「わたしを愛しているか」
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。 「二一章は付録といえども、二一章なくしてヨハネ福音書は終わらない」と前回も言いました。それは、今日の個所においてもまた言えることだと思います。前回の個所で、復活の主イエスは弟子たちに三回ご自身を現したことが明らかになります。その三回目は、前の二回とは異なり、密室の中ではなく外です。それもローマ帝国を象徴するティベリアス湖のほとりです。その湖で悪戦苦闘しながら漁をする弟子たちを、主イエスは御言と食卓をもって励まし、またねぎらわれました。それは、艱難辛苦に満ちた伝道に励む弟子たちを、礼拝を通して励まし、その伝道を共にしてくださる主イエスの臨在を表していました。彼らは、その時、目の前にいる、あるいは自分たちの所に来てくださるお方が「主であると知った」のでした。 今日の個所は、三回も主イエスが「わたしを愛しているか」とペトロに尋ねる場面です。この個所もまた、実に印象深い個所であり、私たち読む者の心を捕えて放さないものだと思います。 本当の言葉を求めて 私は、大学生の頃、人生の空しさに押しつぶされそうな思いになって、聖書を読み始めました。その「空しさ」の原因は、人間の言葉の軽さにあります。最近の政治家の言葉の軽さはもうどうしようもありませんが、そう思っている自分の言葉の軽さもまた、同じようにどうしようもない。時と場合によって何とでも言い換えることが出来ますし、「そんなこと言った覚えなど無い」と言い張ることもできる。誰も彼もが自分の都合のよい時に、都合のよいように言葉を使っているだけ。そういう言葉を聞き、そういう言葉を発することしか出来ない人間の空しさに気付くと、生きていく気力は出てきません。そういう時に、下宿の部屋に引きこもって誰とも会わない生活をしつつ、子どもの頃からいつも手許にはあった聖書をひとりで読み始めました。それは、本当の言葉を求めてのことです。「本当の言葉を求めて」とは、「本当の言葉を発する存在を求めて」ということです。言葉は、存在そのものを体現すると思っていたからですし、それは今も変わりありません。軽い言葉を発する人は軽い人です。重い言葉を発する人は重い人。そして、その軽重はその人の行動が決めます。どんな立派な言葉を発しても、行動を伴わなければ、あるいは言葉が存在のあり方と合致していなければ、その言葉は嘘になるからです。 そういう思いで聖書を読みつつ出会った言葉が、ヨハネ福音書の「わたしはよい羊飼い。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」という言葉であり、また、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。・・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ」という言葉でした。この言葉は、私にとって衝撃的なものでしたし、今もその衝撃度は些かも変わりません。この言葉と出会うことを通して、私は、この言葉を発するイエス様と少しずつ出会い始めたと思います。それは喜ばしいことであると同時に恐ろしいことでもありましたし、今もそうです。私は、この言葉を発し、その言葉通りに死んだ人がいるという事実を知ることによって、引き籠っていた部屋から出ることが出来るようになりました。しかしそれは、自分では行きたくない所へ連れて行かれ始めることでもありました。つまり、自分では離れようと思っていたキリスト教会に引き戻されることであり、これだけはやりたくない、でもキリスト者になってしまえばこれをやらないで何をやるんだと思い込んでいた牧師への道に引っ張られ始めたからです。新たに人と関わろうと思い始めることが出来たことは救いですが、自分の人生を自分の思いではなく、聖書の言葉に束縛されて生きていくことは、当時の私には恐怖でした。 だから、絶えず、その束縛から逃れようと必死になり、神学校に入っても、牧師になって以後も、いつも反抗や逃亡を繰り返し、その都度、惨めな自分を嫌というほど見せつけられる。そんな歩みをしてきた。それは一面の事実です。しかし、事実には常に裏面があります。それは、そういう私を尚も牧師を仕事とするキリスト者として活かし続けようとするお方がいる、ということです。 ラブレターとしての聖書 聖書は、どうしようもない罪人に対して、神様が必死になって語りかけて来る書物です。しばしば、「神様からのラブレターだ」という言い方をしますが、ある意味では、それはあたっていると思います。