「信じて命を得るため」

及川 信

       ヨハネによる福音書 20章30節〜31節
 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 ヨハネ福音書は、一旦、今日の個所で終わります。二一章は誰が書いたのかは分かりませんが付録です。付録と言っても単なる付け足しではなく、二〇章までと極めて密接な関係を持った大事な付録であることは言うまでもありません。ただ、ここで一旦終わる。そのこともきちんと認識しておくことは大事だと思います。

 信仰による新生

 今日の個所は、この福音書を書いた人、便宜上ヨハネと呼んでおきますが、そのヨハネが読者に向けて書いた後書きです。本文は、二八節二九節で終わります。決定的な言葉ですから、もう一度読んでおこうと思います。

 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 十字架の傷跡を体に残す復活のイエス様に対して、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白をする。そのトマスに対して、イエス様が「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃった。このイエス様の言葉が、福音書本文の最後なのです。読む度に、重たいボディブロウを打たれたような感覚になります。ドシンと体に響く言葉がここにあります。イエス様を「わたしの主、わたしの神」として信じる。それは、その人間の単なる認識を意味しません。それはその人間の、それまでの人生の死を意味し、そして新しい命の誕生を意味するのです。
 つい先日、妻がまだ一歳にならない赤ちゃんを午前中だけ預かることがあって、私も久しぶりに赤ん坊を抱かせてもらいました。その時にも、数か月前までこの世に存在していなかった命が、今、小さな体をもって生きていることの重さとか輝きとか、そういうものを体で感じました。生まれる前の赤ん坊は羊水の中で呼吸をしていたのに、産道を通って出てきた途端、空気の呼吸をするわけで、やはりそれまでの命が死ぬことを通して新しい命を生きることなのだと思います。

 信仰による生と死

 先週、私たちキリスト教会の旗印の一つに信仰告白があり、その告白は「聖霊によらなければ言えない」という聖書の言葉を引用しました。「聖霊」のことを、ヨハネ福音書はイエス様が吹きかける「息」とも表現しています。キリスト者とは、イエス様が注いでくださる聖霊によって呼吸し、生きる者だということです。ヨハネ福音書では、聖霊は「水」にも譬えられています。「息」「水」も、人間が生きる上で不可欠のものです。キリスト者とは、人間として水を飲み、息をしながら生きているだけではなく、息であり水である聖霊を受け入れて信仰を告白しつつ生きる、その時に初めて生きる存在なのです。
 私たちの信仰の対象は、先ほどの言葉を使えば、「十字架の傷跡を体に残す復活のイエス様」です。その方を、「わたしの主、わたしの神」と信じるのが、キリスト信仰です。今日の個所では、トマスの告白とは違うもう一つの告白の言葉が出てきます。これは、イエス様がラザロを復活させる直前に、マルタがイエス様に対して告白したものと同じです。つまり、「イエスは神の子メシアであると信じる」という告白です。すべてが決定的な言葉ですけれど、特に「イエス」という名が決定的であることは言うまでもありません。「神の子」とか「メシア」という言葉は、一般的な称号でもあるからです。ローマの皇帝も自らを「神の子」としていましたし、「メシア」はユダヤ人の中では、油を注がれることを通して神様に聖別された人物を意味しますから、イエス様以外にもいくらでもいます。大祭司や王、また預言者も、そういう意味ではメシアです。しかし、「十字架の傷跡を残す復活のイエス様」を「神の子メシアであると信じる」信仰を証しすることは、当時の人々にとって命がけのことでした。少なくともそれまでの人生が終わることを意味し、時には、命が奪われることも意味することでした。
 ヨハネはここで、読んだ人間が「信じてイエスの名により命を受けるため」に書いたと言っています。イエス様の「名」が、問題なのです。一五章には、名に関して、イエス様のこういう言葉が出てきます。

 人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。

 この少し先では、「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」という言葉もある。
 「イエスの名によって命を受ける」はずの「あなたがた」(それは十二弟子のことだけでなく、信じる者すべての者です)は、イエス様が受けたように迫害され、その名の故に殺される。それも神への奉仕として殺されることがある。イエス様は、そうおっしゃっている。殺されるとは、命を奪われることです。日本でも、現人神と言われる人がいた戦時中は、「イエスは神の子キリストである」と信じ告白することは命がけのことだったのではないでしょうか。その事実を、私たちは忘れてはいけないと思います。

