「信じる者となりなさい」

及川 信

       ヨハネによる福音書 20章24節〜31節
 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。


 二週にわたってオーストリア受難劇観賞・イスラエルの旅をさせて頂き、先週の火曜日に総勢十三人のグループ全員が無事に帰国できました。神様に感謝すると共に、皆さまのお祈りを感謝いたします。また、留守中、皆さんも守りの内にあったことを感謝します。私は、摂氏四十度を超える強烈な日差しの下で日焼けをし、髭も伸び、サングラスをしてジーパン姿で埃っぽく雑然としたアラブ人街を歩いていると、現地の人々とほとんど見分けがつかなくなりました。気分的にも、そういう場所を歩いている方が落ち着きますし、楽しいのです。
 東京に帰った途端に、当然のことながら、連日仕事がありますから、旅のことはすっかり忘れて気分一新すべきだとも思いますし、その方が私としても楽ではあります。でも、私にとって今回の旅は仕事を忘れて休むための旅行ではなく、私の仕事である主イエスの受難を考え、聖書・教会・信仰について考えることが目的です。そこで考えたことの一端は、ウイーンのホテルやガリラヤ湖半での説教において語り、七月号、八月号の会報に掲載させて頂きます。また、それ以外にも説教や諸集会の中で語り、また文章にもしていくつもりです。私にとっては、むしろこれから二〜三カ月かけて、ゆっくりと旅を反芻し、身のあるものとする時間が続きます。ある意味で、多くの宿題を課せられる旅をしてきたと思います。その気持ちを自分に残すために、課題を果たすまでは髭を剃るのを止めようとも思っています。(帰国した直後から酷くなった眼のものもらいは、はやく治って欲しいと願っていますけれど。)

 復習

 今日の御言に入る前に少しだけ復習しておきたいと思います。
 主イエスは、金曜日の夕方に始まる安息日の直前に十字架上で息を引き取られ、墓に葬られました。そして、ユダヤ人にとっては仕事が始まる週の初めの日の朝、つまり日曜日の朝に復活してマグダラのマリアにご自身を現されました。そして、マリアは、主イエスに言われたように弟子たちの所に飛んで行き、「わたしは主を見ました」と告げたのです。
 しかし、弟子たちは、その言葉を聴いて信じ、喜んだわけではありません。彼らは、自分たちの師であるイエス様を殺したユダヤ人を恐れ、家の戸の鍵を締め切って隠れたままです。その弟子たちの所に主イエスは来て、真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と語りかけ、十字架の傷跡が残る手と脇腹をお見せになったのです。この時、弟子たちは初めて「主」を見て喜びました。そして、その日に、主イエスは弟子たちに聖霊を吹きかけ、福音伝道に出でゆくように派遣されました。
 しかし、その日、すなわち週の初めの日の夕方、イエスが来られた時、ディディモと呼ばれるトマスは、「弟子たちと一緒にいなかった」。これが決定的なことです。何故なら、この日の出来事が、ヨハネ福音書においてはキリスト教会の礼拝の初めだからです。ユダヤ教を母体とするキリスト教会が、礼拝の日を安息日である土曜日から日曜日に変えたことが、その後の歴史を変えていったのです。日本においても、明治以降、日曜日が休日になっています。そうなった元々の発端は、復活の主イエスが日曜日にマリアや弟子たちにご自身を現し、「平和があるように」と語りかけ、聖霊を与えてくださったことにあります。そういう意味で、日曜日は単なる休日ではなく、礼拝を捧げる日なのです。この礼拝の時と場にいるかいないか。それが、主を見るか見ないか、主の言葉を聴くか聴かないか、主を信じ、告白するかしないかにとって決定的なことであることになることは言うまでもありません。
 トマスは、どういう訳か、その日その場、すなわち「主が来られたとき」、他の弟子たちと「一緒にいなかった」のです。そして、弟子たちがマリアと同じく「わたしたちは主を見た」と、トマスに語りかけても信じることが出来なかったのです。彼は言います。
 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 ディディモ

 ここで「ディディモと呼ばれるトマス」について少し考えておきたいと思います。ディディモとは双子という意味だそうです。その点については、様々な解釈あるいは憶測がなされてきました。双子の兄弟がいたはずだというのが最も順当なものですが、後にトマスはイエス様の双子の兄弟だったとかいう伝説も生まれたようです。また、双子を一人にして二人という分裂した自己を抱えている人物だと象徴的に解釈したり、双子の片割れは私たちすべての人間なのだと解釈したり、色々です。私には、よく分かりませんが、トマスは私たち多くのキリスト者を代表している人物の一人だとは思います。