そして、誰かを愛するという場合、その相手に何らかのプレゼントをするものだと思います。ヨハネ福音書では、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉に、その愛とプレゼントが現れています。そして、その独り子であるイエス様は、ご自身の命を、その愛の故に私たちにプレゼントとして与えるとおっしゃっているのではないでしょうか。そういう、存在のすべてを捧げつくす、与え尽くす愛が、聖書には書かれており、それは言葉だけではなく、神様とイエス様の実際の行いを通して事実となっているのです。それが、聖書です。 日本の教会では、しばしば「御言の学び」という言い方がされます。これは日本独特のものかもしれません。勤勉な日本人らしさ、学ぶことで吸収する誠実さがそこにはあると思います。でも、礼拝の中の祈りで、「今日も、御言を学ぶことが出来て感謝です」という言葉が出て来ると、私としては、「やれやれ・・」という感じにもなります。私は説教をしているのであって、講演や講義をしているのではないし、そもそも礼拝は聖書という教科書を学ぶ場ではないからです。 ラブレターを書いた人は、そこから何かを学んで欲しいわけではありません。「あなたの手紙から、愛とはこういうことであると知り、今後の人生の参考にさせて頂きます。よい学びを与えられて感謝します」なんて言われたら、まったく興ざめです。愛に応えるのは愛でしょう。あるいは拒絶です。学びというのは、応答でもなければ拒絶でもない。なんとでも言い訳のできる立場に自分を置いているだけのことであり、それこそ空しいことです。そして、牧師も信徒も、そういう空しい営みをしていることがしばしばあるものです。 ヨハネの子シモン 主イエスは、ティベリアス湖で弟子たちに大漁をもたらし、さらに食事を提供した後に、シモン・ペトロに向って、こう語りかけました。 「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」 これは様々な意味で、ギョッとする言葉です。親しい間柄では、苗字と名前を合わせて呼び合うことはありません。名前だけ、あるいはあだ名で呼びます。当時の人々に苗字はありませんから、父親の名前と自分の名前が合わさった時に苗字と名前の意味になります。ペトロとは、当時の世界公用語であったギリシア語で「岩」という意味です。ユダヤ人が使うアラム語ではケファです。そして、それはイエス様がシモンにつけたあだ名なのです。聖書は当時の全世界の人々が読めるようにとギリシア語で書かれましたから、ペトロという名前が一般的になりましたが、ユダヤ人としては「ヨハネの子シモン」が正式名です。イエス様は、ここで、その正式な名前でペトロを呼んだ。それは実に改まった呼び方です。 こういう呼び方は、イエス様とペトロが出会った最初の時に出てきます。そこにはこう記されています。 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。 この「ケファ」がギリシア語では「ペトロ」となる訳ですけれど、イエス様は出会ったその時から、ヨハネの子シモンをケファ「岩」にする決意をもっておられたのです。それは、この時のヨハネの子シモンには、全く与り知らぬことです。この現実は、ヨハネ福音書的な言葉遣いで言えば、彼を「世に属する者」から「神に属する者」に生まれ変わらせる、造り替えるということを意味します。つまり、シモンからケファにです。マタイ福音書を見れば、その「岩」とは、イエス様がご自身の教会を建てる土台の岩です。イエス様は、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白するペトロの上に、つまり、弟子を代表して信仰告白をした人物の上に、ご自身の教会を建てると言ったのです。だから、私たちの教会は使徒的教会と言うのです。十二使徒の信仰告白の上に建っているからです。 ヨハネ福音書では、ペトロを使徒たちの代表とすることが最初の出会いと最後の場面に出てきているのです。 この人たち以上に そこでイエス様が問われたこと、それは「この人たち以上にわたしを愛しているか」です。愛を問われたのです。この「愛」を問題とする前に「この人たち以上に」という言葉に関して少し見ておかねばならないでしょう。 この場面全体の背景にあるのは、言うまでもなく、ヨハネ福音書における最後の晩餐の場面が記される一三章です。その書き出しは、こういうものでした。 