 「西の壁」で見たもの

 先日、エルサレムに行った時、当然のことながら「西の壁」、通称「嘆きの壁」と呼ばれる場所に行きました。それはイエス様が地上に肉体をもって生きておられた当時に建っていたヘロデの神殿を囲む壁が残る所です。そのユダヤ教時代の石の上に、キリスト教のビザンティン時代の石の壁があり、さらにその上にイスラム教のオスマン・トルコ帝国時代の石の壁があり、その壁に囲まれた広大な土地に黄金のドームとかアルアクサモスクというイスラム教の建物が建っています。そういう石の壁を見るだけでも、エルサレムには長く複雑な歴史があることが分かります。そして、その石の壁の中にあるドームやモスクに、以前は私たち観光客も入ることが出来ました。しかし、十年ほど前にイスラエルの首相がアラブ人を挑発するように壁の中に入ったことによって、アラブ人側が反発し、それ以来アラブ人以外は入ることは出来ません。また、最近の新聞記事によると、ユダヤ人とアラブ人の間に不穏な空気が流れる時に、イスラエル警察が、アラブ人の入場を制限することもあるそうです。
 その「嘆きの壁」の前の広場は左右に区切られていて、向って左側は男、右は女のスペースです。ユダヤ人たちが、その壁の前で様々な祈りを捧げるのです。その男だけが入れる左側の壁沿いに建物があり、かつては観光客は入ることは出来ませんでしたが、今は帽子、あるいはキッパーと呼ばれる物を頭にかぶれば入ることが出来るようになっていました。入り口に紙で作った簡単なキッパーが貸し出し用に置いてあります。それを被って中に入って見ると、そこには壁がずっと続いており、床のある所には、壁沿いに四角形の穴が掘ってあり、ガラス越しに現在の床の地平よりも十メートル以上も地下まで壁が続いていることが分かるようになっています。つまり、イエス様の時代の壁の土台は、今の地面よりも十メートル以上も地下にあるのです。そして、その部屋の中では、もみあげを伸ばして黒い帽子をかぶり、白い服を着た、戒律に厳しいユダヤ教徒の大人と子どもが大勢おり、壁に向かってヘブライ語の聖書か祈祷書のような物を持って体をゆすりながら朗誦を繰り返していたり、小さな机に向かって戒律を読んでいました。(礼拝堂に上がる階段を上がった所に写真を貼っておきました。)そこにいる子どもたちにとっては、近代的な価値観である信教の自由など全く関係がないと思います。厳格なユダヤ教徒の家庭に生まれ、その地域に生まれた者にとっては、その信仰を生きることがユダヤ人として生きることなのであり、それが人間として生きることなのだと思います。その姿形や律法の内容が、異教の社会の中で、また現代社会の中でどれほど奇異に見え、また不自由をもたらすものであったとしても、その戒律は神が与えたものであり、その戒律を生きることが神に愛される人間として生きることなのです。そのことの価値は、この世における評価だとか生きやすさなどをはるかに上回るものなのだと思います。そして、その価値の故に、迫害され、殺されたとしても、それは意味のあることであり、律法に従って生きることはまさに神への奉仕なのです。ナチスによる大迫害は「ユダヤ教徒」に対する迫害ではありません。つまり、信仰の違いによって引き起こされたものではなく、人種差別意識の方が大きいでしょう。しかし、ユダヤ人の中の一定数が頑なに守り続ける、戒律に従った生活習慣に対する周囲の者たちの違和感もまた無視できないものであったと思います。

 信仰における命

 ヨハネ福音書が書かれた当時、ユダヤ人の弟子たち、つまりユダヤ人でありつつイエス様を「わたしの主、わたしの神よ」と信じ、「神の子、メシア」と信じることは、命がけのことでした。弟子たちは一九節にあるように、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」隠れざるを得ない状況があったのだし、その前に「あの人のことは知らない」と言って逃げざるを得ない状況があったのです。「イエスは神の子メシアであると信じる」信仰に生きるとは、そういう危険と隣り合わせのことでしたし、今でもいつ何時そのような状況になるか分からないことでもあります。キリスト教社会の中でユダヤ教徒として生きることや、ムスリムとして生きるということもまた、そういう危険と隣り合わせであったのだし、今でも程度の差はあっても、同じ状況が続いている地域があるでしょう。それでもその信仰を生きるとは、「この世における命」よりも「信仰における命」を選択するということを意味するのです。

 イエスの名

 「信じてイエスの名により命を受ける」
とは、イエスの名によって迫害を受ける、殺されるという可能性があることを、イエス様ご自身がお語りになっていることを覚えておかねばなりません。しかし、さらに覚えておかねばならないことがあります。先ほどは一五章の言葉を読みましたが、その一五章を挟むようにして一四章と一七章に、イエス様の名が何を信者にもたらすのかが出てきます。
 最初に一四章二五節以下をお読みします。

