「真実な証しの書」

及川 信

       ヨハネによる福音書 21章20節〜25節
 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

 召しと応答


 ペトロは、主イエスから「あなたはわたしを愛するか」と三度も問われました。そして、三度「わたしの羊を養いなさい」と言われ、殉教の死を予告された上で「わたしに従いなさい」と言われました。それは、ある意味で、「ヨハネの子シモン」をペトロ(アラム語でケファ・岩)とする主イエスの意志の実現のためです。主イエスは、彼と出会った時から、彼を、またその信仰を教会の土台とすることを意志しておられたのです。その出会いの時からの意志を、ペトロの決定的な裏切りと悔い改めを経た今、実現しようとしておられるのだと、私は思います。しかし、その意志の実現のためには、ペトロの応答が必要なことも事実です。私たちキリスト者は、誰もが、主イエスの召し出しによって信仰の道に入りました。それはしかし、自分の意志とは全く関係なくベルトコンベアーに乗せられていくということを意味しません。私たちの自覚的応答が求められるのです。その応答がなければ、また応答し続けることがなければ、いくらイエス様が召して下さっていても、キリスト者としての信仰を生きることは出来ません。

 ペトロという人

 ペトロは、主イエスと出会ったその時から、岩として生きるべく選び立てられていました。堅く動かされることのない岩です。しかし、彼は動揺しやすい人間です。彼はイエス様に従い始めた途端、「振り向く」。この言葉は、マグダラのマリアが、復活の主イエスと出会うために、墓の前で二度も「振り向いた」時に使われる言葉(ストレフォウ)と根っこは同じ言葉(エピストレフォウ)ですけれど、ヨハネ福音書ではここにだけ出て来ます。向きを変える、方向転換の意味で、「回心する」という意味にもなり得る言葉です。しかし、「回心する」とは、今まで主に逆らって生きていた人間が主の方に向く場合であって、この場合は、主に従い始めたばかりの人間が振り向くのですから、意味は回心とは逆の背信ということになります。ペトロは、しばしばそういうことをしてしまう人間です。
 マタイ福音書では、彼は弟子を代表して「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白して、イエス様から「あなたはペトロ(岩)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われます。でも、その直後に、イエス様に従うのではなく、イエス様を自分の意志に従わせようとし、「サタン、引き下がれ」と厳しく叱られてしまう。そういうことがありました。また、彼は、「他の弟子がどうであれ、自分だけはイエス様と一緒に死ぬことになっても従っていきます」と告白した直後に、三度も、「あの人のことは知らない」と言ってしまう。そういう人です。実に頼りがいのない人と言うか、愛すべき人と言うか、私などは心からの親しみと共感を感じる人であることは事実です。

 愛弟子

 ここに「ついて来る」とありますが、それは「従って来る」と同じ言葉です。「従って来なさい」と言われなくとも自ら従って来る弟子がいる。それは、イエス様に愛されており、最後の晩餐の時も「その胸元に寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った」あの弟子です。彼は、その後も十字架の下におり、イエス様の命令に従って、ユダヤ教を象徴するイエス様の母を自分の家に受け入れました。復活の墓にもペトロより先に着きながら、一番先に墓に入るのはペトロに譲りました。しかし、主イエスがそこにおられないことを見て、主イエスが復活されたことを信じたのはペトロではなく彼でした。また、ティベリアス湖畔に立って、「舟の右側に網を打ちなさい」と命ぜられた方は「主」であると察知したのも彼だったのです。
 この「愛弟子」が誰であり、何を象徴しているかについては様々な解釈がありますけれど、私は十字架の場面で、私なりの解釈を語りました。私は、この愛弟子は歴史的な人物に核を持ちつつも、ペトロに代表される制度的な教会を絶対化させないための理想的な教会を象徴していると解釈します。