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 「この上なく愛し抜かれた」は「終わりまで愛し抜かれた」という意味でもあり、単に量的な愛の大きさだけでなく、時間的にも無限に愛し抜かれたということです。そして、その後、弟子たちの足を洗い、ユダの裏切りを告げ、ユダが部屋から出て行った後に「新しい掟を与える」とおっしゃって、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とおっしゃったのでした。問題は、あくまでも愛です。誤解を恐れずに言うならば、信仰ではなく愛です。もちろん、二十章の最後の言葉は、「見ないで信じる者は幸いである」という言葉ですし、先ほども読んだように、永遠の命を生きるために必要なものは、独り子を信じる信仰です。信仰と愛は切っても切れない関係にあります。そして、ヨハネ福音書はしばしば「愛の福音書」とも呼ばれるほどに、「愛」「愛する」という言葉が何度も出て来るのです。ここでも、そうです。 しかし、この愛の掟を与える直前に、イエス様はこうおっしゃっています。 「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」 ペトロは、その言葉の中に、イエス様が死に向かっていることを鋭く察知したのです。それは、明らかに彼がイエス様を愛しているからです。愛しているからこそ分かるということがあります。愛していなければ、目の前にいる人の現実がどういう状態なのかは分からない。そういうことはいくらでもあります。ペトロは、明らかにその場にいた弟子の誰よりもイエス様を愛している。それはたとえば、先週の個所でも、「主だ」と聞いた途端に服を着て湖に飛び込むペトロの姿を見ても分かります。その彼が、「主よ、どこへ行かれるのですか」と問うと、イエス様は「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」とお答えになりました。 「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」 「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 今日の個所は、明らかに、この三度の否認の場面を前提にしています。「あなたのためなら命を捨てます」という言葉、それは「この上なく愛しています」ということでしょう。しかし、このペトロの言葉は死の恐怖が迫って来た時に「あの人のことは知らない」という言葉になったのです。教会の岩となるべく召されたペトロは、死の恐怖を前にしてもろくも破壊されたのです。そして、イエス様はそのことを既に知っておられました。しかし、そのことを承知の上で、ご自身が選ばれた弟子たちを「この上なく愛し」「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」とおっしゃったのです。今日の個所は、愛の掟を新たに与える個所です。つまり、主イエスを愛していると言いながら、愛することが出来なかった者、その代表者であるペトロに対して、今一度、愛を生きるかどうか、「あなたのためなら命を捨てます」という自分の言葉通りに生きるかどうかを問われるのです。 復活の主イエスが問うこと ここでそのことを問うイエス様は、復活の主です。十字架の死から甦り、弟子たちの所に来て、両手を広げて二度までも「あなたがたに平和がある」と宣言して下さったお方です。また、ティベリアス湖の湖畔に立ち、漁を励まし、食卓を用意して下さった主です。弟子たちは、その「主を見て喜び」、「主であると知って」おり、そして聖霊を注がれて罪赦され、罪の赦しの福音伝道に旅立っているのです。だからこそ、イエス様はここで新たに愛を求めておられる。新たに愛を求めることが出来るのではないでしょうか。「この上なく愛する」愛とは、十字架の死を経て復活と聖霊付与に至って初めて弟子たちに伝わるものだからです。そしてそれは、本当の言葉を生き得ない人間の罪を赦す愛です。そういう愛で、主イエスは、ペトロを初めとした弟子たちを愛している。中でも、三度も主イエスを否んだペトロ、マタイやマルコ福音書によれば、「他の者が躓いたとしても、自分だけはあなたと一緒に死ぬんだ」と豪語した上で、三度も「あの人のことは知らない」と否んだペトロにとって、その罪を赦して下さった愛は、格別重いものだったに違いありません。そのペトロに面と向かって、主イエスは言われます。 