 これまでのトマスの発言

 トマスが十二弟子の一人として言葉を発するのはヨハネ福音書だけです。これまでに二個所あります。最初は一一章一六節、二度目は一四章五節です。一一章は、イエス様が死んでしまったラザロを復活させにユダヤ地方に行く決意を示された場面です。その場面をお読みします。

 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 主イエスはここで、ラザロの死をはっきりと告げられます。その上で、その死から彼を甦らせることを暗示される。それは、実はイエス様の十字架の死と復活の暗示でもあります。そのことを信じることが信仰なのであり、その信仰を与えるために、イエス様は神の許から派遣されてこの世に来て、十字架・復活を通して天に上げられると同時に、聖霊において再び来られるのです。しかし、そんなことはこの時、誰も知りようはずもありません。トマスは、そういう弟子たちを代表して「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言います。しかし、トマスは、ある意味では最も鋭くイエス様の言葉を聴いたのだと思います。イエス様がラザロの許に行くことは、イエス様の死を意味し、その弟子である自分たちの死をも意味することを察知したのは彼であり、その死を覚悟したのも彼なのです。しかし、この時の彼は、イエス様が誰であるかはまだ全く分かっておらず、自分のこともよくは分かってはいませんでした。そのすべてのことが、私たちキリスト者の一つのタイプだと思いますし、私たちの心の中にある一つの部分だとも思います。
 一四章でも、イエス様の言葉に対して反応するトマスが登場します。イエス様は、そこでも信仰を問題とされるのです。少し長いですが、読みます。

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」


 この個所のトマスとイエス様のやり取りもまた、今日の個所と密接な関係にあることは明らかだと思います。ここでイエス様は、神を信じることと、イエス様を信じることを求めておられます。しかし、トマスは分かりません。分からないから、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか?」と言うのです。これは「主よ、あなたは誰なのか分かりません。あなたがおっしゃっていることの意味が分かりません」ということです。
 トマスは「疑い深いトマス」とレッテルを貼られて今日に至っていますけれど、彼は、誰よりも正直にイエス様を愛し、信頼し、イエス様と共に死ぬ覚悟をもってイエス様について行ったのです。そして、何をおっしゃっているか分からない時は、分からない、とはっきり言っているのです。分かってもいないのに分かったような顔をすることより余程正直で誠実だと思います。

 教会を教会たらしめているもの

 少し唐突なようですが、キリスト教会を形作る三つのものについてお話をしておきます。それは「信仰告白」「正典」そして「職制」です。私たちは、毎週の礼拝において使徒信条を告白しています。これはキリスト教会にとって土台となる信仰告白の一つです。この使徒信条の告白をしない教会は正統的な教会ではありません。そして、教会で読まれるべき書物は聖書です。聖書だけが、私たちの信仰の拠るべき唯一の正典だからです。礼拝の説教において語られるべき言葉は、聖書の説き明かし以外のものであってはなりません。説教者は、教会の信仰告白に基づいて聖書を読み、解釈し、聖霊の導きの中に説教を語らなければなりません。そして、説教は誰もが自由にすることではありません。召命を受け、訓練を受け、教会によって正規の手続きを経て立てられた説教者でなければならないのです。更に教会を治め、訓練する者たちも立てられねばなりません。私たちの中渋谷教会は、いくつかある職制の中で選挙で選び立てられた長老会を中心とする長老制を採っている長老教会です。
 この三つの土台の一つである信仰告白の最も原初的なものは、たとえば、コリントの信徒への手紙一の一二章にある「イエスは主である」という言葉です。これは、聖霊によらなければ言えない言葉であるとパウロは言います。あるいは、「あなたがたは、わたしを誰と言うか」という主イエスの問いかけに答えたペトロの「あなたはメシアです」。これも大事な告白です。そして、このトマスの告白、「わたしの主、わたしの神よ」という告白、これはキリスト教会にとってさらに決定的なものです。それは、一旦は肉体をもって生きておられたイエス様を「主」と信じると同時に「神」であることを信じるという告白だからです。ここにおいて、キリスト教会はユダヤ教会とは決定的に分裂するのだし、他のいかなる宗教とも決定的に異なるものとして現れて来るからです。そういう決定的な告白が、疑い深いトマスによってなされていることの不思議さを思わざるを得ません。