 福音書成立の背景

 新約聖書に収録されている四つの福音書は、それぞれ成立年代も場所も異なりますけれども、いずれも主イエスの十字架の死と復活の時から数十年を経てから書かれていることは同じです。その間に、十二使徒たちはそれぞれ殉教の死を遂げたり、高齢の故に死に絶えていったでしょう。その一方で、当初エルサレムを中心としたキリスト教会は世界各地に広がっていきました。使徒言行録によれば、そのエルサレム教会の土台となっていたのがペトロです。しかし、彼はローマ帝国の首都ローマで殉教し、帝国内の伝道の進展に伴い、次第にローマ教会がキリスト教会の中心となり、ローマ・カトリック教会と呼ばれるものが成立していきました。それは神様の業であると同時に、人間の業でもあります。そして、人間の業である限り、そこには絶えず誤りが入り込む危険性がある。その誤りの中でも最も危険なものは自己絶対化であり、特定の人間を神聖視することです。教会において人間による自己絶対化とか、神聖化が起こる時、それは教会の生命を殺すことになります。それは、教会の頭なる主イエス・キリストを抹殺することだからです。
 ヨハネ福音書が書かれたのが何時で場所はどこかについて定説はありませんし、誰が書いたかも実はよく分かりません。二四節には、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」とありますが、「書いたのは、この弟子である」と書いた人もいるわけで、著者とは別に最終的な編集者がいるということです。ですから、本体が書かれた時期と二一章の付録が付加されたり、最終的な編集がされた時期は異なるはずです。そして、書いた愛弟子の意図の一つに、ペトロだけが神聖視される、絶対化されることに対して警戒しなければいけないというものがあったと思います。しかし、その一方で、「この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった」という教会内の現実がある。つまり、ペトロの神聖化とは別に愛弟子の神聖化が教会の中で起こっていたのです。「兄弟たち」とは神の家族としての教会員のことですから。ペトロの神聖化を警戒すべきことを語っている著者を、今度は神聖化する人々がおり、それをまた警戒する編集者がいる。そういうことになるのだろうと思います。

 それぞれの召命

 ヨハネ福音書におけるペトロと愛弟子、それはそういう微妙な関係性の中に生きています。そして、ここにおいて、主イエスから羊を飼うこと、牧会を託されたのはペトロであり、結果として、そのすべてを証し、書くことになったのは愛弟子なのです。人にはそれぞれの召命があり使命があります。それは、私たちがとやかく言えるものではありません。
 しかし、それは有難いことです。何度も言っているように、私たちは実は自分のことをよく知らないからです。知っているのは、主イエスです。主イエスこそ、私たち一人一人を真実に愛して下さっているのです。だから、私たちのことをよく知っている。その主イエスが、ペトロに向って「わたしに従いなさい」と言われたのです。ペトロがどういう人であるかを誰よりもよく知り、誰よりもペトロを愛している主イエスが、です。ペトロも、つい先ほど、「主よ、あなたは何もかもご存じです」と言っている。だから、彼は主イエスにすべてを任せて従えばよい。そのことが、彼にとっても最も幸せな道のはずです。誰よりも深く彼を知り、愛している主イエスの招きがそこにあり、その招きに応えることで、彼は復活の主イエスと共に生きることが出来るのですから。そこに彼の幸いがあるのですから。

 あなたは、わたしに従いなさい。

 でも、彼は「振り向く」。人のことが気になるからです。「この人はどうなのですか?」と、ある英訳聖書は、ちょっと意訳して「主よ、この人は何をすべきなのですか」と訳しました。ペトロの心情を汲み取った訳だと思います。
 なにか特別な役職に選び出されてしまい、それが負担な時、私たちは「何故、私なのですか」と選ばれたことを恨みがましく思うものです。逆に、選ばれたいのに選ばれなかった時は、「何故、私ではないのですか」と思って、選ばれた人を妬ましく思う。こういうことは、よくあることです。そして、主イエスはペトロが、そう思う人間の一人であることをよくご存じです。だから、少し過激なほどの言葉でこうお答えになりました。

