼らに激しい動揺をもたらしたでしょう。彼らは、どうしてよいか分からぬ思いにさせられたと思います。
 彼女は言います。

 「わたしは主を見ました。それはイエス様の肉体の蘇生なんかではありません。復活された主イエスです。主は言いました。『あなたたちは、わたしの兄弟たちだ』と。『わたしの父はあなたたちの父、わたしの神はあなたたちの神だ』と。主イエスは、これから神のもとに上り、そして帰って来る。そのことにおいて、あなたたちの罪は赦されるのです。あなたたちは今尚、主の愛の中に置かれているのです。信じてください。」

 彼女は、そう告げたと思います。主イエスがおっしゃったことは、そういうことですから。その知らせを受けつつ、なお、閉じ籠るしかなかった弟子たちが、ここにいます。しかし、彼女がここでイエス様から派遣された使者の務めを果たしたことが、この後の展開にとっては決定的な意味を持ったのだと、今の私は思います。
 閉じ籠っている弟子たち、決して自分たちでは部屋から出て来られない弟子たち、マリアの知らせにもかかわらず、どうしたらよいのか分からぬ弟子たち、その弟子たちの所に主イエスが来てくださる。そのことによって、事態は全く新たな展開を始めます。

 イエスが来る

 この「イエスが来る」という言葉は、先ほどのティベリアス湖の出来事においても決定的な言葉でした。自分たちではどうにもならない状況の中に落ち込み、にっちもさっちも行かなくなってしまった弟子たちの所に、主イエスが来てくださる。ただそのことによって、事態は劇的に変えられるのです。
 復活の主イエスは、家の壁も戸も関係なく、弟子たちの所に来て、真ん中に立って下さり、即座に「平和があるように」とおっしゃった。これは、「あなたがたに平和がある」とも訳せます。願望というより断言の意味の方が強いと思います。ヘブライ語では、シャロームという言葉です。元来の意味は、「神があなたと共にいます」です。
 復活された主イエスは、時空を超える神として弟子たちの只中に来て、「恐れるな、わたしだ」と言って下さった。「心配するな、恐れるな、わたしだ。わたしはあなたを見捨てはしない。孤児とはしない。共にいる。あなたたちを、赦しているのだ。」そう言って下さったのです。その時、弟子たちは、マリアの告げたことが本当であったということが分かったでしょう。そして、これまで主イエスが繰り返し繰り返し語って来られたことがすべて本当だったということが分かったのだと思う。
 主イエスは、弟子たちにこうおっしゃっていました。

 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが分かる。」

 主イエスは、「あなたがたに平和がある」とおっしゃったと同時に、そのしるしをお見せになりました。それは手と脇腹です。釘が打たれた手、槍で刺された脇腹です。特に、その脇腹は、槍で刺された瞬間に、「血と水が流れ出た」場所です。最も痛ましい傷跡です。それを見ることは、毒を盛られて醜く変形したお岩さんの顔を伊右衛門が見るように恐ろしいことであるはずです。でも、その「血」は、弟子たち初めすべての人間の罪が赦されるために流される贖いの血でした。「世の罪を取り除く神の小羊」が流す血であり、神の愛が詰まった血です。そして、その「水」とは、人を生かす命の水であり聖霊のことです。ご自身の死を通して、罪に死んでいる者を新たに生かす愛の霊です。手と脇腹を見せることは、お前たちのお陰で、俺は殺されたんだ、どうしてくれる・・という恨みを示すことではない。全く逆なのです。