 戸の鍵を閉める

 それは、どのようにして起こったことなのか?それは、彼が、イエス様が復活された日から八日目(それは週の初めの日、日曜日です)に、弟子たちと一緒に家の中にいたことに始まります。二四節で、「トマスは彼らと一緒にいなかった」とありますが、二六節では「トマスも一緒にいた」とちゃんと書いてあります。そのことを強調したいのです。そして、一週間前と同じく、弟子たちは戸の鍵を閉めていました。どうしてなのか?彼らは一週間前に締め切った部屋に現れてくださったイエス様を見て喜び、平和を与えられ、聖霊を与えられ、福音を宣べ伝えるように派遣されたにもかかわらず、まだ恐れの中に捕らわれているのです。まだ伝道に出ていくことができないのです。これもまた身につまされる話です。
 でも、それだけなのか?一週間後にも鍵を締め切った理由は、ただ恐れだけだったのか?ここには、一九節にあるように「ユダヤ人を恐れて」とは書かれていません。それは言うまでもないことだからだとも考えられます。でも、ひょっとしたら、他の弟子たちは、トマスのために敢えて鍵を閉めたのかもしれません。一週間前の自分たちと全く同じ状況を造り出すためです。肉体を持った者は決して入ることが出来ない空間を造り出す。しかし、そこに十字架の傷跡も生々しいイエス様が現れてくださった。きっと次の日曜日も、一部屋に集まってそのことを願えば、イエス様は来てくださる。先週と同じように来てくださる。そして、トマスに出会ってくださる。自分たちの言葉を聴いても信じることが出来ないトマスに信仰を与えてくださる。そういう願い、あるいはそういう確信をもって、彼らは戸の鍵を締め切ったのかもしれません。

 礼拝を礼拝たらしめること

 私たちの礼拝堂もまた、前奏によって礼拝が始まると同時に戸を閉めます。それはやはり同じ願いがあるからです。ここに一緒にいる者たちすべての所に復活の主イエスが来て、真ん中に立ち、十字架の傷跡が残る両手を広げて、「あなたがたに平和があるように。平和があるのだ」と語りかけて頂きたい。その主とまみえたい。私たちは、そう願って礼拝を始めるのです。
 プロテスタント教会の中でも時折あるようですけれど、カトリック教会や聖公会の教会では、礼拝は司祭が礼拝堂に入る入堂式をもって始まります。聖餐のパン、あるいは杯をもって入る場合もあるようです。それは主イエス・キリストが礼拝堂に入って来られることを象徴し、その時をもって礼拝が始まることを意味しています。主イエス・キリストが来てくださる。そのことがなければ、そもそも礼拝など成り立たないのですから。

 何を見せたかったのか

 そして、その主は時間を越え、空間を越えて、御自分の自由においてどこにでも来てくださるお方なのです。その主イエスが、この時も「来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」のです。

 それから、トマスに言われた。
 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」


   トマスは、それまで肉体としての主イエスの復活を見なければ信じないと言っていました。彼の「見る」とか「触れる」という言葉は、肉体を見る、肉体に触れる、という意味です。そのトマスに対して、イエス様がおっしゃっていること、それは、彼の願いにそのまま応えているように見えます。でも、そうなのか?
 主イエスが手を見なさい、わき腹に手を入れなさい、とおっしゃった時、それは主イエスが肉体として蘇生したことをトマスに知らせたかったのかと言えば、そんなことではないと思います。主イエスは続けて「信じない者ではなく信じる者になりなさい」とおっしゃったのです。何を信じることを求めておられるのでしょうか?肉体の蘇生でしょうか?そうじゃないでしょう。主イエスが彼のために十字架に掛かって死んで、彼のために甦ったことです。
 トマスは、その十字架の傷跡を見た時に、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と弟子たちに呼びかけたのに、実際には逃げて隠れて、週の初めの日も他の弟子たちと一緒にいなかった自分の惨めな罪を嫌と言うほど知らされたでしょう。そして、「平和があるように」という言葉、ヘブライ語ではシャローム、「神が共にいます」ことを意味する言葉と共に見させられたその傷を通して、神がご自身の独り子を与えるほどに惨めな罪人を愛して下さっているその事実を知らされたのだし、目の前に生きておられる方は、自分の罪を取り除くために十字架で血を流して下さった神の小羊であることを知らされたのです。つまり、己が罪とその赦しの現実を知らされたのです。彼が知るべきこと、そして信じるべきことは、ただそのことなのです。肉体の蘇生などという問題ではありません。肉体は肉体です。必ず死すべきものです。主イエスは再び死すべきものとして復活されたのではないし、肉体は蘇生するものだと知らせるために弟子たちに現れたのでもありません。ヨハネは、この福音書を締め括る言葉として執筆の目的をこう書き記しています。
 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」
 まさに、この信仰をトマスに与えるために、主イエスは日曜日、トマスを含む弟子たちが鍵を閉めて集まっている家の中に来て、傷跡を見せつつ「平和があるように、平和があるのだ」と宣言して下さった。その愛と赦しの宣言を受けて、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白をすることが出来た。それが礼拝です。キリスト教会は、この礼拝を捧げることにおいて誕生したのです。