 「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

 この主イエスの言葉が、教会内で誤解を招いたことは先ほど言いましたけれど、問題は、「あなたは、わたしに従いなさい」です。一九節では、ただ「わたしに従いなさい」と主イエスは言われましたが、ここではちゃんと「あなたは」という言葉が強調されています。他の人については、また主イエスご自身のお考えがあるのです。ペトロはペトロとして、主イエスに従えばよいのです。彼が主イエスに従うとは、教会の岩として御言を語ることによって主イエスの羊を養い、そして、殉教することです。すべての人が彼と同じように召されているわけではありません。「従う」ことにおいては同じでも、その形は違う。パウロの教会論で言えば、目は目の働きをすることが求められ、耳は耳として働くことが求められているのであって、目が耳になれるわけもなく、その逆もあり得ません。そして、体の中のすべての部位が必要なのであって、頭だけあっても手や足がなければなにもできません。そういう意味で、召命は個別のものです。「あなたは」と、主イエスから面と向かって言われるものなのです。そこにおいて、他人は何の関係もない。目に入らない。ただ、主イエスだけを見つめる。そして、従う。そこに人間の自立というものがあるのだと思います。そして、そこに主イエスとの愛の交わりがある。
 主イエスは、「わたしを愛しているか」と三度も問いかけることを通して、ペトロに自立と愛の交わりへ入ることへ招いているのです。彼が、その招きに応えて、自立した人間として主イエスとの愛の交わりを生きて初めて、主イエスの羊を飼うということ、つまり他人のために生きることが可能となるのです。そしてそれは、彼の場合、兄弟のために命を捨てるという殉教の死ともなっていくのです。そして、その生と死を通して、ペトロは神の栄光を現していくことになる。
 彼がそのように生き死にする自立した人間となるためには、あの三度の否認に現れた人間としての崩壊が、どうしても必要でした。罪によって死ぬという経験が必要であり、その罪が復活の主イエスによって赦されるという恵みが与えられる必要があったのです。
 その一方で、愛弟子は主イエス・キリストの愛を証しし、またそれを書く使命が与えられ、彼はペトロのことをも人々に伝えたのです。そういう人もまた必要です。

 真実の証し

 今日の説教題を「真実の証しの書」としました。それは二四節以下の言葉からつけたものです。もう一度、読ませていただきます。

 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

 この言葉を書いた人の喜びが伝わってきます。先週、私は「本当の言葉」と出会う喜びを語りました。「本当の言葉」という言い方は、私のものです。それは、「真実の証し」と言い換えてもよい言葉です。揺るぎない言葉、人を活かす真理の言葉、そういうものを捜し求め、そういう言葉と出会う喜びは、他の何ものにも代え難いものですし、その言葉を聴き、また語ることが出来る喜びもまた、他の何ものにも代え難いものです。この二四節以下を書いた人も、その喜びをもって書いていることがよく分かります。
 五年前にヨハネ福音書の説教を始める直前に、神学校時代からの私の恩師の一人で、ヨハネ福音書を専門としていた先生が天に召されてしまいました。その恩師が死の直前に、病院のベッドの上で誰に言うともなく、目を見開きつつ「聖書を書いた人はやっぱり一番よく分かっている。そうか。聖書はやはり本当のことが書かれているんだ」とおっしゃったことをまざまざと思い出します。本当の言葉、真実の言葉と出会うことさえできれば死んでもいいのです。それはその言葉を語った存在、神の言そのもののイエス・キリストと出会うことだからです。
 ヨハネ福音書を書いた人も、最後の締め括りを書いた人も、その出会いの喜びを語っているのです。そして、その言葉を読む私たちも、最後に締め括りの言葉を書き加えた編集者と共にその喜びを分かち合うことが出来る。ヨハネ福音書とは、そういう不思議な書物です。この二四節以下の書き手は、それまでの記述の読み手、真実な証しの聴き手でもあるのです。その点で、私たちと全く同じ地平に立っているのです。