 何を見せたのか

 ここで「お見せになった」と記されているデイクヌーミという言葉は、ヨハネ福音書ではほとんどすべてが、イエス様が神の独り子であり、イエス様を見ることによって父なる神を見ることが出来る、という意味で使われる言葉です。先ほど読んだように、父と子が互いにその内に生きていることを示すという意味であり、それはまた弟子たちも、イエス様の内に招き入れられる時に見ることが出来る現実なのです。つまり、愛の交わりの中で見ることが出来る現実です。
 イエス様がここで、弟子たちの所に来て、真ん中に立ち、「あなたがたに平和がある」と言いつつ、手と脇腹をお見せになったのは、まさに一瞬の出来事でしょう。その一瞬の内に、父と子は死を越えて一体の交わりに生かされており、そして、その交わりの中に罪赦された自分たちも招き入れられている、そのことが分かった。だからこそ、彼らは、「主を見て喜んだ」のです。イエス様を見て「ラボニ(先生)」と言ったのではなく、二度も振り向くことで「主」と出会ったマリアと同じく、イエス様の姿に「主」「見る」ことが出来たのです。そこに彼らの喜びがある。そしてそれは、彼らだけのものではなく、今日、この週の初めの日に、この部屋に集まっている私たちにも与えられるべき喜びです。

 罪の赦し

 主イエスは、重ねて「平和があるように」「あなたがたには、平和があるのだ。」そう断言された上で、こうおっしゃいます。

 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
 「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」


 私はヨハネ福音書の説教を、今日で一二八回語っています。多分、毎回「罪の赦し」という言葉を使って来たのではないかと思います。説教の使命とは、罪を指摘し、主イエスによる赦しを宣言することだからです。でも、皆さんも意外に思われると思うのですが、今回、調べてみると、この福音書で「罪を赦す」という言葉は、ここに初めて出て来るのです。
 ヨハネは、主イエスが復活して弟子たちに現れ、息を吹きかけ、派遣するこの場面に、この福音書のメッセージの中核を表現する言葉を持って来た。すべては、この「罪の赦し」に行き着くのだということを示すためにです。そして、その罪の赦しは、弟子たちを通して世に伝わっていくことを示し、独り子を与える神の愛とはこの「罪の赦し」であることを示すためです。
 しかし、私にとっては「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」という言葉は、「弟子たちが主を見て喜んだ」と同様、長い間、謎であり続けてきた言葉ですし、謎というよりも苦しみをもたらしてきた言葉です。毎回毎回、「罪の赦し」という言葉を使って、それこそ二五年間も牧師として説教を語っているのに、実際、人の罪を赦せない、また人から赦されていない、そういう現実を絶えず内に抱えているからです。
 皆さんの中にも、毎週、罪の赦しの説教を聴き、信仰を告白し、讃美歌を歌いながら、主の祈りの「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」という言葉を、心から祈ることが出来ない。どうしても言葉が詰まってしまう。ここだけは小さな声になってしまう。言葉に出すたびに心が痛む。そういう経験をなさっている方がおられるのではないでしょうか。私は、それが当然だとも思いますけれど、それで良いのかとも思います。主イエスに出会って、本当に己が罪の赦しを信じて喜びに溢れた者は、やはり罪を赦す者となるはずではないかと思う。そうなっていないのであれば、それはまだ信仰が本物ではない。そう言わざるを得ないと思います。それでは、心にわだかまりを持ちつつ主の祈りを唱和したり、また説教を語ったり、聞いたりして、アーメンと言っている私たちの信仰が偽物だと断定できるのかと言うと、それはそれでどうなのだろう、と思う。そもそもそういう判断は、私たちがすることではないのではないかとも思うからです。