 礼拝堂

 先週の日曜日、私はグループ全員の方たちとガリラヤ湖の辺で礼拝をしました。朝陽を浴び、湖畔の風を身に受け、鳥の囀りを聴きながら、主イエスの語りかけに耳を澄ましました。その日曜日に至るまでは、イスラエルの南の荒地から入って、エルサレムを中心にいわゆる名所旧跡を見て回りました。様々な教派の教会のいくつもの礼拝堂に入りました。しばしば、そういう旅行を「聖地旅行」とか「聖地巡礼」と言ったりします。しかし、少なくとも私にとってはそういうものではありません。エルサレムの見学です。聖地とか、「聖遺物」とかいう思想、あるいは信仰は、私たちプロテスタントの信仰者には縁遠いものです。しかし、カトリック教会や正教会の方たちにとっては、目に見えるもの、手で触れることが出来るものも、それなりの価値があります。先日もテレビで、聖骸布と呼ばれる、十字架から引き下ろされたキリストを包んだ布に関することが放映されていました。トリノにあるカトリック教会は数十年に一回公開し、その布を前にして礼拝をするそうです。そして、その布についている血を分析したらAB型だった。だからキリストの血液型はAB型と判明したとか、ある神父さんがおっしゃっていました。私たちには、どうもピンとこない話です。そして、私自身はもうエルサレムは三度目ですし、そういう名所旧跡そのものに目新しいものはありません。でも、可能であれば何度でも行きたいと思うのは、そこは様々な意味で刺激的な場所だからです。それがどういう意味であるかは、今後、語るべき時に語り、書くべき時に書いていきます。
 私にとってはただ見学するだけの礼拝堂も、カトリックの方や正教会の方たちにとってはやはり礼拝堂なのです。すべての教会でそうであったわけではないのですが、聖地巡礼として来られた方たちは、その礼拝堂の中で礼拝を始めます。私たち観光客がいようがいまいが、讃美歌を歌い、祈りを捧げるのです。そういう礼拝の様を見る経験を何度もしながら、つくづく実感したことは、礼拝堂は礼拝を捧げる時に礼拝堂になるのだということです。ステンドグラスも聖画も蝋燭も祭壇も何もかも、礼拝が始まった途端、目に入りません。信じる者にとっては、そこに主がおられ、両手を広げて「平和があるように」と語りかけて下さる。だから、信じる者は、その方に向って「わたしの主よ、わたしの神よ」と信仰と讃美を捧げざるを得ない。そこで礼拝が捧げられる、その時、その部屋は礼拝堂になる。そのことがよく分かりました。
 それは、何も置かれていない、ただの石の部屋である最後の晩餐の部屋と言われる所でさらに明らかになりました。その部屋は、見学者の多くがあまりの味気なさに呆然とするような部屋なのです。でも私たちが出て行った後、ブラジルから来た一行が、いきなり美しい讃美歌を歌い出しました。その時、私たちの多くは既に外に出ており、暑さにも参っていたので、さっさとホテルに帰りたかったのです。でも、その讃美歌が美しく響き出した途端に、再びその部屋に帰りたくなりました。一緒に歌えなくても、その讃美の輪には入りたかったのです。
 弟子たちが隠れていたエルサレムの部屋は、主イエスと弟子たちの隠れ家であり、最後の晩餐をとった部屋だとも言われます。そうであれば、その部屋はただの部屋です。しかし、その部屋に復活の主イエスが来る、そして真ん中に立ち、十字架の死による罪の赦しを与えつつ平和を宣言し、聖霊を吹きかけてくださる。その主に対して、喜びと感謝をもって信仰を告白し、賛美を捧げる。そこに私たちキリスト教会の礼拝の出発があります。何もない。十字架もステンドグラスも蝋燭も絵も何もない部屋。ただ、真ん中に立って下さる主イエスの姿と言葉がある。その時、そこに信仰が生まれ、告白が生まれ、讃美が生まれ、礼拝が生じる。そして、その場は礼拝堂になるのです。
 中渋谷教会が信仰的に属する改革派教会は、そういうシンプルな礼拝堂を目指しました。だから、この中渋谷教会も何もありません。ただキリストの言葉を語る講壇が正面に置かれ、その前にはキリストの体と血のしるしであるパンとぶどう酒が配られる聖餐卓が置かれているのです。見えない言葉としての説教を聴いて信仰に至り、見える言葉としての聖餐に与りつつ信仰に生きる。それが主イエス・キリストの願いだからです。