「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」 「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」 いくつかの愛? 主イエスが「愛しているか」と問われる場合はアガペーの動詞形、アガパオウが使われています。しばしば、神の愛は無償の愛としてのアガペーであり、人間同士の愛は求める愛のエロスであると言われ、たしかにそうだとも言えるでしょう。しかし、ペトロが、「愛している」という場合、主に人間同士の友愛を表すフィレオウという言葉が使われています。そして、実は、三度目にイエス様が「わたしを愛しているか」と問われる時は、フィレオウが使われます。そのことを重視するか、それともヨハネ福音書は同じ内容のことを違う言葉で表現する場合がよくあるので、それほど重視しないかで解釈は分かれていきます。実際、フィレオウだって、父なる神様とイエス様の間にある愛として使われる場合もあります。また、「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という場合の「愛」はフィレオウの名詞形のフィロスですから、フィレオウが人間同士の愛に限定されるわけではありません。 私としては、ヨハネが同じ意味を二つの言葉で表現することを尊重しつつも、ペトロは神様の愛と同じアガペーでイエス様を愛するとは、やはり言えないと思います。自分が使う言葉、あるいは言葉を使う自分という者に対してとことん幻滅した経験を持った人間として、そういうことは言えない。また、アガペーとは、ヨハネ福音書の場合、滅びに至る罪人を愛し、その罪を赦し、新たに生かす十字架の愛であるので、そういう愛で、ペトロがイエス様を愛しているとは言えないという面もあります。赦された罪人が赦して下さった神様を愛する時に、アガペーという言葉は使えない。そういう面があると思います。そして、フィレオウは、友のために命を捨てる愛としても出てきますし、それは羊飼いが羊のために命を捨てることにも繋がりますから、これもイエス様の愛ですけれど、これはイエス様自身が弟子たちに求めている愛です。 あなたがご存じです そこで問題となるのは、ペトロが、「わたしはあなたを愛しています」ではなく、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言っていることです。これは一体、どういう思いなのか? この点については想像する他にないことですが、私は私としてよく分かるような気がします。若い頃から人間の言葉を疑って来ました。「愛している」という言葉は、人間にとって最も大事な言葉だと思います。しかし、その言葉を軽く使う人間はいくらでもいます。でも、それはまさに空しい言葉です。その空しさを自覚した上で「愛している」と言うことは出来ないことだし、そういう言葉を聞きたくはありません。しかし、「愛している」という言葉を言ったり、聞いたりしたくはなくても、愛したいし愛されたい。これは誰にとっても切実なものなのではないでしょうか。現実として誰かを愛したい、そして誰かに愛されたい。人間は神に似せて造られた被造物であるが故に、何よりも愛を必要とする存在なのです。でも、愛したい誰かのことを信用は出来ないとも思う。嘘があるかもしれない、自分が知らない裏があるかもしれない。だから、怖くて愛せない。また、自分を愛してくれている、あるいはそう言ってくれる人も、自分の嘘や裏を知らないから愛している気になっているに過ぎない。私たちがお互いのすべてを知ってしまったら、あるいは知られてしまったら「愛している」という言葉はすぐに撤回するし、撤回されてしまう。そういうものだと思います。その危うさがある限り、全身全霊を傾けて愛するなど出来ようもないし、そういう愛を信じようもないし、まして、「愛している」という言葉を言うこともできないし、聞きたくもない。しかし、それだからこそ、人間は愛を求めて止まない。すべてを知った上で愛してくれる愛をです。 ペトロは、三度も、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言わねばなりませんでした。三度目は、深い「悲しみ」をもって「あなたは何もかもご存じです」と言った。その時、彼は三度主イエスの愛を否み、主イエスへの愛を否んだ自分のことを嫌と言うほど思い出していたはずです。しかし、そういうペトロであることを知りつつ、いや知っているが故に、主イエスは愛して下さり、十字架に掛かって死んで下さり、復活して下さり、そして自分たちの所に来て下さり、「平和があるように」と語りかけ、伝道の業を共にしつつ励ましてくださる。