 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

 主イエスが甦られた日曜日に、真っ暗な部屋の中に隠れている弟子たちに吹きかけた命の息としての聖霊、それは父なる神様がイエス様の「名によって」お遣わしになった聖霊です。その聖霊によって、弟子たちは、イエス様がお語りになったすべてのことを思い起こすことが出来、その意味が分かったのです。イエス様は、その時、真っ先に「平和があるように」と語りかけました。その「平和」とは、罪の赦しによって与えられる平和です。つまり、イエス様の十字架の贖罪と復活によって罪と死の支配から解放されたことを信じる平和、あらゆる恐れから解放された平和、シャローム、神が永遠に共にいますことを知らされる平和です。その平和が、この時、命の息としての聖霊、命の水としての聖霊によって、弟子たちに与えられたのです。
 一七章一一節には、こうあります。これは、弟子たちのためのイエス様の祈りの言葉です。

 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

 さらに、弟子たちの宣教の言葉を聞いて信じる者、つまり、イエス様を見ないでイエス様の名を信じる者たち、つまり、私たちのためにこう祈って下さっています。

 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

 イエス様の名前、それは時に迫害をもたらし、死をもたらすものです。しかし、だからこそ、イエス様は「その名によって」の守りを祈ってくださいます。そして、その名による守りとは、イエス様と父なる神様が一つの交わりをしておられるように、その名を信じる者たちが互いに一つとなり、同時に、父と子の愛の交わりの内に生きることなのです。それが御名を知らされるということであり、御名を信じるということなのです。そこに見ないで信じる者たちが生きる命がある。それはすべて「息」「水」としての聖霊のなせる業です。私たちが今日も信仰に生きている、生かされている、礼拝をしている。それは聖霊が注がれ、父・子・聖霊なる神様と共に生きる平和を与えられているからです。

 命

 ヨハネ福音書を特色づける言葉はいくつかあります。その内の一つは、明らかに「命」です。この福音書は、最初から最後まで命、それも信じる者たちに与えられる「命」について書いています。

 初めに言があった。・・
 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。


 ここに始まって、「命」という言葉は合計で三八回も出てきます。特に多いのは六章です。そこは五千人の給食のしるしの後、命のパンを巡っての論争が記されている個所です。そこで主イエスは繰り返し「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」とおっしゃり、さらにこう言われました。

 「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。・・このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 もちろん、主イエスの肉であるパンと血であるぶどう酒を飲むためには信仰が必要です。そして、その信仰は聖霊によって与えられるものです。私たちは、聖霊を受けることによってイエス様を肉眼で見ることなく、イエス様の名を信じる信仰を与えられました。そのことの故に、今日も私たちの真ん中に立ち、「平和があるように」と語りかけて下さるイエス様の命の糧であるパンとぶどう酒、私たちの罪の赦しのために裂かれた肉と流された血を頂くことが出来るのです。そして、そのことにおいて私たちはこの世の命には死に、神の国に生きる命、父と子と聖霊の交わりの中に生かされる命に生かされるのです。
 ヨハネは、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエスの名により命を受けるためです」と書きました。この「あなたがた」とは、この福音書を読むすべての読者のことです。この福音書が紀元一世紀末に書かれたとして一九〇〇年間、一体、何人の人が読んできたか分かりません。そして、何人の人が信じ、何人の人が信じなかったかも分かりません。どちらも億を下らない数になるだろうと思います。しかしまた、信じた人が、本当に信じたのか、本当にイエスの名を信じて命を得たのか、それも分からないという思いが、私にはあります。

 敵 友 無関心な人々

 先日、あるキリスト教系の新聞のコラムでこういう言葉を読みました。それは学生運動華やかなりし頃、駒場東大のキャンパスに立てられた看板に記されていた言葉だそうです。

 「敵を恐れることはない。せいぜい君を殺すだけだ。友を恐れることはない。せいぜい君を裏切るだけだ。無関心な人をこそ恐れよ。殺しもしないし、裏切りもしない。だが彼らの無言の同意があればこそ、地上に裏切りと殺戮とがあるのだ。」