 見ないで信じる

 主イエスの姿を見、その言葉を聴いて信仰を与えられたトマスに向って、主イエスはこうおっしゃいました。

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」  「幸いである」とは「幸いなるかな」とも訳すことが出来る祝福の言葉です。このイエス様による祝福の言葉が、ヨハネ福音書本体におけるイエス様の最後の言葉です。二一章は付録ですから。そして、「見ないのに信じる人」とは、「聞いて信じる人」のことであり、それは十二弟子以降のすべてのキリスト者、つまり、私たちのことです。私たちは誰も、十二弟子のように主イエスを見る者ではありません。説教を通して主イエスの言葉を聴き、信じた者たちです。その信仰において、見ないけれど見ることが出来るようになった者たちなのです。そのような私たちを、主イエスはここで「幸いな人たちだ」と祝福して下さっているのです。

 見ること 信じること

 一六日の水曜日に、オリーブ山からエルサレムを見下ろした後、ゲツセマネの園に向って急な坂を歩いて下りました。その時、私たち観光客に向って、アラブ人の年老いた盲人がペットボトルの上半分を切った容器を片手に、壁沿いに上がってきました。金を求める乞食なのです。そして、そのボトルに小銭を入れる人がいると、英語でゴッド ブレス ユウ(神の祝福がありますように)と言うのです。その先でも、アラブの老人が飼っているロバの隣で手拍子を叩き、歌を歌いつつ、乞食をしていました。エルサレム神殿に向かう道に盲人の乞食がいることは、聖書の時代から今に至るまで変わることがありません。
 ヨハネ福音書の九章には、まさに神殿の近くの道端に座る盲人の話があります。彼は物乞いをしているのです。主イエスは、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」と問う弟子に向って、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とおっしゃって、目が見えるようにしてくださいました。
 しかし、問題は肉眼が見えるようになったことに留まる話ではありません。この人は、まだ見たことがない自分を癒してくださった方は、ユダヤ人のお偉方が言うような罪人ではないはずだと主張することで、ユダヤ人社会から排除されてしまうのです。これまでは最底辺を生きる乞食だったのが、今度は追放されてしまう。しかし、その人を主イエスは追い求め「あなたは人の子を信じるか」と問いかけます。つまり、「わたしがあなたの主、あなたの神であると信じるか」と問われた。彼は答えました。「主よ、その方はどんな方ですか。その方を信じたいのですが。」イエス様は言われました。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼は、「主よ、信じます」と言って跪き、礼拝を捧げました。
 その時、主イエスはこうおっしゃたでしょう。
 「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
 主イエスがここで「見える」とおっしゃる場合、それは主イエスの肉体をその肉眼で見ることではありません。主イエスが「主」であること、「メシア」であること、「救い主」であること、「活ける神」であることが見えるということなのです。そして、それは信じることと同じ、あるいは信じることにおいて起こることなのです。そして、それは主イエス・キリストによって己が罪を知らされ、その赦しを与えられていることを信じること以外の何ものでもありません。その信仰のために、肉眼で見る必要のあるものは何もないし、肉体の手で触る必要のあるものも何もありません。聖霊の注ぎの中で語られる主イエス・キリストの言葉、神の言葉を礼拝の中で聴くこと。鼓膜ではなく、その心で聴くことだけなのです。主イエスは、その言葉を聴いて信じる者の罪を赦し、永遠の命を与えつつ、「幸いである」と祝福して下さるのです。そして、今日も私たちは、その祝福の中にいるのです。
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