その現実を前にして、彼は、もはや主イエスの愛を疑うことはなかったでしょう。主イエスの愛は生死の壁をも超えた愛であることを、永遠の愛であることを疑いようもなかったのです。 かつて、彼は自分を信じることが出来ました。主イエスを愛し、主イエスと一緒に死ぬと思った自分の真実を疑うことなどありませんでした。しかし、今、彼はそういう自分を信じてはいません。主イエスの愛を信じている。真実の愛などない自分を、それでも愛してくださる主イエス、それだからこそ愛してくださる主イエスを信じている。そして、その主イエスが、自分のことを何もかもご存じであることを信じているのです。自分の中には、かつても今も、主イエスへの愛がありました。そして、かつては、主イエスが知っている以上に自分は自分のことを知っていると思っていました。でも今は、自分が自分を知る以上に主イエスが自分を知っていることを知っています。自分の愛が、どのようなものかを主イエスが知っている。そのことを彼は知っている。そして、その主イエスが、「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊を養いなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と三度も言ってくださっている。ご自分のものを、ペトロに託して下さっている。それは、ペトロはもう二度と「あの人のことは知らない」とは言わないと、主イエスが確信して下さっているからです。あの最後の晩餐の後に、「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることは出来ないが、後でついてくることになる」と言われた、その言葉が今こそ実現することを、また、出会いの時に、「あなたをケファと呼ぶことにする」とおっしゃった、その言葉が今こそ実現することを、主イエスはご存じだからです。そして、主イエスの言葉を実現するのは、主イエスの愛なのです。私たちではありません。 愛と信頼 主イエスから教会に託された職務は、湖に網を打つ伝道だけではありません。よい羊飼いの声を聞いて、その羊飼いの後に従う羊の群れを牧会することも大事なことです。その牧会に必要なこと、それは主イエスを愛する愛です。またもや誤解を恐れずに言うと、信じることよりも愛することなのです。 主イエスが私たちの罪のために十字架に掛かって死んで下さったことを信じる、そして、主イエスが復活されたことを信じる。それは決定的に大事なことです。しかし、下手をすると、信じていることと愛していることは別物にもなります。信じてはいても愛してはいない。そういうことがあるでしょう。信じているから安心。それはそれで結構です。それは信仰が与えてくれる一つの賜物です。 でも、たとえば夫が妻を信じていることは夫婦生活にとって大事です。人格を信じている。愛を信じている。それはよいこと。でも、信じてはいても夫が妻を愛していないとすれば、妻にとって、夫の信頼とは何を意味するのでしょうか。生きる喜びを生み出すものなのでしょうか。そんなことはないと思います。愛が伴わない信頼とは、空しいものです。親子でも恋人でも友人でも同じことです。「汝、なお一つを欠く」と言われてしまうことだと思います。 人間関係において最も大きな問題は、信頼よりも愛です。愛していなければ、信じていても何の意味もない。そういうことが、最も深い人間関係においてはあるのではないでしょうか。そして、愛というのは、結局、常に共に生きていたいということだと思います。どんな時も共にいたい。一緒にいたい。永遠に交わりをもっていたい。そういう熱烈な思いです。たとえ、信頼が裏切られる様なことがあったとしても、愛があるなら、その傷を乗り越えていくものです。愛がなければ、裏切りは即、破局をもたらします。 わたしに従いなさい 主イエスは、「わたしに従いなさい」とペトロに言いました。それは、これからずっと一緒にいなさいということです。主イエスからペトロへの愛の告白です。一旦はご自身を裏切った者に対する愛の告白です。そして、その愛に応答して、主イエスを愛して欲しいのです。その主イエスへの愛を生きるとは、ペトロの望みに従って生きることではありません。残念ながら。 「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた」と言われます。「行きたいと望む所へ行っていた」が直訳です。しかし、その「若いとき」は「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることは出来ないが、後でついてくることになる」と言われており、実際、彼はついて行くことが出来ませんでした。