 息を吹きかける

 ここで主イエスが「息を吹きかけた」とあります。これは明らかに創世記二章七節に記されている人間の創造の業を思い起こさせるものです。そこには、こうあります。

 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

 人は、肉体だけで生きているわけではない。神様から命の息を、つまり神の霊を吹き入れられて、初めて人として生きる。肉体だけで生きているとは、つまり、罪の中に生きることであり、それは生ける屍なのです。罪の赦しの愛を信じることなく、罪の赦しの愛に生きることがない。それが禁断の木の実を食べた後のアダムとエバの姿です。彼らは肉体は生きていますが、ゴットローゼンです。神様との霊の交わりの中に生きる命としては死んでいる。生ける屍です。このアダムの創造記事は、罪人を新たに生かす神の救済をこの時既に暗示していると思います。
 もう一つ、この「息を吹きかける」という言葉が出て来るのはエゼキエル書三七章です。エゼキエルとは、神様に対して繰り返し罪を犯し続け、ついに裁きを受けてバビロンに捕囚をされてしまった民と共にバビロンに連れ去られ、元来は祭司であったのに、そこで預言者として立てられた人物です。その彼が見させられた幻の一つが三七章には記されています。
 それは、彼が神様によってある谷に連れて行かれる所から始まります。その谷は、骸骨で一杯だったのです。神は問います。「人の子よ、これらの骨は生き返ることが出来るか。」エゼキエルは答えます。「主なる神よ、あなたのみがご存知です。」すると、神様は、こう言われる。

 主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」 わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。

 霊が殺された者の上に吹きつく、それが「息を吹きかける」と同じ言葉です。罪の故に裁かれて死んだ者たち、彼らの状況は絶望的です。しかし、その骨に、神の息、霊が吹きかけられる時、骨は生き返る。新しい存在となり、大きな集団となっていく。
 創世記とエゼキエル書は、両方とも大事です。神の言葉と共に神の命の息を吹きかけられるのは、一人一人であると同時に集団です。弟子の一人一人であると同時に弟子の集団です。教会なのです。私であると同時に私たちなのです。
 そして、この霊は、今、主イエスの体から流れ出た血と共に与えられる霊です。私たちの罪の赦しのために流された血と共に流れ出て来る聖霊。この霊を受けなければ、私たちは罪による死の中から生き返ることは出来ません。人として生きることは出来ない。

 週の初めの日に起こること

 主イエスは、私たちを人として生かすために週の初めの日に、十字架の死から復活させられ、私たちの所に来て、真ん中に立ち、今日も手を広げて、「あなたがたに平和がある。わたしは共に生きている。わたしが生きるから、あなたがたも生きる。信じなさい」と語りかけ、聖霊を吹きかけて下さっているのです。そのことがあったのに、その一週間後、この弟子たちはまだ戸の鍵を締め切っています。人間とは、そういうもの。薄っぺらいドラマのように簡単に生まれ変わる者ではありません。でも、またそこにもイエス様は来て、真ん中に立ち「あなたがたに平和がある」と語りかけてくださる。そして、聖霊を吹きかけつつ、彼らを愛と赦しを信じ、愛と赦しに生きる人間に造り替える業を継続してくださるのです。
 私も、このイエス様の愛と赦しの中で生かされ、徐々にではあっても、少しずつ心を開くことを覚え、体の中にイエス様の息を吸い込むことを覚えつつあるように思います。そして、かつてよりは少し、愛と赦しを信じて喜び、愛と赦しに生きる人間にされつつある。皆さんも、程度の差はあっても、本質は全く同じだと思います。誰も彼もが、まだまだ肉の思い強く、霊の導きだけで生きることなど程遠い現実を生きている。でも、そういう私たちの所に今日もイエス様は来て、真ん中に立ち、「恐れるな、わたしだ。あなたがたに平和がある。あなたがたの罪は赦されているのだ。聖霊を受けなさい。そして、信じなさい」と語りかけてくださる。その霊的な現実の方が、私たちの肉の現実よりもはるかに強いことを信じます。
 そして、今日は主イエスによる罪の赦しと復活の命に、パンとぶどう酒を通して与る聖餐礼拝の日です。聖霊の導きの中で、悔い改めと信仰と賛美をもって聖餐の糧を頂きたいと思います。そして、「平和のうちにこの世へと出ていきなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい」という祝福と派遣に、今日は今日として全身全霊を傾けて応答する者たちでありたいと願います。

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