 深く考えさせられる言葉です。この言葉を書いた人は、自分自身のことを恐れたのか、それは分かりません。私は、自分を恐れます。キリストに友と呼ばれる信者であるのに、キリストを裏切る自分がいることを知っているからです。また、キリストに敵対して、心の中で抹殺する自分もいます。そして、なによりも、イエス様のことに無関心に生きている。愛しもしなければ憎みもしない。無関係に生きている自分もいる。そういう自分が無言の内に同意していることが確かにある、と思います。

 キリスト教世界の中の大虐殺

 エルサレムでは、私の希望で、一般の観光、あるいは聖地巡礼では行かないナチス迫害記念館を訪ねました。そこには、ヨーロッパ全土でユダヤ人に対するどの様な迫害があり、それがどのようにしてナチスの強制収容所に至ったかを記念し、記憶するための展示物がありました。その展示物を見終わって出口に出ると、書籍を販売するテーブルがありました。どれも外国語なので、私は買ってきませんでしたけれど、その中の一つに「ホロコースト イン ザ クリスチャンワールド」というものがありました。「キリスト教世界における大虐殺」という意味です。胸に突き刺さる言葉です。
 あの大虐殺は、他ならぬキリスト教世界で起こったことです。ヒットラーひとりが起こしたものではありません。彼を支持する多くの人々がおり、そして、それよりも多くの無関心な人々の無言の同意があればこそ、六百万人とも言われるユダヤ人や同性愛者や障害者などが殺されていったのです。そのことに無関心な人々の多くは、日曜日には教会の礼拝に集い、平和の主イエスの名による聖餐やミサに与っていたでしょう。展示物の中にも、当時のローマ教皇の写真がありました。何故かと言えば、バチカンは全世界の情勢を詳しく知っているからです。しかし、戦時中、バチカンは一言もナチスが実行していることに警告をしていないのです。見て見ぬふりをした。それは、キリスト教世界の中にこそアンチセミティズム、反ユダヤ主義があるからです。「キリストを殺したのはユダヤ人だ」というデマが、その根源にあります。自分の罪のためにイエス様が十字架上で死に、新しい命を与えるために復活して下さった、そういう意味で、イエス様こそ神の子メシアであると信仰を告白しつつ、その裏では、「キリストはユダヤ人が殺した。ユダヤ人さえ信仰深ければキリストは死なずに済んだ」というデマを放置する、いや自ら流す。そういうことを、キリスト教世界に生きる人々がやってきた。すべてではないにしろ、それは否定できない事実でしょう。
 昨日もドイツのオーバアマーガウの受難劇に関する番組をNHKがやっていました。その中にもヒットラーが登場していました。彼は、「十字架につけろ」と叫ぶユダヤ人を強調し、キリストを殺したのはユダヤ人であることを劇を通して宣伝しようとしたということです。

 十字架の下における世界と現在の世界

 しかし、そういう世界を創造するために、イエス・キリストは十字架に掛かり、復活されたのでしょうか。主イエスの十字架の下には、ユダヤ教を象徴するイエス様の母がおり、理想のキリスト教会を象徴する愛弟子がいました。その二人に、イエス様は十字架の上から、こう語りかけたのではないでしょうか。

 「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」
 「見なさい。あなたの母です。」


 その言葉を受けて、「この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」とあります。敵対している両者が、十字架の許で和解し、メシア信仰を生み出したユダヤ教団がキリスト教会に受け入れられていくことの暗示だと、私は思っています。
 イエス様はユダヤ人としてお生まれになり、サマリアの女には、「救いはユダヤ人から来る」とお語りになりました。パウロは、ユダヤ人に関して「神の賜物と招きとは取り消されない」と言い、今はイエスを神の子メシアと信じることのないユダヤ人も、いつの日か信仰に帰って来るという希望を語っているのです。それが、私たちの「信仰の誤りなき規範である聖書」が語っていることです。しかし、それなのに、私たちキリスト者は、ユダヤ人を差別してきたし、黒人を差別してきたし、様々な人種差別を生み出し、あるいは加担し、あるいは無言の同意を与えてきたし、今もその現実は変わりありません。
 もちろん、現在のイスラエル共和国に生きるユダヤ人のパレスチナ・アラブ人に対する差別と迫害の現実も凄まじいものです。先ほど紹介した厳格なユダヤ教徒たちの多くも、イスラエルの地は神がアブラハムの子孫に与えた約束の地だと信じ、占領地に対する入植を熱烈に支持するか、無言の同意を与えていると思います。そして、もちろん、イエスを神の子メシアと信じる信仰は拒絶しています。
 十年前もそうでしたが、今年もユダヤ教の代表者がオーバーアマーガウに来て、ユダヤ人がイエスを殺したのではなくローマの総督ピラトこそがイエスの死に責任があることを明らかにする演出をするように要望を出しています。ユダヤ人には責任がない、と言うのです。しかし、事の本質はそんなレベルの話ではないでしょう。イエス様の死に責任がない人などいないのです。
 私たちはそういう責任をなすりつけ合う世界に生きており、なによりも、積極的消極的にかかわらず、そういう世界を作り出している一人一人なのです。それは否定できない事実です。そういう私たちが、しかし、今日もこうして礼拝に招かれ、そして、聖餐の食卓を囲むことが許されている。その事実を、どう考えたらよいのか。