 わたしたちは知っている

 ここに、「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」とあります。ギリシア語では「わたしたちは知っている。彼の証しが真実であることを」となります。「わたしたちは知っている」の「わたしたち」とは誰か?それは、この福音書を礼拝の中で読んできた教会の「兄弟たち」のことです。真実な証しに出会った喜びを知っている者たちです。つまり、この礼拝堂でヨハネ福音書を読み続け、そこで証言されているキリストと出会い、信じ、愛している私たちと同じ人々なのです。その人々と同じく、私たちも「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」と言うことが出来る。その時、私たちはこの福音書が本当の言葉、真実の証しであることを知り、この福音書を通して生けるキリストと出会い、キリストを信じ、キリストを愛していると言うことが出来るのですから、そんな幸いなことはありません。

 一章の「わたしたち」

 そして、振り返ってみると、この「わたしたち」という言葉は、一章に、非常に印象深く出てきた言葉でもあります。一四節以下を読みます。

 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
 ここに三度も「わたしたち」と出てきます。恐らく、この個所を書いた人と二一章二四節以下を書いた人は同じで、福音書の最終的な編集者だと思います。その人は言うまでもなく、ペトロたちのように主イエスを肉眼で見たことがある人ではありません。十字架に掛かる以前のイエス様は勿論のこと、復活後の主イエスのこともペトロたちのように見たわけではないと思います。そういう人々がここにはいるのです。しかし、その人々の間に「言は肉体となって宿り」、その人々は「肉体となった言」「栄光を見た」と確言できるのです。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」と言えるのです。何故か。それは証しを聴き、信じることが出来たからです。ここでの「証し」は洗礼者ヨハネのものです。
 この福音書で最初に登場する証言者は洗礼者ヨハネであり、彼は主イエスに出会ったその時から、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と真実な信仰告白をしました。その告白、証言を聴いて信じる者は、もはや肉眼で主イエスの肉体を、あるいは復活の体を見ないでも、独り子としての栄光、神を示す「栄光を見た」「恵みを受けた」と言えるのです。何故なら、真実な証言を聴いて信じるとは聖霊の働きによって生じることだからです。そして、「恵みを受ける」とは罪の赦しを受けるということであり、栄光とはイエス様の十字架の死において現れた栄光であり、それは独り子をさえ惜しまずに与えて下さる神様の愛そのもののことです。

 証し 真実 真理

 この一章一四節以下と、二一章二四節以下は、「証し」「真実」ということにおいて密接な関係にあり、ヨハネ福音書を囲い込む構造になっていることは明らかでしょう。洗礼者ヨハネの「証し」に関しては八節から出てきており、「証し」という言葉が合計三回出てきますし、「真理」「真実」は、ギリシア語ではアレーセイアとアレーセースとほぼ同じ言葉です。証し、証言であっても真実でないもの、真理でないものはいくらでもあります。しかし、それに対して、この福音書に記されている「証しは真実である」と、最終的な編集者は断言するのです。その根拠はどこにあるのか?それが問題になるでしょう。

 ふところ 胸もと すぐ隣

 二一章における愛弟子の登場の仕方は、一三章の出来事を想起させるものです。それは、言うまでもなく、主イエスと弟子たちの最後の晩餐の場面です。イエス様がユダの裏切りを暗示した時、誰もその意味が分からず、ペトロがイエスの「すぐ隣にいて」「胸元に寄りかかっている」愛弟子に尋ねるという、あの場面です。ここで愛弟子は初めて登場します。そこで愛弟子は、「イエスのすぐ隣にいた」とあり、次に「胸もとによりかかったまま」と出てきます。この「胸もとによりかかったまま」が、そのまま二一章に出てきます。そして、実は「すぐ隣にいた」は一章一八節に出て来るのです。