十字架は、彼が行きたいと望む所ではなかったのです。当然です。しかし、主イエスが行く所は、十字架の死です。 他の福音書にある「ゲツセマネの祈り」において、主イエスは、その十字架は「わたしの望みではない」とはっきりとおっしゃいました。でも、「わたしの望みではなく、あなたの望みがかなうように」と祈り切られ、父なる神の望みが実現したのです。ヨハネ福音書でも、主イエスの神様への愛は、神の望みに従って生きることに尽きます。それが、主イエスの神への愛であり、罪人への愛です。その愛において、主イエスは十字架に掛かって死に、そのことの故に復活され、そして、弟子たちと生死を越えた永遠の命の交わりに生きる主となられたのです。その主イエスがペトロに「しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」と言われる。それは、彼がその死をもって「神の栄光を現すようになる」ことの預言であると、ヨハネは言います。つまり、ペトロは主イエスへの愛の故に羊のために命を捨て、そして、そのことによって世の終わりまで建ち続ける教会の岩、ケファになると預言されたのです。そして、それは現実となりました。彼は、ローマで十字架刑に処せられたからです。そして、そのことの故に、彼は主の復活の命に与る者とされたのです。主を愛し、主に従う死は、そのまま復活の命に繋がるものだから。 召命 先日、ペトロの召命記事を読むこともあり、また自分自身を省みたり、他の牧師たちのことを思ったりして、牧師の召命に関する本を買って、私も知っている数人の牧師の証しを読みました。どれも感動するというか、唸らされるものでした。その理由は、結局、キリスト者になるのも牧師になるのも、イエス様の召命があるからであり、その人がなりたくてなったわけではないことがよく分かったからです。まさに神様の御業なのです。誰も彼も、自分が何のために生まれてきたのかなど知りません。自分ことを知らないのです。でも、イエス様は知っている。そして、様々な手段を通して、一人一人を召し出すのです。その召しに嫌々でも、喜んででも、従っている人間、従うしかない人間は信仰生活を止めることは出来ないし、牧師を止めることは出来ません。自分で信じて、自分でやりたくて信仰生活を初め、牧師を始めた人は、結局、何らかの意味で破綻します。召命によってやっていないからです。いや、やらされていないからです。自分でやっているからです。そういう場合、形としては牧師を継続していても実は破綻しているのです。自分の望みを捨てず、それに固執している限り、主イエスの後について行くことは出来ません。従うことが出来ない。それは、牧師だけの問題ではありません。キリスト者でも同じです。目に見える形だけ従っているようなふりをすることを「偽善」と言うのです。そして、その「偽善」を生きたことがない人は、この礼拝堂の中にもいないでしょう。 本当の言 主イエスは私たちの行きたくない所に行きます。でも、その行きたくない所に行かねば、本当のものと出会うことは出来ません。そして、その本当のものとは、「本当の言」です。 ヨハネ福音書の説教は、あと二回で終わります。創世記の説教と並行しましたから五年近く掛かりました。ヨハネ福音書が終わったら、創世記のヨセフ物語を読み、多分、十一月からルカ福音書の説教を始めます。そして、ヨハネ福音書の最後の説教個所を福音書冒頭の言葉にしました。 「初めに言があった。 言は神と共にあった。 言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」 この「言」と出会う。そこに私たちの人生のすべてが掛かっていると思います。この言と出会い、信じ、愛し、生涯をかけて従う。そのことで私たちは生きることが出来る。この空しい闇の世にあって、消えることのない命の光を見続けて生きることが出来る。そして、その光を証ししながら生きることが出来る。本当の言葉を使って生きることが出来る。本当の言葉を聴き、本当の言葉を語り、愛の交わりを生きることが出来る。裏切り者、偽善者である私たちであることをご存じの上で、主イエスは今日も新たに「あなたはわたしを愛しているか」と問いかけて下さるのです。ここに本当の愛がある。ここに本当の言があるのです。この言を信じ、愛し、証しをして生きていきたいと思います。この言にこそ命がある、救いがあるんだ!と。その時、私たちの人生は空しいものではなく、神の栄光を現すものとなるのです。 |