 キリストにおいて一つ

 主イエスが私たちの真ん中に立って拡げる両手、そこには十字架の傷跡が残っています。右の手に打たれた釘と左手に打たれた釘は、私たち一人一人が打った釘です。ユダヤ人であれ、アラブ人であれ、日本人であれ、何人であれ、すべての罪人が、主イエスの掌に釘を打ちつけて殺したのです。その釘と釘は、決して一つの釘になるわけではないでしょうけれど、主イエスの一つの体に打ちつけられた釘なのです。トマスは、その釘痕を見た時に、ひれ伏して、「わが主、わが神よ」と告白せざるを得ませんでした。その釘痕に自分の罪を見る、ただその時にのみ礼拝が生じるのです。そして、ただその時にのみ平和があるのです。ただその時にのみ、イエス様の名によって命を受けるということが起こるのです。そして、ただそのことにおいてのみ、私たちは主イエス・キリストにおいて一つになるのです。
 私は今回の旅に行く前から、テーマはガラテヤの信徒への手紙の言葉にあると思っており、先日の水耀会においても、その言葉を読んで頂きました。それはこういう言葉です。

 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

 「あなたがた」
とは、ユダヤ人から見れば神に見捨てられている異邦人のことです。しかし、その異邦人も、神の民を自負するユダヤ人も、奴隷も自由な身分の者も、男も女も、皆、罪の赦しのために十字架に死んで復活して下さったイエス・キリストを信じて、罪を悔い改めて洗礼を受け、キリストの肉と血を分かち合う礼拝を捧げることが出来る時に一つになれる。そして、ユダヤ人の父祖にして信仰の父であるアブラハムの子孫になる。これは、私たちの願望ではなく、神様がイエス・キリストを通して新たに造り出して下さった神の国のヴィジョンです。だから、私たちは絶えず目を覚ましてこのヴィジョンを見つめ、そのヴィジョンに向って前進するしかありません。
 日曜日ごとに、復活の主イエスが私たちに与えて下さる命の言葉、命の息、命の水、命のパンとしての肉と血は、ただただそのヴィジョンを信じて前進するために与えられるのです。私たちの前進を妨げる壁は、内に外に高く厚く立っています。イスラエルは、壁と鉄条網だらけの国です。アラブ人居住区を厚く高い壁で囲み、自分たちの入植地を鉄条網で囲っている。かつてユダヤ人を押し込めるためのゲットーを囲んだ壁や、収容所を囲んだ鉄条網と同じです。目に見える壁は目に見えない内なる壁の現れに過ぎません。でも、どんな壁も聖霊なる復活の主イエスにとっては関係ありません。鍵によって戸を締め切っていようが、そこに主は現れ、傷跡の残る両手を広げて「平和があるように」と語りかけて下さる。そして、私たちに「信じなさい、そして、わたしの名を宣べ伝えなさい」と語りかけて下さる。しばしば敵となり友となり、無関心にもなってしまう私たちにです。敵を愛し、迫害する者のために祈り、友のために命を捨て、無関心な者に、「時は満ちた、悔い改めて福音を信じなさい」と語りかけたまう主イエスは、今日も、私たちに「あなたがたに平和がある。信じなさい」と語りかけ、「取って食べ、飲みなさい。ここに命がある」とご自身の命をパンとぶどう酒に託して分かち与えて下さる。どうして、その言葉を聞いてひれ伏し礼拝しないでいられるでしょうか。悔い改めと感謝をもって聖餐に与らずにいられるでしょうか。主イエスの言葉を聞き、そのことを通して、主イエスを見る者にとっては、「あなたこそ、神の子メシアです。わたしの主、わたしの神です」という告白の言葉が心の底から言える言葉なのです。この告白をすることが出来る人は、幸いです。主イエスは、その幸いを、今日も与えんとして、ここに来て下さっています。信じることが出来ますように。

ヨハネ説教目次へ
礼拝案内へ