 「いまだかつて、神を見たものはいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

   この「ふところにいる」「すぐ隣にいた」と同じ言葉です。「胸もとによりかかっている」も同じ事態を表しているでしょう。「父のふところの中にいる」が直訳ですけれど、その方だけが、神を示すことが出来る。ヨハネ福音書は、そう言っているのです。“父なる神と一体の交わりの中に生きているお方だから、その方だけが、神を示すことが出来る、神を見せることが出来る。”それは恵みにおいて、十字架における罪の赦しにおいて、神の栄光を現すことが出来るということです。そして、それは言葉を代えて言えば、この独り子である神の証しだけが真実だ、真理だということです。

 父と子 主イエスと愛弟子

 その父と子の愛の交わりを表す言葉が、主イエスと愛弟子の関係を表現する言葉ともなっています。主イエスが父のふところの中にいるように、愛弟子も主イエスのすぐ隣、胸元、ふところの中にいる。だから、彼は主イエスの心が分かり、主イエスの証しを正しく受け入れ、正しく証しすることが出来る。主イエスと愛弟子は愛において一体の交わりをしているからです。だから、彼の証しは真実なのです。

 メノウ

 しかし、この福音書が成立をしたのは、先ほども言いましたように、主イエスが目に見えない存在になられてから数十年を経た後のことです。ですから、愛弟子と主イエスの交わりと言っても、肉体をもって生きているイエス様と愛弟子との交わりは過去のものとなりますし、そういう意味での交わりは、彼が証しをしたり、その証しを書いたりした時にはもうありません。そこで問題になるのは、「わたしが来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても」という言葉です。ここで「生きている」と訳されている言葉は、原語では「留まる」とか「繋がる」「共にいる」ことを意味するメノウという言葉です。ヨハネ福音書においては、その最初から最後まで決定的に重要な言葉です。
 イエス様の最初の弟子になった二人は、イエス様がメノウしている所に行き、イエス様と共にメノウすることで、イエス様がメシアであることが分かった、とあります。また、イエス様が、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内いる」とおっしゃる時、「いる」はメノウです。聖餐の食卓に信仰をもって与る者は、イエス様との一体の交わりを生きているのです。その交わりに生き続けるようにと、イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしに繋がっており、私もその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」「わたしに繋がっていなさい」と言われる。この「繋がる」もメノウです。つまり、メノウとは、主イエスと共に生きることを意味するのです。主イエスの内に、そして主イエスが私たちの内に生きることを意味します。そしてそれは、主イエスをメシアであると信じて生きることだし、主イエスから命の糧を頂きつつ生きることです。そしてそれは、単に肉体の命を生きることでは全くなく、命の息としての聖霊を吹きかけられて、罪の赦しを通して新しい命に生かされることであり、罪の赦しの福音を証ししつつ生きることであり、その命は肉体の生命を越えた命です。その信仰と愛において、私たちは肉体が死んだ後も主イエスと繋がっている、メノウしているのです。そして、主イエスが来られる世の終わりの時に、復活の体が与えられるのです。ヨハネ福音書はその全体を通して、この「永遠の命」について語っているのです。
 主イエスが、ペトロに「わたしが来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても」とおっしゃる時、それは愛弟子がこの永遠の命、愛と信仰において主イエスの下に留まり続けること、死を越えて留まり続けることを望んだとしても、と言っているのです。

 聖霊

 愛弟子は、主イエスの胸元にメノウし続けました。だから、主イエスを証しすることが出来たのだし、その証しは真実なのです。そして、その胸元とは聖霊です。肉体の主イエスはもういないのですから。ただ聖霊だけが、主イエスがお語りになったこと、なさったことが何であるかをつぶさに知らせてくれるのだし、知らされたことを語らせてくださるのです。この聖霊の導きの中で知らされたことと、語られたことだけが真実の証しなのです。愛弟子は、主イエスが目に見える存在ではなくなった後も、ある意味では変わりなく、しかし前よりももっと深く、主イエスの真意、その業の真相を深く知らされて、心から感嘆しつつ、そして讃美しつつ、この福音書を「証し」として書いたのです。そして、礼拝の中で聖霊の注ぎを受けつつ、その証しの書を読んで信じた編集者が、その教会を代表して「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」と宣言し、「父の独り子としての栄光を見た」「恵みの上にさらに恵みを受けた」と告白しているのです。

 真実の証しの源

 主イエスは、十字架に磔にされる直前、弟子たちにこう語りかけられました。

 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」

 「真実の証し」の源は、父とそのふところにいる御子にあります。その御子が遣わしてくださる聖霊を受けない限り、私たちが聖書を読んでも何も分かりませんし、主イエスと共にメノウすること、主イエスと共に生きることは出来ません。そして、主イエスと共に生きるとは、主イエスのことを証ししつつ生きることを意味するのです。主イエスと一緒に生きている、繋がって生きているとは、主イエスを証ししながら生きるということです。主イエスの胸元に生きていると言いつつ、主イエスを証ししないことは本来あり得ないし、偽善です。
 証しの仕方は、人それぞれです。ペトロのような証しの仕方もあるし、愛弟子のような証しの仕方もある。マグダラのマリアのような証しの仕方もある。しかし、証しすべき方はただ一人、主イエス・キリストです。そして、証しする内容も一つです。イエス様こそ私たちの救い主、メシアであるということ。この方を信じることにおいてのみ、罪の赦しという恵みが与えられ、愛の交わりに生きる永遠の命が与えられるということです。この命に生かされる喜びを生きる。どんな仕方であれ、それこそが、主イエス・キリストに愛され、主イエス・キリストを愛する私たちキリスト者の存在のあり方です。

 証言 証人 殉教者

 証し、それはギリシア語ではマルテュレオウという言葉です。証人、証言者はマルトスとなります。英語のマーターの下になった言葉です。マーターとは殉教者を意味します。ペトロは、主イエスに従う結果としての死をもって神の栄光を現し、マーターとなりました。彼もまた、聖霊の注ぎの中で、その生と死において、主イエスを証しし続ける者となったのです。そのことを、後から従って来る愛弟子が証ししてくれました。愛弟子は、主イエスと共に留まること、メノウすることを通して、証しをし続け、この福音書の本体を書き、証人となりました。そして、編集者は聖霊を注がれる礼拝の中でこの福音書を読み、その言葉を聴き続けることで信じ、「わたしたちは独り子の栄光を見た」「恵みを受けた」「証しが真実であると知っている」と告白して証人となったのです。愛弟子も編集者も兄弟たちも皆、主イエスの聖霊を受け入れることを通して、そして聖餐のパンとぶどう酒を信仰をもって食べ、飲むことを通して、主イエスの内にメノウし、主イエスが彼らの内にメノウして下さり、永遠の命を生きるキリストの証人とされているのです。そして、真理の霊が注がれる礼拝の中で、ずっとこの福音書の証言を聴き続け、月に一回、聖餐の食卓に与り続けた私たちもです。主イエスが「あなたがたも、証しをするのである」と言われた「あなたがた」とは、今ここにいる「わたしたち」のことです。
 この福音書を読み続ける生活の中でも、私たちは幾度も、「あの人のことは知らない」と主イエスに対する背信を繰り返してしまった者たちです。従っているのに「振り向いて」しまうのです。でも、そういう私たち一人一人に、今日も、主イエスは「あなたは、わたしに従いなさい」と語りかけて下さっています。「あなたも真実な証しをする者になるのだ」と語りかけて下さっているのです。そして、その証人として生きる私たちを励まし、豊かに祝福するために、今日も命の息吹としての聖霊を注ぎ、命のパンとしての御言を下さり、来週はご自身の肉と血である聖餐の食卓を供えて下さいます。それらすべてを通して、私たちは「恵みと真理」を知らされ、「恵みの上に更に恵みを受ける」のです。その恵みを無にしないように、「私たちは、この聖書の証しが真実であることを知っています。ここに道であり、真理であり、命であるキリストの言があるのです。神の愛があるのです。どうか信じて下さい。そして、主が与える命を生きて下さい」と証しする者として生きたいと心から願います。
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